『大丈夫。君がちゃんとやってくれれば五分で終わります』
「え?」
『キリサトくんを僕の所まで連れて来てください、今すぐに。ラウンジに居ます』
トレーニングルームがある、ジャスティスタワーの入り口にあるラウンジね。静かに告げる声が確かな位置を告げているのだとすれば、ここからは確かに五分とかからず辿りつける場所だった。それくらいなら良いですけど、と頷くイワンの手から携帯電話をひったくり、技術者が公私混同っ、と叫ぶ。あはは、と軽い笑いが木霊した。
『予定時間のオーバーは十五分しか認めない、と言ったでしょう』
「私は、それにはい分かりましたとは言わなかった筈ですが?」
『うん。僕が笑って待ってる間においで?』
あと五分ね、と言い残して電話が一方的に通話を終える。つー、つー、と無機質な音を奏でる携帯電話を睨みつけながら、技術者の手がイワンの手首を掴む。お願いします、と真剣な目で告げられて、イワンはぎこちなく頷いて歩き出した。早足で扉に向かいながら、イワンはふと素朴な疑問を口にする。
「……なにかしたんですか?」
「いえ、私がなにかされるのが嫌なだけですよ。……タイムオーバーはトラブル発生の証拠ですからね」
イワンにだけ聞き取れるような小声で囁いて、技術者は仕方がない、と言わんばかり微笑んだ。一人で行けるからここまでで大丈夫ですよ、と囁いて、イワンの手首を離した技術者が、振り返らずトレーニングルームの扉の外へと消えて行く。一瞬だけ振り返った瞳は楓を見つめ、問いに応えられなかったことを申し訳ながっていたが、それでいて真剣に答える気を持っていなかったと囁くようなものだった。静かな音を立てて自動ロックされる扉を見つめたのち、楓はくるりと身を反転させて、ベンチに座りこむエドワードの元へ向かう。出迎えるエドワードの表情が心持ち険しいのは、技術者に取った楓の態度を良く思っていないからだろう。
分かっている。八つ当たりで、その人に言っても仕方ないことばかり言ってしまった。けれど、でも。告げようとするエドワードの言葉を奪うように、楓はそっと唇を開いた。告げられたのは、室内の誰も予想しなかった言葉だった。
「エドさんがしたこと、授業で習ったよ。だから、分かってて聞くね」
「ん?」
「殺したかったの? 人質」
思わず、窘めようと前に出かけた虎徹を止めたのは、いつの間にか傍に来ていたバーナビーとイワンだった。強い視線で睨む虎徹に歯痒さを感じた面持ちで、アカデミー出身の二人はそれぞれに首を振った。アカデミーは公正だ。すくなくとも、そうであろうと努力はしている。NEXTに対して、その能力を目覚めさせた者に対して、真摯で真剣で、真実を伝えようとしている。楓の声は透明なものだった。けれど、感情に震えるものだった。エドワードは膝に置いていた手をもちあげ、そっと楓の手を握る。
「そう思うのか? 楓」
「……質問に、質問で答えないでよ」
怯えながら見つめ返してきた瞳に、エドワードはゆるく笑ってやった。安堵もせず、緊張したままで楓が言う。
「……殺してしまったんでしょう? それはもう、事実だよね。だからそのことは、エドさんの好きなだけ後悔してればいいよ。でも私は……それを間違いって誰かが言うのも、エドさんがそう思っちゃうのも、すっごく嫌なの。……上手く言えないけど、ねえ、ちゃんと……聞いて」
汗ばんだ指先が震えながら手に力を込めるのを感じて、エドワードは楓に座るか、と訪ねてやった。少女は口を噤んでぶんぶんと首を横に振り、エドワードの前に立って一心に目を見つめてくる。二人の間にあるのは、ほんの僅かな距離だった。それでいて吐息も熱も感じない、奇妙な距離だった。ただ、目を反らすことを許されないような気がして、エドワードは楓の目を下から覗き込む。それとなく、知らないふりをして関わろうとしてこないヒーローたちの気配を感じて、心のどこかが安堵する。楓、と呼んでやると、意を決したように唇が薄く息を吸い込んだ。
