INDEX / NEXT

騎士たちの挽歌:前

 到底視認できる距離では無かった筈なのに、カレンの目はどうしてかそれを捕らえていた。『ゼロ』が皇帝の前に立ち、抜き身の剣を持つ腕が今まさに動かされようとしていた。やめてと叫ぶ代わり、ただルルーシュの名を呼んだ。なんの抑止力にもならないと分かっていた。日差しが強い。目を細めるように、皇帝はやや微笑んだようだった。そして、剣が。

 

 絶叫するのを堪えたのは、息を吸い込んだ所で天井を認識したからだ。息を止めたままはたはたと瞬きを繰り返し、カレンは早鐘を打つ胸に強く手を押し当てた。全身が震える程、緊張と恐怖に強張っていた。手足は重たくベッドに横たわり、汗ばんでいて、そしてひどく冷えていた。なにが起きたのか、まったく理解できない。別々の映画のフィルムが悪趣味につぎはぎされたように、一瞬前の鮮明な映像が脳裏に焼きついたまま、ただ、現実がそこにあった。
 ちいさな窓からは朝日が差し込んでいる。ごくりと喉を鳴らしてつばを飲み込み、カレンは恐る恐る上半身を起こした。部屋の中を見回す。見慣れた部屋だった。黒の騎士団本部にある、カレンの為の部屋だった。作戦が立て込んでいたり、シュタットフェルトの屋敷に戻りたくない時に、カレンはこの部屋に寝泊まりしている。もうひとつの家のようなものだ。家具は質素ながら適度に整っており、パソコンの置かれた簡素なデスクの椅子には、学生鞄が置かれている。椅子の背には、制服が引っ掛けられていた。
 それを凝視したのち、カレンは昨夜学園から騎士団に直行したことを思い出し、次に、制服をハンガーにかけることすら億劫な程に疲れていたことも思い出した。それでは、極度の疲労による悪夢だったのか。ちらりと浮かんだ考えを、しかしカレンは即座に打ち消した。そんな筈がない。そんな生温いものではない。カレンが見ていたのは紛れもない現実で、そして少女自身の辿った道筋、一人の存在の人生そのものであった筈だ。胸に手を当て、大きく息を吸い込む。心臓はようやく、落ちついた所だった。
 それでも、細かい体の震えがどうしても収まらない。己の肩を抱くように腕を回して力を込めながら、カレンは目の奥に焼きついた恐ろしい光景を、できるだけ冷静に思い返してみる。なんて精巧な劇なのだろう。ふと思い浮かんだ結論に自嘲の笑みを浮かべ、カレンは息を吸い込んだ。あれは劇だ。とびきりの劇だったのだ。シナリオを書いたのはルルーシュ本人に違いない。そうでなければ、あの覚悟を決めたが故の静謐な、穏やかな笑みは浮かべられないだろう。
 彼は死ぬつもりだった。冗談じゃない。それに気がつけなかった自分こそ、冗談じゃない。ふざけるな、と己にこそ憎悪にすら近い怒りを抱きながら、カレンはぶるりと身ぶるいをして立ちあがった。目覚めた瞬間の恐怖は、怒りで乗り越えて消えていた。鏡の前でパジャマのボタンをひとつひとつ丁寧に外しながら、カレンはまなじりをつり上げて苛々と考える。よく分からないが、あれを現実と仮定しよう。あの最悪の悪夢が現実であったなら、今現在のこれはどういうことなのだろう。
 ばさりと上着を脱ぎ捨て、カレンは鏡を覗き込むようにして、己の体をじっくりと観察した。ダイエットに勤しむ乙女が些細な体の変化を見極めようとするより、もっと真剣で、もっと慎重な視線だった。カレンの視線は己の右肩を眺め、左の肋骨のあたりを眺め、腹を眺めた後に身をよじり、背中を見て停止する。考え込むように眉を寄せた意味を、知るのは少女自身だけだろう。カレンは次にズボンも脱ぎ、ショーツ一枚だけの姿で己の下半身に目を向けた。
