行政特区日本の発表が成されてから数日が経過した。学園祭で盛りあがった生徒の気分もゆるやかに落ちつき、得体の知れない不安とざわめきが学び舎にも忍び込んでいた。さすがに大きなイベントの後だから、ミレイも中々動けないのだろう。生徒たちの不安を知りつつも上手く払拭してやることが出来ず、歯痒そうに机に肘をついていた。スザクは学園祭が終わってから、学校へは来ていない。特区設立の前準備で忙しいからだろう、と誰もが思っていた。何故なら彼は、騎士なのだから。
ユーフェミア皇女の騎士として、スザクに割り当てられた負担もまた、大きい。このまま学園に来なくなるのではないか、との声も聞こえる中、カレンだけがスザクの様子を知っていた。スザクを除く全員が集まっているというのにしんと静まり返った生徒会の片隅、置き去りにされていたカレンの携帯電話がチカチカとランプを点灯させる。マナーモードにしてバイブも切って置いたので、カレンはそれに気がつけなかった。
持ち主の代わりにいち早く着信に気がついたのは、さすがと言おうか当然とするべきなのか、少女の携帯のすぐ近くに座っていたルルーシュだ。ルルーシュは無防備に机に置かれた個人情報の塊に頭が痛そうな視線を向けると、呆れた顔を憂い顔の病弱少女へ向けて、静かな声を響かせる。
「カレン。携帯」
「え? ……あ、うん。どうもありがとう、ルルーシュ君」
悩みがあると言うよりは、学園祭の売り上げ計算が面倒臭いだけなのだろう。ノートパソコンの画面から目を離して立ち上がったカレンは、ゆったりとした動きでルルーシュの傍まで歩み寄り、白いランプをチカチカと点灯させている携帯電話を持ち上げる。着信の色を指定してあるのだろう。開ける前から差し出し主が分かっているような顔をして携帯を操作し、カレンは冷静な面持ちでメールの文面に視線を走らせる。
その横顔を、ルルーシュはじっと見ていた。数日前、少女にかけられた声が蘇る。『C.C.』と、確かにカレンは緑髪の魔女の名を告げた。それは取り立ておかしいことではない。紅月カレンは黒の騎士団であるのだし、C.C.と面識がある。問題なのはたった一点。それをカレンがゼロではなく、ルルーシュに対して告げたことだった。当たり前の顔をして。当然、番号くらい知っているのだろうという風に。
なんの疑いもなく、なにがおかしいとする風でもなく。少女はまるでゼロに対するような言葉遣いで、常にあるような緊張感を拭い去った上でルルーシュにそれを告げたのだ。当日こそ特区日本の驚きでそれを忘れていたルルーシュは、次の日の朝一番にC.C.を問いただした。正体をカレンに告げたのか、と。C.C.は訝しみ、怪しむ表情でそれを切り捨てた。言う筈がないだろうが、と。
それ以来、ルルーシュは慎重にカレンを観察している。果たしてあれがかまかけだったのか、それとも確固たる疑いの元に放たれた一手なのか見極めようとして。黒の騎士団において、少女の態度は変わらない。ゼロの傍にあれることが嬉しい、ゼロと共に居られることが嬉しい、ゼロの役に立てることがとっても嬉しくて幸せ。とろけるような幸せを感じさせる笑みでもって、少女は常と変らなかった。
変わったことがあるとしたら、白色ランプの主とやり取りが増えたことだろう。唐突に、そして急激に。今こそ机に置き去りにされていたものの、特区日本が発表されたその日から、カレンが携帯電話を傍に置かない時がなかった。白色のランプは常にチカチカと点灯し、カレンはすぐに返事を打ち返す。時に電話で話すこともあるらしく、騎士団においても学園においても、聞こえぬ程の距離を置いて、ひそひそと会話を交わすカレンの姿が目撃されていた。
