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 注意を引く以上の熱心さでふにふに突き続けていると、眉を寄せたカリーナの手が、バーナビーの指先をぺちんとひっぱたいた。
「やめてよ。用事があるなら声出しなさいよ、声」
「すみません。途中で純粋に楽しくなったもので……脚の調子はどうですか?」
「……できればあと二日くらい動かさない方が良いっぽいけど、そんなこと言ってたらなまるし。無理しないように、だって」
 一月半前、遠距離狙撃によって打ち抜かれたカリーナの太股は、今はうっすらとその名残を肌に残すまでに回復している。傷口はそのまま残らず消える予測が出ていたが、悪いことに神経のどこかがやられてしまったらしい。歩行に問題はなく、飛び跳ねるのにもなんら制限はないが、時々、ひきつれたような痛みを発しては二日か三日、その状態が続くのだ。どうも満足な治療をしないまま戦闘を続け、その後も傷口が開いたり閉じたりを繰り返していたので、なんとなく残ってしまったらしい。
 カリーナ本人はまあ雨の日に頭が痛くなる体質とかそういうのの一種だと思えば、と言って全く気にしていないのだが、その時遠くに居て助けに間に合わなかったバーナビーは、それを己の痛みかなにかのように眉を寄せて沈黙する。太股に視線を向けたまま悩ましげな表情をされたので、カリーナは溜息をつき、バーナビーの頬に手を押し当ててやった。接触する体温は、ゆるやかに意識を持ち上げてくれる。そろりと持ち上がった視線を重ねて、カリーナは馬鹿ね、と苦笑気味に囁いた。
「安静にしてれば、これもちゃんと無くなるって。お医者さまも言ってた。アンタが気にすることじゃないのよ?」
「……安静にしてるつもりがあるんですか? ブルーローズ」
「カリーナ・ライルは安静にしてるつもりがあるわよ。バーナビー」
 ヒーローとしての出動があれば定かではない、ということだ。状況によって変わってくるので明言はしないその呼び分けの意味を、バーナビーは正確に理解したからこそ舌打ちする。険悪な雰囲気にならないのは二人が互いに心配しているからで、ヒーローとして踏み越えていかなければいけない一線を十分理解しているからだ。昔みたいなやる気の無さを引っ張り出して来てくださいよ、と呟くバーナビーに、やぁよ変なこと言わないで、とカリーナが口を尖らせる。そのやり取りはイワンの目から見ても親密なものだったので、青年はランニングマシンの稼働を緩やかなものに変えながら溜息をつく。
 イワンからすれば兄妹がじゃれているようにしか見えないのだが、恋は何者の冷静さも覆い隠すのだ。二人とも、と呼びかけると素直に向けられる視線が疑問に溢れていて、イワンは溜息をつきながら彼方を指差してやった。
「ワイルドさんが見てますけど」
「……ちょっと。アンタのバディでしょ? 早くなんとかして来なさいよ」
「カリーナがそろそろ諦めて、僕のことお兄ちゃんとか呼べば解決する気がするんですよね?」
 さあどうぞ、ご遠慮なく、とにっこり微笑むバーナビーは、雑誌に掲載される写真と同じ笑顔をしていた。きらきらと周囲の空気が煌いているような錯覚さえ起こさせる、とびきり甘くて優しい笑み。女の子が思わずくらっとしてしまう笑顔だ。バーナビーはその効果を十分知っていて、カリーナを籠絡しようとしていた。どうしようこのハンサムも早くどうにかしなければ、と思いつつ苦労して視線を引きはがし、カリーナはなにも置かれていない白い床を睨みつけながら考えた。まあ、バーナビーのいうことも分からないではないのだ。四歳で両親を奪われ、それからの保護者には騙されていて、彼は人一倍、家族とか家庭とかそういうものに憧れを持っている。
 優しいもの、温かいものとして家族を認識しているバーナビーが、だからカリーナやイワン、パオリンをそういうものとして想ってくれているのは純粋に嬉しくもある。しかし、それとこれとは話が別である。お兄ちゃんとか。絶対無理だし。ありかなしかで言うとありえないし、と眩暈を起こしかける意識を叱咤して首を振って溜息をついてから、カリーナは気だるげにバーナビーを見た。にこ、と誘うように笑いかけられる。にこ、と好意的に笑い返して、カリーナは息を吸い込んだ。
