バーチャルトレーニングルームはアポロンメディアが開発したものだが、その使用はヒーローであれば自由に許可されている。荒れ果てたビルや荒野という状況を設定でき、テロリストの人数や事件の概要までをもプログラミングできる最新設備が供えられた部屋には、しかし原始的な打撃音と荒い呼吸音だけが響き渡っていた。すこし前までは耳を塞ぎたくなるスラングと罵声の嵐であった為に教育に悪いからと言って切られていた音声が、徐に開放されたのはその為だった。クリアな映像は激しい動きを完璧に追い掛ける程性能の良いものだったから、唇の動きが呼吸を続ける為だけのそれになったことはすぐに分かった。悪い言葉を耳にしたからといってそれをそのまま使用する程に幼い存在はトレーニングルームには存在しないのだが、虎徹の親心がそうさせるのであれば仕方がない。
それぞれに模擬戦闘を見つめていたヒーローたちは納得した表情で音声をオフにした虎徹の指先を受け入れたし、大丈夫そうだと再びバーチャルルームの音を流した時も文句ひとつあがらなかった。固定カメラとそれぞれの動きを追うカメラによって四分割された画面を食い入るように見つめながら、楓は知らずに止めていた息を再開させた。ぷは、と水面に浮上したように息を吸う楓は、一心にひとりの姿だけを追い掛けていた。三人の姿を映し出す左上の画面ではなく、右下に映しだされたエドワードのことだけを見つめる。時々、憧れのバーナビーのことも見るし、体術のお手本のような動きをするイワンのことも見るのだが、結局はエドワードの目が戻ってしまうのだった。模擬戦闘の開始から一時間が経過していたが、それでも心配でならなかった。なにせ相手は現役のヒーローなのである。正直、実力に差があると楓は思っていた。
今だって止めたくてたまらないのに、エドワードは額に汗を浮かべながらも勝気に笑って、イワンに向かってちょい、と指先を動かして挑発をしている。なんでそんなことするの、と叫ぶ代わりに祈るよう手を組み合わせた瞬間、右上の画面が激しく動いてイワンが地を蹴ったのが確認できた。バーチャルトレーニングルームに設定されたのは、衝撃に強い素材で出来た白い壁と床のステージ。アンダースーツ姿のイワンは、黒い影となってエドワードに襲いかかった。踏み込み、折り曲げた肘で顔面、目の辺りを狙う。素早い動作に動じることもなく、エドワードは背を反らすようにしてイワンの肘を避けた。顔の前にかかげた手で肘を押すようにして後ろに飛び退き、着地した脚を軸にして体を回転させる。
マントを跳ね上げて放たれた回し蹴りを、イワンは無理矢理てのひらで包み込むようにして掴んだ。げ、と言わんばかり口元を引きつらせたエドワードに微笑み、イワンは親友の体を独楽のように回転させた。がん、と床に両手を叩きつけて回転を停止させたエドワードが次の行動に出るより早く、わき腹に腕を挟んで歯を食いしばったイワンの体が真横に吹き飛ぶ。倒れる途中で手を離してくれたもののつられてやや引きずられたエドワードが腹筋で即座に起き上がると同時、それまで頭のあった位置にがっつん、と嫌な音を立てて靴底がめり込んで行った。ち、と音だけは可愛らしい舌打ちを響かせたバーナビーから距離を取り、エドワードがぜいぜいと息を整える。即座に追撃が来ないのは、バーナビーの体力がそろそろつきかけているからだ。脚に両手を置いて体を折り曲げ、流れる汗に煩わしそうに目を細める。互いに次の一手を考え、警戒する中でガードした腕をふら付かせながらイワンが立ち上がると、場は再びこう着状態に陥った。三人が三人とも、自分が勝つと思って絶対に譲らない顔をしている。