普通の会話であれば、ルルーシュは唇を呼んで言葉を見ることが出来る。それが叶わないのは、カレンは通話する時に常に口元に手を添えていて、動きを見ることが出来ないからだった。盗聴を警戒した仕草に他ならない。まさか、と最悪の事態を想定し、ルルーシュのまなじりが険しく吊りあがる。万に一つ、ありえない事態だが、もしや裏切っているのではないかと。そんなほの暗い、悪夢のような想像を察知したかのごとく、メールの送信を終えたカレンの視線がルルーシュに向けられた。
思わず不機嫌になんだ、と問うルルーシュをまじまじと見つめ、カレンは嘆かわしいと言わんばかりに首を振る。それはシュタットフェルトの令嬢の仕草ではなく、黒の騎士団紅月カレンの。ゼロの親衛隊長としての彼女がすれば、よく似あうような動きだった。
「あっちもこっちも……あのね、ルルーシュ君?」
「……なんだ」
「もう、貴方たち本当になにも分かってくれないんだから。言ってないから当たり前だと思うけど、親の心子知らずっていうか、従者の心主君知らずにも程があるわ……こんなことでスザクと分かり合っちゃうなんて……」
全く、なんでこんなことしてると思ってるのよ。響かない声で一息に告げたカレンはふたたび嘆かわしいと首を振り、携帯電話を手にしたまま、作業をしていたスペースへと戻ってしまった。そしてまたキーボードに指先を触れさせ、学園祭の諸経費を打ちこむ作業へと戻って行く。茫然と一連の動きを眺めながら、ルルーシュは耳にした言葉の意味を認識するので精一杯だった。言ってないだとか、従者とか主君とか、気になる言葉はたくさんあった。しかし一番のポイントはスザクである。
スザク。まさかメールと電話の相手はスザクなのか。スザクなのかもしかして。そういえば学園祭当日からやけに親しげであったし、二人は同じ『日本人』だ。特区のこともある。それは色々相談をしたりするかも知れないが、二人はいくら同じ生徒会役員といえど、ゼロの親衛隊長と皇女殿下の騎士なのだ。神根島にて互いの正体も知ったであろうに、どうして連絡を取り合えるのだろう。それは互いに互いの陣営に対しての背信行為と受け取られても仕方のないことであるのに。
さっぱり意味が分からないと首を傾げるルルーシュは、カレンとスザクのことで悩み過ぎて、考えなければ行けない特区への対策に思考が向かなかった。一次的にそれを忘れてしまっている、とも言える。なにせ相手は幼少期から大事にしてきたスザクと、駒として動かしている相手であっても欠くことなど考えたこともないカレンなのである。考えすぎた十七歳はオーバーヒートを起こしかけ、ふらりふらりと立ちあがり、生徒会の片隅で点字の本を黙々と読んでいたナナリーへと近寄って行く。
無言で妹の膝に倒れ伏すルルーシュは、ここが自室でないことも忘れるほど、疲弊してしまっているのだろう。ナナリーはあらあらと穏やかな笑みで本を退かし、倒れ込んできた兄の頭を嬉しそうに撫でている。本当にルルーシュは呆れるくらいナナリーが大好きで、ナナリーは驚くくらいルルーシュのことを愛しく思っているのだった。まあ癒しになるのなら良いけれど、と溜息をつきながら携帯電話を持ち上げ、カレンはペカペカと点灯する白いランプに眉を寄せた。着信はスザク。電話だった。
カレンはざっと生徒会メンバーに視線を走らせ、ルルーシュとナナリーに意識が向いていることを確認する。ナナリーは兄を愛でているし、ルルーシュは、あの分であれば大丈夫だろう。口元に手を持って行きながら、カレンはそっと電話に出た。
「はい?」
『……ごめんね。夜、電話出来そうにないから。今って大丈夫?』
「生徒会室だけど、大丈夫。ちょっと待ってね。……どうしたの?」
念には念を入れた方が良いだろう。カレンは音を立てずに椅子から立ち上がり、気配をなるべく殺したまま、部屋の隅へと歩んでいく。常ならば逆にルルーシュは気がついただろうし、スザクも軍人の訓練された感覚でもってカレンに気がついただろうが、片方はしょげかえり、もう片方が電話の相手だ。なんなくメンバーから距離を取り、カレンは逆に問いかけた。あんまりにも落ち込んだ声だったからである。スザクはうん、と口ごもり、電話口で深々と溜息をついた。
