それが夢だと分かっていた。目の前に広がっていたのはどこまでも続く草原で、楓は小高い丘の上に座りこんでいる。足元には白いピクニックシートが敷かれ、少女の服や脚が土で汚れてしまうのを防いでいた。丘には一本の木が立っていて、見上げれば深く揺らめく海の底のように、枝葉の隙間から光が零れて落ちてきていた。風がゆるく吹くたび、草原は穏やかに揺れ動き、耳に心地良い。世界のどこかにあるような、どこにもないような、どこにでもあるような、平凡で平和でなんの変哲もない草原のただなかに、楓はぽつんと一人きり、なにをするでもなく座り込んでいるのだった。瞬きをする。ゆっくり息を吸い込んで吐き出せば、いつの間にか隣に、女性の姿があった。その顔に見覚えがあって、楓は不思議に悲しくもなく、驚きもせず、そうするのがあくまで自然なのだとするように不自然にその存在が現れたことを受け入れ、ゆるゆると笑みを浮かべて『おかあさん』と女性を呼んだ。いったい、何年ぶりにその存在を呼ぶ意味を込め、その言葉を口にしたのか。泣き叫んで、呼んで呼んで、呼んで、何度も何度も呼んで、とうとう返事がない現実を受け入れてからも、会いたくて会いたくて。声が聞きたくて、何度も何度も口にした。この世界で、楓ただ一人に許された呼称。お母さん、おかあさん。小鳥のさえずりより甘く、草の揺れる音よりかすかに、歌声よりまろやかに、唇を震わせるその名を。呼んで、楓はそっと首を傾げた。
「楓は年々、ともえに似てくるって言われるの」
写真を片手に鏡を覗き込んで見比べても、幼い頃失った母の面影を己に感じることは、一度としてなかった。記憶はひとつの所で止まっていてずっと更新されないまま、写真だけが切り取られて、今を歩む楓の傍らにいた。止まったものと、動くものを見比べて、似ていると思うことがどうしてもできない。
「……今はすこし、やっぱり私はおかあさん似なのかなって、思えるよ。……似てる?」
「……楓」
やわらかく名を呼ぶ、記憶の中にこだまするのとぴったり同じ囁きは、問いかけの肯定でも否定でもなかったのだけれど。不安も、期待も、すべて受け止められた気がして、楓は鼻の奥をつんと痛めた。胸がいっぱいになって、息が難しくなる。おかあさん。震える声で呼び直して、楓はすぐ傍に座りこみ、微笑みを向けてくれる母をじぃっと見つめた。
「……おかあさん」
名前を呼ばれたら、それが最後。なにも言葉にならなくなってしまった。話したいこと、聞かせたいこと、知らせたいことはいくらでも思いつくのに、めまぐるしい程、頭の中を単語が飛び交っているのに。それを捕まえて、喉を通る呼吸に乗せて、舌の上で音を転がし、唇から声として紡ぐことがどうしてもできない。忘れてしまうように、凍りついてしまう。呟けるのはただ、幼い頃に泣き叫んだ、それ以外の言葉を知らないように繰り返した、たったひとつの呼び名だけ。
「おかあさん、お母さん……お母さん」
「楓。……かえで」
懐かしい声に、記憶が塗りかえられていく。忘れていた、思い出せなくなりかけていた、耳の奥で何度もよみがえらそうとした声が、そっと楓の名を呼んで行く。うん、と頷いて、楓は微笑する母の瞳が、なぜか泣き出しそうに歪んでいるのに気がついた。どうしたの、と言おうとして、考えて、震える唇でもう一度おかあさんと囁いて、楓は頬に涙を伝わせた。ああ、もしかして、そうなのだろうか。同じなのだろうか。楓と、全く、同じなのだろうか。たくさん言葉があるのに。言葉はあるのに。すぐそこに、語りきれない程に想いがあるのに、ひとつも音にはならなくて。消えることもなくて、増え続けて行くのに。不自由なくちびるは、名前を呼ぶことしかできなくて。それでも満足で。けれども悲しくて、もどかしくて。幸せと、愛しさが切なくて、息を吸うたび、胸をひたひたと満たして行く。一緒なのだ。同じなのだ。年々似て行く、と囁かれたその人は、楓ときっと一緒で、その音しか紡げないから、その言葉に全てを託すのだ。会いたかったよ。会えて嬉しい。話したいことも、聞きたいことも、言いたいことも、話して欲しいことも、聞いて欲しいことも、言って欲しいことも、たくさん、たくさんあるんだよ。けれども、それ以上に。名前を、呼んで。もう二度と呼び返されることのない空白に、色彩を灯すように。途切れたそれを、よみがえらせる幸福に、涙が零れて行く。
