ふと、手元に影が落ちる。湖面に映る葉影のように、穏やかで優しい闇だった。午睡には最適な室温にうとうとと意識をまどろませながら、トーリスはあれ、と目をまたたかせる。太陽が雲で陰ったのだろうか。それにしては、唐突な光の区切られ方だった。昨夜からの徹夜が響いて、トーリスは上手く思考を働かせることができず、あくびをかみ殺した。トン、と机に手がつかれる。
トーリスの背後から伸びてきた腕は、そうして覗き込む体を支えているようだった。少女のてのひらだった。瞬間、意識が覚醒する。血が、熱く燃えた。
「え……っ!」
トーリスの執務机に廻り込むようにして、手元を覗き込んでいたのは、最愛の少女だった。怜悧で涼しげな少女の横顔は陽光に照らし出され、面差しをすこしだけ甘く見せている。ナターリヤはひっくりかえった声をあげて驚くトーリスを横目でちらりと見やり、ふぅん、とごくかすかな呟きを口の中で響かせた。トーリスはぎくしゃくと体を動かし、机と椅子と、ナターリヤの腕によって出来上がった狭い空間の中で、体を動かし、少女と正面から向き合った。
「どう、したの? 珍しい」
「兄さんのお使いだ。書類をよこせ」
「書類。……これ?」
す、と指さしたのは、今まさにトーリスが取り組んでいた書類だった。出来上がるまでにはまだわずかではあるが時間が必要で、今すぐに、という訳にはいかない。しかしナターリヤはすぐそれが手渡されるのを疑わない表情で、こくり、と無言で頷いてみせた。
「それ、だ。早く」
ひら、とナターリヤの手がトーリスの目を狙うように突き出される。ひょい、となんの気ない仕草で指をよけながら、トーリスは数秒間だけ沈黙し、分かった、と微笑んで頷く。
「二分」
「は?」
「二分だけ待ってて、ナターリヤちゃん。二分したら、すぐ渡してあげる」
言葉を言い終えるより、ペンを持ち直す動きの方が早かったかもしれない。トーリスは視線を最愛の少女から書類に切り替え、二分では到底終わりそうにないその空白に、驚くべき速さで文字を書き込んで行く。横顔は真剣そのもので、一点に集中しながらも忙しくまばたきを繰り返す瞳は、青年の思考が研ぎ澄まされて動いていることを示していた。ナターリヤは横からトーリスの顔を覗き込むように机に肘をつき、手の甲に顎をのせ、ぼんやりと動きを見守った。
珍しい少女の見守る視線に、トーリスは気がついた様子もない。正確に数をカウントしながら百二十秒きっかりでサインまで終え、青年はふぅ、と肩の荷が下りた息を吐き、書類を手に持ってにっこりと笑う。
「はい、お待たせ。持って行ってくれる?」
「……ん」
こく、と頷いて髪を手に持ち、ナターリヤは、トーリスの顔をしげしげと見つめた。なぁに、と甘くゆるやかに微笑むトーリスに、ナターリヤはなんだか関心したように言う。
「お前」
「ん?」
「……字が綺麗だな。あんなに急いで書いたのに」
読みやすい、と言って署名がなされた箇所を指先でなぞり、ナターリヤはゆるく口元を綻ばせる。春の光にくすぐられて綻ぶ、花の蕾のようだった。
「お前の字は、嫌いじゃない」
「え……え、えっ!」
「じゃあな」
言うだけ言って、ナターリヤはそれに対する反応に興味がないようだった。すたすたと部屋を横断し、振り返りもせずに扉から出て行ってしまう。ぱた、と音を立てて扉が閉まった。中途半端に伸ばした手ごと執務机に突っ伏しながら、トーリスはきゅぅ、と唇をかみしめる。
「……ラブレターでも書こうかな」
確か、少女が好みそうな便箋もあった筈だ。よし、と気合いを入れ直して、トーリスは息を吸う。眠気は、いつの間にか消えてしまっていた。
響く音楽と靴の音の隙間から、一際華やかな歓声が上がった。どこに控えていたのか、いつの間にか、一人の青年が舞台の中央に現れたからだ。人々の歓声と視線は、火の粉より鮮やかな熱と歓喜を持ってその青年を出迎える。祖国、と高らかな歓喜がその存在を歓迎して呼ぶ。青年は、はにかんで笑った。
遠目に光景を眺めつつ、イヴァンはふぅん、と面白そうに呟く。観察するような、面白がって見つめるような兄の視線の先を、ナターリヤも追っていた。トーリスは二人の視線に気がついた風もなく、ヴァイオリンをかまえ、民族衣装を熱気にひらめかせる。大地から立ち上って行く歓喜に、青年の瞳に鮮やかな輝きが灯る。祝祭を。豊穣を祝い、今宵は祈りと喜びの渦を。
ひとに、己の国民に対する愛と感謝がトーリスの音楽を呼び醒ました。
「……滅多に、楽器なんて弾かないのに」
