柔らかな人形をそっと包みこむように持つエドワードの指先は、男のものにしては綺麗な印象を振りまいている。その理由の一つが、形の良い爪だった。元から爪が整った形で指先にあるというのもあるが、その印象を綺麗にまで押し上げているのは、楓の密かな献身あってのことである。エドワードは元々、爪というのもにそう頓着しない性質であった。無造作に伸ばしっぱなしにしている髪からもそれが分かるが、清潔さには気をつけているものの、流行のファッションを追いかけることや雑誌を眺めて研究することをせず、適当に、好みのものをなんとなく身につけて日々を過ごしている。薄く筋肉のついたすらりとした長身と姿勢の良い佇まいが、衣服などに気を使っていないことを分からせないだけなのだ。身につけるものにどれくらいこだわっていないかは、エドワードの髪を結ぶ紐が、今日に限って紅のリボンであることからも分かるだろう。とりあえず結べれば、それでいいのだ。輪ゴムであろうと、紐であろうと、リボンであろうと。求める機能が十分に備わっていれば、エドワードは基本的に、それ以上を気にしない。一度それで面白がったイワンがスカートをはかせようとして、上段蹴りを顔面狙いで叩きこまれるという容赦のない報復を受けていたが、そんなくだらない悪戯思いつくくらい、エドワード・ケディという男は己を構成するものに興味の対象を向けないのが常だった。
それなのに、エドワードの手指は皮膚の荒れのひとつもなく、爪先までが綺麗に整っている。それはエドワードの努力あってのことではない。エドワードの手が荒れていることに気がついた楓が、ハンドクリームを購入して塗るようにと言い聞かせたからで、無造作に爪切りで短くしている指先を引っ張って、丹念にやすりをかけたからだった。エドワードはひどく面倒くさそうに、嫌そうに眉を寄せながらも無言で、少女が己のてのひらに丁寧に時間をかけるのを受け入れた。毎日、ほんの数分の努力。ハンドクリームを塗って、爪にやすりを走らせる時だけ、エドワードの手は少女の所有物となる。それを知っているのは、当事者である二人だけだった。楓はもちろん、過保護な父親と養父であるバーナビーにバディの手に対する執着を告げもしなかったし、エドワードはわざわざ口に出して、少女の管理を言いふらしたりはしなかったからだ。だからこそ、エドワードが不意に人目を惹きつけるその理由を、楓だけが知っている。訝しげな、気を惹くなにかがそこにあるのに原因にまで辿りつけない、薄ぼんやりとした不思議さが漂ういくつもの視線を受け止めてなお、エドワードは目を伏せたまま、集中を乱そうとはしなかった。うつくしい印象の男の手指に、包まれ持たれているのはティディベアである。エドワードが髪を結ぶのとお揃いのリボンを首に巻いているが、誰も気がついてはいないだろう。
楓の私物のそれを、ことさら大事そうに手で包みこみ、エドワードはゆったりとしたリズムで呼吸を整えていた。トレーニングルームの片隅でサポーターの制服に身を包むエドワードを、ヒーローたちは興味深そうに見つめている。彼らの視線は興味と観察が主であるが、唯一イワンだけが胃の辺りを手で押さえ、はらはらとした落ち着きのない視線を投げかけていた。イワンが見つめているのはエドワードではなく、彼を観察している自社の技術者の少女、その挙動であった。白衣の少女は集中したエドワードを研究者の視線で見つめ、ゆったりとした態度で首を傾げながらその時を待っている。カチ、と不意に大きく、秒針の音が室内に響く。エドワードはそれを、合図としたようだった。一度かたく目を閉じたエドワードは、次にまぶたを持ち上げる瞬間、NEXT能力を発動して全身を青白い光に包みこんでいた。不快そうに眉が寄せられているのは、普段とは全く別の発動を求められている故だろう。てのひらの上のティディベアを鋭く睨むように見つめ、息を止めて、エドワードは指先にぐっと力を込めた。きれいな手指が、しなるように動く。ぽん、とあくまで軽やかにティディベアを空へ放り投げたてのひらに、重力に従って人形が落下してくる。ほんの数センチの浮遊。ほんの数秒にも満たない空白。それだけで、エドワードには十分な準備であったようだ。存在を受け止める筈のてのひらから、ティディベアが勢いをそのままに、すり抜けていく。
