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 36・5℃の街

 出会ったのはイギリスだった。百年と少しの時を共に過ごして、別れたのもイギリスでのことだった。二人は人ではなく『国』であり、共に『支配される国』であったから、それはごく当たり前のことでもあった。その国から何処かへ行ける訳もなく、二人は多くの『国』と共に『イギリス』の屋敷で育てられ、そして成長して行った。二人の独立は『イギリス』の手を振り払ってのことではなく、ただ、時代の流れによるものだった。
 それが幸せなのか不幸なのか、未だ持って『セーシェル』には分からない。別れの時に、二人は短くない言葉を交わした筈だった。その中に再会を願う言葉が含まれていなかったと『セーシェル』が気がついたのは、初めて『国』として参加した国際会議の場だ。見知った『国』も、知らない『国』も多く居た。全ての『国』に挨拶を終えた時、『セーシェル』はその中に『香港』が含まれていないことに気がつき、思わず元宗主国である『イギリス』を捕まえて叫んでいた。
『どうして香港がいないんですか!』
 会えると思っていたのだ、その時まで。なにを疑うこともなく、そこに居るのだと。思っていたからこそ気がつかなかったその不安に、『イギリス』は苦しげな顔をして告げた。『香港』の立場が非常に微妙であること。彼はあくまで『都市』であり、『国』の会議に出席させるか否かは未だ議論の余地を残していること。そして、『イギリス』から『中国』の手に身柄が引き渡された時に。
 その存在を保っていられるのか、誰も分からないこと。
「……カオル」
 思い出して、名を呟き、『セーシェル』は香港の街を行く。なんて国籍の分からない街だろう。目に鮮やかすぎる色彩の洪水は少女の眩暈を誘う程で、世界各国からやってきた人々の多種多様な言語と入り混じり、すさまじいエネルギーとなってこの都市を満たしているようだった。エッグタルトとドラゴンフルーツの香りが空気にとける。それを胸一杯に吸い込んで、少女は目的もなく歩き続ける。
『セーシェルの海は、すごく綺麗だな』
 不意に。喧騒を遠ざけるように耳の奥に蘇った声に、鼻がつんと痛くなる。それは二人がまだ一緒に居た頃、セーシェルの島の写真を見てたびたび『香港』が呟いた言葉だ。感心するように、褒め称えるように、優しくあやすように、憧れるように。『香港』は切り取られたセーシェルの海を、眺めては呟いていた。その意味を、分かるようになったのは香港に訪れてからだった。
 ヴィクトリア湾から臨んだ海を、セーシェルははじめ『海』だと思わなかった。だって、まるで違いすぎたのだ。そこには素足で踏んでいく白い砂浜もなく、ただ透明に深く打ち寄せる波もない。潮風はべたつくだけで目に痛いほど晴れる空に還ることなく、高層ビルの間に消えて行く。感心するように、褒め称えるように、優しくあやすように、憧れるように。彼が見た海は、そこにはなかった。
 来ればいいのに。『セーシェル』はそう思いながら、大きな通りに面した路地で足を留める。こんな所に居ないで、セーシェル諸島に来ればいいのに。それで二人で海を見て、綺麗だねって笑ってくれれば良いのに。中国から返還された都市、香港。そこに行くと言い張った『セーシェル』を、『イギリス』は止めなかった。会える可能性はほぼない、とも言われた。
 英国から中国に返還されてから、『香港』の消息が途絶えていたからだ。元々『香港』が存在を確立させたのは、イギリスが中国に攻め込み、香港を占領したその時からだという。『中国』の痛みを請け負うように、切り離して救うように。生まれ落ちた存在こそ『香港』だった。痛みは終わり、癒されて。役目を終えたのだと、そういうのだろうか。『国』の生まれる条件を、誰も、なにも知らない。
 『国』が消えてしまう条件も、また同じこと。
「カオル……」
 高く、高くそびえるビルの谷間から、透き通るような青空が見えた。それを『セーシェル』は不思議なくらい、綺麗だと思う。自国の空とはまるで違う、排気ガスと喧騒を透かして見る空なのに。綺麗だと思って、涙をこぼした。なにも言えなかった。なにも。この空が綺麗だということも。なにも伝えられずに。
「セー。なに、泣いてんの?」
 彼は。消えてしまったのだと。
「……聞いてる?」
 誰も彼もが諦めていて。『セーシェル』も信じることができなくて。
「セー。……つか久しぶりじゃね?」
 それなのに。不意に現れた『香港』は隔てた時を感じさせることなく『セーシェル』に歩み寄り、やや呆れた顔をして顔に手を伸ばしてくる。指先で涙を拭って、それでは足りないと分かると服の裾が少女の涙を吸っていく。よしよし、とあやすように頭を撫でられた。手のひらの存在感。夢ではない。幻でも、ない。立っていたのは『香港』だった。亜細亜の赤い服を来て、苦笑気味に『セーシェル』を見ている。
「……カオル?」
「あ、ようやく反応した。うん、俺。久しぶり、セー」
 できれば泣き顔じゃないセーと会いたかった、と笑いながら。『香港』は『セーシェル』の顔から手を引いた。その指先を、少女は強く握り締める。触れられた。温かかった。鼓動を、打っている。皮膚から伝わるのはこの都市に満ちるのと同じくらい、混沌としたエネルギーそのもので。消えてしまいそうな不安は、もうなかった。
「どうして……?」
「居なくなってた理由?」
 それとも急に出てこれた理由と、どっち、と尋ねられて。両方、と言った『セーシェル』に、『香港』はよくばり、と言って笑った。ゆるく、手が引かれる。そのまま二人は、混雑した街をゆっくりと歩いて行った。
「俺にもどうなってんのかって感じで、説明とかできないんだけど」
「うん」
「役目終わって、ずっと寝てた感じ……かな」
 切り離して別に存在させなければいけなかった程の、痛みを終えて。『香港』は『中国』に還るのだと、そう思いながら意識をまどろませていた。
「でも……ちょっとずつ、痛くなってきて。俺じゃなきゃ癒せない痛みみたいで」
 だから、痛いの嫌で戻ってきた。それで説明を終えてしまった『香港』に、『セーシェル』は上手く言葉を返せなかった。『痛み』によって生まれた『国』が、役目を終えて眠っていたというのなら。それをもう一度呼び覚ました『痛み』は、彼を『国』にしてくれるのだろうか。『痛み』が続く限り、存在させてくれるのだろうか。ならば。この胸が痛いままでも、構わない。
「……セー」
 期待と、不安の入り混じったような『香港』の目は、確かに恋を宿して『セーシェル』を見ていた。少女は知っている。同じものが自分の瞳の中にあることを。恋しくて、恋しくて。会えない痛みに耐えきれず、眠れる『国』を呼び覚ましてしまった程の想いが。あることを知っていて、『セーシェル』はなにも告げなかった。繋いだ手に、力を込めて『香港』を見つめる。
「おかえり」
「……ただいま」
 仕方ないな、という風に笑って、『香港』は『セーシェル』に顔を寄せる。そっと触れ合った唇の熱に、眩暈がするほど甘く、胸が痛んだ。

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