「イヤ」
「……兄さんでも良いですが」
「そこじゃないし! ちょっとタイガー! アンタのバディどうにかしなさいよ! 頭の中に花咲いてるわよっ?」
 カリーナは諦めが悪い、と言わんばかり溜息をつかれるが、それはこっちの台詞だと言ってやりたかった。ええー、と面倒くさそうな声をあげながらも虎徹がバーナビーに歩み寄ろうとした瞬間、静かな音を立ててトレーニングルームの扉が開く。あ、と真っ先に言ったのはイワンだったが、反応が早かったのは虎徹だった。歩み寄ろうとしていた足をそのままに後ろに重心を移動させ、くるりと身を反転させる動きはさすが直に身体を使うパワー系NEXTだと誰にも思わせるものだった。鍛え上げられた身体の仕草は、それだけで芸術品染みている。楓ーっ、と呼びかけながら駆け寄る虎徹をちらりと見て、少女の背をエドワードが押す。
「楓、復習」
「……うん」
 交わされた短い言葉の意味を、傍観者だけが理解した。己を抱きこもうと伸ばされた父親の腕に素早い動きで指先だけを添え、楓の重心が下にさがる。体がぶつかる前に横に飛び退くようにして避け、両手で背中を突き飛ばすようにして距離を取った。たった、それだけの動き。はっ、と浅く息を乱してエドワードを見る楓に、うーん、と悩むような仕草が向けられた。
「……遠慮がある。七十点。でも、動きはちゃんと出来てるな」
「……これじゃダメ?」
「いや、いいよ。十分。頑張ってるな」
 カ、カン、と硬質な音を響かせながら歩き、エドワードは楓の頭にぽんと手を乗せる。てのひらはすぐに離れたが、満足げな笑みを浮かべるエドワードの視線は楓から離れず、少女もやがて花のような笑みを浮かべてみせた。その辺りで己を取り戻したのだろう。楓ーっ、と半泣きで縋りつかれるのを、少女は甘んじて受け入れた。二度も避けたら後が大変だからである。
「なんでお父さんのこと避けるんだよー。傷つくだろ……?」
「授業の復習だったの! お父さんが嫌いなんじゃないよ?」
「そうなのか? 大好きだぞー、楓。頑張ってるんだな、怪我してないか?」
 ちょろい、と言わんばかりの視線を虎徹に投げかけたエドワードは、室内を見回すとまっすぐにイワンの元にやってくる。よう、と片手を上げられたので同じようにして挨拶し、イワンは苦笑まじりに問いかけた。
「護身術?」
「含みの、近接戦闘初歩。……ワイルドタイガーを捌けるとすると、やっぱ筋は相当良いな」
「点数辛くありませんでした?」
 緊張はしてましたけど動きは良かったですよ、と評するバーナビーに、エドワードはゆるく口元を和ませて告げる。
「あんまり褒めると、オーバーワークするんで。点数は適度に辛く付けてます」
「あー! カリーナ、まだこんな所に居た!」
 シャーワルームに居ると思って探しちゃったじゃないか、とひょっこり顔を覗かせたのはパオリンだった。探しついでに、身を清めて来たのだろう。生乾きの髪にヘアピンは刺されておらず、代わりに肩にかけられたタオルの端に青い花が咲いていた。もう、と言いながらカリーナの手を引いてランニングマシンから下ろしたパオリンは、早くシャワー浴びてきてよ、と少女の手を引いて奥へ連れて行きたがる。
「脚、診てあげるからさ! 針とお灸とマッサージ!」
「マッサージだけでいいわよ」
「だーいじょうぶ。痛くしないから」
 ほらほら早く、と背を押されて早足でシャワールームに消えていく二人に、バーナビーが笑顔で手を振っている。仲良くて可愛いな、とでも思っているに違いない。ランニングマシンを止めて床に足をつけながら、イワンはバーナビーの手を取った。ぱ、と視線がイワンに向く。大丈夫と告げるように微笑んで、イワンはゆるく、バーナビーの手を引いた。
「僕たちもそろそろシャワー、行きましょう。……エドも来る?」
「なんでだよ。行かねぇよ」
「じゃあ、楓ちゃんの所に戻ってあげれば? こっち、気にしてるよ?」
