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 男の子ってなんであんなに馬鹿なのかしらね、と疲れた息を吐きだしながら、カリーナは段ボール箱にいそいそとチョコレートを詰め込んで行くパオリンを眺めていた。これから世話役のナターシャと夕食に行くのだというパオリンは、普段よりは幾分愛らしいワンピースを身にまとっている。スカートの丈が流行のものよりは長めの、レースや生地の柄などもないクリーム色のシンプルなワンピースは、だからこそ少女の感性が袖を通すことを許した大人しいもので、それでいてパオリンにしっくりと似合っていた。髪にさした青い花のヘアピンが、年頃の娘らしい華やかさを存在に添えているが、少女がこれから持って運んで行こうとするのはなんの飾り気も無い業務用のダンボールであり、その中にいっぱいに詰め込まれたチョコレートである。しっかり密封包装している訳ではないから、室内には淡く甘い香りが漂っている。セロファンにキャンディーのように包まれた一口大のチョコレートに目を輝かせ、うきうきと気持ちを弾ませるさまは少女めいたものではあるのだが、パオリンの場合はその量と方法がちょっとばかり、可憐だとか愛らしいだとか、そういう形容詞から外れるのが常であった。今日はお出かけするからひと箱だけ貰って行くね、と恥ずかしそうにもじもじしながら告げられた単位からしてもうおかしい。箱って、袋じゃなくて箱って。しかもダンボール箱。
 大きめのひと箱は、パオリンが両手で持てば事情を知らぬ大人なら駆け寄って手伝おうとするくらいだ。その中いっぱいに詰まったチョコレートを、一日か二日くらいできれいに消化してしまうパオリンのほっそりとした体格を眺め、カリーナはそっと己の脇腹を指ふにふにとつついてみた。ささやかに、摘める。大丈夫、だとは思っても、すこし気になる。
「……しようかなぁ、ダイエット」
「えっ……?」
 人生の終わりを宣告されたような顔をして、カリーナの発言を聞きとめたパオリンが振り返る。なにもアンタがダイエットする訳じゃないでしょう、と思うカリーナに、パオリンは絶対だめだよっ、と八割が埋まった箱を抱えながら駆け寄ってくる。
「倒れちゃうよ! そんなに細いのに。折れちゃうよ?」
「折れないわよ、別に。……だって、甘いものたくさん食べちゃったし、ちょっと考えた方がいいかなーって」
「だめ、だめだめっ! それに、そんなことしなくてもボクたちは大丈夫だし、本当はもっと食べた方がいいんだよ? 出勤でかなり運動するし、能力使うとおなかすくしね?」
 そう言いながらダンボール箱に手を突っ込み、チョコレートをぽんと口に放り込むパオリンに、カリーナはそっと首を傾げた。訝しげに眉を寄せ、唇に指先を押し当てる。
「……そんなに、お腹すく?」
「カリーナは……本当にコントロール精度高いから、中々そういう風にはならないのかも」
 感動と呆れ、憧れがまぜこぜになった不思議な囁きを落として苦笑し、パオリンはキースとかネイサンもボクと同じで発動の後はぐったりするし、お腹すいたりしてるんだよ、と言った。それはNEXT能力者にだいたい共通する能力発動後の倦怠感、空腹感ではあるのだが、自然操作系NEXTには特に顕著に現れるのだという。あんまり頑張りすぎるとお腹すき過ぎちゃって、一回なんてボク意識失って倒れたことあるもん、と告げられて、カリーナは半年ほど前に起こった、シュテルンビルトが無人戦車によって包囲された事件を思い出した。同時に、その時に知り合った女性警察官からメールが来ていたことを思い出し、カリーナはそろそろ行くね、とナターシャとの待ち合わせに向かおうとするパオリンに、ねえ、と声をかけた。
「最近、また誘拐事件が起こってるんだって。気をつけて行くのよ? なにかあったら、PDA鳴らして? すぐ行く」
「大丈夫だよ、カリーナ。ボクを誰だと思ってるのさ」
