加害者は常にNEXTだ。差別、偏見、思いこみ、嫌悪。それらの感情は常にNEXTの精神を追い込み、神経をすり減らして行く。彼らを守る為にもヒーローアカデミーは存在しているが、入学することでNEXTだということを周囲に知られたくないと、拒絶する者も多いのだ。そしてそういう者たちは、華々しく能力を開花させ、人々に賞賛されるヒーローを羨みながら憎んでいる。どうして自分はああなれなかったという深い絶望と怒りを、傷つけることで晴らそうとしているのだ。
どうして分からないのだろう。それとも、分かっていて止められないでいるのだろうか。それは彼らを迫害した者たちと同じ行為なのに。暴力による感情の発露。負の連鎖は災厄の形で停止する。
「事件を解決する為にボクたちが居るのに、ボクたちが居るせいで起こる事件もあるんだね……」
「……ヒーローが居なければ救われなかったヤツも大勢いる。そんな顔すんな、ドラゴンキッド」
「ん……えへへ。ありがとう、エドワードさん。ボクはホァン・パオリンだよ。よろしくね」
ソファに座ったままぺこんと頭を下げてくるパオリンに、エドワードは苦笑してよろしくなと呟き、同じように一礼した。穏やかな空気が流れかけるラウンジに、PDAの呼び出し音が木霊する。受信したと同時、プロジェクターの映像が乗っ取られるように白で埋め尽くされた。ひらりと舞う白衣の裾。あ、来た、と暢気に呟くエドワードの声に、イワンはぐったりした態度で耳を手で塞ぐ。
『お待たせしましたー! ご注文の品が完成したので出撃して大丈夫でーす! 基本的な技術提供は私たち! 情熱を持て余したヘリペリデスファイナンスヒーロー技術部一同がお送りします! ってゆーか聞いてくださいよー! 花咲かボム却下されちゃったんですけどー! ひっどいマジひっどい中和剤なのにお花が咲くとか意味が分からないから却下とかちょっと常識を疑う理由ですよねー! だから妥協してお花の匂いがする中和剤にしましたえっへん! 各自三個ずつ用意したんで、適当にこう袋とかに詰めて持って行ってくださいねー! てゆーか私は袋も作りたかったんですけどうっかりタイタンインダストリーの人と話しこんでたら時間がなくなっちゃったんですよ。私別にブルーローズさんがニーソだろうが黒タイツだろうがどっちでもいいので露出少なくしてください酸で火傷しちゃったら可哀想じゃないですかって言っただけなのに、なんで絶対領域が心に与える癒しとかそんなのから説明されなきゃいけないんですか! 私はニーソよりニーハイブーツの方が好きですよ! ということでブルーローズさんは普段通りのヒーロースーツに酸化防止加工をしたもので出てくださいねー。はいここまでで質問あるひとー!』
「キリサトさん、白衣しか見えてないんですけど」
『これ以上の露出とか恥ずかしいのでマジ勘弁ですー!』
そういえば折紙サイクロンのスーツが銃弾に貫通されていないか調べに来た時もマスクで目元を隠していたことを思い出し、ブルーローズは苦笑した。自社の変人については深く考えないことにした。露出押しのスーツでお願いしますと言われた日から、そんなことは諦めている。
『あ、それで対空装備の方なんですがー! とりあえず落下だけでいいって聞いたので、変形合体は諦めてですねー! スカイハイのジェットパックの構造を提供して頂いたので、ちっちゃくしたのを背中にくっつけておきましたー! 着地まで1メートルを切ったら自動的に分離して爆発するようにセットしておいたので後片づけも楽チンですー! ご安心をー!』
「爆発のなにに安心しろっていうんですか……っていうか、対空装備? 落下?」
