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 迷い道、その先の光に

 悪意と、敵意と、それから興味。好意的に解釈するなら嫉妬で終わるが、あいにくとエドワードはそう楽観的な性質ではなかった。またか、と思うし、まだか、とも思う。思うだけで放置しているのは、単にめんどくさいという理由ひとつだけだった。大体からしてアカデミーの生徒は、卵の殻をおしりに付けたヒヨコみたいなものだ。決して褒められる経歴を持つ訳ではないエドワードだからこそ、彼らの気持ちの持って行き方が理解できてしまって、だからこそ相手にはしてやれない。ヒーローアカデミーにおいて、エドワードは異分子である。
 現職に就く代わりの特例として、エドワードは犯罪行為によるアカデミー中退を取り消されていたが、その過去は誰もが知るものとしてアカデミーに残っていた。一般校における卒業生の伝説や七不思議、会談めいたものは教師がどう動いてもなぜか代をまたがって受け継がれてしまうもので、『アカデミーの生徒でありながらもNEXT能力を無断使用し、しかも犯罪者として捕まったエドワード』は、本人の意思とは無関係にとてつもない有名人となっていた。現在は研究生として在校するエドワードは、一般生徒とはそれだけで立ち位置が異なっている。生徒でもない、教師でもない、かつての犯罪者で今は研究生で、しかもアカデミーに通う者なら誰もが憧れる現役ヒーローの助力となる『ヒーローサポーター』一期生。煙たがらない要因が見つからない己の立ち位置を、エドワードは十分理解していた。
 それでも、ちくちくざくざくと向けられる黒い感情の視線には、いつまで経っても慣れることが出来ない。運動場で体を動かしてシャワーを浴びて着替えも済まし、さて飲み物でも買おうかとしていた最中だから、なおうんざりとした気分になった。心もスッキリ、体もスッキリした状態で他人の悪意を向けられれば、誰しもうんざりするだろう。アカデミー時代の習慣で、なるべく人気のない自動販売機を選んで歩いて来たのが幸いして普段に比べれば質も量も無いのだが、嫌なものは嫌で、慣れないものは慣れないままだった。
 ジーンズのポケットから紙幣を取り出して自動販売機に吸い込ませ、ミネラルウォーターを二本と、甘いオレンジソーダを購入する。涼しげな音を立てて落ちてきた硬貨をまた無造作にポケットに突っ込み、三本のペットボトルを腕に抱えて歩き出した。視線はしばらくエドワードの背を追いかけたが、いつもの通り、距離を縮めることも追いかけてくることもなく、また、声をかけてくるなどという接触も見られなかった。集団ストーカーに合ってるとでも思いこみなよ、というずれまくったアドバイスをしてくれた現役ヒーロ兼親友の言葉を思い出し、エドワードはふ、と鼻から抜けるような笑いで気持ちを持ち上げ、廊下を歩いて行く。目指すのは視聴覚室だ。
 一階の廊下の一番奥にあるその部屋は、映画館なみの防音設備とスクリーンの大きさを兼ね備えるわりに使用頻度が極端に少ない、設立当時の計画性のなさを如実に物語る一室だった。そこへ辿りつく為だけの長い、まっすぐな廊下は静まり返っていて誰も居ない。廊下の片側には有名な絵画のレプリカがかけられ、よく磨かれた硝子窓から差し込む陽光に、色褪せることを厭わず照らし出されていた。その中の一枚が、エドワードはとても好きだった。画面はほぼ黒か、それに近い濃緑で埋め尽くされている。夜の森の絵だった。生き物もなく、月や星の灯りもないその絵に差し込む光は、木々の隙間、遠く遠くに描かれた、小さな家の灯りひとつきりだ。
 絵の名も、画家の名も、主題もなにも、エドワードは知らない。ただ、その絵が好きだった。あかりのひとつもなく、傍に命のひとつなく。暗く広大な森を抜け、遠く遠くに家の灯りを見つけたら。それはどんな気持ちだろう。神聖な、敬虔な祈りに似たものだろうか。よく分からないまま視線を外して、光が差している筈なのに薄暗い廊下を、奥へ奥へと進んで行く。長いばかりの道だった。うんざりしながら端まで辿りつき、エドワードは二重扉のひとつを開ける。防音の為の小部屋を数歩で抜けて、さらにもうひとつ扉を開ければ、スクリーンには予想通りの映像が流されていた。風の刃が画面を駆け抜けていき、轟音と共に土埃を巻き上げて視界を塗りつぶして行く。