 自身に満ちたパオリンの表情に、それはそうなんだけど、とカリーナは苦笑した。二人は今日も、壁に挟まって動けなくなっていたとはいえ、犯罪者をそれぞれに確保した有能なヒーローで、攻撃力の高いNEXT能力者なのである。それでも万一ってあるでしょ、と手を振るカリーナに、パオリンははぁい、と素直に返事をして、タイタンインダストリーを後にした。夕刻のシュテルンビルトは、夜に向かってきらびやかなライトアップを始めている。街灯テレビで夕方のニュースが流れ、また一人、少女が居なくなったことを知らせた。コメンティエーターは家出や行方不明ではなく、状況から考えて、警察が『少女連続誘拐事件』と名をつけて捜査を続けるものだと思われる、と告げた。最近、この都市で起きている事件のうち、解決していないものの一つである。その事件に関して、ヒーローの出動要請は、まだない。パオリンは眉をしかめ、大通りを走って行く。ほどなく、シュテルンビルトは夜に包まれた。



 ヒーローは基本的に、現行犯に対する逮捕権を警察から委任された存在である。捜査権はないし、それが指名手配犯でもない限り、積極的に捕まえに行くことは許されていない。NEXT能力はヒーローとして活動する時にのみ発動の許可が下され、日常生活においての私的利用は世論において明確な悪とはされないものの良い顔をされないのが現状である。そんな一般論をつらつらと詩を諳んじるかのように口にしたユーリは、そういうことで分かっているでしょうが、との言葉で窓の外に広がる夜景を眺めていた視線を室内に落とし、ぶすくれた顔で椅子にふんぞりかえるエドワードを見つめた。その隣では楓が、どこか肩身が狭そうに椅子に座り、揃えた膝の上に手を置いて視線を落ち着きなく彷徨わせている。二人はヒーローサポーターとしての出勤後、ユーリに司法局に呼び出されて今に至る。用件はもちろん、エドワードが純粋なうっぷん晴らしとして犯人をことごとく狭い壁の中に能力を使用してまでぎゅうぎゅう詰めこんだ件であり、エドワードは実行したことを叱られ、楓は止められなかったことを遠回しに怒られていた。ふてくされて、横顔に『俺しらね』と書いて無言のエドワードにちらちらと視線を向けながら、楓は改めて申し訳なさそうにユーリを見た。
「……ごめんなさい」
「はい、よろしい。反省しているようでなによりです。……エドワード・ケディ。あなたはどうです?」
「犯人の動きを封じ、確保を効率よく行う為のサポートとして行いました。実際、犯人の発見から確保までは迅速に行えたと思っています。怪我もさせていませんが?」
 全面的にあやまる気がないエドワードは、冷たい目をしたまま腕組みをし、生意気に首を傾げながら言葉を重ねて行く。その首筋には、付け襟のような首枷がある。エドワードが刑務所から出てしばらくした頃に完成した、爆発物だった。それをなんの気なしに指先でなぞり、エドワードは苛々とユーリを睨む。
「まあ……多少、私情が含まれたことは認めます」
「……多少?」
 苦笑気味に、実際はもうすっかり許していて、形式的な謝罪だけが欲しいのだと笑いをかみ殺す表情で面白げに問い返すユーリに、エドワードは組んでいた腕を解き、椅子の背もたれに体を投げ出しながらああああ、とうめき声をあげた。
「分かった、分かりました。全部俺が悪かった、反省してます。これでいいだろ? もうしねぇよ……たぶん」
「……良いでしょう。私情にまみれた軽率な行動はしない、と信頼していますからね。今回のことも多めに見ましょう。報告も悪いようには行いませんから、安心するように……ところで」
 そもそも、なんで壁の間に犯人挟んだりしたんですか、と呆れかえった様子で書類が山と積まれたデスクの椅子を引き、腰を下ろすユーリにまだまだ帰宅の気配は見られない。司法局自体はとっくに灯りを落としているというのに、ヒーロー管理官であるが故、ユーリには今日中にしてしまわなければいけない仕事が残されているのだ。その確実な原因であるからこそ、やや反省したような顔つきで、エドワードは唇を尖らせた。こどもっぽい拗ねた表情で、エドワードはだって、と言う。
