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 アイス

 休憩時間の会議控え室に広がるのは、焼きたてのワッフルコーンの香りだった。休憩時間とは言え、会議中である。通常ならば意味が分からなくなりそうな珍事態だったが、今回の会議開催地はイタリアである。イタリアであるが故に許されることであり、イタリアでしか可能であるとは思えないことだった。
 ことの始まりは夏の暑さに耐えかねた『イタリア』兄弟が、こんなに暑くちゃジェラートでも食べなきゃやってらんないよ、と上司に訴えたことらしい。そこで、馬鹿なことを言っていないで仕事しろ、とはならないのがこの国の良い所で駄目な所だった。かくして近所で評判のジェラトリアからワッフルコーンを焼く機械まで借りてきた『イタリア』兄弟は、休憩時間に臨時のジェラート屋を開店し、せっせと商売に勤しんでいるのだった。
 イタリア国内に限って、昼の休憩はシエスタこみで時間が取られるので、3時間半の設定になっている。ひと稼ぎした後でジェラートを味わっても、眠る時間は十分にあるのだった。アメリカが注文したのはチョコレートとコーヒー、ラズベリーのトリプルである。たっぷりと盛られたそれを手に、アメリカは小走りに休憩室の隅に行く。そこには、カフェ風の小洒落たテーブルがいくつも置かれていた。
 なんだか街中でデートしてるみたいだ、と胸を弾ませながら、アメリカはウクライナが座るテーブルの、向かい側の椅子を引く。
「やあ! 待たせたかい?」
「ううん。大丈夫よ。……三つ?」
「ん。チョコとコーヒーとラズベリー! 君のは?」
 首を傾げながら椅子に座る。ウクライナが手に持つジェラートは、アメリカのそれより随分小ぶりに見えた。ちいさなプラスチックスプーンも刺さっている。表面がとろりと溶けかかっているそれは、薄いオレンジ色をしていた。
「オレンジジェラート、かな」
「……かな?」
「うん。イタリア君、お兄さんのイタリア君がね、おまかせでくれたから食べるまで分からないの」
 これが『イタリア・ロマーノ』でさえなければ油断も隙もない、と思う所だが、アメリカはそう、と呟いてため息をひとつ落としただけで、もろもろを諦めた。女性への挨拶の一環として、とりあえず口説くのが『イタリア』だ。本能的なものらしいので、いちいち怒っても仕方がないのだった。ウクライナも、分かっているのだろう。大丈夫よ、と笑いながらスプーンひとすくいを口にする。
「ふふ。アメリカ君、大当たりよ。オレンジ」
「好き?」
「すき」
 純粋に嬉しがる表情は、ウクライナにしては珍しいものだった。すこしばかり控えめに笑うことが多い相手だからだ。アメリカは三つの味がするジェラートを頬張りながら、ウクライナをじぃっと見つめる。ウクライナはにこにこと笑いながら、スプーンを口に運んでいた。
「……ねえ」
「なあに?」
「なんでスプーン使ってるんだい?」
 それじゃ一口にちょっとしか食べられないじゃないかい、と言ったアメリカに、ウクライナはすこしばかり困ったように笑う。
「ぱく、って。できないの」
「……ああ! 君、口ちいさいもんね」
 ちいさい子どもみたいで、すごく可愛い。ゆるりと目を細めて囁けば、ウクライナの頬にさっと朱が散る。うろうろと視線をさ迷わせ、ウクライナはジェラートをじっと見つめて。えい、とばかりに口をつけた。
「……負けず嫌い」
「違いますっ。……ん」
 唇がベタつく感触が嫌なのだろう。眉を寄せてハンカチでぬぐっているのをながめ、アメリカはくすくすと笑う。
「でも、そんなトコも可愛いよ。ハニー」
「……もう!」
「ね。食べさせて?」
 机に肘をついて身を乗り出す。ずいと顔を近づければ、ウクライナは不思議そうにまばたきをした。
「食べたいの? どうぞ?」
「食べさせて欲しいんだよ。マイ・ハニー。あーんしてくれよ。あーん」
「……えっ?」