床にそれが落下した音は鈍く、ちいさく、響かず鼓膜に触れ、消えた。ふー、とエドワードが息を吐き出し、能力の発動を止める。凝り固まった肩をほぐすようにぐるぐると腕を回す表情は、やはり疲れ切った者のそれだった。腰を屈めてティディベアを拾い上げ、軽く汚れを払って、エドワードは楓にそれを返そうとする。その動きを止めたのは、まだ駄目、とばかり首を横に振ったキリサトだった。もう一回繰り返して、とにっこり笑って唇を動かした少女の声は聴衆まで届かなかったが、それがどんな発音で、響きで奏でられるものなのかをイワンは聞くまでもなく知っている。不思議に、相手に諦めを持って要求を飲みこませる声は、イワンだけではなくエドワードにも有効であるようだ。ややげっそりとした表情になりながら、エドワードがティディベアを先程と同じくてのひらに乗せなおした所で、イワンのつむじをぎゅうぎゅうと、上から押す者があった。
「先輩、先輩。ねえねえ、先輩? 今いいですか?」
「……なーあーにー」
反射的に苛立ちながらも息を吐きながら声を返せば、バーナビーはイワンのつむじから指先を離し、不思議そうに首を傾げて問いかけてくる。他のヒーローとは違い、朝早くから雑誌の撮影が入っていたバーナビーには、目の前の光景がよく分からないらしい。実験だということくらいは分かっても、なんの実験がなんの理由で行われているか、全くの未知なのだった。
「あれ、なにをしているんですか?」
「僕としては君が今なんの意味があってつむじを押して来たのか、そっちの方が知りたいんだけど? ……撮影、終わったの? バーナビーさん」
「はい。滞りなく。……そういう気分だったもので?」
指先をくるくる動かしながら告げるバーナビーに、イワンは柔らかく微笑んでやった。すかさず足の甲を思い切り踏みつければ、健気な後輩は甘んじて先輩の怒りを受け止め、その場にしゃがみ込んで動かなくなる。痛みで涙目になるバーナビーの髪をくしゃくしゃと撫でてやりながら、イワンはうっそりと溜息をついた。胃がきりきりとした痛みを発するのは、ストレスに他ならない。あれはね、と遠い目をして微笑みを浮かべ、イワンはバーナビーの疑問に答えてやった。
「エドワードの能力実験と測定、その真っ最中。……見て分かるように、キリサトさん主犯の」
「ちょっとー! 私がなんかの犯人みたいに聞こえるので、そういう言い方はやめてくれますかイワンくんー! これは! 純粋に! なんの他意もない! ただの実験と! 測定と! 観測で! それ以上でもそれ以下でもありませんからぁっ!」
「……純粋じゃなくて他意がある実験と測定と観測があるみたいに聞こえるから、エドワード逃げて超逃げて……っ!」
胃の痛みにやや死んだ目になりながら吐き捨てるイワンの言葉に、ヘリペリデスファイナンスの天災で変態な天才技術者と名高い少女は、ぷぅと頬を膨らませて腕組みをした。隣でエドワードが乾いた苦笑いを浮かべているあたり、イワンの主張に一理も二理もあるらしいが、弱みを握られているかのよう、その態度は従順でキリサトの指示に従うままになっていた。事実、エドワードはキリサトに逆らえないのである。弱みを握られている訳ではなく、エドワードは少女に多大なる恩義と、ちょっとした借りがある。恩義についてはこれくらいで返せるものではないのだが、借りを清算してしまう為の実験なのだ。この人に借りを作ったまま長時間過ごさなければいけないことの方が怖い、と言わんばかり弱々しく返された笑みに、イワンは親友を窮地から救うことのできない悲しみを瞳によぎらせ、視線をそっと外して落ち込んだ。二人のやりとりに、キリサトがますます頬を膨らませる。だんっと、足が踏み鳴らされた。
「ちょっとぉー! やめてくれますー? 飽きて来ちゃったからって、そうやって囚われの身の上ごっこするのー! こ・れ。は! 合意の上での人体実験ですしー! 痛いこととかしてませんし! 嫌なこともしてませんし! もぉーっ!」