「まちがいなんて、私は、絶対そういう風に思わない。ぜったい。一回も、考えたことない、よ」
「……うん」
「エドさん、ねえ、言って? ……私に、ちゃんと、言って!」
嵐のように感情をかけ巡らせる瞳だ、と思う。色の濃い琥珀のような瞳は、キラキラと輝いてエドワードだけを見つめている。
「言って」
「……なに、を」
「本当は、どうしたかったの?」
言いたくない気持ちを、楓は分かっていて許しなどしなかった。頭の片隅が怒りでチカチカと赤く染まっているのを感じる。視界の端に黒い付け襟に見せかけた爆発物が見え隠れしていて、それがどうしても気持ちを止めてくれなかった。言ってくれないのは分かっていた。なにも。教えてくれないのも知っていた。エドワードは楓に隠したがる。色々なことを。選んで、考えて、それから綺麗なものだけを与えたがるのだ。楓の年齢や、幼さや、二人の間にある年の差や、性別や、その他の本当にたくさんのことがエドワードにそうさせているのを理解していても、もう嫌だ、と心が悲鳴を上げている。
ひとつでいい。今はたった一つで構わない。エドワードの本当が欲しかった。今、ここで誤魔化されてしまったら、泣かないでいる自信がなかった。
「エドさんは、その時、本当はどうしたかったの? ……言って、私に、教えてよ。エドさんのこと、ちゃんと」
バディでしょう、という言葉は必死に飲み込んだ。どうしてか、それだけは絶対に言ってはいけないような気がした。エドワードは楓を見ている。けれどもっと遠くを考えながら見ているようで、目の前の楓そのものを認識してくれている気がしなかった。悔しさに手を強く握れば、痛みにか驚きにか、ようやくエドワードの意識が楓の元まで降りてくる。言ってよ、と何度目かの言葉に、エドワードは仕方がなさそうに笑った。諦めてしまったような、胸を切なくさせる優しい笑みだった。
「……助けたかったよ」
「うん。……うん」
「救いたかった。ヒーローみたいになりたいとか、能力使って助けてみたいとか、ちらりとも考えなかったっつーのは嘘になるけど。でも俺は、本当は、あのひとを。……ちゃんと助けて、救ってやりたかったよ」
これでいいか、と問う表情は楓を、年下の少女をこれ以上追い詰めない為の諦めが混じったものだった。それでも、告げられた言葉は本当のものだと心が告げる。だからこそ、まだ告げる言葉は残されていた。ねえ、と楓はエドワードと繋いだ手に視線を落とす。
「それなら……やっぱり、まちがいじゃないんだよ」
「……じゃあ、楓は。それを、なんて言うんだよ」
どうしようもないワガママを、それでも聞き入れてくれる声が、なぜか無性に悔しい。息を吸って、それを、ゆっくり吐きだした。
「言わない。どんな風にも……呼ばない」
もう一度、正面から顔を覗き込む。反らされない視線は、湖面の氷のようにどこか冷たく、楓の意思を反射した。訝しげに瞬きをして、エドワードがは、と言葉を漏らす。なんだそれ、と言いたげなエドワードに、楓はもう一度力を込めて宣言した。
「私は、呼ばない」
「……楓、それは」
「なんの名前もつけたくない。でも、まちがいだって……そんな風に言われるのは我慢できない」
二人の思考が言葉として結ばれるより早く、手首から注意を引く音が響く。ヒーローたちの元にもほぼ同時にコールがかかり、全員の表情が強張ったものになった。事件だ。素早く受信の操作をしたエドワードの元にもたらされたのは、音声通信ではなく、一通のメールだった。楓も同じようにメールを開き、そこに書かれていた事件の概要に弾かれたように顔をあげる。そこに書かれていた事件の発生場所に、嫌というほど覚えがあった。楓より、この場にいる誰より、エドワードは知っているだろう。メールは銀行強盗の発生を告げた。エドワードが事件を起こした場所だった。息を飲むエドワードの手を、ぬくもりが包み込む。はっと目を向ければ、楓が笑っていた。
「エドさん、行こう」