 視界の端で『イギリス』が、俺ホント育て方間違えたわゴメンすごくゴメンそして頑張れ、という顔をした。助けてくれるつもりはないらしい。室内が妙な緊張に包まれる。そういえば数ヵ国を除き、ほとんどの『国』が同じ部屋にいるのだった。思い出して意識を遠のかせながら、ウクライナは息を吸い込む。
「だ、駄目よ。皆居るじゃない」
「大丈夫! 誰も見てないよ!」
 その声に合わせて、集中していた視線がさっと消える。その優しさはいらなかった。泣きそうになりながら見返すど、甘く笑う青空色の瞳がウクライナを見ていた。にこ、とアメリカは笑いかけてくる。
「あーんしてよ。ね?」
「……あ、あー……ん……?」
「ん!」
 ぱく、と差し出されたスプーンを口にして、アメリカはにこにこと笑う。ぎこちなくスプーンを引き抜きながら、ウクライナは俯いてしまった。自分でも分かるくらい、頬が熱い。
「……ウクライナ」
「もうしません……」
「うん。お礼」
 ガタン、と体重をかけられて机が揺れる。ぐいと片手で顎を上にあげられて、ウクライナの唇に熱が与えられる。ちゅ、と音を立ててキスを終え、アメリカはウクライナの頬を軽く舌で舐めた。
「さすがハニー。ジェラートより君の方がずっと甘いね!」
「……っ!」
 ばっと頬を手で押さえたウクライナを、アメリカは愛しげに眺めて。ごちそうさまでした、と言った。



 幸福を呼ぶ声

 確かに、彼女の声は可愛らしい。それは『アメリカ』も認めよう。なにせ『ウクライナ』の声は可愛らしいのだ。大人びた響きでありながらもおっとりと落ちついた口調には非常に心和むものがあるし、それだけではなく柔らかくふわりと耳に染み込んでいく声質には感嘆さえ覚える。普段の話し声だけでもしみじみと可愛いな、と思うのだが、ちょっと驚いた時にあげる悲鳴や、嬉しい時に落とされる呟きは最高だ。
 全世界にこの人は俺のものなんだぞーっ、と叫んでも良いくらいだと『アメリカ』は思うのだが、以前一度やろうとした所、『ウクライナ』は柔和な笑顔を崩さないままで己の弟妹を呼び寄せ、『日本』にお願いして『イギリス』と『カナダ』さえ動かして超大国の暴走を止めた程なのだ。怒らせた時の行動力はさすがに古き『国』だと誰もが戦慄する程で、容赦のなさ加減はそういえば『ウクライナ』は『ロシア』を弟に、『ベラルーシ』を妹に持つ姉なのだと納得させるものだった。
 それでも普段の『ウクライナ』はおっとりとした控えめな性格である、と満場一致を見るだろう。加えて本当に可愛らしい声なのだ、と『アメリカ』は思っているが、それに賛同する『国』の数が少ないことも知っている。残念な気持ちと優越感とが混じり合うが、『ウクライナ』の声がどんな風であるのか、知らない者が多い理由も超大国はちゃんと知っていた。『ウクライナ』が恥ずかしがって涙目で真っ赤になってしまうので口に出しては言いにくいが、豊かな胸の音が邪魔をしてのことである。
 それゆえ、『ウクライナ』の声の価値を知るものは、実のところ『アメリカ』は、彼女の弟妹と自分くらいのものだろう、と思っていたのだ。弟妹はもう仕方がない、諦めてあげよう、と『アメリカ』は思っている。彼女はそれはそれは弟妹を大事に思っているのだし、なにより幼少期を共に過ごした者たちなのだ。可愛い彼女の可愛い可愛い幼少期を一目すら見られなかったことを『アメリカ』は運命の悪戯か悪魔の仕業か天使のミスだと思っているくらいだが、産まれていなかったものは仕方がない。
 諦めて受け入れてあげる寛容さもヒーローには必要なのである。涙を濡らして悔しがったことは口が裂けても言わないが、なにかを察したらしい『イギリス』と『カナダ』の呆れてものが言えない視線は無視することにした。とにもかくにも、『アメリカ』は、『ウクライナ』の過去であるならある程度諦めてあげることが出来るのだ。それは『自分の存在がこの世界に現れる前』という限定的な過去であるのだが、存在していなかったのならば仕方ないと、本当に嫌だが受け入れることができるのだ。