『え、アニエスさんからさっき、ヘリで上空から突入させるからなんとかしてって連絡がですね? 時間があったらもうちょっとなんとか出来たんですが、三十分なので既存のものを小型化して分離改造して爆発機能を付けるトコまでしかできなかったんですよー! もー!』
ああこの人は本当に天才なのに残念なくらいに変態なんだなぁ、という一同の視線をひらんひらん動き回る白衣ごしに感じた様子もなく、技術者はまあそういうことなので、と晴れ晴れとした声を響かせた。
『皆さん、頑張ってくださいねー! 怪我なく帰ってくることをお祈りしながらテレビ見てますからー!』
「……中継できるの? 電波妨害解除できたんだ」
『いいえ、出来てませんよ? でも、そろそろ市民の皆さん、ヒーローの活動見たいでしょ? ああ、ヒーローが動いてるから大丈夫って分かりたい頃です。信じたい頃です。不安でも怖くても、ああヒーローが居てくれる、大丈夫って確認するだけでパニックも大分収まるでしょうからね。だから流せるのはヒーローTVの映像だけです。中継カメラひとつだけ。あんまり綺麗な映像にはならないかもですが、とりあえず映るんでいいかなーと。危ないので遠方撮影になりますが、落下する時に手を振ってあげるとかすればそれで十分ですから』
じゃあそういうことで、頑張ってくださいねと囁きを残して映像が切られた。同時に各社の技術者がわらわらとラウンジに入ってきて、中和剤を自社のヒーローに手渡しながらトランスポーターへ戻るようにと告げている。ざわめきの中でふらりと立ち上がり、イワンは深々と溜息をついた。いい人なんだけどなぁ、と囁く声はざわめきの中、誰の耳にも届いて顔を緩ませる。時刻はそろそろ夕方に差し掛かろうとしていた。
上空からの一斉突入に関し、作戦自体に異を唱えたのがロックバイソン、再考を申し出たのがエドワードだった。前者は高い所から落下して突入などできないという高所恐怖症からの切実な訴えであり、後者はヒーロースーツの耐酸性能の差異による、ヒーローの負傷を危惧してのことだった。特に怪我に気をつけさせたいのが女性ヒーローであるというのに、彼女たちは顔のみならず体の一部が露出してしまっている。機動性や見栄え、その他様々な理由から大幅なパーツ付与が出来なかった点から、エドワードは二回に分けた突入を提案した。
一回目に、耐酸化において最高性能を持つタイガー&バーナビーとロックバイソン、それに折紙サイクロン。二回目にファイヤーエンブレムとドラゴンキッド。スカイハイとブルーローズは作戦において最重要ポジションであるからこそ、上空で一時待機。タイミングを計った突入を、とエドワードは言った。アニエスは物言いたげにしていたが、サポーターのバックには司法局とヒーローアカデミーがついている。好きにしなさいと告げられた言葉は決して納得していなかったが、投下が二回っていうことは撮影チャンスが増えるってことですよ、と楓のフォローにみるみるうちに機嫌を回復させた。彼女は視聴率をこよなく愛している。分かりやすくてちょっと可愛いね、と笑った楓に大人たちはにがしょっぱい顔つきで曖昧に頷いたが、否定の声は上がらなかった。大人になるとはそういうことだ。
かくしてロックバイソンのみがタイミングを合わせて地上突入となった。侵入経路を考えようとした彼の肩にきらめく笑顔で手を置いたのはエドワード、緊張した面持ちで頑張りますと告げたのが楓だ。エドワードの能力は物質透過による移動、楓の能力はコピー。そして少女がサポーターになった主目的のひとつに、己の能力の制御訓練というものがある。親友の娘の、ある意味実験台になりながら突入しなければいけないという状況にロックバイソンは遠い目をしたが、腹を決めれば態度は落ち着いたものだった。ヘリポートで、万一のことがあったら炭火で焼いてやると脅す虎徹になんにもねぇから安心してろよと苦笑して、ロックバイソンはサポーターと共に封鎖区域に足を踏み入れた。