「イワンとバーナビーが」
「……アカデミー卒組は碌なことしませんね」
 具体的になにをした、と告げられなくとも、その両名の時点で察するものがあったのだろう。エドワードと日常を共に生活しているからこそ話を聞く機会も多く、ユーリはそれをごく正確なところで理解し、把握していた。深々と息を吐き、ユーリはパソコンの画面を操作し、数枚の書類をプリントアウトすると、手早くなにかを書き記し始める。
「アポロンメディアと、ヘリペリデスファイナンスには抗議しておきます。サポーターで遊ばないこと、と」
「ところでユーリさん、今日は何時に帰れんの?」
 お説教が終わったのを肌で感じ取り、エドワードが腕をぐっと伸ばしながら問いかける。もうすこし反省しないと駄目なんだからね、と不満げに見つめてくるバディの視線に本日一番の苦笑を浮かべ、エドワードは素直にん、と呟き、頷いた。二人のやりとりを横目で眺めつつ、ユーリはそうですね、とデジタル時計を確認した。時刻は夜七時半を過ぎた所である。頭の中でやるべきことを確認し、ユーリは九時には、と言った。
「司法局を出られると思いますので、遅くとも十時には家に戻ります。分かっているとは思いますが、夕食はすみません、勝手にすませておいてください。家に連絡はしてあります」
「分かった」
「楓さんも、遅くまですみませんでした。気をつけてお帰りなさい……と言っても、エドワードが送るのでしょうけれど」
 当然、と言わんばかりの顔つきで立ち上がったエドワードが、楓の前に手を差し伸べる。ごく自然な姿で手を繋いで立ち上がり、楓はぴょこん、と元気の良い仕草でユーリに頭を下げた。
「ユーリさん、さようなら。あんまり遅くまで、頑張らないでくださいね。体調悪くしちゃう」
「はい、さようなら。気をつけますよ。……くれぐれも気をつけて。いつものことながら、シュテルンビルトの夜は騒がしい」
「……なんか情報来てんの?」
 PDAのメール機能で父親とバーナビーに帰宅する旨を告げる楓から離れ、エドワードがユーリの前まで来る。ひょい、と覗き込まれた画面に望む情報は表示されていなかったが、交わされる視線がかすかな疑問を肯定していた。ユーリの視線が慈しむように楓を眺め、守ってあげなさい、と囁く。
「居なくなっているのは、彼女くらいの年頃の少女ばかりです。……犯人は恐らくNEXT能力者、あるいは、それを専門に動く犯罪組織の可能性が高い、と」
「ウロボロスの可能性は?」
「尾を食む蛇の動きは確認されていません。今のところは、ね」
 つまり、十分可能性があるということだ。一時は、このシュテルンビルトで起きる犯罪の、実に九割の糸を引いていたとまで噂される、闇の中に沈む犯罪組織の実態は、未だ持って掴めないままだった。ジェイク・マルチネス、そしてクリームが所属していた、NEXTの理想郷を作ろうとしている組織だとされているが、実際の所それも確かな情報ではない。ジェイクとクリームがたまたまそういう思想を強く持ち、動いていただけかも知れず、つまる所は組織の名と、それが実際に存在しているという事実だけが空に浮かび上がっている。この都市の闇は濃い。輝く星を鮮やかに浮かび上がらせる為だと嘲笑うように、ヒーローたちの指先から、悪意はすり抜け捕らえられないままだった。警察が、司法局が、この街の正義を守ろうとする全ての者が日夜必死に追い掛けても、彼らは足音ひとつ響かせずに居なくなる。エドワードは深く息を吐きだし、頷いた。
「……タナトスすんなよ?」
「しませんよ」
「本当だな? 聞いたからな。絶対だからな!」
 びしりとユーリの眼前に指を突き付け、エドワードは不思議そうに二人を見つめていた楓の元へと駆け寄った。今日は家まで送る、と言って手を引いて歩いて行くエドワードの後を、珍しいね、と笑って楓がついて行った。
「お父さんがいると、あんまり家まで来ないのに」
「……家の前まで、な」