 エドはいつも僕のトコ来るから、と嬉しげに笑うイワンにうるせ、と言い返し、エドワードは溜息をつきたい気持ちで振り返る。すぐに、視線は重なった。どこへも行かないでと告げるようなひたむきな、不安げな視線が一つ。こちらの隙を伺うような、ひたすら見抜こうとするような、冷静で落ち着いた色を灯しながらも深く艶めく肉食獣の視線が一つ。親が怖い、と正直な感想を抱きながらも首の辺りを指先でかき、エドワードは楓に向かってひらひらと手を振ってやった。なにを不安がっているのか分からないが、すぐ傍すぎるくらい傍に父親が居るのだから、もっと頼ってやれば良いものを。
 じゃあこの隙に、とシャワールームへ向かったイワンとバーナビーの背を見送り、エドワードは遠巻きに見守っていたネイサンに笑いかけ、そちらに足を運んだ。目が合った瞬間、てっきり戻ってきてくれるものと思っていた楓が、あからさまにショックを受けた顔つきで黙りこむ。見ていると時々振り返って手を振ったりしてくれるが、基本的にエドワードは、楓と虎徹に近づいて来る気がないらしかった。ネイサンと話を盛り上げているのを眺め、楓が深く息を吐く。
「……お父さん」
「ん?」
「バディって、すぐに仲良くなれるものじゃないのね……」
 不満げなその声に、虎徹は思わず笑いながら頷いてしまった。なにを当たり前のことをとも思うが、初のバディとして売り出されたタイバー&バーナビーは、表面上なんのトラブルもなく過ごしたようにメディア操作がされている。実際の始まりは酷いもので、信頼もなにもかも一つずつ積み上げていったからこその現在があるのだ。一朝一夕で、虎徹とバーナビーのようになれるものではない。なってもらっても困るのだが。バディを恋人に持つというのは、様々なリスクを追いすぎる。それ以上の問題として、まだ十二歳の娘に友情以上のビーイフレンドが出来て欲しくない父親は、それでも苦笑しながら楓の頭を撫でてやった。ぽんぽん、と二度叩くようにしてから、くしゃりと髪を乱すのがいつものやり方だ。
 かーえで、と甘く響いた虎徹の声に、向けられる視線はすこしばかり拗ねていた。お父さん、ずるい、と声にもならない意思に笑って、虎徹は娘の体をひょいと抱きあげてしまう。十二歳だ。少女とはいえ、鍛えてもいる体は随分と重くなってしっまりしていたが、それでも持ち上げられないものではない。楽々と足を進めてそっとベンチの上に下ろし、虎徹は娘の隣ではなく前にしゃがみこむと、俯く視線を合わせるように下から顔を覗き込んだ。膝の上でかたく握られた手を取って、そっと繋ぎ合せる。下から目を除きこまれて、こんな風に手を繋いで、嘘をつけるのは心無い者だけだ。楓、と呼べばかたく閉じた唇が開いて、息を吸い込む。
「あのね」
「うん」
 真剣に話を聞く時だけ虎徹がする約束めいた仕草は、楓の心をするりと解いて行く。
「エドさん、すごく優しいの」
「……おう」
 つい、面白くない声が出てしまうが、それはもう仕方がないことだと虎徹は思う。可愛い可愛い可愛い娘の口から男の名前が出てくるだけで正直面白くないのに、優しいだのなんだの言われたら、とりあえず体育館裏に呼び出してやりたい。というか、呼び出す。父親のあいづちに不穏なものを感じつつ眉を寄せ、楓はそれでね、と言葉を繋げて行った。
「怒ったりもしないし、怖いことも全然しないってゆーか……私に、すごく優しいの。……でもね、お父さん」
「ん?」
「エドさん、私になんにも話してくれないの」
 楽しいことは教えてくれる。優しさだけはもたらしてくれる。後の全てを、全部自分の中だけに閉じ込めて、態度に出すことも語ることもしてくれない相手。エドワードは常に楓の背を支えて、分からなければ耳元で囁き、戸惑えば指で示して進む方向を教えてくれる。ためらえば背を押して、大丈夫だと共に歩んでくれる。決して、隣に並んではくれない。なにを考えているのかも、なにを見ているのかも。教えてくれないし、分からせてくれない。それに気がついてしまって、とてもくるしい。
「……バディでしょって言うと、優しく笑うの」
「んー……」
「バディなのに、エドさん、私の事すごく大事に守ろうとしてるの。分かるんだよ。バディってそういう……そういうんじゃないよね? お父さん。違うよね? もっと、ちゃんと、話したり……するんだよね」