 我慢できないのは、そこから先である。たとえ歴史的に長く出会うことが出来なかろうと、世界のどこかに『アメリカ』が居て、『ウクライナ』が同じく存在していたのであれば、青少年に取っては現在なのだ。例え顔を合わせるまでに何十年、ふとした興味が恋に変わって口説き落として付き合うまでに百年以上が経過していようとも、そんなことは関係ない。だってすでに、その時『アメリカ』は居たのだから。
 大股で廊下を進んでいく。途中で仕事はどうしましたと叫ぶ世話係の声が聞こえたが、それより大事なことがあるんだよ、と叫んだら微妙な表情で黙りこんだので、構わず先を進んでいく。必死な祖国の様子になにか察したというより、世話係は『アメリカ』の進む方角で諦めてくれたらしい。執務室から一直線に廊下を進んだ突きあたりの部屋は、外国からの賓客を迎える客間になっている。普段は純粋に『国』を迎える為の部屋だが、今日はすこし趣きが変わっていた。
 扉の前に置かれた花瓶の為のテーブルは素朴な木製で、花瓶も活けられた花も決して華美なものではない。派手で人目を引く代わりに、ほっと心を和ませてくれるようなデザインであり、そして花だった。可愛らしい黄色い花に挨拶代わりに投げキッスを送り、『アメリカ』はノックをしてから客室の扉を開く。返事は待たなかったが、ノックをしたことが『アメリカ』としての最大の譲歩だ。気が急くばかりの状態で、それを忘れなかっただけ褒めてくれても良いくらいなのである。
「ウク! ちょっと、どういうことだい!」
「あら? お仕事は終わったの?」
「執務より大事な確認事項が発生したから飛んで来たんだよ!」
 ソファで編み物をしていた『ウクライナ』は、『アメリカ』の突然の入室にも特に慌てた様子は見せなかった。ちいさく首を傾げて出迎えてくれる様は結婚したての夫を出迎える妻を思わせたが、『アメリカ』はちょっと口元を緩めてしまいながらもただいまハニー、とは言わない。それはもうすこし未来にとっておくべきものだからだ。代わりに両腕いっぱいに可愛い彼女をぎゅぅとハグして、『アメリカ』は真剣な顔で『ウクライナ』の肩に手を置く。
「君に聞きたいことがあるんだ。教えてくれるよね?」
「……なぁに?」
 ふわ、と花開くように微笑むのに、『ウクライナ』の気配はすでに『国』としてのそれだった。大国に対峙する緊張を孕んだその様も『アメリカ』は決して嫌いではない。凛とした様は美しくも感じるし純粋に綺麗だとも思うので嫌いではないのだが、しかし、ちょっと違うのである。そういうことじゃないから、と前置きをして、『アメリカ』はじっと『ウクライナ』の目を見つめた。
「歌が上手いって本当かい?」
 ぱちん、と『ウクライナ』が不思議そうに瞬きをした。その瞳の色を、『アメリカ』は純粋に好きだと思う。自分の瞳にある晴れた青空色とは違い、それはもっと深く眠った湖の色だ。命を湛えた森の中の湖。底までまっすぐに透き通る湖面色の瞳が、困惑から抜け出すと瞬く間に感情を浮かび上がらせる。ぶわっと広がった羞恥はそのまま頬にも散り、『ウクライナ』は耳までをも真っ赤にしてしまう。
「え、え……! だ、誰っ……?」
「誰から聞いたと思う? ……言っとくけど、君の弟妹じゃないよ! 『エストニア』さ、『エストニア』! ちょっと確認したいことがあって電話して、そういえばウクが今俺のマフラーを編んでくれてるんだよって自慢したらこれだよ! 彼、君に気があるんじゃないのかいっ? 君の歌は本当に素敵だってすごく褒めてた!」
「え……『エストニア』ちゃんは、その……幼馴染、みたいなもの、で」
 うろうろと恥ずかしげに彷徨う視線に嘘はなさそうだったが、『アメリカ』のモヤモヤは収まらない。だってすごく自慢されたのだ。それは果たして本当に自慢だったかは定かではないものの、『アメリカ』がそう思った以上はそうなのである。『エストニア』は苦笑しながら、編み物をしてると彼女歌を歌うでしょう、と言ったのだ。仕事をしている傍で編み物をしてもらわない方がいいですよ、落ちついて眠くなってしまうから、と。そんなこと、『アメリカ』は一度もしてもらったことがない。