 重点的に視線が走らされたのは、左の足首と脛の辺り。右の太もも部分と、足の付け根だった。それらはまっさらな肌で覆われていて、傷跡もなく、かさぶたもない。健康的な少女らしい滑らかな肌に覆われているばかりで、カレンが確かに記憶していた、激戦を物語る傷跡が綺麗さっぱり無くなっていた。まるで精巧に作られたレプリカに、意識だけ入り込んでいるようだ。薄気味の悪さを感じながらクロゼットに歩み寄り、ブラジャーを取り出した所で手が止まる。
 サイズが違う。カレンが最後に記憶しているそれよりワンサイズ、小さいブラジャーがそこには収まっていた。なんとも言えない気持ちになりながら付けてみると、ちょうどピッタリ、胸が収まる。つまり。つまり、である。頭の中を瞬時にかけ巡った常識的にとてもありえない現実を直視する為、カレンは携帯電話を取り出し、電源を入れて画面に目を落とす。カレンはゆっくり息を吸い込んだ。叫ばなかった自分を、心底偉いと思った。
「……冗談?」
 皇歴2017年。特区日本にて悲劇の引き金が引かれる前。神根島から戻り、事後処理も落ちついた後の。学園祭、当日の日付が表示されていた。

 

 少女の行動は実に迅速だった。状況を把握しきるより早く携帯電話にて扇に連絡をつけ、絶対に学園祭に来ないように、と言い放ったのだ。もちろん扇は動揺した口調で理由を問いただしてきたが、カレンが『もし来たら扇さんともう口きかない。絶対。一生。なにがあっても会話しない。扇さんのこと大嫌いになるから』と問答無用で言い放った所、負けを認めるように分かったとは言っていたので安全だろう。少女のうぬぼれでなく、扇は親友の妹をとても可愛がっていたので、その仕打ちには精神的に耐えられない筈だった。当面の問題が、これでひとつ消える。
 扇をどうにか言い含め終え、カレンは手早く制服を身につけ、鞄を掴んで黒の騎士団を飛び出した。アッシュフォード学園へ続く道は普段よりずっとにぎやかで人通りも多く、だからこそ小走りに進むカレンに誰も目を止めなかった。急いで校舎内を進みながら、カレンは学園祭で割り当てられた生徒会メンバーのスケジュールを、なるべく詳細に思い出そうとするが、上手くは行かない。そもそも記憶にある『前回』も作戦のほとぼりがようやく冷めた頃であったから、こちらに意識を振りまいていなかったのだ。
 舌打ちしたい気分をなんとか堪えながら、カレンは生徒会室の扉をひと思いに開け放つ。幾分か大きく響いてしまった開閉音に、何事かと思ったのだろう。ゼロを彷彿とさせる優美な動きで振り返ったルルーシュに、カレンは思わず息を吸い込んだ。泣きそうだった。合図はいくらでもあった。分かってしまえばこんなに、こんなに近くに居たのに。ヒントはいくらでもあったのに。たった一度のアンイコールで、どうして疑うことを止めてしまったのだろう。誰より敬愛するひと。たった一人の、カレンの主君。
 ゼロはルルーシュだった。いまさらのように深く思い知り、カレンは衝動のまま頭を下げようとして、はっと気がつく。ルルーシュはカレンを見ていた。それは学園内で投げかけられるいつも通りのものであり、取り立てた驚きや狼狽は見受けられない。カレンは不審に思われているのを承知の上で、ルルーシュの前まで近寄り、その顔をじっと見つめる。ルルーシュは困惑気味に、そっと首を傾げて見せた。
「……カレン、さん」
 どうかしたのか、と。すこしばかり他人行儀に、それでいてしっかりと心配の意思を滲ませて告げられた言葉に、カレンは天啓を受けたように理解する。ルルーシュは『彼』ではない。自らの胸に世界中の憎悪を集め、剣で貫かせようとした『彼』ではないのだ。そのことが震える程嬉しく、滑稽な程に残念な己の意思をどうにか誤魔化して、カレンはぎこちなく清楚な笑みを浮かべて首を振った。ぼろが出ることは多々あれど、己にそう設定付けたが故のお嬢様風の清らかな笑みはすでに体が覚えていて、多少強張っていてもすぐにそうすることができたのは幸いだった。