 言葉を選びながら紡がれる声はかすかに震えていたが、悲しみより怒りが強いようだった。どうして、なんで、とこどもっぽい怒りは瞳を強く輝かせていて、虎徹はひっそりと楓は本当に友恵ちゃん似だなぁ、と思う。彼女もこんな風に、理不尽と思うものに立ち向かうひとだった。悲しみよりは怒りで立ち上がり、くじけても何度でも、納得できるまで向かって行く人だった。それがどんなに心を疲れさせる行為でも、止めようとはせず。ただ求めるままに、走って行くことができる人だった。その強さを、虎徹は持たない。
 あるいは女性だからこそ可能なことなのかも知れないが、虎徹は苦笑して、息さえおぼつかないくらいの感情で満ちる楓を落ち着かせる為に、娘の頭をそっと撫でてやる。瞬間、楓の体が淡く発光してハンドレットパワーがコピーされてしまったことを伝えるが、ぎくりと身を強張らせる娘を、かまわず胸に抱き寄せてやる。大丈夫だから、と言い聞かせる言葉に、ちいさな手が虎徹の服を縋るように掴んだ。とくとくとく、と普段より早く繰り返される鼓動が楓の動揺と恐怖を物語っていて、なんだか急に切なくなる。ごめんなあ、と囁きかけて止めたのは、それは虎徹の意思を救う言葉にしかならないからだ。大丈夫、大丈夫、と繰り返し囁きながら楓の背を撫でていると、不意にカツ、と存在を知らしめるような硬質な足音が耳に届く。
 ふ、と息が楽になったように、楓がゆるく力を抜いた。顔を上げないまま、殆ど無意識に。
「ワイルドタイガー。……ちょっと失礼します」
 一言断って、白い手袋を脱いだ指先が虎徹の抱きこむ腕の中へ伸ばされる。楓、と呼びかけた声に視線が振り返るより早く、指先は少女の頬に触れた。濡れていないことを確かめて安堵したような指は、そのまま髪を一筋絡ませて撫でて行き、父親の服を掴む少女の手に押し付けられる。
「コピー、できるな? 任意コピー。自動じゃなくて。こないだ、やり方は教わっただろ?」
「……でも、今、あぶない」
「危なくない。大丈夫。お前はちゃんと制御出来てる。だから、怖いことも無い。……ほら、コピーしろ。いいこだから」
 トントン、と楓の早い鼓動と同じリズムで手の甲を指で叩き、エドワードはひたと視線を合わせたままで言い切った。ハンドレットパワーは、五分が経過すれば自動的に落ち着く能力だ。だから無理にコピーさせなくても良いのではないか、と訝しむ虎徹に、エドワードがちらりと視線を向ける。思わず虎徹が仰け反ったのは、その眼差しが楓の言うような『優しい』青年のものではなかったからだ。水底の奥に隠された感情は激しい怒りでしかなく、それは不用意な接触を咎めているようでもあり、楓を怯えさせる能力自体に向けられている意思でもあった。瞬き数度で見事なまでにとりつくろって微笑みを浮かべ、エドワードはすい、と虎徹から楓に視線を移動させてしまう。
 指先は少女の手の甲に触れたまま、繋ぎ合わされるのを待っていた。
「任意コピーのトリガーはこないだ決めた通り、『そうしたいと思って手を握ること』だ。ほら、早く」
「……やっぱり、『手で触る』だけにしたい」
「駄目だっつったよな? そんな簡単な条件だと、トリガーの意味がなくなるんだよ。……楓」
 再三の求めに、虎徹の服を握っていた楓の指が開いて行く。ぶるぶると震えながら差し出された手に、エドワードはためらうこともなく指先を絡めてみせた。ぎゅぅ、と手を握った楓に、エドワードはいいこだ、と笑って見せる。瞬間、二人分の青い光が空気を染め上げた。それは一瞬の青い流星に似て、清く淡い残り火を目の奥に残し、瞬く間に消えて行く。忙しなく瞬きをする虎徹の目の前で、手を引っ張って楓を立ち上がらせたエドワードが、よし、と言った。
「出来たな? コピー」
「うん。……ごめんなさ」
「謝らなくていい。……またコピーしないように気をつけてろよ? 任意ならともかく、自動だと制御難しいんだからな?」
 分かってる、と楓が頷くと、優しい笑みと共にてのひらが髪をくしゃりと撫で乱して行く。そのまま離れて行こうとするエドワードに、楓はとっさに手を伸ばしていた。ローブの端を掴んで引っ張り、不思議そうに振り返られた所に問いかける。
「ど、どこ行くの」