「ご飯食べて帰ってね? もう連絡しちゃったからね?」
 バーナビーさんから、楽しみに待っていますからねってメール来てたよ、と楓が言うのと、え、俺あの後輩のこと殴っていいの売られた喧嘩は買う方だけど、とばかり目を輝かせたエドワードが扉を出て行くのが同時だった。拳で語りあう友情を築いているらしいアカデミーの卒業生たちは、仲が悪くないからこそ怪我にはならず、単なるじゃれあいで済んでいる。ユーリはアポロンメディアに送る抗議文に『遊んでいる時に不用意に能力を発動させないよう、言い聞かせてください』と書き足し、苦笑しながらメールを送信した。もしかしたら反省の証として、アポロンメディア技術部が彼らのヒーロースーツにペイントを施すかも知れないが、それはユーリの知ったことではないのである。ヘリペリデスファイナンスは余計な追加機能をつける未来がもう確実に見えているので、結果はイワンの悲鳴の度合いで示されるに違いない。それで本人が反省してくれるのなら、ユーリの仕事はもうすこし減るのだが。まあ無理だろうな、と苦笑するユーリの元へ、ヘリペリデスファイナンスからメールが届く。発信者は、キリサト。私もちょっとやりすぎたのであんまり叱らないでくださいね、折紙サイクロンのスーツにちょっと追加機能付けて反省を促したりはしておきますが、と本人の口調そのままに告げたメールに、ユーリはひっそりと笑う。アポロンメディアからも、すぐにメールが届けられる。
 技術部一同の連名になったメールの本文は簡素な謝罪を告げ、一枚の写真が添付されていた。見ると、たくさんのてのひらが油性のスプレー缶を握り締めている。ユーリは思わず口元を手で押さえ、吹き出す笑いをなんとか堪えた。どうやら今日こそ、アポロンメディアが待ち望んだ、ヒーロースーツペインティングの罰が決行される日であるらしい。バディ仲良く罰ゲームスーツで出動させられる図を思い描き、ユーリはくつくつと笑いに肩を震わせた。アニエスは視聴率が取れそうだからと、面白おかしく放送するに違いない。時計に目をやる。思ったよりも時間が過ぎていたことに苦笑して、ユーリは手元の作業に集中した。窓からは、月明りが零れている。雲の切れ間から一筋のぞいた金色の光が、まっすぐ、指先を照らし出していた。それに支配されてしまうよう、惑わされることはなく。ユーリは静かに目を伏せて、口元を笑みに緩ませた。
「大丈夫ですよ。……あなたたちが守ってくれるなら、私は」
 あの声を、誰に聞かせることもなく。続く言葉は誰に聞かせるものではなく、ひっそりと、部屋の闇へと沈んで行った。



 か細い月明りが届かない牢獄のような闇の中で、幼い少女は唇を噛み締める。あどけない面差しに浮かぶ表情はなく、口元だけが歪んでいる。いびつな人形めいた存在の少女は、己の足元をじっと見つめて、ひとつ息を吸い込んだ。明りを消された室内に無造作に撒き散らされた詰み木のよう、床の上には少女たちが落ちていた。意識を失い、横たわり、まぶたを震わせすらしないさまはあたかも投げ捨てられた人形のようで、ゆるく上下する胸の動きだけが、それらが生きている証明だった。少女たちの服装に統一性はなく、だからこそ、飽きて捨てられた人形のような印象が根付いていた。幼い少女は息を殺しながら、じっと、ただじっと、目覚めぬ少女たちを見つめ続ける。見つめるだけの幼子の瞳が緩み、砕け散るような涙がひと粒、頬を流れて落ちて行く。握り締められた手が、かすかに震えていた。少女は声を発さない。くちびるは強く、噛み締められている。目覚めを待ち望んで、その希望を決して捨てずに、幼子は床に落ちるように眠り続ける少女たちを見つめ続けている。一人でいいのだ。その中の一人でも、目覚めてくれたら、きっと幼子の望みは叶うのだ。望みを叶える為の力が自分には足りないと、幼子にはちゃんと分かっていた。だから慎重に選んで、見分けて、それを成し遂げる為の特別な力を持つ存在の手を引いて、連れてきたというのに。どうして起きてくれないのだろう。