「ううん。なんでもないの。……おはよう、ルルーシュ君」
「あ、ああ。おはよう、カレンさん」
 ただ、挨拶の言葉を向けること。それに返事を返されること。当たり前でしかなかった日常は、取り戻すことが出来ない場所まで行ったからこそ、切ないほどに優しかった。こみあげてくる涙を深呼吸で誤魔化して、カレンはルルーシュにくるりと背を向けた。アッシュフォード学園の警備態勢は、万全ではないが悪くはない。傍でずっと守って居なくても、だから大丈夫。そう言い聞かせて、足を進める。
「……どこへ?」
 やや茫然とした風に見送りながら、生徒会室から出て行こうとするカレンを、ルルーシュは呼びとめる。少女は穏やかな笑みを浮かべながらも凛と背を伸ばし、顔だけを振り返らせて主君に告げる。『彼』ではなくとも、ルルーシュだ。そしてゼロなのだ。その事実がある以上、視線の先に立つ青年は、確かに少女の主だった。だからこそカレンは、誇りをもって告げる。
「行ってきます」
 問いかけの答えではない。カレンにそれを答える気はなかった。言ったとしても、なぜとさらなる問いが重ねられるだけだっただろう。だからこそ、一言。告げて出て行こうとするカレンの背を追うように、声が響く。戸惑いながらも、なお、そっと背を押すように。
「……ああ」
 行って来い、とあまり響かない声で告げられたそれは、ルルーシュではなくゼロの雰囲気を帯びたもので。思わず浮かぶ笑みをそのままに、カレンは生徒会室の扉を閉じた。さて、と気を取り直して顔をあげる。確証はなかった。それでも、心が告げていた。不審がられず、それでいて誰も声をかけられない絶妙の速度で足を進め、カレンはある部屋の前で立ち止まる。ノックをすることなく戸を開け放ち、すぐに体を滑り込ませ、内側から鍵をかけてしまう。しっかり施錠されたことを確かめて振り返ったカレンは、驚きに見開かれた瞳と視線を合わせ、確信を持って唇をつり上げた。
「……おはよう、『ナイトオブセブン』?」
「……おはよう」
 大量の玉ねぎを切っていたスザクは、その一言で全てを察して観念したらしい。苦笑いで包丁をまな板に置くと、体を反転させてカレンと向き合い、幼い仕草で首を傾げる。
「聞いて良いかな」
「なに?」
「カレン。君、そんなに僕が『ナイトオブゼロ』になったの、嫌だった?」
 なにを当たり前のことを、とカレンは眉をつりあげてスザクを睨む。嫌か嫌ではなかったのかと問われれば、胸を張って正直に告げよう。絶望のあまり殺意が湧いた、と。外見だけはおしとやかなカレン・シュタットフェルトのまま、瞳に業火を乗せて来るカレンに、さすがにスザクも思う所があったらしい。口元を引きつらせてごめんと素直に言われてしまったので、カレンは髪を手でかきあげ、息を大きく吸い込んで吐きだした。深呼吸で感情を抑える術を知ったのは、いつのことだっただろうか。
 思い出せなくて苛立ちながら、カレンは困惑するスザクに、改めて目を向けた。
「スザク」
 うん、と相槌を打って言葉を待つ様子のスザクは、どこか曖昧な笑みを浮かべて口を噤んでいた。僕も同じ気持ちだよ、と言いたげな様子にお手上げとばかり脱力して、カレンは投げやりに言い放った。
「……なにこれ」
「なんだろうね……」
「とりあえず、私の夢じゃないことは分かったわ。アンタの夢じゃないってことも。夢じゃない以上は現実なんでしょうけど、でも、どうして私とアンタだけ……?」