「どこって、ファイヤーエンブレムのトコ。話し中なんだよ。……なんか相談してたんだろ?」
 いいから気にしないで話してろ、とさりげなく少女の指から布を引き抜いたエドワードに、楓はむーっと眉を寄せた。
「お父さんとは何時でも話せるよ」
「お父さん、じゃないだろ? ワイルドタイガー、だろ?」
 この服を着てる間は、事件がなくても仕事中。言い聞かせるように囁いて、エドワードは足取りも軽く楓たちから離れて行ってしまった。呆れとも感動ともつかない態度で身をくねらせたネイサンが出迎えるのに、エドワードは苦笑して肩を竦め、なにかを告げているのが遠目に確認できる。耳をそばだてても会話が聞こえない、それでいて何をしているのかはハッキリと見える絶妙の距離感。むっと眉を寄せて腹立ち紛れに虎徹の腕を叩き、楓はもう、と声を荒げる。
「エドさんのいじわる!」
「楓、さすがに聞こえてるからな?」
「聞かないで!」
 少女の癇癪を叩きつけられるのにも慣れた様子で、ひらひらとエドワードの手が振られた。もう、とさらに憤慨した声を上げる楓に、虎徹はえーっと、とぎこちなく問いかける。
「あのさぁ、楓」
「なにっ?」
「……いやその、えーっと。……バディ、なんだよな?」
 しまった、ものすごく遠回しに分かりにくくなってしまった、と虎徹が後悔しても、告げた言葉が無くなる訳がない。いっそ疑わしげに顔をゆがめた楓が、首を傾げながら問い返して来る。
「エドさん?」
「う、うん。エドさん」
「……バディだよ」
 私はそう思ってるもん、と頑なに言葉が返された後、楓の視線はぷいとよそを向いてしまう。違う、そこを疑ったのではないと言いたくても、墓穴を掘ってしまうのが嫌で、虎徹は上手く楓を宥められなかった。



 ワンコールで受信した電話に名乗るより早く、回線の向こうから堪え切れない笑いが響いて来る。家に電子音を響かせるのを好まない性質であるからこその速度だと知っているだろうに、すぐ繋がるということが、やたらと楽しくて仕方がないらしい。十秒だけ笑い声が収まるのを待ってやることにして、ユーリ・ペトロフは書斎の椅子にゆったりと背を預け、目頭に指先を押し当てて強く揉みこんだ。ここ数日、シュテルンビルトに大きな事件は起きていない。殺人的に忙しくなることはないのだが、じわりじわりとずっと仕事が途切れない状態が続いており、精神的な疲労が強かった。明日もあの書類の山と案件と戦わなくてはいけないのかと思い、職場の机に詰み重なったデータファイルの数を思い出し数えて、ユーリはふと口元を微笑ませる。
 あの書類にタナトスの声を聞かせるというのはどうだろう。罪状は蓄積疲労とか、もうそういうもので良い。思考が彼岸の向こう側に行きかけているのを察したのか、十五秒の笑い声を持って落ち着いた電話口の向こうから、やや呆れ交じりの心配が耳元で響く。
『お疲れですかー? すこしは休まないと駄目ですよ。ちゃんと寝てます?』
「……君に言われたくはないな」
『この機会に、寝溜めのできる人類に進化しようと思いましてー! あ、それで、先日のデータお読み頂けました?』
 とりあえずあんな感じで行こうと思うんですよね、と囁く声に頷きながら、ユーリは眼前に置いてあるパソコンを起動させる。数秒でスリープモードから復帰した画面は、操作に従って一つのデータを表示させた。確認の為にざっと目を走らせながら、良いと思うが、と苦笑する。
「この空欄は?」
『まだ空欄のままですよー。ユーリさんにお願いしますって書いておいたじゃないですかー!』
「アカデミーに君が問い合わせればすむと思うんだが」
 データは様々な展開図と説明文によって構成されていたが、その中の一つ、エドワードの身体データには一つだけ空欄が残っていた。それも、最重要とされる場所である。忘れていたことを棚上げしてさりげなくそう告げれば、嫌ですよ、ときっぱりとした返事。
『男の子の身体データを問いあわせるとか、マジ勘弁ですー! て言うか、あと本当この数字だけなんで、出来れば今すぐにでもお願いしたいんですけどね? 上がうるさくて煩くてうっるさくて! いつまで野放しにしておくつもりだとか危ないんじゃないのかとか。そういうこと言うんだったら自分で作って自分でやれって話ですよそう思いません?』