そうしていいのかと戸惑いながら、エドワードを安心させたがるように笑って。繋いだ手を引いて、歩いて行こうとする。導かれるように立ちあがって、エドワードは楓と共に走りだした。今はきっと、それしか出来ない。エドワード、と呼ばれて振り返ると、心配そうなイワンと目があって苦笑する。ひらりと振った手の意図は、正確に伝わっただろうか。大丈夫、安心しろ、行ってくる。頑張るから、頑張れ。青白い光を全身に纏い、通路を進むのももどかしく壁を突っ切って行く。その背を追う存在があることを、昔よりずっと、信じられている気がした。
先日とは違い、情報収集の為の時間は無いがそれは当たり前のことだった。事件が発生してすぐ、ヒーローには召集がかかる。彼らが現場に姿を現すまでのほんの短い時間こそが、通常、サポーターに許された情報収集の時間なのだ。その為にエドワードと楓は、アカデミーに居る時以外での制服の着用を義務付けられている。トレーニングルームからジャスティスタワーを直線で突っ切って地上へ姿を現し、二人は同時に司法局直通の回線を開いた。ユーリさん、とぴたりと重なった二重奏に、サウンドオンリーの向こう側で思わずといった笑いが漏れ聞こえるのすらもどかしい。詳しい状況を、と求めると現場に移動しながら聞くようにとの指示が出され、二人は手を繋いだままで移動を再開する。
車が走る道路も、ひとが通り抜ける路地も、地図に描かれた線は一つとして移動の為になぞらない。建物から建物を突っ切ってひたすら小走りに、現場へと直行していく。人の目をかいくぐり、ざわめきの裏側を通りながら冷静な解説を続けるユーリの声を聞いていた。事件発生は現在から十六分前。銀行の監視カメラに複数の怪しい人影が移り、直後に警察に緊急を知らせるスイッチが押されたことが分かっている。電源そのものが落とされたようでカメラの映像が十分間に途切れ、中の様子は分からないが、現場に急行した警察からの情報によれば犯人の武器の所持と人質を確認。今は店のシャッターを下ろして中に立て篭もっており、警察に対する要求の声もない。君たちはヒーローに渡すべき情報は人質の確認、犯人の人数とおおまかな位置、犯人の中にNEXTが含まれているかどうか、NEXTが居るとしたらその能力はなにか。特定はできなくとも推測と推理、対策を考え伝えること。ついでに建物の破損などによる賠償金がかさまないよう対策も考えて置くといい、と付け加えられた言葉に含まれたユーモアに気がつかず、楓は真剣な顔つきでこくりと頷いた。
未だ能力の制御が不安定な楓の補助をする為、手を繋いだまま発動させているので、エドワードは楓の緊張をよく理解していた。ちいさな手が必死に震えを隠しながら汗ばんで、エドワードの手を強く握っている。サポーターと言っても、活動回数はまだ片手で足りるものだ。どうしたって緊張が解ける訳もなく、エドワードは遠目に現場が確認できた所でいったん足を止め、楓の名を呼ぶ。すでに街灯TVが高らかにヒーローTVの生放送を伝えており、中継ヘリの音が空から落ちてきている。野次馬と逃げ惑う市民が二つの流れを作る中、二人は裏路地にひっそり身を隠すようにして向き合い、穏やかに視線を重ねた。
「……なに、エドさん」
「時間がないから、ユーリさんの言うような調査は今回は無理。つーか、やり方も色々考えてかねえと、ヒーローに伝える情報を手にした時にはもう突入、とかになりかねない」
「でも」
口ごもる楓に気持ちは分かると宥めながら、エドワードは視線を天へと持ち上げた。ヘリコプターが何台も飛び回る空は、すでにTV局の支配下に置かれている。この状況では犯人にもヒーローの出動が知られてしまって、今頃は警戒を高めていることだろう。見覚えのある銀行の、シャッターがかたく下ろされた様を睨み、エドワードは人質の、と言葉を吐きだした。
「状況と、人数だけでも……カメラが切られてんのは痛いな」
「どうすればいいかな……」