 現時点で確認が取れているのがカレンとスザクだけ、ということなのだが、少女はなんとなく、二人だけがイレギュラーとして存在してしまったことを、この瞬間にハッキリと理解した。スザクも、同じなのだろう。分からないと首を振り、落ちついた態度でゆるく腕を組む。それは十七歳の少年がするには大人びた仕草だったが、スザクの持つ落ちつきが、それをしっくりと馴染むものにさせていた。スザクとカレンは十七歳の少年少女だったが、それだけではなく、幾多の死線をくぐりぬけて来た戦士で、加えて一年以上の別の記憶を内側に抱え込んでいる。
 もし二人の姿を目にするものがあったとしたら、言い知れぬ違和感に眉を寄せたことだろう。けれど閉ざされた部屋には二人の姿しかなく、異質は知らぬ間に、世界から覆い隠されていた。
「朝、起きて」
 晴天から落ちて来た雨粒のように。唐突に呟かれた言葉はカレンの返事を望むものではなかった。考えをまとめる為であり、ただ単に報告の為の言葉なのだろう。それでも目の前に居る以上は無視していられないから、カレンはうん、と頷いてスザクの言葉を促す。スザクが自分と全く同じだとしたら、どれ程の衝撃が襲ったことだろう。見ていたカレンとは違い、スザクは今まさに、ルルーシュの胸に剣を突きたてようとしていたのだから。吸い込む息は、わずかに震えたようだった。
「錯乱しかけて。……軍の、部屋で寝泊まりしてたんだけど」
「うん」
「僕の様子がおかしいことに気がついて、ロイドさんとセシルさんが飛び込んできて。……なにか悪い夢でも見たと思ったんだろうね。そういうことは、時々だけど、前もあったから。セシルさんが暴れる僕を無理矢理抱きしめてくれて、『大丈夫よ落ちついて、今日は学園祭でしょう? ユーフェミア様も、スザク君が楽しんで来るようにって、昨夜言ってくれたでしょう? 大丈夫。もう怖いことはなにもないから』って、言って、くれて」
 軍で、スザクがどんな扱いを受けていたのか。実際カレンが興味を抱くことはなかったが、それでも『名誉』が受ける扱いなど、誰に言われなくとも知っていた。酷い。その一言に尽きるものだと。だからこそまるで母親のように、スザクを抱きしめてくれる存在がそこにあったことに、カレンはなぜか、ほっとして胸が温かくなる。うん、と言葉少なく続きを促したカレンに、スザクはゆるく微苦笑を浮かべた。
「そこで、ようやく正気になった。ユフィが……もう、居る筈ないのに、なにを言ってるんだこの人はって思って。顔をあげて、壁にかかってたカレンダーに気がついた。……すぐ身支度を整えて学園に来て、ルルーシュに会って、僕、思わず言っちゃったよ」
「なんて?」
「ルルーシュ! ゼロレクイエムやめにしよう、って」
 相手の反応は、想像するに容易いものだった。寝ぼけてるのかと馬鹿にした顔つきで額を叩かれ、良いからピザの材料の下ごしらえでもしていろと、調理室に放りこまれたのだろう。スザクはまるで狐に化かされたような気持ちで、延々と玉ねぎを切っていたに違いない。カレンが現れるまでは。はあ、と溜息をつくスザクを、カレンは路傍の汚れた小石を見つめる嫌そうな視線で睨みつける。
「なにそれ。やめにしよう、って」
「……もう一回ルルーシュを刺し殺す決意をするのは、ちょっと無理かなって」
 錯乱状態から回復して、現状を正確に認識するより早く、スザクはそう思ってしまったらしい。うん、と笑顔で大きく頷き、カレンはおっとりとした口調で問いかける。
「スザクくん。刺してもいいかしら」
「嫌だよ。……なんで?」
「私の立場とアンタの立場、ゼロの立場とユーフェミアの立場を入れ替えてちょっと考えてみてくれない?」