楓とロックバイソンは手を繋ぎ、エドワードがすぐ傍で見守る体勢で三人は目的地へ直線で歩いて行く。ビルも車も、歩みの障害にはならない、それらは全て通り抜けられるものだからだ。時折、足元まで一緒に透過させてシルバーステージに落ちかける楓とロックバイソンを掴んで、足元を補強しつつ引っ張り上げながら、エドワードは静かな声でちゃんと出来てる、落ち着け、大丈夫だ、と言葉を繰り返し続けた。泣きだしそうな、不安と緊張の狭間で心を押しつぶしてしまいそうな少女に、エドワードは一度も声を荒げず、決して叱らずに励まし続けた。駄目になる前に助ける為に俺がいるだろ、と告げられた言葉に楓は頷き、繋ぐ手に力を込めて歩み続ける。
三人が歩いた距離は直線にして五百メートルもなく、時間にすればほんの短い間のことだった。それでも過度の消耗で汗だくになり肩を大きく上下させる楓を、スポーツセンターを前にした大通りでエドワードは抱きよせ、軽く背を撫でてもう一度励ました。あと少しだから、頑張れ。それとも最終突入だけ変わろうかと悪戯めいた笑みで囁かれた言葉に、楓はできる、と頑なな態度で言い放つ。二人のやり取りを見ながら上空を見上げ、ロックバイソンはPDAに声を吹き込んだ。お前の娘は大した奴だと褒めてやりたいが、それも全て終わったあとのことだろう。もどかしい気持ちに苦笑しながら現在位置を告げると、冷静なバーナビーの声が突入までカウント六十を告げた。
すでに遠くからヘリコプターの音がうっすら聞こえてきているので、上に到着した瞬間に飛び降りるつもりなのだろう。一秒ごと数を減らすカウントに高揚感を感じながら、ロックバイソンは楓に手を差し出した。歩んで行く為に繋ぐ手は、戦う者への挨拶や激励にもなると、少女に正しく伝わるだろうか。楓は祈るような顔つきで、見知った男のスーツに包まれた無骨な手を握り締め、手首に巻いたPDAにそっと指先を押し当てる。お父さん。囁いた声に、奇跡のように返事は響く。
『……どうした?』
「ううん。……頑張るね。お父さんも、頑張ってね。怪我しないでね。誰も、誰も……」
『ああ、大丈夫だ。……大丈夫だからな、楓』
カウントが残り二十を切る。それを合図に通信は切られたが、背後で響く穏やかな笑い声と、あなた普段からそうやって出来てればいい御父さんなのにどうしてできないんですか、と呆れかえった声が耳の奥に優しく残った。目を閉じ、すぐに開いて楓はよし、と頷いた。カウント十が開始される。行きますよ、とすり抜けられるよう歪めた壁に手をつきながら、楓はロックバイソンを見上げた。フルフェイスに隠された表情が、きっと優しく笑ってくれていることを知っている。ああ、と力強い声で一歩が踏みこまれ、二人を追ってエドワードも壁に消える。
補助的にエドワードの手が背に触れているのに気がついても、ロックバイソンは楓になにも告げなかった。プールサイドに足を踏み入れた瞬間、半透明の視界が晴れて行く。即座に持たされた中和剤を振りかぶってプールに投げいれようとするロックバイソンの背を、即座に撤退する二人の、凛と響く声が押す。
「行ってらっしゃい!」
「怪我すんなよ!」
中和剤が吸い込まれるように水面へ落ちていき、爆発的な噴煙と共に周囲に居たNEXTたちがロックバイソンの侵入に気が付く。地上で突入することになったロックバイソンへ、じゃあ目くらましも兼ねたスペシャル追加で、と走って来たヘリペリ技術主任が押し付けたものだった。噴煙が消えるまで十秒。スーツの解析機能でNEXTの位置を特定しながら走りだし、ロックバイソンはヘリの音を響かせる上空を仰ぎ見た。ライムグリーンとパッションピンクの発光体が、まっすぐに落ちてくるのが見える。彼らより先行して落ちてきた中和剤が派手な飛沫をあげて濃硫酸に落下し、水滴を追うように二人がプールサイドに着地した。現場は瞬く間に乱戦となる。