よっぽど嬉しいんだろうねぇ、と呆れと羨ましさが半々になったイヴァンの呟きに、ナターリヤは無言で同意した。本当に、嬉しくてならないのだろう。靴を踏み鳴らして踊る者たちの中心で、トーリスは楽団と視線を交わし合い、満面の笑みでわらいあいながら、ヴァイオリンの弦をかき鳴らしている。踊れ、踊れ。ぞくぞくするような喜びが、青年の内側にささげられ、それは音楽となって空気を揺らして行く。
吐息が白く染まる寒さも、かがり火が無ければ手元すら見えにくい原初の暗闇も、喜び溢れる彼らにはまるで関係ないようだった。祝祭の場所は文明が遠く、ただ一番初めに生まれ落ちた、国と人の歓喜と、喜びと祈りがあった。火が燃えている。薪がぱちぱちと爆ぜながら、熱風を生み出し、頬を撫でて天へ上る
吐息は白いのに、暑さを感じるくらいだった。それなのにナターリヤは取り残された気がして、イヴァンの服をぐいと引く。
「兄さん」
「……どうしたの、ナタ−リヤ」
「帰りましょう」
視察はもう終わりで良い筈です。無自覚の不機嫌な表情でそう言われ、イヴァンは思わず苦笑した。あくまで職務から逸脱せず、意見してくる妹が可愛らしく、それでいてトーリスに呆れの感情も抱く。まったく、普段から好き好きと公言してはばからないに関わらず、トーリスはナターリヤの感情的な機微に、恐ろしいほど疎い時がある。帰りましょう、とぐいぐい袖を引っ張ってくるナターリヤの手に、イヴァンはぽん、と触れて言う。
「行っておいで?」
「……どこにですか」
「彼の所。いいよ、今日くらい。お祭りと祝いの席だから、すこしだけ見逃してあげる」
でも手を繋ぐ以上の接触をされたらコルコルするから報告するんだよ、と柔らかな声音で良い含めて。イヴァンは拗ねた妹の背を、踊りの場に向かって優しく押し出した。
「大丈夫。だってトーリスだよ? あのトーリスが、君が来て喜ばない訳がない」
「そ……そういう、ことで、帰りたい訳では」
「たとえ戦場の最前線、混乱のさなかでも、もしナターリヤが傍に来たいと言ったなら、トーリスは喜んで手を差し出してくるよ。トーリス、馬鹿だもん」
まあ、そんな状況で僕がナターリヤを、たとえ望んでいても行かせる訳はないんだけど、と首を傾げて。イヴァンはよしよし、と妹の頭を撫でた。
「行っておいで。ね?」
「……兄さんが、そう仰るのなら」
あくまで、イヴァンが送りだしたからなのだと。そういうポーズを崩さぬまま、かたくなに唇を不機嫌に歪め、ナターリヤはぱっと身をひるがえして走りだす。視線はまっすぐ、トーリスに向けられていた。群衆の間をすり抜けて駆け寄る少女の姿に、トーリスはすぐ気がついたようだった。ごく嬉しそうに笑い、少女に片手を差し出してくる。おいで、と唇が声にならない言葉を吐き出した。
やがて、その手は重なるだろう。見たくないので視線を外して、イヴァンはやれやれ、と肩をすくめた。
「……今日だけだからね」
見上げた夜空は、満天の星空。まきあげられていく歓喜が、高く消えて行く夜。
思い詰めた目をしていた。追い詰められた瞳をしていた。ふふ、と吐き出された笑みが楽しい気持ちからではなく、もうそれ以外に感情が表せなかったのだ、ということが分かる。エリザベータは冷たい紅茶をごくりと飲み込み、恐る恐る、目の前に座る少女を眺める。少女の両手に握られたグラスは、中身を減らすことなく、結露の量だけを増やしている。
良い天気だ。氷はどんどん溶けて行き、カラン、と音を立ててグラスの中で揺れている。
「もういい」
「えーっと……」
「アイツを殺そうと思う」
間違ってもアイツを殺して私も死ぬ、などという可愛らしい台詞ではなかった。死ぬのは一人だけで、そして確実に、ナターリヤは生き残る気だった。横顔に『そして私は兄さんと結婚する』とでかでかと書かれているのを冷や汗をかきながら眺め、エリザベータはそーっと息を吸い込んだ。ウカツに触れてはならない。しかし、訪ねなければなにが起きているのかも分からないままだった。
あの、とごく控えめな声が、明るい光に満たされた、穏やかなオープンテラスに響き渡る。
「相手、は」
それがいかに愚かな質問であるのか、エリザベータは口に出してから気がついた。口に出す前も薄々分かってはいたのだが、唇がそう動いてしまったのだからもう仕方がない。案の定、少女はこの世の地獄を震撼させるような眼差しで眉を寄せ、ぶるぶると身を震わせながら決まっているっ、と吐き捨てた。そろそろグラスが危険である。耐久度的な意味合いで。
ヒビ入りませんように、とこっそり願いながら見つめるエリザベータの視線の先、力の入り過ぎた少女の白い指先を、透明な雫が濡らして行く。