「……だって、何回同じことすればいいんですか、俺」
「んー? んー……えー、じゃあ、いいですよ。あと二回か三回くらい測定して平均出したかったんですけど、そんなこと言うなら、これでもういいことにしちゃいます」
やや疲れた風のエドワードに問いかけられて、キリサトは拗ねたように唇を尖らせ、なにかを書きこんでいたノートにすさまじい勢いでボールペンを走らせていく。
「もぉー……ところで、発動に条件付けってしてるんです?」
「いや、俺は特に。……なんか気になることありました?」
「壁とか床とか、基本的に停止状態のものを透過できることは分かってますし、ティディベアみたいにゆっくり、落ちてくるって分かってるものをすり抜けさせるっていうのもできるみたいですが……触れる瞬間に発動してるんじゃなくて、物体に対して触れる前に発動してますよね。平均すると二秒前くらいには、必ず。まあ触れた瞬間に発動すると分子結合起こしちゃうのかなー、とか色々気になることはあるにはあるんですが……どれくらいのスピードまでなら対応できるのかなー、と思って」
とりあえずティディベアはもういいです、と言ったキリサトに苦笑し、エドワードはそれを離れて見ていた楓へ手渡した。
「……退屈しないか?」
「ううん、大丈夫。……見てて、邪魔?」
「ばぁか。そんなこと、絶対ない」
エドワードの指先が楓の前髪をそっと撫で、それだけで離れていく。くすぐったそうに肩をすくめ、楓は手渡されたティディベアをぎゅっと抱きしめ、くすくすと静かに笑った。二人の会話はそれだけで、エドワードは楓から数歩離れ、キリサトの隣へと戻ってしまう。後を追うことをせず、それ以上離れることもせず、ヒーローよりはずっとエドワードたちに近い位置に立ったまま、楓は実験を見つめていた。かける言葉もなく、かけられる囁きもなく。視線だけが、姿を追いかけている。その、追いすがるような、追い掛けたがるような視線は、どこか切なく。今までとは違う印象を、バーナビーの心に落として行く。視線の他は会話にも、触れかたにも、普段と違う所はなかった筈だ。愛娘とそのバディを見守る虎徹がぎりぎりと悔しそうなのは何時ものことなので参考にならず、バーナビーはふと感じた違和感を正直に判定してくれそうな、アカデミーの先輩へ無言で視線を向けた。その仕草ひとつで、相手の意思を正確に受け止めてくれる存在だと、知っているからこその言葉にならない甘え。イワンはゆるく苦笑して、キリサトがボールを振りかぶり、エドワードへ投げつけようとしているのを見つめた。けれども、言葉は響かない。告げることができないからだ。
なにか。見えないなにか。言葉にならないなにかが、すこしずつ動きだして、二人の関係を変えて行っている。それでいて表面的にはなにも変わらず、エドワードと楓は大変仲の良いバディだった。その変化は、見ていて不安を呼び起こさないものだ。それでいて、風が吹き荒ぶ寸前の、張り詰めた大気の緊張を予感させるものだ。荒れ狂い、二度と、元には戻れない。タン、とボールが床を打つ音がイワンとバーナビーの思考を現実へと浮かび上がらせる。転がるボールをひょいと持ち上げ、ふぅん、と感心したようにキリサトが頷いていた。
「普通に投げるくらいだと準備できるってことはー……うん。ワイルドタイガーさん。ちょっと」
「ちょっとじゃねぇよ!」
おもむろに頷き、虎徹を手招くキリサトからボールを取りあげ、さすがに青ざめた表情でエドワードが叫ぶ。
「ハンドレットパワーボール投げの的とか、マジ勘弁なんですけど……! 痛い! 絶対痛い!」
「うまーく透過すれば大丈夫ですし! ね?」
「うまーく透過できるか分からないから嫌なんだよ……!」