そもそもどうして三人が模擬戦闘をしているのかと思い返し、楓は思わず溜息をついた。深々とついた。頭もちょっと痛くなって気がしたので額に手を押しあてれば、全て分かっているわという表情でネイサンが髪を撫でてくる。甘えて体を寄せながら、楓はそもそものきっかけについて考えてみた。まず、いつものようにエドワードと楓はヒーローたちのトレーニングルームにやってきた。もちろん、サポーターの制服を着て。その制服を着用している以上は仕事中であるので、楓はいつものように父親である虎徹にひっつかれながら、ネイサンやカリーナに能力のコントロールのことを教わっていた。楓がヒーローになにかを教わっている間、エドワードは基本的に傍にいない。
無意識に能力をコピーしてしまったり、楓が困る素振りを見せればすぐ来てくれるので注意は離していないようなのだが、それだけで、大体はイワンやキース、バーナビーとなにか話しこんでいるのが常だった。だから、楓はエドワードがなにをきっかけにしてそうすることに決めてしまったのか、実の所まったくよく分からなかった。気がついた時にはバーナビーとイワンがアンダースーツを着用しにロッカーへ走って向かっていて、エドワードは暢気に準備体操をしていたのだ。一緒に会話をしていたキースを問いただしても、アカデミー式体術で誰が最強なのか決めようぜ、とかなんとかエドワード君が言っていたと楓には理解しがたいことを教えてくれるばかりで、そもそもどうしてそんな話になったのかまったくよく分からなかった。
賭けてもいい。バーチャルルームに入る時、エドワードは楓も見学してれば動きの参考になると思うし、と言っていたが、あれはただの言い訳だ。確かにアカデミーで体術の授業はあるが、エドワードの動きは教本をなぞったものとは微妙に異なっているからである。恐らく、一番動きに忠実なのがイワンだった。イワンの動きは、楓が読みこんだ教本に一番当てはめやすかった。こう来たらこの動き、こう防いだらこう動く。描かれていたその通りにイワンは動くのだが、それでいて動きの先読みが出来る訳ではない。理由があるとしたら、経験だろう。イワンは教本通りの組み合わせで動くが、その判断を下しているのは知識の上に重ねた経験だった。対して、エドワードの動きは教本よりもその時々の状況によって変化していて、体術というより喧嘩じみた荒っぽいものだ。
丁寧な動きのイワンは己の仕草で体を痛めることがないが、時として相手を打ち払うことだけを念頭において動くエドワードは、終わった後に無理な動きで体のどこかを痛めているに違いなかった。そして楓にとって、一番参考にならないのがバーナビーだった。楓の憧れのヒーローはアカデミーで習った体術というより、どこか上品さを漂わせながら、妙に荒っぽい動きで二人を叩きのめそうとしている。アカデミー式の動きは、あくまで二人の行動の先読みに知識として持っているものだと言わんばかり、予測不可能な動きで相手の意識を失わせようとしていた。このうち、誰を参考にしたとしても、楓にはついて行けない。そもそも体の鍛え方がまだ甘い楓にしてみれば、掴みかかってくる相手を交わして一撃を入れるくらいが精一杯なもので、相手を積極的に倒しに行く実力など無いのである。
楓が呆れ果てている間にも、三人は勝敗に決着をつけたがっていた。そろそろ、体力的に三人とも限界なのだろう。それぞれ精一杯余裕ぶった笑みを浮かべ、三人は互いにさっと視線を走らせた。バーナビーが二人を確認する視線であったのに対し、イワンとエドワードの目がなにか確認する素振りであったのに、気がついたのは傍観者だけだっただろう。一瞬の判断で手を組んだ二人が、同時にバーナビーに突っ込んで行く。卑怯だ、ひどい、ばかっ、とこどもっぽい罵倒を口にして、バーナビーが片足を振りかぶる。軸足を狙って突っ込んでいったのがエドワード、振りあげられた脚の攻撃範囲より内側に飛び込んだのがイワンだった。