 視界が晴れるより早く品のない笑いが上がり、一条の光が取り巻く祈りを焼き貫いた。衝撃をまともに受けたスカイハイの体が空に浮き、瓦礫に背から叩きつけられて動かなくなる。それに歩み寄って行く男の足を止めたくてたまらないと言うように、震えながら、楓は祈りの形に組んだ手を膝の上に乗せていた。エドワードが入って来たことに気が付いているのか、いないのか、視線は映像を追ったままぴくりとも動かない。
 溜息をつきながら部屋の中央、ちょうど中心となる席に座っていた楓の元へ歩み寄り、エドワードはまずオレンジソーダを机の上に置いた。コンコン、とペットボトルの底で机を叩いて注意を促すと、そこでようやく、そろそろと視線がエドワードに向けられる。薄闇の中、スクリーンからの光だけを頼りにエドワードを見据える瞳は、それでも宝石かなにかのようにきらきらと光っていた。また、泣いていたのだろう。うっすらと赤くなった目尻と鼻を見ながら、エドワードはもの言いたげな楓の手にオレンジソーダを握らせ、そのまま身を屈めて少女の肘の近くに置いてあったリモコンを取りあげる。
 無造作にボタンを押すとぴ、と音を立てて映像が停止し、別のボタンを押せば照明が息を吹き返す。眩さに思い切り眉を寄せながら目を瞬かせ、楓はもう、と声を荒げた。
「見てるの!」
「座学は?」
「エドさん、お父さんみたい! 終わったもん」
 だからサボりじゃないの、と遠回しに告げる楓にふぅんと気のない返事を返して、エドワードはくしゃくしゃと少女の頭を撫でてやった。さりげなく楓の手が届かない場所にリモコンを放り投げて置きながら、エドワードは二本のミネラルウォーターを机に置き、一つを手に取ってキャップをねじる。一息に三分の一を飲みこんでから楓を見れば、少女はいたく不満げな顔つきで停止した映像を睨みつけ、オレンジソーダを喉に通していた。思わず笑ったエドワードに、向けられた不機嫌な視線を顔ごと反らすことで受け流し、エドワードはペットボトルのキャップを強くしめた。
 トン、と音を立てて机に置き、未だ睨まれている視線を避けながら画面に目を向ける。『UroborosuTV』のロゴが画面右下に描かれたそれは、ジェイク・マルチネスとのセブンズマッチを録画したものだった。エドワードの記憶が正しければここ一週間で十回は見ている映像だ。もっとも回数はエドワードが迎えに来た時に確認しているだけなので、実際はどれくらいになるかも分からない。人を遠ざけた薄暗い部屋でひとり、少女はそれが義務や断罪だとでも告げるよう、同じ映像を見続けている。途中までアカデミーの生徒であったエドワードとは違い、楓はこの場所で学ぶこと、学ばなければいけないことが山のようにある。
 それは単純にNEXT能力の知識であったり、コントロールであったり、あるいは能力者が辿って来た歴史であったりするが、楓には、たった十二歳の少女に願われたのはもっと広く、もっと多く、そして大きなものだった。楓はエドワードと同じ『ヒーローサポーター』の第一期生だったが、ごく正確にするのならそれは半分ほど間違っていた。楓がエドワードと同じなのではなく、エドワードが楓と同じなのだ。そもそもサポーターの構想が実行に移されたのは『NEXT能力のコピー』という、他に例を見ない楓の能力があってこそなのだ。エドワードは様々な理由で御供に選ばれただけであって、一番条件に合致していただけであり、最も司法が言うことを聞かせやすかった相手というだけだった。バーナビーのバディが当初、引き立て役という意味でワイルドタイガーを引き当てたのと同じように。エドワードはただ楓の傍に居て、有事に彼女の能力を『なるべく他に被害がでないよう』コピーさせる為のストッパーだ。