『ユフィが……皇女殿下の機嫌が、良くなくて。夜、一緒にお茶するってことでなんとか機嫌を回復させてもらったから、さ』
「……浮気を疑われてる、と」
冗談じゃないわ、と半眼で呟くカレンに、スザクは僕の台詞だよ、と言い返す。だからあまり長時間の電話もできないと言い添えた上で、本題に入りたいだろうに、スザクは心配そうに問いかけてくる。案外優しい声だった。
『カレンは……? 平気?』
「……疑われてるけど、アンタのとは種類が違う」
ユーフェミアとスザクは想う仲であるが、今の所、ルルーシュとカレンはそうではない。忠誠とは別の甘い想いが無いとは言わないが、カレンはそれを口に出して告げたことがなかったし、ルルーシュがどう思っているのかは知らないのだ。第一、シャーリーがルルーシュに恋をしている。それを知っている以上、上手く動けないでいる、というのも本当で。もどかしいような気持ちで唇に力を込めるカレンに、うん、と柔らかな相槌の声が耳元で響く。カレン、と優しくスザクが呼んだ。
『ごめんね』
「……アンタが謝ることじゃない」
『うん、でも。ごめん』
スザクはずるい、とカレンはしみじみ思う。そんな風に甘く響く優しい声で、申し訳ないと思っているのがすぐに分かる声で、謝られて絆されない女性はそうはいないだろう。どうしようもなくこびり付いたわだかまりが、数日をかけてゆっくり崩されて行く。嫌いなんだけどなあ、と思いながらもういいよ、と遮り、カレンはちらりとルルーシュを見た。彗星のごとく現れたカリスマは、まだ妹の膝でぐったりとしている。
「いいわよ。それで?」
『うん。式典当日のこと。カレン、なんとか来られない?』
二人が密に連絡を取り合っているのは、まさしく悲劇を繰り返させない為である。その為にはどうしてもスザクのみならず、カレンもあの場に居る必要がある、というのがここ数日の結論だった。カレンは昨夜発表された作戦内容を思い返しながら、難しげにきゅぅ、と眉を寄せる。記憶している通りの配置だった。
「頼んでみたけど……変更なし」
『……カレン』
「ちょっと、情けない声出さないでよ!」
僕を見捨てないで、と言わんばかりにしょんぼりした声で名を呼ばれ、カレンは思わず声を荒げてしまう。するとさすがに、誰もがカレンに目を向けた。やってしまったと思いながらふるふると首を振り、なんでもないことを伝えてカレンは口元を覆うように手をあげた。ルルーシュの視線がちくちくと突きささる。あーあ、と笑うスザクに苛立ちを覚えながら、カレンは視線を足元に落とす。
「私だけでいいなら……抜け出せると、思う」
紅蓮を置いて、身一つだけで良いのなら。そう告げるカレンに、スザクは分かった、と明るく言った。
『式典会場の一般入り口から普通に入って? 演説用の舞台袖に関係者のみの出入り口があるから、そこまで来てくれれば僕が迎えに行くよ』
変装はしなくていいけど、なるべく普段とは違った格好で来てね。捕まらないように。楽しんでいるような声音で暗にカレンが指名手配されていることを告げるスザクに、少女はげっそりとした態度で息を吐く。
「どんな格好ならいいの? 動きやすい方がありがたいんだけど」
『警戒されないように、セミフォーマルくらいかな』
間違いない。スザクは絶対に楽しんでいる。くすくすと電話口で笑った声が、着替えは用意しておくからさ、と告げなければ、カレンは間違いなく騎士団服で潜入しただろう。紅蓮から抜け出す時に、式典用のドレス一式を持っていなければいけないなんて、なんという茶番だ。覚えてなさいよと眉を吊り上げ、カレンは妥協してやった。