「お偉方なんていつもそんなものだろう。……ああ、ちょうどいい」
 控えめなノックの音は、電話の声が漏れ聞こえたからなのだろう。入室を許可するとためらうような間があった後、扉が開かれてエドワードが姿を現した。手に紙を持っているのは、今日の報告書だろう。ユーリの元で保護観察処分となったエドワードが毎日制作しているもので、日によって詳細なタイムスケジュールであったり一言、二言だけであったりするものの、提出の行われない日はなかった。名目上、更生の兆しや変化を見守る資料として受け取っているものなので提出が無いと困るのだが、それでも律儀な性格であるとは思う。電話をしている場に同席するのに戸惑いと、若干嫌そうな視線が向くのを無視して手招くと、エドワードはじりじりと距離を詰めてきた。
 明らかに攻撃を警戒した仕草に失礼なと思いながら近くまで手招いて、ユーリは無造作にエドワードの首に手を回した。ぎく、と体に力が入れるのを無視して肌をぴたりとくっつけてから離し、まじまじと手を見つめながら電話に応える。
「大体三十五センチくらいですね」
『なんで計ったんです? 定規? メジャー?』
「手で」
 回線の向こうに広がった沈黙は、ユーリさん意外とばっかですよね、と告げていたが、付き合いの長さで管理官はそれを優しく無視してやった。ただ笑みを深めた気配を察したのだろう。ふ、と鼻で笑い気配がして、声が続ける。
『かーわいそうなエドワードさん! 首絞められると思ったんじゃないですか?』
「日頃の行いは大事ですね。とても」
『あーあー、やだやだ。さりげなーく相手に原因を押しつけるんだから。……じゃ、三十五センチで作りますよ? 訂正は二時間以内なら間に合うんで、覚えておいてくださいね。完成は明日の正午です。それではー!』
 ぶつん、と通話が切れる音を聞いてからオフボタンを押し、ユーリは苦虫を噛み潰し切った表情で沈黙するエドワードに、どうしました、と言って手を伸ばした。友好的でない態度で手に紙が叩きつけられ、エドワードのまなじりが険しくなる。
「いえ、別に。アンタが茶目っ気のある中二病ドSだって俺は薄々知ってるので」
「燃やされたいのなら正直にそう言いなさい。……それで、今日のこれはどうしたんですか?」
 受け取った紙に書かれた文字は僅かなもので、読む前に見て意味が理解できる程だった。意外と丁寧に綴られた文字は『楓の機嫌が悪い』とだけ書かれていて、ユーリの溜息を誘う。確かに書くのは何でも良いと言った記憶があるが、それはあくまでエドワードのことで、バディの観察日記ではない。やり直しを命じるかしばし悩み、今日だけ受け入れてやることにして、ユーリは呆れた目でエドワードを見る。エドワードは書いたままですけど、とふてぶてしく言い放って腕を組み、視線を窓の外へと逃がしてしまった。
 夜も深い時間だから、見えるのは街明かりと夜空だけだろう。面白くもなんともない景色だろうに、エドワードはそこから視線を外そうとしなかった。出所したばかりの時と比べて、すこし面差しが変わっただろうか。卑屈さがなりを潜め、素直な、本来の性格を取り戻しているように思えた。まっすぐに夜景を睨む瞳は、光が眩しいと細められている。薄闇の中から、夜を見る瞳。救いなど無いと切り捨てながら、それでもどこか、夢見るような。若いと苦笑しながら、ユーリは分かりました、と紙をひらつかせて机の上に置いた。受け取りますよ、と言えば悪びれの無い笑顔でどうもと囁き、エドワードは身軽な仕草で書斎を出て行った。扉が閉まる寸前、室内に引き戻された顔にユーリさんもおやすみな、と告げられて、管理官は苦笑する。
 全く、他人の心配ばかりするお人よしばかりなのだから。それが昔よりはすこし、煩わしくなくなっているのを感じて、ユーリは再び、椅子の背もたれに深く体を預けた。願わくば緩やかな変化が、こどもたちにも訪れますよう。呟いた言葉は夜に紛れ、そのままどこかへ消えてしまった。



 ルナティックは最近、現れていない。

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