 そうすれば説明しなくても分かるわ、と吐き捨てたカレンに、スザクは眉を寄せながら沈黙した。十秒が経過した後、スザクはなんだか死ねそうな顔つきで弱々しく頷く。
「……分かった。なんか、理由があるとかないとか関係ないね……」
「でしょう?」
「うん。でも、今はやめてよ、カレン。……ユフィは生きてる。ルルーシュも。そして僕たちは、どうしてか、これから辿る結末を全部知ってる」
 恨みはあるよ、とスザクは言った。決して許せないと、今でもそう思っているよ、と。カレンは静かに頷いて、その感情がそこにあることを受け入れた。恨んでないよ、許しているよ、と。簡単に言えることではなかったからだ。たとえ、スザクとルルーシュがどんな関係であっても。スザクは一度、主君を目の前で奪われている。そしてカレンはスザクに、敬愛する主君を奪われかけた。だからこそ二人はお互いに、燃えるような意思で尋ねられる。どうする、と。視線は交わされ、二人は同時に笑みを刻んだ。
「ユフィを死なせない。ゼロにも撃たせない」
「ゼロに撃たせない。ルルーシュを決して悲しませたりしない。……あの時、撃った理由、もう聞いた?」
「うん。ギアスの暴走だって。……カレンは」
 いつそれを、知ったのか。問いかけて、意味のないことだと気がついて中途半端に途切れた言葉に、カレンは苦笑しながら口を開く。
「どうしようもないことだったって、一度だけ」
「そっか」
「……うん。私は、アンタがゼロの仮面を割る瞬間まで、ルルーシュがゼロだって思ってなかったから。だから……だから今、ルルーシュは、私がルルーシュがゼロだって知ってることを知らない訳か」
 なにそれすごくめんどくさい、と目を半眼にして呟いたカレンに、スザクは深く頷いた。確かにそれはすごく面倒くさい。単なる同情ではなく親身に思ってしまうのは、スザクも似たような立場だからだ。スザクの主、ユーフェミアは、ゼロがルルーシュだと知っているのだろう。思い返せば数々の言動からそれは明らかで、そして現時点で、スザクの主君は己の騎士が二人をイコールで繋いでいることなど、知りもしない筈なのである。二人は、視線を重ね合わせた。
「ど……どうする?」
「どうするって、どうするのよ……。説明……?」
「うん。説明するにしてもさ、カレン。あの二人を納得させるような言葉で、全部説明できる自信、ある……?」
 僕にはない、ときっぱり告げられた言葉にぬるい笑みを浮かべながら、カレンも不本意な同意に頷きを返した。片や奇跡のカリスマ性を持つゼロであり、片や温室育ちとからかわれようと、あの国でこれまで行き抜いて来た皇族の姫君なのである。基礎教育、教養の高さ、知識の量、話術において二人は遥かな高みにおり、スザクとカレンが手を組んだとしても説明して納得してもらえる気がしなかった。未来の記憶を持ってるんです。間違いない。熱を計ってから寝かせられる。
 それを告げるのであれば恐らく、劇的なタイミングが必要になってくるだろう。イレギュラーにとことん弱いルルーシュの想定外であり、ユーフェミアが唖然と立ち尽くしてしまうような状況。思考が鈍くしか動かせない状況でしか、スザクもカレンも、己の主に説明し、納得してもらう自信がなかった。情けないとは思いつつ、戦力差を正確に知ることも戦う上では必要なのである。それにしても、どうしたものか。
 悩みつつ、カレンはふと気がついて顔をあげる。
「スザク、このままだとユーフェミアが学園に来るんじゃない……?」
 前回同様、お忍びで。そして流れで行政特区日本の発表をしてしまう筈だ。不安げなカレンに、スザクは眉を寄せる。