普段の犯罪者とは違い、彼らは逃げようとはしなかった。混乱が収まり侵入者がヒーローと見て取ると、雄たけびをあげて襲いかかってくる。一撃一撃が重たい肉弾戦を挑まれながら、激しく波打つ濃硫酸が生き物のようにロックバイソンとバーナビー、ワイルドタイガーを襲った。聴覚的な痛みすら感じさせそうな音でヒーロースーツの表面が泡立つが、ぬめるだけで溶解はしない。NEXTたちに動揺が広がった瞬間、上空からの第二陣が到着する。
上から直に犯人を狙って落下してきたドラゴンキッドが、気合の声と共に一撃を放つ。夕刻の薄闇を稲光が貫き、犯人が意識を失って倒れ込んだ。やったぁ、と歓声をあげてその場でぴょこぴょこ飛び跳ねながら、ドラゴンキッドも中和剤を投げ入れる。一方、粉塵爆発とか楽しみ過ぎてテンションあがっちゃうので頑張ってください、と送り出されたファイヤーエンブレムは、上手く能力を使えずに苦戦していた。しかし犯人と接触した瞬間、一瞬だけ炎をあげて本能的な恐怖を覚えさせ、動けなかった所を確保している。こちらも数秒して中和剤を投げ込んだので、上空から勢いよく投げ込むな、という指示が出たのかも知れなかった。
折紙サイクロンは、犯人の確保を他のヒーローに任せたのだろう。スカイハイとブルーローズの分の中和剤、三人分纏めて投げ込むと、ためらいなく水面に手を突っ込んだ。数秒してあげられた腕にはなんの異変もなく、折紙サイクロンはPDAに向かって準備の完了を叫ぶ。ロックバイソンが一人を捕らえた所で、上空から空気の塊がそのまま落下してきたかのような、強い風が落ちて視界を晴らす。思わず誰もが見上げた先に、青白い光が輝いていた。夕闇に飲まれかける世界を、美しく照らし出すNEXT発動の光。来るぜ、と楽しげにワイルドタイガーが囁いた。
夜がやってくる。すこし前まで見えていた地平線の赤は、もうすっかり藍色に溶けて消えてしまった。強い風に髪が乱れないよう手で押さえながら、ブルーローズは揺れ動くヘリコプターから空のさらに高くを仰ぎ見る。ちょうど月は雲に隠れてしまっていて、頼りない星明かりが散らばっていた。PDAが音を立てて起動し、折紙サイクロンが準備を整ったことを伝えてきた。さあ、行かなくては。震える気持ちを叱咤して息を吸い込めば、ごく自然に手が差し伸べられ、ブルーローズは視線を持ち上げた。たった今、風で視界に立ちこめる粉塵を凪ぎ払ってみせたスカイハイは、疲れも見せずにブルーローズのことを見つめている。少女は息を吸い込んで、震える指を誤魔化すようにスカイハイの手を取った。
ふわ、とすぐに体が浮いて空に連れ出される。ヘリコプターのエンジンが奏でる轟音が耳を痛めたが、スカイハイがすこし距離を取ると、意図をくみ取ったように離れていく。安全圏へと戻って行くヘリコプターを見つめながら、ブルーローズはこれから落下する恐怖と戦おうとした。ロックバイソンのように高所恐怖症ではないが、それでも背負ったちいさなジェットパック一つを頼りに、身一つで落下するのである。スカイハイが補助してくれるとは言うが、他のヒーローとは違い、ブルーローズは落下中から下に向けて能力の放出を始める必要性があった。本当に補助なのだ。死の影がすぐ近くにあるように思えた。
それでもブルーローズは泣きごとさえ告げず、きゅっと唇を噛むと能力を発動させた。たおやかな青白い光が少女の全身を包み込み、純度の高い氷のような輝きが瞳を煌かせる。少女の決意を間近で見つめ、スカイハイは優しい声で囁きかけた。
「……緊張しているね」