うわぁだのひゃあだのぎゃあだの叫び声をあげて、ごちゃごちゃに絡みあった三人の体が倒れて行く。ごつ、と妙に痛そうな音をあげて倒れ込んだバーナビーは、もう嫌だとばかりに顔を両手で覆って動かなくなった。ぜいぜい息を切らしながらもにやりと笑い、イワンとエドワードはぱちんと手を打ちあわせる。そのまま、バーナビーを下敷きにしたまま二人が笑いだしたので、気の短い青年は即座に切れたらしい。ばか、ばかーっ、と叫んでじたばたと脚を動かして暴れるのに、イワンは笑いながらバーナビーに体重をかけた。正確に肺を圧迫しながらのしかかられたので、バーナビーはすぐにばたりと脚を投げ出してしまった。
うわぁ、と呆れた顔をしているエドワードも、バーナビーの腹辺りに乗っかったままで動こうとしない。重い、この先輩たちもう嫌だ、と呻きながら言うバーナビーの頭に手を伸ばし、イワンが疲れ切った様子でわしゃわしゃと撫でている。肺を圧迫するのは止めたものの、胸の辺りに乗っかったまま動こうとしないのは、疲れ切って身動きを取りたくない為だろう。エドワードも似たような状態で、バーナビーは純粋に動けないようだった。あー、と三人で呻きながらばったりと倒れ込んでいる光景を眺め、楓はしばらく沈黙したのち、ネイサンをちらりと見上げる。すぐに気がつき、なにかしら、と微笑んでくるネイサンにうんと頷いて、楓は心の底から言い放った。
「男の子って」
「うん?」
「……馬鹿なのね」
非常に冷やかな声で告げられた一撃に、ネイサンとカリーナ、パオリンが無言で頷いた。アントニオと虎徹が胸を押さえてしゃがみこんだが、キースはにこにこと笑いながら首を傾げるばかりで、やあ戦うのは終わったようだね、と言っている。キースの意識では、恐らく年齢的な問題で『男の子』の範囲に己が含まれていないらしい。虎徹とアントニオは楓の声から、それが男という性別そのものに向けられた呆れだというのを感じ取ってしまったのだが、キースは微笑むばかりだった。天然強し、と視線を受けたキースは、さてと呟くとそわそわしながらバーチャルルームの入り口と画面を見比べている。出てくるのを待っているようだったが、もちゃもちゃと絡みあって倒れる三人に未だ動きは見られない。
あー、うー、と墓場から起き上がったばかりのゾンビのような声をあげるばかりで、立ち上がる気力が戻らないようだった。そわそわ、そわ、と画面を見ていたキースが、おもむろによし、と頷いた。青白い光と共に、室内の風がふわりと動く。え、と楓が目を向けた時にはすでにキースはふわふわと、飛ぶというよりは浮かび上がりながら、バーチャルルームの入り口をくぐった所だった。思わず無言になって一同が見守る中、キースはふわふわした動きでイワンの真上まで移動し、両腕を伸ばしてその体を抱き上げようとする。つまり、恋人が中々出てこないので焦れて迎えに行ったらしい。
風の動きで補助しながら汗だくのイワンを抱き上げ、キースは満足げに笑みを深くした。よし、と行ってまたふよんふよんと部屋を出て行こうとする動きが、しかし、がくんっと揺れ動いて止まる。イワンの足首を、バーナビーの手がしっかりと掴んでいた。戸惑った表情になりながらも、キースはそのまま高度を上げる。バーナビーも吊り上げてくれるつもりなのだろう。二人くらいならば、救助でもよくある人数だ。バーナビーの体も浮き上がった所で移動しようとしたキースの動きが、またも引き留められる。無言でキースが視線を下ろすと、バーナビーの足首をエドワードが掴んでぐったりしていた。
えーと、と戸惑いながらも律儀に引き上げようとしたキースの体が、急にぐらりと揺れ動く。バランスを崩したキースはイワンを抱えたままで落下し、バーナビーとエドワードもびたん、と音を立てて床の上で動かなくなる。痛い、と半泣きの声で呟くキースの声にだろうなぁ、と頷きながら、虎徹は無言でどうしようもなさそうな顔つきになっている娘の頭を撫でてやった。
「いいか、楓。あれが蜘蛛の糸だ」
「クレーンゲームでよくあるよね……もう、エドさん! 駄目でしょうっ?」