 それ所か、恥ずかしがり屋の彼女が歌を口ずさむ旋律すら耳にしたことはないのだ。可愛い彼女の可愛い声が紡ぐ歌声は、さぞ可愛くて素敵なものだと思うのに。ずるい、とむくれる『アメリカ』に、『ウクライナ』は困り切った視線を向けた。
「そんな、上手いわけじゃないの……」
「聞いたことないから分からないよ。聞かせて」
「ゆ、有名な歌とか……流行の歌とか、知らなくて」
 だから聞いて楽しいものではないの、と告げる『ウクライナ』に、そういう問題じゃないんだよ、と『アメリカ』は真顔で言い切った。問題はたったひとつ。
「あのね、ハニー? 俺は君の歌を聞いたことなくて、他の男は聞いたことがあってしかも褒めてて、俺は今君の歌を聞きたいと思ってる。だから君は俺に歌を歌ってくれるべきだと思う。反論は認めないんだぞ?」
「……ちょっとだけ、だからね?」
 その後、全館放送で『ウクは俺の可愛い彼女なんだぞー!』と嬉しさの叫びをあげた『アメリカ』は、もちろん、保護者を呼び出され、叱られたのだった。



 真綿で包み込むように

 どこもかしこも温かくて、ウクライナは不思議な気持ちになりながらあくびをかみ殺した。目に映る色の大半が白であるのは、彼女の訪問をそれはそれは楽しみにした若い恋人がこの日の為にとふわふわの絨毯に変えてしまったからだ。生まれたての子猫のように艶やかでふわふわで毛足の長い絨毯はいかにも高そうで、その前で立ち止まったウクライナは実の所高級感にしり込みをしていたのではなく、現実手にその価値を考えていただけだった。つまり、これは何日分の食料に換算することのできる値段なのだろうかと。そんなウクライナの思考にアメリカは気が付きもせず、それはまあウクライナも柔らかな白さに靴跡をつけるのにためらいはあったので全くの間違いという訳でもないのだが、とろけるような笑みで持ってちょっと待ってね、と囁いたのだ。
 アメリカはまず椅子を持ってくるとそこにウクライナを腰かけさせ、しっかりとした作りのブーツを脱がせてしまった。室内履きにでも代えてくれるのだろうかと見守る先、アメリカはまるで物語めいた仕草で恭しくウクライナの踵を両手で包み込むと、じゃあ脱がすね、とのたまった。ウクライナに抵抗する時間はなかったように思われる。ほんの数秒、その言葉の意味を飲みこむまでのほんの僅かな時間で、アメリカは手早くウクライナの靴下を両足から脱がせてしまった。ひんやりとした空気が足先を襲うことはなかった。部屋は肌に熱を感じさせるくらい温められていたから、爪先を覆うのは生温い空気と、そしてちょっとした解放感だけだ。
 茫然とするウクライナの脇の下に手を入れたアメリカは、女性の体をひょいとばかり持ち上げると、場違いなまでの恭しさで毛足の長い絨毯に足先を触れさせる。爪先から踵へ、ゆっくりと体重が乗って立つのを見届けてから手を離し、アメリカは一人ですっかり納得してしまった雰囲気で、うん、この方が良いよ、と言った。それはまるで初めからウクライナにそうさせるのを決めていたようであり、突然の思い付きが望外の成功を収めたことを喜ぶようでもあった。どちらなのか、ウクライナにはよく分からない。判断をつける前にアメリカもまたブーツと靴下を脱ぎすて、楽しげに白くふわふわとした平原に足を踏み出したからだった。ほら、こっち。差し出された手に指先を預けるのはすでに日常の一動作で、けれども触れ合った瞬間に浮かべられる笑顔はどうしても慣れるものではなく、ウクライナは赤く染まる頬を隠すように視線を足元に落とした。