じり、じりっと睨みあい、距離をもって伺いあう技術者と被験者に、呼びかけられた虎徹はどうするかなー、と言いたげな態度で苦笑していた。協力するのはやぶさかではないが、危険がないとは言い切れないからだ。そもそもエドワードのNEXT能力は『物質透過』であるが、それは『触れたものを通り抜けられるように変化させる能力』ではなく、『己の体を、透過したいと思ったもの、もしくは認識した対象に対して透過する性質を持つ状態に一時的に作り替える能力』であるとキリサトは定義し、ヒーローたちに説明していた。ものすごく特異な変化系NEXT能力。大きく分類すればイワンや、アントニオのものと同じ区分に属するのだと言う。特殊系ということで大雑把にひとくくりにしてしまってもいいんですが、とキリサトは首をひねり、未だエドワードの能力が未解析を多く含んだものであると説明していた。そして、そこに浪漫があるのだと。握りこぶしで。だからこそ技術者は、実験して検証して、確かめたくて仕方がないのだ。ちょっとだけ、ちょっとだけ、投げるだけですからっ、と必死な姿に、イワンは指先でそっと目頭を押さえた。残念ながら、ハンドレットパワーはちょっとじゃない。嫌だ、ときっぱりエドワードから拒絶されて、キリサトは頬をぷーっと膨らませる。見かけの印象だけ、頬袋をぷくぷくにしたハムスターに似ていた。そんなに可愛らしい存在では絶対にないのだが、周囲の微笑ましい視線を向けられた少女は、分かりましたよー、とハンドレットパワーボール投げを断念した呟きで、がっかりと肩を落とした。少女が常々宣言しているように、基本的には、相手が嫌がる実験はしないのである。粘り強く説得はするが、すっぱりと諦めもする。
「もー、じゃあ一回休憩にしてあげますよー」
「終わりじゃないのかよ……」
「諦めなよ、エドワード。キリサトさんは気が済むまでやるよ?」
だから実験の念書シュレッダーしてあげたのに、と苦笑するイワンに、エドワードはやれやれと息を吐き出した。そのまま足を楓の方に向けて歩み寄る姿を眺め、イワンはふと緊張の糸が途切れたトレーニングルームを見回した。先程、バーナビーが到着したので、トレーニングルームには今日は全員が揃っている。誰もトレーニングに励んでいないのは、ちょっとしたイベントが起こっているような感覚で、誰も彼もが実験模様を息をひそめて見つめていたせいだった。パオリンとカリーナはそれぞれソファに腹ばいになり、手にはペットボトルのジュースを持って、キリサトの行う人体実験を見つめていた。時々、なにかを耳打ちしあっている少女たちの雰囲気は和やかで、落ち着きはらったものだった。ネイサンとアントニオは並んで壁に背を預け、キリサトの挙動を注意深く観察している。眼差しには信頼があるが、万一のことがあれば、彼らが味方をするのはエドワードだろう。技術者の少女はそれを分かっていて嬉しげにイワンに目配せをし、唇に深い笑みを浮かべてみせた。エドワードが大切にされていることが、嬉しいのだ。キリサトは上機嫌に笑ったまま椅子に腰を下ろし、ノートに猛然と文字を書き連ね始めた。エドワードを休ませている間に、色々纏めてしまいたいのだろう。休憩はあくまで被験者のものであり、研究者のものではないらしい。全く、と呆れながら時計に視線を送り、イワンは悩んだ末、それを黙認してやることにした。
いつもの様子と比べれば、椅子に座っているだけ、キリサトは休んでいる。実験もこの調子であれば、あと数時間で終わるだろう。そうしたら会社に引っ張って行って、CEOに少女の身柄を渡し、思う存分休ませてもらえばいい。ヘリペリデスファイナンス技術部とCEOに定時連絡を送ってから、イワンもまたゆるんだ空気を堪能すべく、仲間たちの元へ足を向けた。
「カリーナ、パオリン」
「ちょっと、なんで私たちのトコくるのよ」