 エドワードがアカデミーの成績優秀者であり、面倒見が良い性格をしていたことは、責任者たちにしてみれば嬉しい誤算でしかないに違いない。鏑木楓のバディの条件は、彼女の能力を暴走させないよう努めること。究極的にはその条件を満たせば、それだけで良いのだから。エドワードは権力者たちの思惑を正確に理解していたが、それを楓に伝えることもしなかったし、分からせる素振りを見せることもなかった。エドワードの常識に照らし合わせて考えれば、それは己の能力さえ完璧にコントロールできない十二歳の少女には、重い事実だったからである。それなのに、たった十二歳なのに、楓はへこたれることがない。押しつぶされはしなかった。
 この強さはどこから来ているのだろうと、時々エドワードがハッと息を飲むほど、楓はひたむきで情熱的で頑なで一生懸命だった。個別授業によりアカデミー生より早いペースで知識を詰め込まれながら体を鍛え、能力のコントロール訓練を行う。その傍らで、図書館に通いつめては様々な知識をかき集めるように多種多様な本に目を通し、こうして時間を見つけては資料映像と向き合っていた。特にこの一週間は、資料映像との逢瀬が彼女の中の流行りらしい。父親が傷つけられる映像が楽しいのかと心ない声はきっと彼女の耳にも飛びこんだだろうが、エドワードは彼らに二言目を言わせなかったし、そうではないことなど楓を見ればすぐに分かっただろう。
 憧れのヒーローが、そして父親が、映像の中で理不尽な暴力に倒れていくたび、彼女は歯を食いしばって涙を流す。それは終わった過去であり、現実の彼らは今日も都市の守護者として飛びまわっているのを誰より知っているだろうに、近づかないでと言わんばかりに映像に切り取られた悪を睨みつける。繰り返し、繰り返しそうする意味を、傍らに立つ役目であるからこそ、エドワードだけが気がついていた。青年の隙をつき、さっとリモコンを取り返そうとする手首を掴んで止めながら、エドワードはもう十分、と初めて楓のことを止めた。
 己の内側に感情を溜めこんだ少女の瞳が、まっすぐにエドワードを見上げてくる。未だ幼いが故に気高い、少女の瞳。まばたきを繰り返せば零れてしまいそうな涙が滲んでいるのを見て、エドワードはジーンスからハンカチを取り出し、楓の目元に押し当てた。
「悔しくて、辛くて、怖くて、嫌で、悲しくて、苦しくて……心がいっぱいになったら、その気持ちと感覚を忘れるな」
 硬貨が零れて床に落ち、澄んだ硬質な音を立てるが気にはしなかった。それはあとで拾えば良い。動かない楓の涙をそっと拭ってやりながら、もういい、とエドワードは言ってやる。己の他にはきっと誰も、この少女を止めてやることができない。
「もう二度と、こんな風にさせない為の、それが覚悟だ」
「……うん」
 居心地が悪そうに身じろぎした楓が、エドワードの手からハンカチを受け取った。自由になったてのひらでぽんと頭を撫でてやり、エドワードは全く、と苦笑する。
「誰がこんなことやれって言ったよ」
「だって……エドさんが」
「俺が?」
 そんなに追い詰めることを言ってしまっただろうか、と眉を寄せるエドワードに、楓が大慌てで顔をあげる。ちがうちがうと必死に首を振る様は可愛らしくも幼くて、エドワードは苦笑しながら楓の頭に手を乗せてやった。ぽん、と一度優しく叩いてから、艶やかな黒髪に指を通すように撫でる。やや荒れた指先をつるんと滑って行く毛先は、よく手入れされた少女のものだった。落ち着け、という代わりの仕草に、楓は視線を彷徨わせながらすぅと息を吸い込む。ちがーう、としょんぼり呟く声は気を許した相手に対するそれで、エドワードはむずがゆい気持ちになりながら楓から指先を引いた。
 うん、と問いに語尾をあげながら腕を組むと、楓が唇を尖らせながらだって、と言った。
「エドさんが、色々……言われたりするの、私、すごく嫌なの。……それを、エドさんが仕方ないとか! 思っちゃうのも、言ったりするのも、嫌なの」
 まさしく、仕方がないから、と。そう告げようとした気配を察したのか、俯き加減の顔をぱっと上げ、楓は強く言葉を繋げた。それに反論せず、ゆるく苦笑するだけで言葉にしないのはずるい大人のやり方だ。誠実と言い難いと知っていて、エドワードはわざとそうした。楓は悔しげに唇をわななかせ、息を吸いながら言葉を探り、考えている。まあるい瞳がくるくると、忙しく動き回っているのをエドワードは見ていた。だから、と少女の唇が動く。桜の色だ、とエドワードは思った。