「当然、礼服で迎えに来てくれるのよね?」
『え。……もっと動きやすい服にしようと思ってたんだけど』
「セミフォーマルのエスコートで、違和感ない服で来てくれるのよね?」
開かれているとはいえ、式典会場だ。ドレスアップした少女の手を取るのだから、すこしばかり良い身なりをした少年では逆に目立ってしまう。それなりの格好をして待っていなさい、というのは半ば嫌がらせの仕返しで、半分は正論だった。あまり時間もないのだろう。諦めた様子で分かったと呟くスザクに、カレンは機嫌よく笑みを浮かべる。
「じゃあ、また明日ね。……夜は無理なんでしょう?」
『うん。ユフィの傍にいるから、メールもちょっと』
「分かった。頑張って」
もうすこしでエックスデイだから、気を抜かないで行かなければ。笑うカレンに君もと激励を返し、スザクは電話を切ってしまった。ふうと息を吐いて通話を終了し、カレンは顔をあげて思わず仰け反った。生徒会メンバー全員の視線が集中していたからだ。それも、好奇心に目を輝かせて。ナナリーの双眸は閉ざされたままだったが、それでもキラキラと輝くような表情で、顔をカレンに向けている。カレンは血の気の引く思いで、口元を手で隠していたことを確認した。
声も、一度荒げてしまった以外は小声であった筈だ。会話内容は漏れて居ない、と思いたい。ちくちく、ちくちく突き刺さってくる視線の主はもちろんルルーシュで、その表情は不満げであり、怒っているようにも見えた。ぼろを出してしまいかねないからなるべくルルーシュを視界に収めないようにして、カレンはえっと、と口を開く。
「あの……なにか……?」
「カレン、お見合い……するの?」
「は?」
問いかけて来たのは、シャーリーだった。少女の表情は恋に恋する乙女のようで、うっとりと頬を染めながらカレンを見ている。反射的に強く問い返してしまい、カレンは慌てて、訂正の為に顔の前で両手を振った。
「ち、違うわよ。お見合いなんてしない……けど、いきなり、なに?」
「だって。今の電話、そういう相手じゃないの……?」
「ここ最近、ずっとメール気にしてたり、電話してたりだもんな。カレン親衛隊が泣く日も近いってことかぁ……」
シャーリーの問いに続くリヴァルの言葉に、カレンは思わず眩暈を感じて額に手を押し当てる。スザクもこんな状況に追い込まれたに違いなかった。うん、これは女の子として不機嫌になるのはしょうがないと皇女殿下に同情すら感じながら、カレンはゆるく、首を振った。病弱演技ではなく、なんだか疲れ切ってしまった。
「違うのよ……スザクとはそんなんじゃなくて」
「スザクっ?」
「……あ」
しまった、とカレンは口元を手で押さえるが、言ってしまったことは消えて無くならない。叫び声をあげて立ちあがったルルーシュが、カレンを見つめる。ショックなのか僅かに震えた体を見て、カレンはものすごく申し訳なくなった。裏切りだと、思われてしまっただろうか。それだけは訂正しておきたくて、口を開く。
「あの」
「……許さない」
低く。低く響く、艶やかな声だった。それは漆黒の滑らかな光沢を思わせ、カレンの背をぞわりと震わせる。歓喜と、恐怖だった。ルルーシュは無表情に近い顔つきでゆっくりと歩を進め、カレンの元へとやってくる。その身のこなしはルルーシュの、学園の副生徒会長のものではなく。カレンが敬愛するゼロの、他者を圧倒して支配してしまおうとする者のそれ。カレンは動けず、壁に背を預けて立ちつくした。
囲い込むように、ルルーシュはカレンの顔のすぐ横に手をつく。暗闇に、閉じ込められたようだった。息苦しさに喉を仰け反らせれば、自然と、覗き込んでくる瞳と視線が重なった。ぞく、と背が震える。
「……ルルーシュ君」