「まあ、直に見てくるしか手はないんだけどな」
ということで、お前はここで待ってるように。ぽんと自然に頭を撫でた手が壁の中に消えて行こうとするのを、大慌てで楓は捕まえた。引っ張ってもすり抜けてしまうのが分かっているので、後を追って壁の中に飛び込む。ぎゅぅ、と目を閉じたのは、視覚的な危機感を克服しきれていないからだ。能力で透過していると分かっていても、ぶつかってしまう、と頭が思えば発動が不安定なものになる。壁を体がすり抜けて行く言い知れない感覚のすぐあと、どん、と温かいものにぶつかって溜息をつかれる。
「……かえで」
そろそろと目を開くと、困り切ったエドワードと目が合った。すこし怒っている風に見えるのは、単独でエドワードの能力を発動させないように、と本人からきつく言い渡されているせいである。物質の透過能力は、それ自体の危険性は低いだけで、発動が不安定な場合は本人にリスクが跳ね返ってくる。中途半端な透過は物質を体内に取り込むも同じことで、もし壁の中で発動が解ければ、楓の体は生き埋めと同じ状態になるのだ。透過していた物質が、分子レベルで細胞と混ざり合わない、という百パーセントの保障はまだどこにもない。他のどのNEXT能力でも同じように、科学的な解明がされきっていない能力なのだ。危ないだろう、と開きかけたエドワードの口に手を伸ばして塞ごうとしながら、だって、と楓は肩を怒らせる。
「どうして置いてくのっ?」
「人質の確認なんか、一人で十分だろ? 時間ないし、つーかそろそろヒーロー到着しそうだから、楓はそっちと合流して」
「ちゃんと、私の目を見て言って」
男のひとってどうしてそう、嘘をつく時に目を反らすの、と告げられて、エドワードは思い切り苦笑した。虎徹の癖なのだろう。あのなあ、と溜息をつきながら彷徨わせていた視線を下ろすと、まっすぐに見つめてくる深い琥珀色の目がそこにあった。何度でも、何度でも、許さないで逃がさないで、視線も意識も捕らえようとする瞳。何度距離を取っても走ってきて、必ずそれに捕まえられる。
「どうして一人で行こうとするの」
そして何度でも、許されている。そんな気がして、エドワードは笑いたくなる。口元を和ませて軽く吹きだせば、楓の表情が不機嫌そうにゆがんだ。なにも楽しくないでしょう、と怒られて、エドワードはそっと身を屈めた。ちいさな肩に額を寄せる。怯えることなく、驚くこともなく仕草を受け入れた少女の手が、エドワードの頭をそっと抱き寄せた。
「……エドさん?」
「ん。……いや、一人で行こうとしてた訳じゃないんだけどな」
「待ってるようにとか、そっちと合流してとか、それでなんで一人で行かないってことになるの」
エドワードの伸ばしかけの髪を撫でる少女の指先は、父母から教わったであろう優しい情に満ちていた。どうしたの、大丈夫、私が居るよ、傍にいるよ、と。言葉より伝えてくる指の熱。はー、と溜息をついて肩に額を擦りつけ、エドワードはぎゅ、と目を閉じて呟く。
「危ないだろ、現場」
「うん。危ないね。だから?」
「……今回は、ちゃんと守れるか分からないから。安全な場所で待ってろ」
サポーターとして、主に動くのは楓だ。エドワードはあくまで補助に徹していて、それは自然ではなく、最初からそうすると決められていたことだった。積極的な行動を、エドワードは暗に求められている。彼に託された役目は楓の補助と制御であり、最初から成果などではないのだ。それを分かっていて、あえて今回は置いていきたいと告げるエドワードに、楓はむっとした気持ちで髪を引っ張る。痛、と反射的に上がった声にまなじりをつり上げて、楓は息を吸い込んだ。
「守ってなんて、言ったことないよね」
「……そうだな」
「私に怪我させると、お金かかったりするの?」