眉を寄せてしっしと手を振るカリーナは、年の近い兄を追い払いたがる妹のような表情をしている。それにくすりと微笑みながら、イワンはパオリンの隣に腰をおろしてしまう。あっち行きなさいよ、あっち、と指し示される方向にはキースとバーナビー、虎徹が肩を寄せ合って立っていて、真剣な顔つきで言葉を交わし合っていた。仕事、恐らくは雑誌の取材の話だろう。バディとKOHの対談は人気ある特集のひとつで、イベントごとに彼らは対談や企画を取り行っている。仕事の話に首を突っ込まないことにしてるんだよね、と澄ました顔で告げるイワンは、こちらの様子に気がついて満面の笑みを浮かべるキースに、ひらりひらりと手を振った。それからぴし、と音が立つような凛とした仕草でバーナビーを指差し、集中して打ち合わせ終わらせてくださいね、という意思を伝える。当然、恋人の元に駆け寄って来るつもりだったキースは、見るからにしゅんと肩を落とし、けれども健気に頷いた。大型犬の耳としっぽがしょんぼりとしている幻覚を頭を振ることで消し去りながら、イワンはきゃっきゃと笑いながら抱きついてくるパオリンの体を受け止め、仕方がないなぁ、と唇を尖らせるカリーナを見る。
「なんの話してたの? ……パオリン、甘い香りがする」
「お菓子だよ! イワンも食べる? はい、あーん」
「あーん」
首に腕を回してじゃれついてくるパオリンのちいさな指が、チョコレートをひとつ摘みあげてイワンの口元へ運んで行く。促す言葉に従順に口を開けば、ぽんとチョコレートが投げいれられ、舌の上で溶けて行く。苺味のチョコレートだ。甘い香りは苺と、チョコレートのものだったのだろう。うん、美味しいね、と笑うイワンにおいしいねっ、と満面の笑みで返してから、パオリンはようやく不機嫌気味なカリーナに気がついたかのよう、振り返って不思議そうに首を傾げてみせた。
「どうしたの? 頭痛そうな顔になってるよ」
「……いいわ。アンタたちに何言っても無駄だってこと、私はちゃんと分かってるもの」
「カリーナもチョコ食べなよ! 美味しいよ!」
はい、と差し出されたチョコレートを唇で食んで受け取り、カリーナは溜息をつきながらソファの背もたれに体を預けた。パオリンはまだイワンにじゃれついていて、離れる気配がない。数日ぶりにお兄ちゃんが家に帰って来た嬉しい嬉しいっ、と言わんばかりの様子である。アンタたち兄妹みたい、とカリーナが呟けば、イワンはすました顔で知らなかったっけ、と笑った。
「バーナビー家の長男と次女だもんねー、僕たち」
「ねー。カリーナったら、長女なのになんで知らないのさー」
「ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って……!」
少女が混乱の余り全力でソファに叩きつけた拳は、ぼすんと派手な音を立ててクッションにめり込んだ。
「私がいつ、どこでっ、バーナビーの長女に! なったのよっ!」
「いえ、僕は産んでませんけど」
「会話に割り込んで来ないで! 混乱するっ!」
バディとKOHの打ち合わせが終わったのだろう。ソファの背側からひょいとさかさまに顔を覗き込んでくるバーナビーを、カリーナは睨みつけながら怒った。
「ちょっと! 私、アンタんちの長女にされたんだけど!」
「……パパって呼んでみます? 娘よ」
「棒読みで目が死ぬくらいなら言ってみるなーっ!」
ねえアンタなんなの馬鹿なんじゃないのっ、と半泣きでバーナビーのシャツを掴み、そのまま首を圧迫するカリーナに、青年はごく麗しく眉を寄せてみせた。反抗期に突入した、年の離れた従妹を見つめるような慈しみ微笑ましく思いながらも困った眼差しに、カリーナの頬がうっすらと赤く染まる。なによ、と唇を尖らせたカリーナに、バーナビーはふぅ、と息を吐いた。
「ところで、なんですかその家族構成」
「知らないわよ。……アンタ、いつまでさかさまのつもり?」
「カリーナがいつまでも僕の服掴んで引っ張っているからでしょう。……よいしょ、と。こんにちは、パオリン。先輩も」
指摘されると同時、舌打ちをして手を離したカリーナの隣に、ソファをまたぐようにして身軽に移動して腰を下ろしたバーナビーは、向けられる二つの視線に機嫌良く微笑んだ。ほっと気を抜いていることが分かるほんわかとした笑みに、パオリンとイワンも嬉しそうな顔つきになる。
「……で? なんですか、その家族構成?」
「えー? だから、バーナビー家のポジションだよ?」