名を呼んだのは落ちついて欲しいからであり、そして現在の立場を思い出して欲しいからだった。ここは生徒会室であり、彼はルルーシュであり、カレンはシュタットフェルトなのだ。黒の騎士団でなければ、ゼロでもなく、親衛隊の少女でもない。なにが逆鱗に触れたのかは分からないが、今のルルーシュの様子は怒りに染まるゼロであり、もしくは皇族のそれに近いものがある。ミレイが不安そうな顔つきで、ルルーシュの背を見つめている。
「……許さないからな、カレン」
「る……ルルーシュ君、落ちついて」
「落ちついてる。スザクは駄目だ、カレン。スザクにはユフィが居るし、なにより君は……君は、ゼロの」
ゼロのものだ、と。そう言ってしまってもいいのに、『ルルーシュ』には告げられないのだろう。残念にすら思いながら目を細めて笑い、カレンはうん、と頷いて腕を持ち上げると、指先をルルーシュの頬に触れさせた。紫の瞳が、困惑気味にカレンを見下ろす。ああ、きっとこんな風に桃色の少女も不機嫌になって戸惑いすらしたのだろう、と思いながらカレンは笑った。不思議なくらい穏やかで、面白い気持ちで微笑んだ。
彼らは血が繋がっているのだ。
「そんなんじゃないのよ、本当に」
「……だが」
不審げに、不満げに言い淀むルルーシュの手を取って、カレンは己の首へと導いた。急所のひとつにして全く無防備なそこに、ルルーシュの指先を触れさせる。びくりと震える指先は、不自然に硬くなっていた。操縦ダコだ。カレンの手にもあるその硬さを弱い皮膚ごしに確かに感じて、カレンはあわく微笑んだ。
「大丈夫」
「……カレン」
「信じて……?」
疑うのは仕方のないことだと思うけれど、それはきっと、一番悲しい。ゆるく目を細めて微笑みながら、カレンは無防備に命を預けた信頼を示す。この指が己を害することなどないと、それほどに信じているのだと、首に触れさせた指に伝えて。だからこそ信じて欲しいのだ、と。ルルーシュの指は強張ったまま、カレンの首に触れている。カレンはもう一度息を吸い、言葉には出さず、唇だけでその名を綴った。
私は貴方を裏切りません。お疑いなら、どうぞ私を罰してください。命を預けた貴方にだけ、私はそれを、甘んじて受けましょう。
『ゼロ』
「っ!」
びくん、とルルーシュの指先が跳ねる。驚愕に見開かれた瞳はカレンを見つめていて、反射的に引き抜かれかけた手を、少女はぐっと力を込めて首に留めた。劇的な混乱に、ゆらゆらと、ルルーシュの視線が揺れている。大丈夫、大丈夫と言い聞かせあやすように、カレンは指でルルーシュの手の甲を撫でた。ゆっくりと、力が抜かれて行く。やがてルルーシュの手のひらはごく自然な動きで持ちあがり、カレンの頬をひと撫でしてから離れて行った。
言葉はなかった。その日、黒の騎士団でゼロに呼び出されたカレンは、二人きりの部屋の中、仮面を外された素顔と出会う。忠誠を誓って膝を折るカレンに、ゼロの装束をまとったルルーシュは苦笑してしゃがみ込み、視線の高さを合わせて問いかける。どうして分かったんだ、と。カレンはくすぐったげに笑って、ないしょです、と言った。もうすこししたら教えてあげますね、と笑うカレンに、ルルーシュは手を伸ばして。
強く抱きしめて、俺のものだ、と囁きを落とす。はいと頷き、その背に腕を回して。指先から確かに伝わる体温に、カレンはぼろりと涙を流した。この人は生きている。死なせはしないと決意して、カレンは顔を伏せ、ルルーシュから泣き顔を隠した。涙の理由を問わず、泣きやむまで抱きしめてくれた主君を。心からいとしいと、思った。
紅蓮から飛び降りるのは簡単だった。問題はそこからである。カレンは人目を避けて式典会場まで行かなければいけなかったし、途中で着替える必要があったからだ。幸い、作戦行動の真っただ中で全体が緊張に包まれていたからこそ、そっと出て行くカレンを咎める者はなかった。あえて隠れず、視線が合えば微かに微笑んでやったおかげで、ゼロが親衛隊長に追加でなにか申しつけたと思われたらしかった。