「だから私、もっと頑張ろうと思って……頑張らなきゃって、思って……。私はまだこどもで、全然なんにもできなくて、分からないことだらけだけど、でも、エドさんのバディだから」
「……うん?」
 集中して聞いていなかったエドワードの、やたらと訝しげな声がゆるく空気を震わせた。そこで、どうしてそう繋がるのか。エドワードには真剣に理解ができない。思考に沈んで考え込もうとするエドワードの、手を取り引いて行くように、楓の凛と響く声が告げる。
「バディは助け合うのよ。お父さんがそう言ってた。一人ずつが頑張っても、一人だけが頑張っても駄目なんだって。二人で、一緒に頑張って、そうやって二人分の結果を出して行くんだって」
「……おう」
 鏑木家は、現在二人暮らしである。アカデミーに通うことになった楓と現役ヒーローである虎徹は一つの家で暮らしているが、お互いの忙しさ故に、あまり時間を重ねて過ごすことは出来ていないらしい。しかし会話は増えているらしく、ふとした瞬間にエドワードはそれを知るのだ。今も、これは『ワイルドタイガー』の言葉だろう。そうかつまり今回の原因の半分くらいはあのおっさんにあると決めて間違いないな、よし、と内心目を細めたエドワードに気がつかず、えっと、だから、と言葉を探しながら楓は言った。
「エドさんがもっと……胸を張れるように、頑張りたい」
「俺が?」
「だってエドさんすごく頭が良いし色んなこと知ってるし! それなのにあの人たち、エドさんのことなんにも知らないくせに、悪口ばっか! それなのに私がなにを言っても半人前で七光のちびって言われるし! だから、私、すこしでも……ちょっとでもいいから」
 それ以上の言葉を聞きたくなくて、エドワードはてのひらで楓の唇を覆った。ひゃあっ、と驚きにあがった声はそれ以上の音を紡ぐことなく、まんまるに見開かれた瞳が恐る恐るエドワードを見つめてくる。なにか悪いことを言っただろうか、と不安がる眼差しだった。違うだろ、お前がそんな風に不安になること今なかっただろ、と思いながらも上手く声を出せず、エドワードは息を吸い込んで、ようやくなんとか、大丈夫、とだけ言った。眩暈がするくらい強い感情で、楓に半人前で七光でちびとか言った奴は許さない絶対にだ探しだすから覚悟をしておけ、と思い、ぐらぐらと揺れる気持ちを宥めようとする。
 落ち着いて、分かったもうなにも言わなくていい、大丈夫だ、と言ってやらなければいけないのに。それが一番なのに、なぜか凶暴な気持ちが首をもたげて感情を荒らす。言ってしまいたい。バディだなんて、そんな風に思ってもらえる存在ではないことを。そんな立派なものだと思ってくれているのは楓だけで、エドワードは誰でもよかった不特定多数から、たまたま選ばれた権力者が操りやすい条件を持ったNEXTであるだけで。サポーターという立場も現役ヒーローと、殆ど楓の稀な能力とコントロールのまるで利いていない凶悪性をどうにかする為に実現されたようなもので。そんな風に心を砕いて一生懸命に、悲しさを感じることも悔しさを感じることもないのだと。なぜだか言ってしまいたかった。
 楓のバディに対する感覚や気持ちは、そのままタイガー&バーナビーが培ってきたものだ。その理想も、彼ら二人が努力して築き上げてきたもので、それは尊く綺麗なもので、楓の胸に咲くには相応しいものだが、エドワードが受け入れていいものとは思えなかった。駄目だ、と言ってしまいたい。楓は知っている。エドワードが犯罪者であったことも、楓と出会うその直前まで罪を償う為に刑務所に居たことも。事実として知っている。それは単なる文字認識だ。だから、楓は同じ目線でエドワードも世界を見てくれているのだと、信じて疑わない。
 駄目だ、とエドワードは思う。楓の居る綺麗な場所に、エドワードは行くことが出来ない。黙りこんでしまったエドワードに、楓がやや悲しげに眉を寄せる。エドさん、と囁く声は竹林を揺らして過ぎる五月の風に似て、すこしだけ切なくしっとりと肌に触れて行った。
「……褒めすぎだ。ばーか」