 それからテレビを見ようと画面の前に連れていかれて、そこ以外のどこに座るのか理解できない、と言った風に青年の足の間に腰を下ろされて、ぞっとするほど心地良い肌触りの毛布で全身を包まれて抱き寄せられたウクライナは、すぐテレビに飽きてしまった。新年に放送される映像や言葉はどれも似たり寄ったりの印象で、それなのに目を輝かせてキラキラとそれに見居るアメリカを、ウクライナは無邪気だとも可愛らしいとも、若いとも羨ましいとも思う。温かくて、思考がすこし緩んでいた。温められた空気と素足に心地い絨毯と、体を包み込む毛布ごと抱き寄せるアメリカの腕。しっかりとウクライナを抱き寄せたそれは離す気配もなく、時折力がこもったり、いとおしく女性の頭を撫でては嬉しそうな笑い声がもれたりする。
 テレビからどっと笑い声が響く。やけに現実的なそれを意識の片隅で響かせながら、ウクライナは天気予報が見たいな、と言った。アメリカはちらりと画面に視線を映し、リモコンをしばらくいじった後で不満げに息を吐く。どこもかしこも新年の特別番組で、天気予報に上手いこと巡り合えなかったからだ。仕方なく携帯電話を取り出したアメリカは、ちいさな画面に予報サイトを呼びだし、それをウクライナの前にかかげる。はい、とばかり差し出された画面にちらりと視線を向けたのち、ウクライナは穏やかな仕草で携帯電話の電源を落としてしまった。ウク、と不思議そうな声が響く。真意を問われる前に体を伸ばし、ウクライナはアメリカの頬にそっと口付けを送る。
「飛行機が飛びそうにないの」
「う……うん」
 明日の朝食はなににしましょうか。囁かれた言葉に目を瞬かせた後、アメリカは満面の笑みで君が作ってくれるものならなんでも、と言った。つけっぱなしのテレビが天気予報に切り替わる。ウクライナはリモコンに手を伸ばして、チャンネルをどこか別の局へ代えてしまった。



 夜会にて

 かすかな音が耳を揺らし、アルフレッドは意識を広間の隅へ向けた。夜会の人ごみとざわめき、きらめきが届かない壁際には、喧騒を避けた者たちが壁に背を預けて休憩している。その中に元親の姿も見つけ、アルフレッドはにっこりと笑いかけてやった。休んでどうしたの、年齢のせいなの、という意思を笑みに乗せたのがバレたのだろう。見かけだけは全く紳士である青年は、ごく麗しい笑みを浮かべて腕を動かした。
 拳を握り、光速で親指を床に向かって振りおろす。後は柔和な笑みを浮かべたまま、液体の入ったグラスで唇を湿らせ、アフルレッドには素知らぬふりだ。あまりになめらかで素早い仕草だったので、アルフレッド以外の誰も気が付けなかったことだろう。あの人本当どうしようもないなあ、とくつくつと肩を震わせて笑い、アルフレッドは常と違ってきちんと撫でつけてある髪に手を伸ばし、毛先に触れながら首を傾げて考える。
 意識を揺らしたものはなんだっただろう。アーサーではない。彼の仕草ではなかった筈だ。見かけだけ紳士の青年は壁に根が生えたようにそこから動こうとしないし、かすかな身動きすら、空気を最低限ゆらめかせるだけ。んー、と眉を寄せて考えて、アルフレッドは夜会が催されている広間にぐるりと視線を巡らせる。光と音楽、人の洪水。
 食べ物のにおいと女性のまとう香水、男性が付けている整髪料がぐちゃぐちゃに入り混じっていることにふと気が付き、アルフレッドは眉をしかめて息を吐き出す。集中と高揚感が途切れた状態で、あまり長居したい空間ではなかった。さりとて『国』である青年に、退室は許されていない。これも仕事だ。さて元親を見習って壁の花になろうか、それともバルコニーにでも出て外の空気を吸ってくるか。
 迷ったのは一秒だけで、アルフレッドは広間の端の端にある、ごく小さなテラスに出る硝子扉を選んで歩き出した。アーサーと同じ休憩をするのは嫌だった。なんとなく。別に犯行とかそういうのではなく、あくまでなんとなく。お前本当に可愛くないな、と言わんばかりの元親の視線を受け止めずに避けて投げて捨てて、去り際振り返って笑顔でひらりと手を振ってやる。アーサーはごくにこやかに、唇だけを動かした。