なんで分からないの、とばかり向けられる無垢な瞳に、バーナビーは困ったようにイワンを見つめた。だからそこで助けを求める相手の選択自体が間違っていることに、どうして気がつかないのか。呆れに眉を寄せてなりゆきを見つめるカリーナの耳に、優しく相手を宥めようとする響きの、イワンの声が届く。
「僕が長男、カリーナが長女。パオリンが次女で、バーニーは次男ね? バーナビー家の家族構成」
「……その設定はいつできたんですか、先輩」
「細かいこと気にしてると、髪が薄くなるよ、バーニー」
言外に気にするな、そして突っ込むな、という威圧さえ含んでにっこりと笑ってみせたアカデミーの先輩に、バーナビーはそっと視線を外し、諦めきった風に息を吐きだした。
「それじゃあ、両親は誰なんです? イワン兄さん」
「ねえ、バーナビー。もっと抵抗していいのよ? っていうか、抵抗すべきだと思う。アンタはなんだってそんな、イワンとパオリンに甘いのよ! 甘やかすんじゃないわよ!」
「両親はブルックス夫妻だよ。君のお父さんと、お母さん」
カリーナが額に指先を押し当てながら叫んだ抗議の合間、イワンがさらりと流れる水のような口調でそれを告げる。意味を考えるように幾度か瞬きをして、バーナビーは唇にきゅぅと力を込め、嬉しげに照れたそぶりで視線を彷徨わせた。そっか、とごく小さな、幼く綻んだ言葉が漏れる。そっか、と暖炉の前でもたらされる、炎の熱さと他にはないぬくもりを心の奥底まで受けたような響きで。そっか、とバーナビーは笑い、彼らを失ってからの冷えた幼い記憶を遡り、そこへ温かなぬくもりを灯すことを自らに許した。カリーナはこそばゆさから来る文句を、ぐっと飲み込んでバーナビーを見る。カリーナには家族がある。恐らく、ヒーローの中では最も普通に家族の傍にあり、年齢的なこともあり、その庇護下にある。だからカリーナはきっと誰より、家族の形を知っていて、戸惑い。けれど、手を伸ばして、バーナビーに触れた。家族になろう。あの日、そうすると、そんな存在として傍にあるともう決めたのだから。もう一回、今ここで、カリーナはバーナビーの家族になろう。血は繋がっていないけれど、こころに、それを許そう。
「バーナビー」
「なんです? カリーナ」
「なにかあったら、ちゃんと言うのよ。なにもなくても、話をするの。顔を見て挨拶して、時間が合ったら一緒にご飯を食べるの。買い物に行ったり……まあ、アンタはすでに鏑木家の一員みたいなものだけど、バーナビー家でもいいんだから、ちゃんと甘えて甘やかして、甘えられて、甘やかされなさい。分かった? ……アンタの最優先が、楓ちゃんだって知ってるけど」
家族も時々は大事にするものよ、と鼻先をちょんと指先でつつかれて、バーナビーの視線がもじもじと膝の上に落下する。慣れない喜びにこくりと頷くだけの青年は幼くも見え、少女の庇護欲を力いっぱい刺激した。とりあえずチョコでも食べなさいよ、とカリーナに苺チョコを差し出され、バーナビーはそれを素直に口に放りこむ。もぐもぐと口を動かして飲み込んでから、バーナビーはソファの隅に置いてある紙袋を覗き込み、大量に詰められたチョコレートを発見して目を瞬かせた。
「なんです? これ」
「もらったの。会社から。新しく取引を始めたちいさいチョコレートの製造会社が、私のファンなんですって。会社の皆さんでお召し上がりくださいって、サンプルをどっさりくれたの」
「ふぅん……もう一つ頂いても?」
カリーナはこくりと頷き、好きなだけ持って行きなさいとばかり、空の紙袋とチョコレートの袋をバーナビーに手渡した。なにせ、本当に大量にあるのである。パオリンが後でカリーナと一緒にタイタンインダストリーに戻って好きなだけ引き取ってくれる話にはなっているのだが、協力者は多くて悪いことはない。楓ちゃんもタイガーも甘いの好きでしょ、と呟けばバーナビーは紙袋にざらざらと透明なセロファンに包まれたチョコレートを流し込み、ごちそうさまです、と幸せそうに笑った。
「……あ、実験再開した」
なんの気なしに視線を流し、それに気がついたのだろう。ふと口に出した言葉はわくわくとした響きを帯びていて、バーナビーが研究者の血を引き、その資質と興味を正しく受け継いでいることを知らせた。男の子って実験とか好きよね、と思いながらカリーナはソファの上で両腕と脚をぐぅっと伸ばす。