楓の叱責を受けて、ようやくエドワードは自力で出てくることにしたようだ。ふわぁ、とまるで寝起きのような仕草であくびをしながら身を起こすと、バーナビーの足首を離して立ち上がる。
『……意外と役に立たないのな、スカイハイ』
『三人くらい大丈夫だと思ったんですけどね。……先輩、怪我はないですか?』
『僕にはないけど。キースさんの心には結構傷がついたと思うんですよね……』
疲れたー、と口では言いながらもけろりとした態度で伸びをするエドワードの続き、疲労感を感じさせない仕草で立ち上がったバーナビーが首を傾げる。応えるイワンは未だ抱きこまれたままで、落ち込んだ雰囲気を漂わせるキースの頭を撫でていた。もの言いたげなイワンの視線を受け、今度はエドワードとバーナビーが目を合わせた。二人は同時にこくんと頷き合い、瞬時に出口へと走り出した。待てこのxxx、と虎徹が楓の耳を塞ぎたくなるようなスラングを発したイワンが、キースの腕の中から抜け出して二人を追って行く。騒がしくシャワールームに消えた三人を追い掛けるように出てきたキースが、しょんぼりと肩を落としながら言った。
「迎えに行ったのに……置き去りにされた私……。とても悲しい……」
「……アカデミー組が三人の時に混ざろうとしちゃ駄目よ、キース」
「バーナビーくんとエドワードくんばかり、ずるい」
私だってイワンくんと遊んで欲しい、と肩を落とすキースに慰めていたカリーナは呆れの表情で口を噤み、溜息をついた。あの模擬戦闘は、確かに競い合っているというよりはじゃれ合っているような印象が強かったが、それでも『遊んでいた』ようには到底思えなかった。つまるところは構って欲しいのだろうが、キースまであれに混ざるようになるのは勘弁してもらいたい。楓も同じ意見なのだろう。スカイハイさんは今のままでいてくださいね、と年に似合わない落ち着きを持った声で囁き、少女の指先が表示させていた室内映像をオフにした。
ぶつん、と音を立てて映像が消えてしまうと、トレーニングルームには何時もの静寂が戻ってくる。シャワールームからぎゃんぎゃんと、口喧嘩ともじゃれあいともつかない三人分の声が響いているのを除けば、まったくいつも通りの日常だった。さあ私も体動かさないとなー、とランニングマシンへ歩み寄って行くカリーナの背を、それとなくパオリンが追い掛けて行く。すこし前の怪我の具合が、心配でならないのだろう。追いついて横に並んだパオリンにカリーナは苦笑し、無理しないってば、と言っているが信頼は得られていない様子だった。一段落した隙をついてアントニオの尻を揉みに行ったネイサンは、途中で気がつかれた為にじりじりと距離を計り合っている。ちょっとした変質者とその被害者の対峙だが、楓はそれを優しく意識の外に置いてやった。
アカデミー三人の間に割り込まないでいるのと同じく、アントニオとネイサンは止めなくていいと学んだせいだ。ぎゃああ、と雄々しく叫び声が上がるのを耳にして、アントニオさんの胃が痛みませんように、とそっと祈りながら、楓は視線をぐるりと巡らせて父親の姿を探した。それ程探さず見つけることのできた虎徹は、ベンチに座ってキースを慰めていた。会話内容は分からないが、そこに混じって良いものだろうか。身の置き所がなくむずむずと体を動かしていると、気がついた虎徹が笑顔で楓を手招いて来る。迷っているとキースも、幾分落ち着いた態度で微笑みながらおいでと言ってくれたので、楓はそちらに向かって足を踏み出した。
しかし一歩、二歩を歩んだ所で楓はトレーニングルームの入り口に視線を向けて立ち止まる。足音が聞こえた訳ではない。なにか前触れがあった訳でもないのだが、なぜだかそこが開くような気がしたのだ。ヒーロー以外は原則的に立ち入り禁止となっているこの場所に、今は全員が揃っているのに。数秒して不安げに、不審げに虎徹とキースも外へ繋がって行く扉を見た瞬間のことだった。扉の前に『入室許可』と書かれた文字ウインドウが開き、見慣れぬ黒いブーツが室内を踏んだ。ひらり、と白衣の裾が揺れ動く。