 よし分かったそのままバルコニーから落ちろ。やだよ、と苦笑して透明な硝子扉に手をかけ、アルフレッドは区切られた空間の外側に足を踏み出した。そんな、出来そこないのロミオのような真似だけはごめんだ。広間の注意を引かないよう、慎重に扉を閉める。よく磨かれた硝子はテラスと広間を区切っているだけで視線や景色は筒抜けだったが、それでも内側と、外だ。まず気温が違う。
 ぐるぐるに熱せられた空気とは違って、外はしんと静まり返る夜の涼しさを持っていた。思わず深呼吸をして胸いっぱいに息を吸い込めば、白い花の香りが、ふと忍び寄ってすぐに消える。女ものの、香水のにおいだった。それをなぜ、白い花の香りだと思ったのか、アルフレッドには分からない。それでも意識を引きつけられて視線を向ければ、テラスの奥の暗がり、手すりに体重を預けるようにして、旧知の女性が立っていた。
 不思議そうに瞬きをして、アルフレッドは思わず呟く。
「……ウクライナ?」
 名前を、知らない訳ではない。それでも『国名』を口にしたのは、女性の名を軽々しく口にして良いものか迷ったからだ。幸い、一応は公務の範囲内に含まれる夜会だ。非礼にはならない。夜の、黒く塗りつぶされた庭園に目をやっていた女性が、ゆっくりと顔だけを振り向かせる。相手がもし『ロシア』なら体ごと振り返って駆け寄ったのだろうな、と。
 なんとなくそんなことを思う。あるいは彼女の妹が相手であったも変わらなかっただろうが、アルフレッドはそのどちらでもない。ウクライナは手すりに指先を触れさせたまま、ごく小さく首を傾げて唇を動かす。アメリカ君、と柔らかな声がかすかに響いた。二人は、そのまま動けずに視線を合わせてしまった。言葉がどちらも、続かない。沈黙が苦にならない仲でもないので、アルフレッドは非常に困った様子で息を吸い込んだ。
 とりあえず、なんの害にもならない問いを口にする。
「……なに、してたんだい?」
「すこしだけ休憩。アメリカ君も?」
「うん。……なに、見てたの?」
 がつ、と踏み出した靴が大きな音を立てる。ごくさりげなく歩み寄るつもりだったアルフレッドは、かっと胸を熱くして立ち止まってしまった。こんな風にするつもりでは、なかったのに。あくまで自然にスマートに、彼女の隣まで歩こうと思ったのに。ぐ、と唇を噛んで立ち止まってしまったアルフレッドに、女性はふわ、と空気を緩ませ、唇が微笑む。
「アメリカ君も、見る? ……夜の庭園と、星がすごく綺麗よ」
 おいでおいで、とばかり白いてのひらが揺れ動く。これは絶対に、動揺もなにもかもを見抜かれている。そう、アルフレッドに痛感させる微笑と仕草だった。はあ、と思い切り息を吐きながら、アルフレッドは髪に手をやり、くしゃりと乱してしまいながら女性に歩み寄った。くすくす、と耐えきれぬ笑いに身を震わせる女性を恨めしげに見やり、アルフレッドは手すりから身を乗り出すように中庭に目を落とす。
 夜の庭園は、暗くてよく見えなかった。目を細めていると、やがてぼんやりと、花が咲いていることが分かる。けれど、それだけだ。アルフレッドには花の名前も分からないし、第一こう暗くては、形や色さえよく分からない。なんとなくつまらない気分になって天を仰げば、視線を出迎えたのは星空だった。満天の星。夜空が光に満ちている。まばゆいほどに星が輝き、アルフレッドの意識を連れ去って行く。
「……すごいな」
「でしょう? 部屋にこもっているのは、もったいないくらい」
「うん。……君、知ってたのかい? 今日の夜、星がこんなに綺麗だって」
 だから見ていたのか、と問いかけるアルフレッドに、女性は微苦笑を浮かべて首を振る。表情と仕草から、意味を読み取ることができなかった。星空から女性の顔に視線を移して、アルフレッドは口を開く。
「君ってさ」
「……え?」
「なんでそうやって、笑えるんだい?」
 手すりから指先を離す。外気に冷えた指先は白く、ぎこちなく動いた。
「もっと辛いって顔、すればいいじゃないか。そうすれば、俺だって」