「一応……さっき、気がついて。マズいよなぁ、と思って、ユフィの携帯鳴らしてみたんだけど……」
 口ごもる様子を見れば、結果など明らかである。はぁ、と溜息をついたカレンに、スザクはメールは打ったよ、と言い添えた。返事は無いのだが。それがどれほどの効力を持つか分からないまでも、カレンはスザクの努力に敬意を表する形で、力なく頷いてやった。微妙な沈黙が漂う空気を、ノックの音は震わせた。
「スザク? なんで鍵かけてるんだ……進んでるんだろうな、下ごしらえ」
「……カレン」
「ええ」
 鍵を開けてあげて、という意味を含んだ呼びかけに頷き、カレンは施錠を解いてやった。中の声がかすかに聞こえていたのだろう。ひどく困惑したようすで、ルルーシュは扉付近に立つカレンを見つめ、部屋の奥に居るスザクに視線を移した。視線はそのまままな板の上に置かれた包丁に移り、実にさりげない様子でカレンの手元を彷徨って『それ』を探す。前回はそういえば刺そうとした気がするので、ルルーシュの危惧はもっともな所だった。
 なにも持っていません、とばかり両手を肩の高さまであげるカレンに、ルルーシュの困惑が強くなる。息を吸い込んだ唇が言葉を発する前に、スザクは手伝ってくれてたんだよね、と言った。きょと、とルルーシュが目を見開き、無言で首を傾げる。あ、想定外なんだ、と二人は同時に思った。
「……手伝い? カレンが?」
 ルルーシュ君、さんが抜けてるけど、と言いかけてカレンはくるりと視線を巡らせる。まあ、別にそう呼んでくれても構わないのだ。元々、さん付けは嫌味のようなものなのだし。気がつかないでずっと、そのまま呼ぶようになってくれないかな、と思いながらカレンは一瞬だけスザクと視線を合わせ、ちいさく頷いてから息を吸う。
「そうなの。スザク君が、一人だと大変そうだと思ったから……ね?」
「うん。カレンさんが一緒だと、すごく助かるよ。ありがとう」
 スザクもさすがにラウンズとして宮中に身を置いていただけあり、誤魔化す為の笑顔は完璧だった。カレンもしとやかに微笑み返すことで口裏を合わせ、思考停止から復帰できていないルルーシュをちらり、と見やる。
「それで? ルルーシュ君は、どうしてここに?」
「……スザクがどうしてるかと思ってな。あとカレン、君に頼みたいことが」
「ごめんなさい。体調があまり良くないの」
 あるんだが、まで言わせずに告げたカレンに、ルルーシュはやや沈黙した。嘘だろう、と視線が問いかけてくるが、カレンは特に気にしない。あのお化け役をもう一度やるくらいなら、主君に嘘をつく罪悪感に耐える方がまだマシだったからである。沈黙を交わす二人に、スザクがそっと声をかける。
「……実は、僕もあんまり体調、よくないんだ」
「は? スザク、お前なにを言って」
「あら、そうなの? ……どこか別の場所で休んだ方がいいかしら」
 もしユーフェミアが来てしまった場合、ピザ作りが失敗することを二人は知っている。大量の下ごしらえの処理に、その後、生徒会役員が右往左往したのも記憶に残っているのだ。別の場所で相談した方が有意義じゃないかな、と告げるスザクにカレンは乗り、今ひとつ状況が理解できていないルルーシュに微笑みかける。
「そういうことだから、ルルーシュ君。私に頼みたい用事? それは、誰か別の人に頼んでくれないかしら」
「……もしかしたらユフィが来るかも知れないし、すこしでも体を休めておきたいんだよね。ごめんね、ルルーシュ。下ごしらえ、誰か別の人にやってもらっていいかな」
 スザクとカレンに挟まれるようにぽんと肩を叩かれ、ルルーシュはぎこちなく頷いた。置き去りに何処へと去って行こうとする二人をハッとして振り返り、ルルーシュは声を張り上げてスザクを呼ぶ。
