隣国同士の会議だから、と言って『イギリス』が出かけてから数時間。慌ただしく鳴り響いた携帯電話の着信音を、『カナダ』は半ば予想しながら耳にした。このたびの案件がなんであったか『カナダ』は知らないが、例えどんなものであったにしろ、電話が来なかったためしがないのだから。特に『フランス』との会議において。
「はい。どうしたの、『フランス』さん? 僕は今『イギリス』さんの家なので、そこに到着するまで二時間半はくださいね」
『だよなカナちゃん愛してる!』
場所は大体いつもの所だからよろしく、と言い残して着信は切れてしまった。どうしたの、に対する返事がないままだったが、いつものことなので『カナダ』は一々気にしない。『フランス』がそれを説明してくれたのは確か最初の数回程度で、ここ数年は『隣国同士の会議』のあとに『カナダの電話が鳴る』ことが全ての説明で唯一の合図なのだ。どうもまた、彼の人の機嫌は悪いらしい。
なにがそんなに『イギリス』の神経を尖らせるのか、実際の所『カナダ』は全く知らないのだが、どうせ碌でもないことだとは分かっているので聞こうとも思わない。聞かない代わり、英国の予定帳に『変態という名の薔薇男』と書かれている日だけ、こうして『イギリス』の家で待機しているのが常だった。カナダ本国からフランスへ渡るのは、骨が折れる上に時間もかかり過ぎてしまうので。
あらかじめフランス国内で待機していないのは今回こそ無事に終わって欲しいという希望と、恋人でもある彼の人が良い顔をしないからだ。自国で待たれる分にはゆったり構えていられるらしいが、どうも『カナダ』の元育て親でもある『フランス』の土地へ足を踏み入れることを、落ちついて受け止めることが出来ないらしかった。普段から、ではない。『隣国と会議』の時に限って、である。
きらびやかな、本当に美しく見とれてしまうような微笑で『やっても良いが万一お前が穢されるようなことがあったら俺はアイツに決闘を申し込む』と告げられてしまったので、余計なトラブルを回避する為にも『カナダ』は『イギリス』の家で書庫の本を一冊借りながら、紅茶を飲みつつ時間を過ごすことにしている。『カナダ』の兄弟たる『アメリカ』はどうも理由を知っているらしく、『ああうん君まで結婚届けにサインを迫られるようなことがあれば俺は去勢させるけどね!』と言っていた。
まったく物騒な人たちである。そっくりだと告げれば渋い顔をされるのが分かっているので言ったことはないが、それぞれの声を思い出し、『カナダ』はくすくすと笑いながらユーロスターから駅に降り立った。曇り空。十月のパリは、薄手の長袖ではやや肌寒い。普段着ではなくスーツで来ればまだ温かだったろうが、『カナダ』は今回、休暇でイギリスを訪れていたのだ。
休みの日にスーツを切ることを良しとしない恋人の為、仕事関連のものは自国に置いて来てしまっていた。吐く息は、けれどまだ白くない。走って行けば体も温まると、『カナダ』は身軽く身を翻し、駅から飛び出して街中を行く。大体いつもの所と聞けば、場所の予想はついていた。カフェの扉を押し開き、顔見知りの店員に笑顔で挨拶をして。店の窓側、一番奥の席に腰かけていた『イギリス』の前で立ち止まる。
「……アーサー」
「ん?」
ゆるく笑んだ口元で奏でられる穏やかな声を耳にして、彼が不機嫌であると気がつけるのは世界中でもごく少数だ。それでも、マシューは必ずそれを見分ける。机に落とされていた視線が持ちあがる仕草や、かけつけて来た恋人と見つめる瞳の細められ方で、マシューにはそれが分かる。溜息をつきながら、マシューは失礼しますと呟いて、アーサーの首元に手を伸ばした。
簡単に手で絞められるような細い首に巻かれた、ネクタイを解いてしまう。
「はい。もう良いですよ。お仕事終わりです」
告げながらワイシャツの一番上のボタンを外し、スーツのジャケットも奪ってしまう。ジャケットを腕に引っ掛けながら固めた髪に手を伸ばすと、くすぐったそうな顔で指先を遮られる。そこまではしなくて良い、と笑いながら、アーサーは己が座る椅子の真向かい、共にテーブルを囲む席を指差した。
「座るか?」
「……どちらでも。貴方が望む通りに」
「じゃ、座れ。今日は一息ついてから帰りたい気分だ。……飲み物は?」
服をオフモードにしてからすぐ帰る日もあるが、今日は休んで行くことにしたらしい。求めに従って腰かけながら、マシューはホットミルクティー、と言った。アーサーの瞳がゆるく細められ、微笑む。良い子だ、と言わんばかりの仕草に、マシューは彼の機嫌が回復したことを悟った。ウエイターに注文がなされ、メニューが下げられていく。肩の力を抜いた息が吐き出され、ようやくマシューは口を開いた。
「それで、今日はどうして機嫌が悪かったんですか? フランシスさん、電話口で涙声だったんですけれど……今日はなにを?」
「理由はない。強いて言うなら存在が気に入らない」
それだけで十分だと思わないか、と同意を求めてくるのを浮かぶ笑みでなんとか受け流し、マシューはつまり、とひとりごちた。いつも通りの八つ当たりである。事の発端はなんだったのか知らないが、特にフランシスと二人きりの時、アーサーは意図して感情の制御を行わないことがある。内側にくすぶっている不満を、そのままに表に出してしまう。その最たる機会が『隣国との会議』であるだけだ。
たまに気を抜きたくなるからというのは本人の弁だが、マシューはそれを甘えの一種だろうな、とぼんやり思うのだ。マシューやアルフレッドが時折、意味もなくむしゃくしゃしてしまう感情を、育て親にそのままぶつけたくなってしまうように。マシューがそっと閉じ込めるそれを、あえてアルフレッドがアーサーにぶつけに行くように。アーサーのその相手が、フランシスであると言うだけなのだ。
海を隔てた隣国。長い因縁の相手。その結びつきの始まりに、アーサーはフランシスに『育てられて』いる。フランシスは他の『国』にするようにアーサーの育て親を自称したりはしない。アーサーも決して、『国』としての姿が幼い頃に、誰の『支配下』にあったかを軽く口にしたりはしない。マシューが知るのは、自身がそう育てられたような、甘い保護と教育の日々ではなかったということだけ。
アーサーがそうする相手が、フランシスであるというだけだ。
「……僕だって嫉妬くらいしますけど」
「ん?」
「たまに、貴方を育ててみたかったなぁって思うんです」
問いかけに答えることなく、マシューは溜息をつきながらそう言った。アーサーは困ったように眉を寄せ、マシューに手を伸ばして来る。指先が髪を一筋巻き付けて、口元へ持って行かれた。口付けられた髪が離され、頬を撫でるように戻ってくる。恥ずかしさに顔を赤くしながら、マシューはそっと口を開いた。
「……言われなかったなら、悪くはないんですよ」
「分かってる」
「似合ってます。新しいネクタイ」
分かってる、と呟いて。ふいと反らされた視線の先、マシューが解いたネクタイがくるくると巻かれてポケットに仕舞われる。フランシスはなんと言うだろう。父親に新しい服を見せに行ったら気がついてもらえなくて機嫌が悪くなっちゃっただけなんですよ、と。要約すればそれだけの事実で、今日も会議終了と共に殴られたことを。悔しいから教えてあげないけど、と思いながらマシューはウエイターに視線を送る。
運ばれてきたミルクティーを飲んだら、手を繋いで帰ろうと思った。