 助けてあげられるよ、と。かすれた声に、返る笑みはなんだか申し訳なさそうなそれで、アルフレッドはそれ以上の言葉を紡げない。なんだか無性にごめんなさい、と謝ってしまいたい気分なのだが、ここでその言葉の選択は、間違いだろう。訂正することも謝罪することもできず、アルフレッドはぐるりと視線で円を描き、息を吐き出す。
「ねえ、アメリカ君」
 沈黙のぎこちなさを包み込むように、優しげな声が笑う。
「私が笑ってるのは、それで安心してくれるひとが居るからよ」
「……国民かい?」
「そう。国民と……イヴァンちゃんと、ナターリヤちゃん」
 弟妹の名を紡ぐ声は、ささやかな詩を歌いあげるように奏でられた。喜びが灯る。愛情が声に乗る。いとしい、いとしいと言葉が歌う。アルフレッドには分からない。なぜ『姉』であるというだけで、そんなにも『弟』を、『妹』を愛せるのか。分からない。どうしてそれだけの事実に、胸がぐしゃりと歪むのか。分からない。震えた指先を、どうして彼女に伸ばしたのか。ぎこちない指先が、女性の髪の先に触れる。
 纏めた髪からこぼれおちた一筋を、アルフレッドは指先でつまむように、そっと触れた。きゅぅ、と目を細める。心臓が、音を立てて鳴った。
「……ねえ」
「……どうしたの?」
 女性は特に驚いた様子もなく、動揺もなく、微笑んでアフルレッドの目の前に立っていた。それだけだった。避けもしない。立ち去りもしない。揺れぬ水面のように、波紋もなく、ただ穏やかにたたずんでいる。唇を噛んで、アルフレッドは言う。
「じゃあ君は、いつ安心するの」
「……え」
「誰の、笑顔で……君は安らぐの」
 国民。『妹』。『弟』。そのどれでもないよね、と呟くアルフレッドに、初めて女性の瞳に感情が灯る。揺れ動き、揺れ動き、ウクライナは大きく息を吸い込んだ。初めて、女性がアルフレッドから逃げようとする。一歩引いた足を阻んだのは、冷たい手すりだった。アルフレッドはじっと、その動きを見ていた。
「逃げないで」
「逃げ……てなんて、ないわ」
「……ねえ、誰かと話すより、ひとりで居る方が楽かい?」
 苦しげに吐き出された言葉をさらりと受け流し、アルフレッドは女性に問いかける。だからここに居たのかい、と問うアルフレッドの指が、女性の髪を解放する。すこし休んでいただけにしては、冷え切った、温度のない髪。白い頬をじっと見て、アルフレッドはそこにぺた、と手を押し当てた。びくんっ、と女性の体が震える。あ、やっぱり冷えてる、と溜息をつきながら、アルフレッドは女性の目を覗き込んだ。
「もったいないよ。ひとり」
「は……離」
「俺は、夜の庭の綺麗さが分からないし、星空も、すごいとは思う。けど、きっと君が見ていたものではないと思う。……教えてよ、ウクライナ。それで、俺を君と一緒に居させて欲しいんだ」
 揺れながら、揺れながら。女性はまっすぐ、アルフレッドを見ていた。森を映した湖面色の瞳。静寂が、そこに満ちている。切なくて、アルフレッドは声をあげる。ねえ、と。
「俺を、君の世界に入れてよ。……駄目かな」
「アメリカ君……は」
 どうして、と動きかけた唇に、影が落ちる。あ、とアルフレッドは思った。それは多分、やってはいけないことだ。駄目だ、と感じる意思とは裏腹に、体が動く。本能的に、衝動的に、唇が重なった。息を吸い込んで、額を重ねる。
「よく、分からないけど。……君の隣に行きたいんだ」
 駄目かな、と囁く声は、『アメリカ』を探す呼び声にかき消される。閉会の時間が迫っていた。上司が探しているに違いない。はあ、と溜息をついてアルフレッドは女性から離れ、部屋とテラスを区切る硝子扉に歩み寄る。扉に手を添えて、一度だけ振り返った。
「ライナ!」
「え……ええっ?」
「考えておいておくれよ! 挨拶してきたら、答えを聞きにくるからさ!」