「キリサトさんっ?」
ちょうどシャワールームから戻ってきたイワンが、自社の技術者の名を叫ぶ。え、もしかしてスーツの調整とかありましたか、と慌てて駆け寄るイワンを口元を和ませて出迎え、技術者はふるりと首を横に振った。
「いえ、お迎えじゃないですよー。それより会話しにくいんで、ちょっと削れてくれません?」
「ちょっとも削れてあげません。……なんで素直にしゃがんで欲しいとか言えないんですか? 持病ですか?」
「いいえー、イワンくんがどこかに置き忘れてきた思いやりの心ですよー?」
ぽんぽん言葉を交わし合うヘリペリデスファイナンスの社員たちの、これが普通の会話であるらしい。お互いに気を悪くした様子もなく笑い合い、イワンが技術者の前で屈みこむ。身長が百七十センチのイワンに対して、技術者はそれより二十センチ以上低い所に頭があった。多分百四十五センチもないと思いますが、本人は百四十五くらいはあると言い張ってるのでよく分かりません、というのがイワンの言葉だ。身長差がありすぎるので、屈みこんだ会話にも慣れているのだろう。同じく、技術者の顔を覆うベネチアンマスクも、イワンには見慣れたものらしい。特に違和を感じた様子もなく、じゃあなんの用事なんですか、と訪ねていた。
このシュテルンビルトに彼女の素顔を知る者はいないのではないか、とまことしやかに囁かれている技術者は、イワンの問いかけにちょん、と首を傾げて笑う。
「お届けものなんですよねー。エドワード・ケディは何処に?」
「……え、俺ですか?」
イワンと同じく、ちょうど戻ってきたばかりのエドワードが不思議そうな声を上げた。楓はとっさに、技術者に近寄ろうとするエドワードに走り寄る。どした、と苦笑して楓を出迎えたエドワードに、少女は困った顔つきで首を振った。特に理由があっての行動ではない。心細くさせた、とでも思ったのだろう。安心させるように楓の頭をぽんと撫で、エドワードは視線だけで技術者を見る。
「お久しぶりです……俺に、届けもの?」
「はい、お久しぶりでした。そうですよー。ユーリさんから聞いてません?」
「いいえ、特になにも」
そうですかと言わんばかり技術者の笑みが穏やかに深まり、続いて覚えてらっしゃいまったく、と低い声で怒りが囁かれた。シルバークラウンの、ごてごてとした飾りのない仮面の奥で黒い瞳がすっと細まり、仕方がなさそうにエドワードを見る。
「……貴方の、外で活動するにあたっての、アレが出来たので持って来たんですが?」
「今ここで、ですか」
「もちろん、今ここで。一応聞いておきますが、事前に楓さんくらいには説明しておいたんでしょうね?」
笑顔のまま不穏に問いかけられたエドワードは、楓に視線を向けると、言葉を探すように視線を揺らめかせた。ヒーローたちは突然のことについて行けない様子で彼らを見守っていたが、楓にも事情がつかめないままだった。外で、活動するにあたって。技術者の、少女めいた声が告げた言葉が楓の中でぐるぐると迷いだす。エドワードが刑務所から出て、サポーターとして活動するにあたって、司法局や警察からいくつも条件を付けられたことを知っていた。条件があることは知っていたが、それがなんなのか、を楓は知らない。知らないままで数カ月、過ごしてきたことを初めて自覚する。
思わず、ショックで言葉を告げられなくなってしまった楓の両肩に、エドワードの伸ばした手が触れた。告白するなら待ってあげますけど、と言わんばかりの技術者の視線に苦笑して、エドワードは楓の目を覗き込む。
「……楓」
びくりと、自分でも驚くほど大きく肩が震えたのを自覚する。言葉を拒絶したい訳ではないのに、この場から逃げ出してしまいたい気持ちが溢れだしそうになる。見返す瞳に、映る感情がなんなのか自分でも分からない。エドワードはゆっくり笑みを深めて、ごめんな、と囁いた。