「リトアニ……っ、トーリスだ、トーリス!」
アイツもう本当殺そうと思うっ、と半泣き寸前の苛立った叫びは、春の予感に艶めいた風にまぎれて消えて行く。うーん、とエリザベータは複雑そうに苦笑した。別に誰が咎める訳ではないのだから、わざわざ言い直さなくても良いと思うのだが。『リトアニア』と言いかけたことが本当に悔しかったように表情を歪め、ナターリヤはわざわざ青年のひとの名を叫び直した。二人は幼馴染で、腐れ縁で、ほとんど公式の黒歴史と化している『かつての結婚相手』であるらしい。
その婚姻の名残か、あるいは複雑な関係性故なのか、少女と青年はひとの名より、『国』の名で呼び合うことに馴染んでいるらしかった。無意識の淡い束縛を、自覚していないのは少女だけなのだろう。柔和な笑みでその実、恐ろしいほど計算している青年の笑顔を想い浮かべ、エリザベータはこっそりと溜息をついた。今度はいったい、なにをしたというのか。
「……ナタちゃん」
「なんだ」
「別れなさい」
重々しく響いた言葉は、ナターリヤには上手く理解できないものだったらしい。ぱちぱちと幼いまばたきのあと、ことん、と首が傾げられる。さらりと頬に散る銀色の髪は人形めいた美しさを持っているのに、エリザベータはあ、と感動の呟きさえ発しながら口元をほころばせる。可愛い。
「……わか」
その言葉自体が聞き取れないものだったかのように、ナターリヤは眉を寄せながらぽつりと呟いた。エリザベータはうん、と力づけるように頷いてやり、少女のつめたい指先に手を伸ばす。
「別れなさい。大丈夫、私はナタちゃんの味方よ……!」
「こらエリザ」
ぽこん、と音を立てて頭が叩かれる。痛くもない衝撃に振り返れば、呆れ顔のギルベルトが雑誌を手に立っていた。先程頭を叩いた正体は、丸めた雑誌であるらしい。なによ邪魔しないで、とばかり眉を寄せれば、ギルベルトはほとほと呆れた表情で椅子を引き、勝手に腰をおろして落ち着いてしまう。邪魔しないでちょうだいと意思を持ってもう一度睨みつければ、ギルベルトの指先がエリザベータの額を軽くはじく。
はー、と呆ればかりの溜息が、ギルベルトの胸から漏れて行った。
「ったく、お前はすぐそうやって……つーかナタ、お前現状把握できてるか? なんか凍ってね?」
「……あ」
その問いかけで、ようやくナターリヤに正常な思考が戻って来たらしい。グラスを投げ捨てるような勢いで手を離したナターリヤは、ばんっ、と音高くテーブルを叩き、身を乗り出して主張する。
「付き合ってない!」
だからそもそも別れるとかそういう問題ではないっ、と全力で主張するナターリヤに、ギルベルトとエリザベータは、ものすごくつまらなさそうな声を出した。
「えー」
「えー」
「えー、じゃ、ない! なんでそういう話になるんだっ!」
お前らが春だからって私を巻き込むなっ、と怒れる少女に、ギルベルトは不思議そうに首を傾げて。手を伸ばし、少女の頬を慈しむように撫でてやった。ナターリヤは毛を逆立てて嫌がる猫のような顔つきで、ギルベルトの手を避ける。
「なんだ」
「んー? ……や、いいけどよ。さっきトーリスがお前のこと探してたぜ?」
どうせエリザと一緒だって言ったら、苦笑して分かりました、とか言ってたけど。待ち合わせをサボるのは関心しないぜ、と咎めるようなギルベルトの声に、ナターリヤはものすごく嫌そうな顔をして、それからテーブルに身を伏せた。どうも様子がおかしい。どした、と問いかけの視線にもぞもぞと身動きをして、ナターリヤはぎゅっと手を握りしめる。
「……もういい」
「え」
「トーリス本当死ねばいい……」
待ち合わせなんて恥ずかしいことは絶対しないからやりたかったら一人でやってろ馬鹿って言ったのに、そうしたら本当に来なくてもいいから待ってるねとか言って、と呪詛を吐き出すのと同じトーンで恨めしげに言うナターリヤに、ギルベルトとエリザベータは顔を見合わせ、同時に納得した、と言わんばかり頷いた。テーブルに突っ伏したまま、ナターリヤは顔をあげない。
そのよく梳かれた髪を撫でてやりながら、ギルベルトは戯れに、少女の髪ひとすじに口付けた。
「行ってやればいいじゃねぇか」
「……いやだ」
「嬉しいくせに」
本当は、そんな風に待たれてうっとおしくて仕方なくとも、すこしだけ嬉しいくせに。かわい、と目を細めて笑うギルベルトに、まったく同意見だ、とエリザベータは苦笑しながら頷いて。二人に見守られながらナターリヤは、あまり響かない声で抗議した。もういい。もういいアイツ殺す。はいはい、と適当に響く二人の返事が、よく晴れた空に溶け消えた。