冷やかな怒りを感じさせる声は、訳もなく、楓が真実の一端に辿りついたことを示していた。焦げ付くような視線が首枷に向けられている。こんなことをする『偉い人たち』を、楓はもう一生信頼しないに違いない。自分たちから信頼を奪ったことを、彼らはきっと気がつかない。だからこそ思いのままに利用しようとするだろうが、それはもう、無理な話だ。それとも罪が重くなるの、と問い詰めてくる楓に、エドワードは顔をあげないままで首を振った。
「特に、そういう制限は受けてない。……お前の父親が怖いくらい」
「じゃあ、大丈夫だよ。私たちは一緒に行くの!」
「お前なぁ……」
言うことを聞き入れる声ではない。溜息をつきながら顔を上げたエドワードに、楓はにっこりと笑った。
「大丈夫よ、エドさん」
「……なにが?」
「私が、絶対、守ってあげる!」
エドさんのこと、なにがあっても。ちゃんと、ぜったい、守るからね。とびきりの笑顔で囁かれ、解かれていた手が再び繋ぎ合わされる。ね、行こう、と笑われて、エドワードは楓に敵わないと知った。深々と溜息をつく。上空を飛ぶヘリコプターが、高らかにヒーローの登場を告げた。ああ、来ちゃったよと苦笑して、エドワードは楓の目を見つめる。まっすぐ見返され、眩しげに細められた瞳。迷わず信じるその意思に、応えよう、と思った。
「……楓」
「うん」
「急ぐぞ」
絶対、お前を守ってやるから。早口で囁かれた声に応えるより早く、繋いだ手をひっぱってエドワードが走りだす。まっすぐ前を向く背を追い掛けて、楓も足を踏み出した。
ひどい罰のような事件だった。現場に駆け付けたタイガー&バーナビーによって突入が開始された事件は、最終的にはなんの被害も出さずに終息した。アニエスはいまいち視聴率が伸び悩んだ事件だとぼやいていたが、それくらい、派手さもなく、ただ終わりを迎えた事件だった。犯人獲得ポイントはワイルドタイガーとバーナビーに、人質救助ポイントはスカイハイと折紙サイクロン、ロックバイソンにもたらされ、ドラゴンキッドとブルーローズはノーポイントで中継を終えた。そのさまを楓とエドワードは、現場に一番近い安全な場所からずっと見ていた。なにかあればヒーローたちの助けとなるように潜んだ壁の中、透過されたが故の完全なる死角から、手を繋いでただ見ていた。
不安と恐怖に歪む人質に声をかけることも出来ず、声高にヒーローを非難する犯人たちに怒りを向けることも許されず。冷静にと己に言い聞かせ、状況を告げて待機していた。怖いと泣きながら、助けてと呟く人質たちを見て、エドワードがなにを考えていたのか楓には分からない。望めばそれが叶うかもしれない楓と違って、エドワードは絶対にヒーローにはなれない。例え顔を隠していてもカメラの前に姿を晒すことは出来ないし、それを許される筈もなかった。それなのにエドワードは、事件の一番近くで見て居なくてはいけないのだ。はじめて楓は、それに気が付く。助ける力を持っているのに。今度こそ救えるだけの力を持っているのに、NEXTであるからこそ、エドワードは法に許されない。
タイガー&バーナビーが突入してきた瞬間、安堵に隣の気配が緩むのを楓は感じていた。ずっと細かく震えていた手が、温かみを取り戻したように力を抜いたことに、泣きそうになったことを覚えている。きっと、一生、忘れないでいる。そして何度も、何度も思い出すことになるのだろう。楓は、エドワードと共に行く。もう、そう決めてしまっていた。
視聴覚室でいつものように映像を眺めながら、楓は弾む鼓動をそのままにしながら、ずっとそんなことを考えていた。今日の映像は先日の銀行強盗事件をヒーローTV目線から追い掛けたものだが、当然、そこに二人の姿は映っていない。けれども確かに二人はそこにいて、そして今後もやはり映らないままなのだ。ちょっともったいないかも知れないな、と思いながらバーナビーが犯人を蹴り飛ばしているのを見ていると、楓の視界がふっとオレンジに染まる。
「……集中しすぎ」
「あ、エドさんだ。……鍛錬、終わったの?」
「終わった。楓は、座学終わってんのか?」