「どう言えば……」
「エドさん?」
「……気にしないでいてくれるか、分からなかったんだよ。話さないでいてごめんな、楓」
戸惑う表情を消したがるように頬をてのひらで撫でて、それで説明は終わりのようだった。楓を場に残して技術者の元へ歩み寄った背を、少女の視線がただ追い掛ける。不器用なひとですね、と呆れる視線を投げつけて、技術者は無言でベンチを指差した。素直にベンチに腰かけたエドワードの前に立ち、技術者は白衣のポケットに手を突っ込んだ。無造作に取り出したのは、幅二センチ程の、細いレザーの付け襟に見えた。品の良い光沢を表面に馴染ませ、微細な模様が描かれている付け襟。目を向けたエドワードが、へぇ、と感心した声で笑う。
「もっとごっついのかと思ってたぜ?」
「二四時間付けてなきゃいけませんからね。……シャワーとかお風呂の時は若干変態さんになりますが、普段の服でも違和感がないようデザインしました。重みは、慣れてくださいとしか言いようがありませんが」
身を屈めた技術者が、それをエドワードの首に合わせる。そこで初めて、楓は『それ』が付け襟ではないことを悟った。やだ、と叫ぶより早く、機械的な音を立てて『それ』がエドワードの首に取りつけられる。すぐに身を離して、技術者が首を傾げた。
「首回り三十五センチで制作しましたけど、苦しくないですか?」
「……ふつー」
「なら良いです。動作確認は終わらせてありますから、使い方は……分かりますね?」
とびきり嫌なことを言ったとばかり歪められた目に視線を合わせて、エドワードは言葉もなく頷いた。分かりました、と息を吐き、技術者がエドワードの前から離れて行く。そこは自分が居て良い場所ではないのだ、というように数歩空間を開いた所で振り返り、技術者はああそれと、と呟く。
「それ、半径十メートルまでは跡形もなく吹っ飛ぶ仕様なので、なにかで使う時は気を付けてください。巻き込まれないように」
「んー」
「……っ、なに! それっ!」
たまらず悲鳴のような声で叫んだ楓に、技術者が痛みを堪えるような視線を向けた。楓が睨んでいたのは技術者であって、エドワードではない。だからこそ極力感情を押さえた冷たい声が、場に決定的な一言を告げた。
「爆発物です。首輪型の爆発物。有事に起動するGPS付きで、起爆スイッチは内側にあるものと遠隔操作によるもの二種類。起動後、二十秒で爆発します。二十秒に対しては音声カウントがありますが、オフにも出来ます。誤作動が起きた場合に備え、開発者である私と、ヒーロー管理官、アカデミーの校長に対する三種類の専用回線通信機能があって、連絡から一秒で遠隔操作での停止が可能です」
「……なにそれ」
「エドワード・ケディがヒーローサポーターとして活動するにあたっての、司法局と警察が協議を重ねた上での条件のうち一つに、遠隔操作で爆破可能な首輪をつけることがあります。……彼が、普通に出所したのであれば、もちろんこんなものは要らないんです。けれど正義を行うものの傍に、それを助ける立場として行くならば……NEXT能力を悪用しての犯罪を二度、繰り返すようならば、即座に死刑が執行される。それがこの街の法を統べるひとたちが決めた、平和の為の保険です。くっだらない」
一応誓約書だって書いてましたよね、と吐き捨てた技術者に、エドワードは苦笑しながら頷いた。犯罪をもう二度と行わない、と誓う誓約書に名前を書き込むだけの簡単な行為では、安心も納得も出来なかった者たちが、エドワードに首輪をつけた。起爆スイッチはその者たちの手の中にある。解除スイッチは、彼を理解する者たちがもぎ取った。それだけが救いだった。ヒーローたちの無言の非難を一身に受ける技術者は、悪意の中に飛び込んでくれたエドワードの理解者だ。悪いな、と視線で謝れば、技術者はこれくらい覚悟の上だと唇の動きだけで笑い、咎める視線を跳ね除けるように一歩を踏み出す。