「紐なしバンジーだと思って頑張るわよ。大丈夫。女子高生だから、それくらい耐えられるわ」
「最近の女子高生はすごいな!」
心底感心しているスカイハイに、ブルーローズは口元を緩めてくすくすと笑った。フルフェイスマスク越し、スカイハイが安堵したように息を吐くのが感じられる。繋がれた手が、すっと前に出される。柔らかな風が、ブルーローズを勇気付けるように取り巻いた。足元には夜景が広がっている。閉鎖区域の、明かりの無いぽっかりとした黒い穴を取り囲むように、眩いばかりの夜景が光を煌かせている。そのひとつひとつに人がいて、そのひとつひとつがヒーローの希望だった。目を細めて見つめれば、着地する場所には青白い光がちかちかと瞬いていた。空に瞬く星より、あの光の方がずっと美しい。大丈夫だね、と促され、ブルーローズは頷く。
「あ、ねえ、スカイハイ」
「なんだい?」
「今度、敬礼の仕方教えてくれない?」
ちょっと覚えておこうと思って、と告げるブルーローズの表情は戦いに赴くヒーローというよりは学生めいていて、スカイハイは思わず少女に手を伸ばした。不思議そうに見つめられるのにマスク越しで苦笑を浮かべながら、そっと頬を撫で、落ちていた髪を耳にかけてやる。あっと声をあげて赤くなるさまはやはり愛らしい少女で、けれど地表を見据える面差しと踊るように纏う光が、彼女をブルーローズたらしめていた。
「いいよ。帰ったらいくらでも」
「いくらでもは良いわ。私は折紙も好きだもの」
じゃあね、と一声残して、ブルーローズの手がスカイハイからすり抜けていく。青白い光が一滴の涙のように落下していく様に、スカイハイは惜しみない賞賛を込めて敬礼を送った。暗い夜を一人きりで落ちて行くような心細い錯覚と戦いながら、ブルーローズは耳元でうるさい程響く風の音に歯をくしばっていた。ちかちかと輝く青白い光は、すぐ見失ってしまった。体が木の葉のようにくるくると回っているのが分かる。着地までの距離をPDAが叫び続けるが、体勢の戻し方が分からない。舌打ちをして誰かが救助に飛び出しかける気配をPDA越しに感じ取った瞬間、少女の視界を斜めに横断する光が走った。気がつかせる為の光はすぐに消え、PDAからドラゴンキッドの声が告げる。
『大丈夫だよ!』
さらに、一条の稲光。地上からまっすぐ空へと遡って行く黄金の光は、指差すようにブルーローズに空のありかを教えてくれた。ハッとして振り仰ぐ先、信頼した態度で敬礼してくれているスカイハイが目に映る。ああ、とブルーローズは息を吸い込んだ。着水まで一メートルを切った証に切り離されるジェットパックを意識すらせず、ブルーローズは足元に向けて全力で力を解き放った。一瞬にして鏡のように透き通り、美しい薄氷となった舞台の上、ブルーローズのブーツが柔らかく着地する。切り札となる水源を押さえられたNEXTたちの顔に絶望がよぎり、動きを止まった彼らめがけてワイルドタイガーとバーナビーが突っ込んで行く。よしやれっ、と後押しをするワイルドタイガーの声に、ブルーローズは美しく唇を微笑ませた。
少女から青い光がほとばしり、万雷の拍手にすら似た音が響き渡って行く。それは歓喜の叫びにすら似ていた。たった十秒で、荒れ狂う水の動きをものともせず、完全に凍結させたブルーローズは一歩を踏み出す。氷を踏みしめるヒールが、カツリと心地良い音を立てた。
「……私の氷はちょっぴりコールド」
無数の気泡が白い薔薇のように、足の下で咲いている。
「あなたの悪事を完全ホールド!」