コックピットに残した書き置きが見つかるとしたら、ゼロが告げた合図があってもカレンが戻らず、紅蓮が動きを見せないその時だろう。街中までは隊員に送ってもらった。なにも知らず、早く戻って来てくださいね、と微笑む青年に、カレンは罪悪感を覚えながら人混みへと消えて行く。街はどこもかしこもふわふわと浮足立っていて、それでいて静まり返っていた。それは嵐の前兆のようでもあり、盛大な祝いを前にしているようでもあった。普段着で日常を営む者と、着飾って式典を見に行こうとする者でざわめきが入り乱れている。
カレンは悩んだ後、ショッピングモールのトイレで着替えを済ませた。清潔でそれなりの広さがあり、明るい為に着替えがしやすく、また、目立ちにくかったからだ。柔らかなピンクとオレンジの中間、絶妙な色合いで染められた生地は、少女を『かなりの地位にある深窓の令嬢』に見せてくれる。袖口や胸元、襟や裾にあしらわれたレースはそれだけで値がつくであろう繊細さで、カレンは微笑んで会釈するだけで通してくれた警備を呆れ交じりに振り返りつつ、服の値段を考えてみた。
もちろん、これはゼロが用意してくれたものではない。カレンのものでもない。スザクが昨日の深夜にこっそりと、シュタットフェルトの家に、人を使って送ってきたものだった。差し出し人の名こそなかったが、添えられているカードですぐ分かった。どこぞの高貴な方がカレンを見染めたに違いないと騒ぐ家人が、そのカードを見咎めなくて本当によかったと思う。シンプルな、どこにでもありそうな紙片に書かれていたのは、ただ一言。
『エスコートするのにドレスを送らないのは失礼だと思って』
どこの世界で、なんの常識に照らしあわせて失礼だと思ったのかとくと語らせたいものだが、きっとその時間はないだろう。カレンはドレスに似合うゆったりとした足取りでステージへと歩み寄り、舞台袖に控えていた警備兵に微笑みかける。笑みを返してくる警備兵に歩み寄り、カレンは指先を伸ばし、制服の端を摘んでくいと引っ張った。
「あの……お聞きしたいことが」
「は、はい! 私でよろしければ!」
びし、と背を伸ばして返事をした青年は、カレンより五歳くらい年上に見えた。警備兵の中でも、特に若い。以前ならばブリタニアの者であるというだけで嫌悪感しかわかなかったであろう青年をなぜか申し訳ない気持ちで眺めて、カレンはゆっくりと、『おだやかな令嬢』に見えるように心がけ、首を傾げて見せた。
「ここで、待ち合わせをしているの。なにか、聞いていないかしら」
大体、計画ではすでにスザクがここに居て、兵は遠ざけてある筈だったのだ。なにか変更があったのかも知れないと思いつつ尋ねると、青年は驚いたように数度、まばたきをした。
「こちらで……ですか? 大変申し訳ありませんが、私はなにも……」
心底申し訳ないと思っている口調で告げる青年を見て、カレンはふと気がついた。きっとこの青年は、前にここで死んだに違いない。あの虐殺の九割以上は日本人が殺されたが、騒ぎと暴力に巻き込まれ、会場警備についていたブリタニア兵も犠牲になったと聞く。青ざめた表情でうつむくカレンに、青年は戸惑いながらも慰めの言葉をかけてくる。それになにか言おうと口を開きかけた瞬間、青年が守る幕の奥、建物に続く扉が音を立てて開かれた。
「カレン! ごめん、遅くなった!」
「スザク……」
息を吐きだしたのは安堵より呆れの方が強かった。もうすこし静かに来て欲しかった、というのは本当の所だ。慌ただしく現れた『皇女の騎士』に、警備兵のみならず、近くに居た式典の参加者がざわりと声をあげる。目立たないようにするんじゃなかったの、と言いたげに細められた視線に、スザクは人懐っこい笑みで首を傾げた。ごめんね、という仕草だ。あとで殴ろう。それが良い。駆け寄ってくるスザクに、カレンは本気でそう思った。