 ゆすっても、声をかけても、叩いても、連れてきた少女たちは呻くこともせず、深い眠りの中にとらわれ続けていた。あるいは耳元で泣き叫ぶくらいのことをすれば起きてくれたのかも知れないが、幼子にそれを試す勇気などなかった。そんなことをすれば、幼子をここに連れて来て閉じ込めた者たちがやってきて、うるさいと言って殴られてしまう。殴られることは、別にかまわない。痛いことは我慢すればいずれ終わる。終わることを耐えるのは、慣れている。けれど四度目の抵抗のおり、叶えたいひとつきりの望みを打ち砕かれかけてから、幼子はこの部屋で声をあげること自体をやめていた。それは幼子の希望だった。本当に、本当に大切にしていたものだった。冷たい、乱暴な、熱い、痛い、苦しいばかりの世界の中で、唯一優しく、温かく、笑って抱き締めて、守ってくれたものだった。離されたら、打ち砕かれてしまったら、きっともう、生きていけない。なにもかもを諦めても、それだけはどうしても、諦めきれない。生きることや、生きて行くことより、その存在を失うことがどうしても耐えきれない。幼子は息を吸い込む。震える唇でたどたどしく、ぎこちなく息を吸い、細い声で囁く。
「……やくそく。ぜったい、たすけるから、だから……」
 神に祈る言葉すら知らず、祈る為の気持ちすら胸にはなく。ぬりつぶされた暗闇の中で、そっとそっと、幼子は呼ぶ。己という存在を、唯一守ってくれた、愛してくれた、抱きしめてくれた、痛みと苦しみと冷たさと熱さの中から救いだしてくれた、名前すら知らぬ、己の希望。それに対する、唯一の呼称を。
「……おねえちゃん」
 願うように、呼んで。幼子は全身を青白い光に包み、星屑のように微細な輝きとなって砕け散り、その場から消えた。後に残ったのは、寝息すら弱々しくしか響かない、室内の静寂のみ。一人の少女が、悔しさに震えたかのよう、指先を動かす。その変化を、誰にも見られることのないまま。やがてそれも、夜の深さへ塗りつぶされて行った。



 しきりにあくびが出るのは食欲が満たされてすこしはみ出すくらい食べたのと、あとは時間のせいだった。レストランの一角に置かれた古い柱時計に目を向ければ、日付が変わるまでもう三十分もない。急な仕事がどうしても終わらなかったナターシャを待って夕食に出たので、お腹がすき過ぎてすこし食べ過ぎてしまったし、時間も遅くなってしまったが、文句を言う気持ちにはならない。パオリンの保護者役の一面を持っているだけで、ナターシャは本来、多忙な人間である。オデュッセウスコミュニケーションの重鎮の一人であり、ヒーロー事業部の運営にも関わっているのだ。詳しくはなにをしているのかをパオリンは知らなかったが、本当はレストランでゆったりと食事を取ることよりも、熱いシャワーを浴びて清潔なベッドで休むことが必要なのだろう。目の下には疲れ切ったクマが出来ており、顔つきも疲労を溜めこんだ者のそれだ。それなのにパオリンを見つめる視線は優しく、愛情に溢れてうっとりと輝いていて、一緒に食事を取れるこのひとときを、ナターシャがどんなに楽しみにしていたのか教えてくれる。ナターシャがこんな表情でなければ、パオリンだって我慢して、ボクは良いから帰って眠ってよ、とちゃんと言うことができたのだ。いくら技術部や他部署の者たちが、こぞってナターシャさんの心の支えを折らないであげてください、パオリンちゃんと食事をする為だけに一週間生き伸びたって二週間くらい前からずっと言ってたのでお願いだから一緒に行ってあげてください、とすがってきても、ぐっと堪えてナターシャ、休んで、と言うことが出来たのだ。