「そんなこと、ないよ」
「そうなんだよ」
 もう一度ばーか、と笑って額を突いてやれば、楓はいかにもこどもっぽく頬を膨らませて、もう、と怒ったような声をあげた。怒るなよ、と苦笑しながら宥めつつ、エドワードは重たい気持ちを飲みこんだ。肺が重たいような感覚で、息が上手く吸えない。つまり、楓は、父親にバディについて語られそそのかされたことにより、アカデミー生によるこれまでのやっかみや嫉妬の言葉で受けていたもやもやをバネにすることに決め、エドワードの為に、もっとサポーターらしくならばければと、バディの片割れとして成長しなければと思い、あえて辛い映像を脳裏に叩きこんだのだ。ジェイク戦を選んだのは、この映像をはじめてみた時の、講師の言葉がきっかけだろう。
 君たちがサポーターとして成長していけば、ヒーローが強大な能力を持った敵に、なんの情報も無く突っ込み怪我をすることがほぼ無くなるだろう、と。その為の仕事は膨大になり、その為の努力は果てしないものになる。覚悟が必要だ、と楓とエドワードに、言葉が等しく告げられた。覚悟が必要だ。これから先は、ずっと、常に覚悟が必要なのだと。それをエドワードは賢しげに、先程楓に与えてやった。それが覚悟だ、とそう言って。そんなもの、エドワードは持ちもしないのに。
 与えた信頼に、相応しくなれる日が来るとも思えないのに。ゆるく微笑み言葉を拒絶して、エドワードは楓から一歩、距離を取る。落ちたコインを拾う為だと、そんなふりをしてエドワードはそういえば、と息を吸う。
「座学が終わってるなら、このあとはトレーニングセンターに行くから。準備して来いよ」
「……なにしに?」
「能力のコントロール訓練。この時間なら誰かしら居るだろ……いい加減、無差別コピー状態どうにかしないとな?」
 ヒーローアカデミーに入学して一月とすこし。楓のコントロール能力は安定の兆しを見せないままだった。常にコピー状態がオンになっており、しかも服越しであろうとなんだろうと、触れただけで相手のNEXT能力を読みとってしまうのだ。状態が悪ければ読みとり後すぐに発動状態になり、大慌てでエドワードが呼ばれることがしばしばだった。おかげで入学一週間が過ぎた頃、エドワードは内密に、座学の時間と自身の鍛錬時間以外は楓の傍に居るようにと頼みこまれている。あくまで命令ではなく頼みごとの範囲だったが、それが逆らえぬ要請であることも、エドワードには分かっていた。
 うぅ、と落ち込み気味に呻く楓の頭をぽんぽんと撫で、ほら用意してこい、とエドワードは視聴覚室の外へ少女を送りだそうとする。はーい、と返事を響かせて歩き、楓は扉に手をかけた所でぱっと振り返った。一緒に行きたがっているのが分かっていて、エドワードはまた後でな、と言わんばかりに手を振った。視線を無視してリモコンを拾い上げ、プロジェクターに歩み寄ってスイッチを切る。黙々と後片づけをするエドワードに、楓は片付けてくれてありがとう、と言ってから部屋を出て行った。ひとつめの扉も、ふたつめの扉も閉まるのを耳を澄ませて感じ取り、エドワードは大きく息を吐きながらしゃがみ込んだ。
 しばらく立ち上がれそうにない気持ちで、そっと頭を抱えて目を閉じる。この重たい気持ちも、自身に対する怒りも、動揺も絶望も、この場限り、この場所に置いていかなければいけない。まっすぐな努力を続ける少女の隣に立つのに、それは相応しくないものだった。それを今捨てたからと言ってどうにかなるものではないと、エドワード自身が一番よく知っている。それでも、努力はしなければ。走り続ける彼女を追うには、この身は重たいものを持ちすぎた。
 息を吸い、吐きだす。乾いた笑いが喉から漏れたが、楽しい気持ちにはなれなかった。もしもあの事件を犯さず、彼女に出会うことが出来ていたなら。夢見るよう望むよう、振る舞うことができただろうに。ごめんな、と囁く。声は部屋に響き、どこにも零れはしなかった。