ったく、毎日毎日ここに居んだから、と呆れたように呟くエドワードからオレンジソーダを受け取って飲みながら、楓はリモコン操作によって停止させられる画面を見ることなく、無言で視線を彷徨わせた。だって、ここに居ればエドワードは確実に迎えに来てくれる。日中はアカデミーに居るといえども、基本的に二人のスケジュールはバラバラだ。楓とエドワードでは習熟度会いに差があり過ぎるので仕方がないと分かっていても、なんとなく、視聴覚室に足を向けてしまうことが習慣になった。まあいいけど、と呟くエドワードの手に持たれているのは、今日もミネラルウォーターだった。
視線で探すとすぐ、もう一本も見つかる。エドワードは必ずミネラルウォーターを二本買ってくる。一本をすぐに飲み切ってしまわないので、それは不思議な習慣だった。思わず見つめて理由を考えていると、ペットボトルの蓋を開けようとしたまま、エドワードが首を傾げてくる。なんだよ、と言われても上手く言葉にならなかったので、楓は代わりに、お願いをしてみることにした。あの、ともう一本のミネラルウォーターを指差す。
「私も、そっちがいい」
「……水?」
「うん。……駄目だったら、いいよ」
楓のオレンジソーダは、もう口をつけてしまっている。ん、と一瞬考えただけで、エドワードは手に持っていたそれを楓に差し出し、少女の手からオレンジソーダを取りあげてしまった。
「じゃ、俺がこっち飲む。くれる?」
「う、うん! ……えっと、なんでいつも、お水が二本なの?」
「イワンと居た時のクセ。俺が飲み物買ってくる係で、アイツがパンとか買ってくる係だったんだよ」
だからいつも無意識に二本買って、一本余らせて困ってる。苦笑いしながら言うエドワードに、楓はふぅん、と頷いた。なんだか胸がもやもやして、面白くない気がする。
「……楓?」
「え」
「やっぱこっち飲むか?」
オレンジソーダをずいと差し出され、楓はふるふると首を振った。訝しげなエドワードになんでもないという代わり、ミネラルウォーターを喉に通す。冷えた水が、体の奥まで染みわたるようだった。ふぅ、と心地よく息を吐きだした楓を眺めた後、エドワードの視線が停止する画面に向いた。入室してすぐ、先日の事件だと分かっていたのだろう。眼差しに特別な色はなく、楓はすこしだけ、安心した。
「……楓」
「はーい?」
「ありがとな」
唐突な言葉に、思わず背を伸ばしてエドワードを見る。画面に向けられていた視線がゆっくりと動き、楓を正面から見つめ直した。口元にゆるく、笑みが浮かんでいる。その表情から、目が離せなかった。
「……な、なに、が?」
「教えてやらねぇ」
自分で考えろ、と意地悪な言葉とは裏腹に、エドワードは笑っていた。初めて楓にみせるような、どこかあどけない、嬉しそうな笑みだった。手に持ったペットボトルにぎゅっと力を込めながら、楓はそっと触れてくるエドワードの指先に、目を伏せる。前髪を梳くように撫でられて、背筋がなんだかぞわぞわした。息を吸おうとした瞬間、楓の全身が青白く発光する。あ、とどちらともなく声がもれた。自動コピーの制御は、今日もまだ、上手く行かない。呆れたように目を細め、エドワードがばぁか、と言う。コツリと額を叩いて離れて行った指は、そのまま楓の手元に差し出される。
「今日も特訓な。いい加減、制御できるようになれよ?」
「……はーい」
手を繋ぐと急激に、能力が落ち着いて行くのを感じる。きっと相手の体温が、ほっとさせてくれるのだ。体から力を抜いた楓の頭をぽんと撫で、エドワードは少女を立ち上がらせる。ここ片付ける間に着替えて来い、と言われるままに頷いて、楓は視聴覚室の扉へ向かう。どうしたってエドワードより楓の方がなぜか着替えに時間がかかるので、申し訳ないと思いつつ、いつものことになっていた。リモコンで映像を停止させているエドワードを振り返って見つめ、楓はふと、繋いでいた手に視線を落とす。能力がちゃんと制御できる日が来ても、時々でいいから手を繋いでくれるといいな、と思った。