「能力って、ああいう風に考えたことはなかったなぁ……なにができて、どこまでなら出来て、どこから出来ないのか、とか。どういう原理で現象が起きてるか、とか」
「カリーナは特に、考えなくても制御できちゃいそうだもんね」
ボクはちょっとは考えたことあるけど、でもあそこまでじゃないな、と少女たちに見つめられる先、エドワードとキリサトの実験は続けられていた。死角から投げられたボールに対してどれくらいの精度で反応できるかを確かめる為、虎徹とキースが協力して、縦横無尽にゴムボールをエドワードに投げ続けている。ハンドレットパワーを使用した移動速度と、宙から風の軌道に乗せられて自由に向かってくるボールに、エドワードは身体能力的な意味で対応しきれないのだろう。能力を発動しっぱなしで全部すりぬけさせているのに、キリサトが違うのおおおおっ、とだんだん足を鳴らしながら抗議している。実験というよりは大人げないただの苛め現場めいてきたそれを、楓は安全圏から白い目で眺めていた。虎徹は今日という日が終わるまで、娘に口を聞いてもらえないに違いない。あのひともほんっとうに学習能力というものがないですよねぇ、としみじみ呟き、バーナビーはちらり、とイワンを見た。ちょうど、同じことを考えていたのだろう。やおら頷き合ったアカデミーの先輩後輩は、前触れもなくソファから立ち上がると即座に能力を発動させ、エドワードの元へと駆けて行く。二人は途中で楓の腕を両側から捕らえ、背に手をあててふわりと体を持ち上げた。
きゃぁっ、と楓が混乱した叫びをあげるのにエドワードが剣呑な目を向けるが、構わずバーナビーは楓を横抱きにし、イワンはその前に立ちふさがった。二人とも、ふふん、とばかり勝ち誇った笑みを浮かべている。
「さあ、エド。どうする……?」
「その状態だと、僕から楓ちゃんを取り返せはしませんよね。一度、どうしても発動を解かないと」
「……え? お前らなにしてんの?」
発現と表情がどう考えても悪役のイワンとバーナビーに、虎徹がボールを投げていた手を止めて呆けた呟きをもらす。トレーニングルームの天井付近にあざやかに浮かび上がりながら、キースは明るく笑い、楽しそうだね、とイワンに目を向けた。
「一緒に遊びたくなってしまったんだね? よし、イワンくん、バーナビーくんも、一緒に頑張ろう! 頑張ろう、一緒に!」
「遊んでねえし一緒に頑張らなくていいしつーか、つーかおいお前らはなに考えて……いいから楓離せよ」
「実験に協力してあげようかな、という優しい後輩心です」
笑顔のままエドワードの言葉を却下するバーナビーの腕の中で、楓はいまいち状況がつかめていない表情で、そろりそろりと視線を動かしている。えっと、と少女が思考を整理しようとするのを邪魔するように、キリサトはふむ、と呟いてストップウォッチを取り出した。カチン、とスイッチが押される。
「タイガーさんの発動と合わせて、えーっと……制限時間はこれから三分。楓さんを取り返した方が勝ちということで」
「実験だろ? 実験なんだろ? いつから勝ち負け勝負に切り替わったんだよだからいいから楓離せよ!」
「はい、それではいざ尋常に」
苛々苛々怒りを積み重ねて行くエドワードを明後日の方角を見つめることで無視して、キリサトはさっと片手をあげた。
「はじめ!」
「イワン! バーナビー! 覚えてろよお前らこれが終わったら体育館裏だからな! 体育館裏っ!」
絶対来いよっ、と叫ぶエドワードに、イワンとバーナビーはわざとらしく顔を見合わせた。
「アカデミーの体育館裏って、塀との間十五センチじゃないですか。そこに呼びだすってどういう神経してるんです? 挟まれっていうことですか? ちょっとどうかと思います!」
「エド、ひどいよ……。僕らに隙間に挟まれって言うんだ」
「挟まれよ! お前らいっそ二人で挟まって反省しろよ!」