 サポーターの二人がトレーニングルームに現れる時には、ふたつの決まりごとがあるらしい。一つ、事前に連絡をすること。これはその時にトレーニングルームを使用している誰かに連絡をつけなければいけないということなので、たいがいの場合、決まったスケジュールに沿って訓練をしているキースか、あるいはイワンのもとに一報が入る。連絡と言っても複雑な手続きを踏むものではなく、単に今から行くが問題がないかを問い合わせるもので、これまでヒーローがサポーターの来訪を断ったことはなかった。アポなしで来てもいいのにと不思議がるパオリンに、エドワードは肩を竦めて苦笑するばかりで詳しい説明をしなかったが、連絡は多数ある彼の行動制限に抵触することらしく、一度として知らせなく訪れたことはなかった。
 もう一つは、サポーターは必ず彼らに支給された制服を着用して現れる。黒の長袖長ズボンの上下に、司法局の紋章と百合の花が描かれたフードつきのマント。硬質な音を奏でるブーツは最近になって色が見直されたらしく、楓のものが赤、エドワードのものが黒になっている。左腕にはヒーローに支給されているのと同じ形状の白いPDAが巻かれていたが、司法局との直通ラインやアカデミーとの連絡にも使用するものらしく、制服を着ていない時でも楓の腕にあるのを、虎徹は日常の中で確認していた。私服からサポーターの制服に着替えるのは、アカデミーの更衣室を使用しているらしい。専用のトランスポーターを持たない二人にはアカデミー全体がその役目を担っているとのことだった。
 他人事ながら、イワンはあの格好で移動するのは恥ずかしいだろうなぁ、と思い、そわそわと娘の訪れを待ちわびる虎徹を、ランニングマシンの上から遠目に眺めた。今から行くね、と楓から連絡を受けたのは虎徹だった。父親のスケジュールをちゃんと把握していた娘が、たまには、と気を利かせて父親に連絡をしてくれたのだ。九割以上の確率でそういった連絡はエドワードが行っているので、楓がそうしてきたことも珍しければ、虎徹が受け取るのも初めてのことだっただろう。当然のように、連絡を受けてからの虎徹は落ち着きなくトレーニングルームをぐるぐると歩きまわり、さかんに時計に目を向けては扉を気にして耳をそばだてている。
 本日はさらに珍しく、全員がトレーニングルームで汗を流していたから、虎徹に向けられる視線は様々だった。ほのぼのと見守る者、呆れる者、なるべく視界に入れないようにして訓練に集中する者。イワンはどちらかといえばなるべく見ないようにしてトレーニングメニューの消化に勤しんでいたが、ぐるぐると歩きまわる虎徹は十秒に一度はそわそわと時計を眺め、二十秒に一度は扉を見て、三十秒に一度はPDAに新しい連絡がないかを確かめている。これが世の中の父親の一般的な反応だとは決して思わない、と百年の恋がじわじわ冷めてきているような目で虎徹を眺めたのはイワンの隣で走り込んでいたカリーナで、そのさらに隣には動物園の虎ってこんなですよね、と言わんばかり呆れた目をして沈黙しているバーナビーが居た。
 イワンとカリーナとバーナビーの間に弾む会話はなかったが、共通している意思は一つ、早く来て楓ちゃん貴方の父親ものすごくうっとおしい、である。大体、アカデミーからトレーニングルームに辿りつくまで、上手く行っても四十分はかかるのだ。もうかれこれ三十分、飽きずにぐるぐるぐるぐるトレーニングルームを歩きまわっている虎徹をバーナビーが止めないのは、ただ単にウォーキングの効果を期待しているからであって、普段から運動をしてくれていれば即座に足でも引っ掛けて転ばせることに決めただろう。
 あと十分もこれを見続けなければいけないのか、とうんざりした顔で停止するランニングマシンの上で腕を組み、バーナビーはカリーナに手を伸ばした。あー、でもよく見ればなんか水族館の魚みたいで可愛いとも言えなくもないし可愛いと思えば許容できる気がしなくもないしいけるいける大丈夫可愛いタイガー可愛いうっとおしいけど、となにやら己に自己暗示をかけようと半眼でぶつぶつと呟いているカリーナの頬を、バーナビーの人差し指がふにふにと突っついた。さすが年頃の女性と言おうか、アイドルヒーローとしての誇りと矜持なのか、カリーナの肌は滑らかで柔らかい。

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