「待てスザク! ユ……ユーフェミア皇女が来るって」
「かもしれない、だよ。ルルーシュ。もし騒ぎになるようなら、すぐ僕を呼んで? 発見次第、でも良いけど」
「あ、そうだ。ルルーシュ君」
 頭の中で策を練っているであろうルルーシュは、カレンの呼びかけに視線を向けるだけで言葉を促した。その態度はゼロなら許容するが、同じ生徒会の仲間に向けるものであるのなら怒られてしかるべきものだ。混乱してるんだろうなぁ、と思いながら息を吐き、カレンはさりげなく爆弾を投下した。
「ピザ作りなら、C.C.を変装させるなり周りを誤魔化すなりして呼べば、手伝うくらいしてくれるんじゃないですか?」
「……は?」
 カレン、それはどうかと思う、というスザクの視線に笑いかけ、カレンはさっと身を翻して歩いて行く。それは体調が良くない人間の歩き方ではなかったのだが、スザクも苦笑するだけで足取り軽く後を追いかけ、立ち去って行く。必死に、考えているのだろう。ルルーシュは後を追って来なかった。二人は一つ角を曲がった所で、人影が無いのを良いことに全力で走りだし、使われていない教室に逃げ込んでしまう。慌てて追いかけた所で、ルルーシュには背中すら見えなかっただろう。
 息を乱すこともなく、けれど脱力して。ちらりと視線を寄こしてきたスザクに、カレンはふふ、と肩を揺らして笑った。
「布石くらいはあった方がいいかな、と思って」
「そうだけど。……あ」
「え?」
 空き教室の窓越し、学園前広場を見下ろしたスザクが、声をあげて一点を凝視する。その視線を追い掛けても、カレンにはなにが意識を引きつけたのか、見つけ出すことはできなかった。それでも、分かってしまったので嫌そうにスザクを見やる。
「……居た? どのへんに居る?」
「え、カレン、なんで見えないの? あそこだよ。あの、青いテントの端の方。右から左に歩いてる。……ああ、ユフィ可愛いなぁ」
 なんだろうあれ。ちょっと理解できないくらい可愛い、と涙ぐむスザクの言葉を聞かなかったことにして、カレンはスザクが告げた『青いテントの端の方』を睨むように見つめた。しかし、カレンの視力では人の判別どころか、そのテントを見つけ出すのも一苦労である。この学園はすさまじく広い。しばらく探して諦めて、カレンはひっくひっくと声もなくしゃくりあげているスザクを無言で見つめた。
 愛しいと。視線の先に主を認めて、スザクは泣いていた。ああ、なんてこと。深く息を吐き出して、カレンは己の額に指先を押し当てる。絆されてしまいそうだ。カレンはポケットからハンカチを取り出してスザクの顔に押し当て、拭ったら返して、とばかり手を差し出しながら言い放つ。
「泣きやんだら、会いに行きなさいよ」
「……でも」
「どうせ、特区日本は発表される。ここで私たちがあがいても、それは変更できないわ。……私は、ゼロに撃たせない。その為に、ユーフェミアにギアスをかけさせない。私たちが止めるのはそこよ、スザク。打ち合わせは……今日の夜でも、間に合うわ。きっと」
 だから、今じゃなくても多分なんとかなる。告げられた言葉に幼い仕草で頷いて、スザクは涙を拭って顔をあげた。洗って返すよ、と渋るスザクから女心を理解しなさいとハンカチを取りあげて背中を蹴り飛ばし、カレンは走って行く背を見送ってやる。女物のハンカチを手に、泣いた後の顔を見せられるだなんて、誤解してくださいと言うようなものだ。ざわめきを増す喧騒に耳を澄ませながら、カレンは適当に椅子を引き寄せ、腰を下ろす。窓から差し込む、日差しが強い。
 泣きたい気持ちでそっと、カレンは目を細めた。

 INDEX / NEXT