 カリーナと別れてオデュッセウスに戻り、段ボール箱いっぱいのチョコを持って廊下を進みながら、ナターシャの最近の惨状としか言いようのない多忙っぷりを耳にしたパオリンは、だから、絶対そうするつもりだったのに。現れたパオリンを見た瞬間、ナターシャは本当に嬉しそうに顔を綻ばせ、おかえりなさい、と言ってくれた。もうすこしだけ待っていてね、すぐに終わらせるから、と言ってパオリンの為に紅茶を淹れ、椅子に座らせて幸せそうに笑った。このあとの幸福を信じて疑いもしない笑顔。それを消すことがどうしても出来なかったから、それから実に三時間程待って、パオリンはナターシャと共にこのゴールドステージのレストランへとやってきたのだった。あたりの客席にすでに人はまばらだが、不思議と心地良いざわめきが落ち着いた雰囲気を作り出し、気を急かしはしなかった。それでも、あくびを殺しきれないパオリンの様子に、ナターシャはそろそろ行きましょうか、と囁き、微笑んだ。ゆっくりと味わっていたであろう食後の珈琲を一息に飲み干し、さっと手をあげてウエイターを呼ぶ。しきりと浮かんで来るあくびをもう一度我慢して、パオリンはナターシャを見つめた。
「ごめんね……ナターシャの方が疲れてるのに」
「いいのよ。私はパオリンと一緒で、大分楽になったわ」
 出動の後だし、大変だったでしょう。今日はゆっくり休むのよ、と頭を撫でられて、パオリンは思わず唇を尖らせた。
「ナターシャこそ、休んでよ。ボク、心配だよ」
「ありがとう。大丈夫よ、明日は休みなの」
 どうりで会社から出る時、携帯電話を明後日の方向に投げ捨てていた筈である。どうしても呼びだされたくなかったのだろう。一日くらいなら黙認する、と言わんばかり、ぬるく優しい目で通りがかった社員が携帯電話を見事にキャッチし、落し物箱に入れていたのを思い出して、パオリンはなんとも言えない笑みを浮かべた。七大企業の社員は、もっと積極的に休むべきである。ナターシャ、休んでね、ともう一度繰り返したパオリンに、あら私の目の前に天使がいるわ可愛い、とばかり愛でる顔つきで幸せそうに頷いたナターシャは、ウエイターにカードを渡して会計を済ませ、バックを持ってさっと立ち上がった。
「車を回してくるわ。ここで待っていて?」
「一緒に行くよ?」
「いいのよ、座って休んでいなさい。すぐだから」
 寝てしまったら、ちゃんと家まで運んであげるから大丈夫、とどこまでも甘やかす囁きをひとつ落として、ナターシャはレストランを出て行ってしまった。追い掛けても店内に帰されるような気がしたので素直に椅子に腰かけたまま、パオリンはぼんやりと窓の外を眺める。シュテルンビルトの夜は眩い。目にすこし痛いくらい、光が闇を切り裂いて灯りを灯している。暗がりを無くす為の行為が、さらに深い闇を生み出している。そのことに、気が付く者はきっとすくない。食欲が満たされた幸福感と眠気の狭間で意識をまどろませて、パオリンはうとうとと瞼を下ろしてしまう。ざわめきがゆうるりと、意識の表層を撫でて遠ざかる。ああ、眠ってしまう、と考えがぷかりと浮かび、それすら夢の水面へ沈んでしまいかけた、その時。ぐっと腕を引かれ、パオリンは目を開いた。ナターシャ、と唇が綴った瞬間、違うとパオリンは直感的に理解していた。ナターシャはこんな風に腕を引いたりしないし、なにより、腕に触れた手は大人のものよりずっとちいさく、頼りないものだった。はっとして目を向けると、すぐ傍に、幼い少女が立っていた。
 ぼんやりとした闇に浮かび上がるような、赤いワンピース。長袖の白いシャツは薄汚れていて、よく見ればワンピースも裾が解れ、破け、縫い合わす糸が見えていた。ゴールドステージでは見もしない、ブロンズステージの移民街、貧民層に行けば目にするような少女に、パオリンはなぜか息を飲みこんだ。短く、毛先の揃わぬ髪と、塗りつぶされたような感情に乏しい瞳が、夜の闇の色をしていたからだろうか。日焼けをしない、青あざを残す肌は白く、その存在は人形、あるいは亡霊めいていた。異様な存在に対する本能的な恐怖を飲みこんで、パオリンはそっと椅子から立ち上がり、幼子の前にしゃがみこむ。まだ成長途中の小柄なパオリンですが、そうしなければ視線を重ねることが難しいくらい、その存在は幼かった。四歳か、五歳くらいに思えた。もっと幼くも見えた。感情の浮かんでいない瞳を見つめて、どうしたの、と問いかけようとした瞬間、パオリンは総毛立つ程の違和感に気がついて唇を強く噛む。そうでなければ、悲鳴をあげてしまいそうだった。世界の時が止まったかのよう、周囲から切り離されたかのように、パオリンと少女を見る視線が、ひとつもない。時間が停止している訳ではないのだ。パオリンのテーブルのすぐ傍をウエイターはゆったりと歩き過ぎ、柱時計が日が変わったことを伝える重い音を奏でる。心臓が、うるさいほどに鳴った。パオリンは、言う。