雨あられのように投げられるボールをすり抜けさせ、時には避けながら追いかけてくるエドワードから逃れる為、イワンとバーナビーはトレーニングルームを縦横無尽に駆け回った。その途中で、ようやくなにが起きているのか理解したのだろう。きゃあぁ、と改めて悲鳴を上げ、楓がきっとバーナビーを睨む。
「バーナビーさん、駄目! 離して!」
「安心してください、楓ちゃん。絶対に守ります」
「楓、いい。危ないからそのままにしてろ。……助けるから」
バーナビーの腕の中でじたばたともがく楓に、エドワードが静かな声をかける。楓が目を向けると、エドワードはイワンと睨みあい、じりじりと距離を計り合っていた。ふ、ふふふ、とどちらからともなく、妙な笑いが響いてくる。
「……覚悟しろよ、イワン。絶対に泣かす」
「エドこそ。今日こそ決着をつけようか……?」
「ちなみに制限時間あと二分なんでー、頑張ってくださいねー」
火に油を注ぐ職人、キリサトの発言に、エドワードの付近でぶつりとなにかが切れる音がした。あ、と暢気のイワンが呟く。あーあ、とまるで他人事の呟きで、バーナビーがさらに先輩たちから距離を取った。ふー、と静かに息を吐き、エドワードが顔をあげる。ゆるく微笑み、よし、とエドワードは言った。
「楓以外、全員挟ます。体育館裏、二時間コースな」
「能力の私的使用だと思いますううううう!」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
元はと言えばだいたい全部キリサトさんのせいですっ、と思わず断言したイワンに、トレーニングルーム全ての意思が同意した。あれ、と不思議そうな顔で首を傾げ、少女はくるんと視線で円を描いた。うーん、と間延びした声の後、あ、とキリサトは声をあげた。視線がストップウォッチに向いている。
「あと一分三十秒ですけど!」
「……イワン、あれ殴ってからでいい?」
「うん。でも一応女の子だから、手加減はしてあげてね」
ふわ、と全身に纏わせていた青白い光を霧散させ、発動を止めたエドワードに、投げられるボールはない。身の危険を感じたらしいキリサトが、じりじりとエドワードから後退していく。唐突に走りだしたその背を追って、エドワードは猟犬のようにトレーニングルームを疾走した。そして、数秒後。いたあああぁいっ、と涙声が響くのに、キースは朗らかな笑顔でトレーニングルームの床に降り立った。
「ところで、私たちも挟まれるのかい?」
「エドワードに聞かないと……。エド、キースさんも挟むの?」
「挟む。絶対に挟む」
キリサトの頭をひっぱたいた手をぶんぶん振ってしびれを逃がしながら歩み寄ってくるエドワードは、剣呑な目でバーナビーを睨んだ。青年の腕は、未だ少女を抱き上げたままだったからである。離せよ、と幾度目かの言葉が漏れるのと同時、PDAの音が幾重にも鳴り響く。無言で、エドワードはその場にしゃがみこんだ。エドワードは真面目な青年である。己の仕事を放置することも、これから出動していくヒーローたちを捕まえ、壁との間に挟みこむ作業もしてはならないと十分に理解しているのだ。ぎり、と心底悔しそうな歯ぎしりの音が響く。
「……イワン、バーナビー」
「うん、なに?」
「はい、エドワード先輩。なんでしょうか」
呼ばれた二人は従順に、エドワードを刺激しないように声を向けた。ゆらりと陽炎のように立ち上がるエドワードの目は、完全に座っている。ふ、と口元に浮かぶ、なげやりな笑み。
「犯人を建物と壁の間に挟んで確保させようと思うが、もちろん異論はないな? ないよな? あるわけがないな?」
「ありません、エドワード先輩」
「僕も。……タイガーさんとバーナビーさん、能力発動まで一時間あるし、ちょうど良いんじゃないかな」
タイガー&バーナビーは、現在、能力の発動が終わった後である。それをカバーする意味でも、サポーターが精力的に動いてくれるのはありがたいことである、と言い訳をして。どうぞ、とにっこり笑ったアカデミー出身ヒーローたちに、その腕から抜け出した楓は、やや呆れた視線を向けて溜息をついた。その日の犯人確保は、非常にスムーズであったという。