お待たせしました、とカレンに手を差し出すスザクは、騎士服だった。白を基調とした高貴なデザインで、手には白手袋もはめられている。見覚えのあるそれはラウンズのものではなく、皇帝騎士のものでもなく、ユーフェミアの騎士の為に用意されたものだった。差し出されたてのひらにそっと指先を預けながら、カレンはやけに嬉しそうなスザクを見上げる。
「トラブル?」
「うん。式典の開始時間が早まった。……急ごう?」
「分かったわ。……なに、その嬉しそうな顔」
ゆっくり手を引いて関係者専用の扉へ誘うスザクに、どうしても我慢できなくてカレンは呟く。にこにこと笑う表情からは時間が差し迫った危機感など、全く感じられなかったからだ。咎めようとする警備兵を唇に指を押し当てる仕草で黙らせて、スザクはカレンの背を押し、扉の中へ体を滑り込ませる。背後で扉が閉まる音に振り返れば、スザクは笑みを深めてカレンに言う。
「そのドレス、ユフィに選んでもらったんだ。着てくれてありがとう」
「……アンタが浮気を疑われた理由がよく分かった」
「誤解は解いて来たよ、安心して。……似合ってるよ、カレン。可愛い」
まるで慣れた口調で褒められても、カレンには嬉しくもなんともない。馬鹿じゃないのとばかりスザクを睨みつけ、カレンは着替えは、と問いかけた。スザクの顔つきが、困ったそれになる。凄まじく嫌な予感に顔を引きつらせるカレンの耳に、扉越し、わぁっと歓声が響く。口々に叫ばれる、ユーフェミアの名前。式典が始まったのだ。すぐ、ゼロも登場することだろう。分かってくれたかな、と首を傾げ、スザクは告げる。だから着替えてると間に合わないと思うんだ、と。
同意するしかないカレンの耳に、ゼロの声が響く。会話の内容は聞き取れないが、二人は別室で話をすることで合意したことを、スザクもカレンも知っていた。ユーフェミアが使う扉は、ここからすこし距離があるという。行こうと促すスザクに手を引かれて、カレンは靴を脱いで走り出した。華奢な靴は激しい運動に適さないので、置き去りにするしかない。数歩行った所ですぐスザクはそれに気がつき、ストッキングに覆われたカレンの足を見下ろした。
「……あ、シンデレラみたい」
「うるさ、きゃぁ!」
「ユフィよりは重いかな……。でも女の子だね、カレン」
柔らかくて軽い、と笑うスザクの顔が、やたらと近い。混乱からすぐ抜け出して暴れようとするカレンを舌噛むと痛いよの一言で沈黙させ、スザクは軽やかに廊下を疾走する。しばらく行くと、人払いをした部屋へ今まさに入ろうとするユーフェミアと、ゼロの姿が見えた。部屋の扉が閉じられる寸前、スザクは己の主君の名を呼ぶ。
「ユフィ、待って!」
「え? ……えっ?」
「よかった、追いついて」
息をすこしも切らさずにユーフェミアの前まで辿りつき、スザクはカレンをお姫さまだっこしたままで、僕たちも中に入っていい、と首を傾げる。ほぼ反射で返事してしまったユーフェミアの隣で、ゼロがなぜかよろけていた。さもありなん。深々と息を吐きながら、カレンはスザクの腕の中、青年がしっかりと施錠する様を眺めていた。
「スザク」
「うん? ちょっと待ってね」
「……だから浮気って思われるのよ」
心の底から息を吐くカレンに、そうかなぁ、とスザクは不思議そうに呟いて。カレンの足が床につかないよう、椅子にそっと下ろしながらユーフェミアとゼロを振り返る。スザクにしてみれば残念なことに、カレンにしてもれば当たり前のように、ユーフェミアとゼロも同意見のようだった。あれ、と困惑した呟きをもらすスザクにアンタもう黙れと言い放ち、カレンは椅子に座ったまま背を伸ばし、二人の皇族に向き合った。