雲の切れ間から差し込んだ一筋の月明りが、少女の姿を暗闇から浮かび上がらせる。その美しいさまは、シュテルンビルトに生中継で放送された。事件発生から、実に十時間とすこし。現場に駆け付けた警察官によってNEXTたちは逮捕され、その後、残った戦車もヒーローたちの手によって完全に破壊され、事件は終結する。翌日のニュースでは、コメンティエーターたちが賢しげに軍人たちの心理を解き明かし、武器の入手経路や闇社会との繋がりを問題視し騒ぎたてた。どのチャンネルでも二時間以上の特番で事件は取りあげられたが、その中で反政府NEXTに触れたのはほんの数局だけで、時間も五分に足りるものではなかった。NEXTへの差別と偏見は、息をするように自然に社会に溶け込んでしまっている。
その中で一人、事件に巻き込まれた警察官のインタビューが、ヒーローたちの胸を打った。
『私たちを救ってくれたヒーローも、捕まえたNEXTも同じ人間です。能力があるか無いかだけ。……私たちは恐れず、もう一度NEXTについて、ヒーローについて、考えなければいけないと思います』
そうでなければまた同じことが繰り返されてしまう、と真剣な目で言った警察官の女性に対し、ニュースの司会者は綺麗な微笑みで次の事件を伝え、それきり、その映像はどこにも流れることがなかった。
早退を申し込んだ日に限って事件に遭遇してしまった己の不運を嘆きながら、シャーナは警察署を飛び出した。パトロールついでに送って行ってやろうかという同僚の申し出をありがたく受け入れ、すでに予定時刻を過ぎていることに絶望を感じながらも、車を降りて飛び出して行く。ハイスクールの校門近くに、すでに下校する生徒の姿が見える。どの生徒も親と連れだって歩いていて、シャーナの胸がじくりと痛んだ。あの信号無視が逃げようとして通行人を跳ね飛ばしたりしなければ、シャーナだってちゃんと授業参観に間に合った筈なのに。また娘に怒られる、と泣きそうな気持ちを叱咤して走って行くと、視線の先に、同じように慌てて走ってくる少女が見えた。両親を置き去りに、少女は息を切らしながら学校を出て行こうとする。
栗色の髪の少女とすれ違った瞬間、ふと血の匂いを感じてシャーナは立ち止まった。勢いよく振り返ると、驚いた顔をして立ち止まった少女が、同じようにシャーナのことを見つめている。血の匂いは、少女の太ももに巻かれた包帯から立ち上ったようだった。勢いよく走ったので、傷口が開いたのかも知れない。
「あ……」
思わず、と言った態度で少女はシャーナから一歩足を引いた。その少女の顔にシャーナは見覚えがなかったが、服の下に隠された腕の包帯が覆う位置と、太もものそれには覚えがある。
「カリーナ? 急ぐんでしょう?」
遠くから、少女を促す母親の声がした。それに慌てた視線を向けて頷きながら、カリーナはシャーナに必死な目を向ける。それは言わないでとすがるようにも、忘れてと祈るようにも見えた。シャーナはなにも言わずに微笑み、これからヒーローの顔をするであろう少女に、あの日と同じ気持ちで敬礼を送る。行ってらっしゃい、と唇の動きだけで囁けば、カリーナはこくりと頷き、それからおずおずと腕を持ち上げた。返されたのはぎこちない敬礼。恥ずかしがってぱっと走り去ろうとするカリーナに、シャーナは堪らず、ありがとう、と叫んだ。
カリーナは一瞬だけ振り返り、満面の笑みで手を振る。その姿が見えなくなるまで見送って、シャーナはハッとして腕時計に目を落とした。これ以上遅刻する訳には行かない。少女の両親にすれ違いざま頭を下げて、シャーナは娘の待つ昇降口へ飛び込んだ。遅いと怒る娘に謝りながら、シャーナは走って行った少女の事を考える。
あの少女はきっと、どこまででも走って行く。傷つき疲れ果て、倒れては立ち上がる。時に泣き、時に笑いながら仲間の手を取り、どこまでも、どこまでも希望の先を歩いて行く。まっすぐに、悩みながらも迷わずに。たとえそれが、茨の道であろうとも。
ひとは彼らを、ヒーローと呼ぶ。