 逃げても追いかけちゃうんだぞ、とにこっと笑いかけ、アルフレッドは再び、室内に体を滑り込ませる。音を立てずに、扉を閉めた。夜を背に、アルフレッドは光の中を歩んで行く。その背を追うように、混乱した叫びが聞こえてきた。アルフレッドは唇に指先を押し当て、浮足立った気持ちで広間を進む。白い花の香りが、すこしだけ鼻の奥に残っていた。



 くっついた後

 つまり、お母さんみたいな感じだと思うんだよね。腰に腕をぐるりと回してぎゅうぎゅうに抱きついて寝ころんだまま、そう言いだしたアメリカを突き飛ばしたりしなかったのは、ひとえにウクライナも眠かったせいだった。午後の、梢に柔らかく拡散された光は二人の体をまろやかに温めていて、意識を風の中に溶け込ませている。ベンチではランチを取っている『国』がおり、昼食後の散歩代わりに公園内を歩き回っている『国』もいた。
 つまり周り中が知りあいだらけの公共の場であるが、そこでお腹いっぱいご飯食べたら眠くなったから膝枕してよっ、と恋人を呼びに来たアメリカを、ウクライナは純粋にすごいと思った。それに付き合って眠くなっている己も、昔からは考えられないくらい、甘くなったとも思うのだけれど。特に、年下の恋人に『お母さんみたいな感じ』と言われて、泣いたり怒ったり、突き飛ばしたり弟を呼んだりしないあたりで。
 ただ単に眠くて意識が動かないだけなのかも知れないが、ウクライナがその答えに辿りつくことはなかった。心地よい湿気を孕んだ冷たい風が、さらりと肌を撫でて行く。アメリカからそっとテキサスを外して膝の横に置いてやりながら、ウクライナが恋人の短い髪を手のひらで慈しむように撫でた。
「どうして、そういう風に思うの?」
「うーん……君って柔らかいし暖かいし、良いにおいがするし、くっついてると気持ちいいし」
 ぎゅうぎゅうに腰にまわされて離されることのない腕は、その実、繊細な力加減をされているのだとウクライナは知っている。手加減なしに抱きしめられると痛いことも、息苦しいことも、ウクライナがそれを言いだせないことも、アメリカはもう知っていたからだ。んー、と眠たげなつぶやきを落として、アメリカはウクライナの脚にすりすりと頬を寄せて甘えた。
「それに君、俺のこと好きだろう?」
「……うん」
 好きよ、と。その言葉を口に出せるようになるまで、その気持ちを認められるようになるまで。素直に、心を感情に受け渡してしまうまで。彼を受け入れるまで。どれくらいの時間がかかったのだろうか。ひとには到底受け入れがたい、長い年月。過ぎ去って行く時間を焦れながら待ったアメリカに、ウクライナは、今は感謝している。言葉に出すことは、まだ出来ないけれど。さらりと、髪を撫でることで愛情を表す。
 最近、外見相応、よりもすこし幼い面も見せるようになった年下の恋人は、女性の指の動きに、うっとりと眼を細めて喜んだ。ネコ科の大きな獣みたい、とウクライナは思う。アメリカはウクライナの手を引いて口元に導き、ごく軽く唇を触れ合わせて囁く。
「こんな風に愛してくれるって、さ。お母さんみたいだなって、思っただけ。……怒った?」
「……うん」
「っ……ん? え、嘘だろう?」
 一瞬、驚きにとび起きようとしたアメリカは、しかし相手の気配が全く変わらない穏やかなものであることを感じたのだろう。くたりと膝の上で脱力した頭をきゅぅと抱きしめて、ウクライナは肩を震わせて微笑む。
「産んで欲しかった?」
「……そう言う訳じゃないかな。それは困るんだぞ」
 まったく、君だって十分、俺をこどもみたいに扱うくせにさ、と溜息をついて。アメリカは笑いながら、ウクライナの顎に口付けを送った。
「だって君にはそのうち、俺のこどもを産んでもらうからね!」
 大丈夫、なんとかなるよ、と笑って。アメリカは愛しい女性の腕の中で、すぅ、と意識を夢にまどろませた。飴色に和らぐ陽光に目を細め、ウクライナも大きくあくびをする。時間は、ゆっくりと流れていた。

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