「キミは……誰なの……? キミは、ボクに」
 その先になにを告げようとしていたのか、問おうとしていたのか、パオリンは考えることができなかった。理由かも知れない。目的かも知れない。意味の分からない恐怖に、答えを欲しがっただけの言葉が続いたのかも知れない。けれどもその全ては形になる前に、幼子の唇の動きによってかき消えた。ゆっくりと、唇を読ませるように、幼子が声に出さずに囁きを落とす。四文字の言葉。たった四文字の求め。四文字の要求を、幼子は繰り返し奏でる。パオリンに触れた幼子の手は、震えていた。拒絶を恐れる恐怖が、指先を白く軋ませていた。パオリンは一瞬だけレストランの入り口を振り返り、ぎゅっと目を閉じて、開く。ナターシャ、と呼びかける言葉も、声にはならなかった。視線を幼子へと戻す。そしてパオリンは、震える指先を温めたがるよう、そっと幼子の手に触れた。
「……大丈夫だよ。もう、大丈夫。……大丈夫、ボクは」
 ヒーローだから。だから、必ず君を。微笑みながら告げられた言葉に、ぎこちなく、幼子が口元を歪ませる。それが精一杯の笑みだと気がついて、パオリンは幼子に腕を伸ばし、その存在を抱きしめた。二人の姿が青白い光に包まれ、消え失せる。あとには、なにも残らなかった。



 戻ってきたナターシャは、広々としたレストランを見まわし、首を傾げて沈黙した。パオリンの姿が、どこにも見つけられなかったからだ。トイレにでも行ったのだろうか。ウエイターに一声かけて食事をしていた席まで戻り、ナターシャは椅子を引いて腰を下ろす。探しに行って入れ違いになるより、戻るのを待つ方が賢明だろう。車の鍵を手の中で弄びながら、ナターシャはパオリンがそうしていたように、しばし夜景を楽しんだ。五分が過ぎる。十分が経過した。遅すぎることに気が付き、ナターシャは化粧室へ向かう。明るい化粧室の扉は全て開かれていて、そこには誰の姿もなかった。小走りに席に駆け戻る。そこにも、パオリンはいない。一人で帰ったのだろうか。まさか、そんなこと。なんの連絡もなしにいなくなる相手ではない。個人使用の携帯電話を取り出し、着信とメールを確認する。該当なし。ウエイターを捕まえて少女の姿を問えば、分からないと告げられ、ナターシャはもう一度、レストランの中を見回した。気持ちがどんどん焦って行く。不安に傾いて行く。冷静な思考ができない。分かっているのに、呼吸が浅く、早くなっていく。パオリン、と唇が呼ぶ。ちいさな声。返事はない。姿が見えない。どこにも、いない。
「……パオリン!」
 ひきつった悲鳴にレストランからいくつもの視線が向けられるが、その中に求める少女のものはない。ナターシャはレストランの責任者を呼び出し、オデュッセウスの社員証を突き付けると同時に警察に連絡し、防犯カメラの提出を求めた。しかし、店の出入り口しか撮影していないカメラにナターシャが求める情報はなく、一時間後、オデュッセウスコミュニケーションのヒーロー技術部に、異例の召集がかかる。PDAの逆探知。パオリンの現在位置の特定と、身の安全の確認の為である。しかし彼らがいかに苦心しようと、反応する筈のPDAは沈黙したまま、望む情報をもたらすことはなかった。数時間後、深夜三時。眠るヒーローのPDAが、急を告げて鳴り響く。ホァン・パオリン。ヒーロー、ドラゴンキッドの失踪が、少女連続誘拐事件のひとつだと、された為だった。

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