「貴方たちがどう思おうと、これは本人が納得して合意したことなので。……まあ、アレですよ。ちょっと生存的な難易度の高いSMプレイだとでも思っておいてください。それだけで結構です。あと誤解のないように言っておきますが、私は確かに爆発物やら武器やら作るの大好きですけど、今回のこれみたいのは作ってて吐き気がしました正直やりたくなかったです」
「じゃあ作らないでよ!」
もっともな言葉を叩きつけたのはカリーナだった。カリーナとパオリンはランニングマシンを停止させて身を寄せ合うように立ち、泣きそうな顔で技術者のことを睨んでいる。ふー、と疲れた息を吐きだして、技術者はまた一歩、足を踏み出した。ゆっくりとした仕草で出口へ向かい、白衣の裾をひらひらと泳がせながら、室内の誰とも目を合わせないで告げる。
「……二度目の間違いを許されないんですよ、彼は」
「まちがいって言わないでっ!」
泣いているような、声だった。それを必死に堪えているような、少女の声だった。技術者はゆるく唇を噛んで息を吐くと、出口へ向かっていた身を反転させて室内へ向き直る。視線の先を辿るのは容易だった。楓さん、と呼びかけ、技術者は言葉を促してやる。止めようとするエドワードの他には誰にも気取られない程度、指の仕草で必要ないと伝える。
「なにが?」
「エドさんのやったこと、まちがいだなんて言わないでよ……!」
技術者の唇が息を吸い込む。感情の乗らない声がなんらかを囁く前に、白衣のポケットからリリリン、と古い黒電話の着信音が鳴った。それに目を瞬かせたのは虎徹だけだったが、当然、持ち主である技術者もそれがなんだか知っていて使っているのだろう。視線を楓に向けたままで二つ折りの携帯電話を取り出し、表示された画面に嫌そうな顔をしつつ、着信のボタンを押した。
「はい私です。ただいま電話に出たくありません。ご用事はメールでお聞きします、もしくはまた後で」
『……不機嫌だねえ、キリサトくん。いやーなお仕事終わったんでしょう?』
「まだ、仕事中、です!」
やんわりと漏れ聞こえる声は、普段は耳に受話口をあてて会話することができない為、基本的にスピーカー設定にしてあるからだろう。不機嫌も露わに噛みつく口調で受け答えする技術者に、イワンはあれ、と目を瞬かせて首を傾げる。声に聞き覚えがあったからだ。
「貴方こそ、仕事中に私用電話しないでください!」
『私用電話じゃないよ。君、今トレーニングルームに居るでしょう? イワンくんに用事があるので、呼んでください』
技術者の体がぐらりとかしいだ。眩暈を起こしたらしい。だん、と足を床に叩きつけるように立ち直し、怒りをあらわにした声が叫ぶ。
「イワンくんの個人番号にかけてくださいよ! これ私の携帯電話でしょうっ?」
『君の番号しか登録してない方、持って来ちゃったんです』
「……イワンくん、ちょっと!」
お仕事だそうですから、と仮面越し、険しい視線で睨まれながら、イワンが崩れた場の空気に戸惑いつつ、自社の技術者に駆け寄った。ぽいとばかり預けられた携帯電話を受け止めたとたん、機械の向こうで笑い声が響く。
『不機嫌だね。……イワンくん? 元気ですか?』
「え、えっと……」
「CEOですよ、CEO。ヘリペリデスファイナンスCEO」
告げられた瞬間、イワンの記憶があざやかに蘇る。自社のCEOであれば、声に聞き覚えがあるのは当たり前のことだった。思わず背筋を正して携帯電話を見つめる先で、やけに楽しそうな笑い声が響いている。
『ああ、分かりませんでした?』
「す、すみません! あの、どのような御用でしょうか」
『うん。護衛を頼めるかな』
別にそんな構えなくていいんだけど、と電話口で笑う声に、イワンの眉が寄る。それはヒーローとしての任務ですか、と問うより早く、これはCEOが社員に命令してるとでも思ってくれればいいんだけど、と狡猾な声が柔らかに囁いた。