「わたし……私ね、頑張ってるよ。お父さんと一緒にいるよ。お父さんはね、バーナビーさんと一緒にヒーローしてる。おかあさん、バーナビーさん、知ってる? 毎朝ね、ちゃんと、お母さんの写真に挨拶してくれるの。私も挨拶、してるよ? 聞こえて……る? 聞こえてた? おかあさん、私の」
「ええ。おはようって言ってくれるわね、二人とも。虎徹く……おとうさんも。聞こえてたわ、楓」
虎徹くん、と言いかけてすこし照れたように言い直すともえの姿を、楓は目をまあるくして見つめていた。名前で呼ぶなんてお父さんとおかあさんはまるで恋人同士みたい、と思い、それから二人が確かにその通りの関係だったからこそ楓の両親であるのだということに思い至り、少女は頬をあざやかな朱に染めた。ころころと涙の名残を頬に転がし、楓は照れて頬に手を添える、少女めいた母に目を瞬かせる。
「……おかあさんは、お父さんの、どこが好きなの?」
それは母の写真を見るたび、楓が不思議に思っていたことでもあった。娘の欲目を抜きにしても、楓の母は綺麗な女性である。男性が色めき立つような風貌ではないが、惹かれる者は多かったに違いないのに。ともえはただ一人の相手として、虎徹を選んで左手の薬指に指輪を通したのだった。そっと視線を送れば、女性のたおやかな細い指の根元に、シルバーリングが輝いているのが見える。今も虎徹の指にあるそれの、対。神様に誓った愛の証。永遠の片割れ。楓がそうするように、溜息をつくように指輪に視線を向けて、ともえはそっと囁いた。
「……どこかしら」
その呟きがわりと、本気で悩んでいるようだったので、楓は心配になって眉を寄せてしまった。ふと脳裏に、同じ質問をした時のバーナビーの、なんとも言えない気持ちをもてあましながらも浮かべられた、うつくしい笑顔が掠めて行く。彼も、どこ、とは言わなかった。代わりに、全てとも、告げなかった。
「どこ……かが、好きよ?」
考え込み、ゆったりと首を傾げながら。記憶にある通りの、楓が思い出せた通りの声で、ともえは囁く。
「どこが、ではないの。全部、でもないのよ。ただ……虎徹くんのどこかが、私はとても好きで、だから……たくさん、いろんなところに、好き、を見つけることができるの」
例えば、どうしようもなくお人よしなところ。例えば、すこしだけ喧嘩っ早いところ。例えば、誰かを助けるのに一生懸命になりすぎるところ。たとえば、休みの日にねむそうに起きてくるところ。たとえば、テレビを見て笑う横顔、こぼれる声。そこが好きなのではなくて、どこかが好きだから、そこにも好きを見つけられる。そこも好きになっていく。
「……嫌いなところは、ないの?」
「あるわよ? 嫌いの方が、具体的にあるわ。でも、言わない」
可愛い可愛い娘に、そんなこと話せません、と唇に指を触れさせて微笑み、ともえはゆったりと目を細めて楓を見た。
「気になる人が、出来たのね」
じわ、と心に朱が広がった。じわじわ、染みだしてくるそれは、恥ずかしさと、まだ名前を付けられないなにかの気持ちだった。分からないの、と楓は言った。
「わからないの……。お父さんや、おかあさんや、おばあちゃんや伯父さんや……バーナビーさんたち、とは、違うこと、くらいしか、分からないの……。お、おかあさんが、言うみたいな、好きとか、そういうんじゃないの……!」
思わず手を伸ばして服を掴めば、そこには体温を移したぬくもりがあって、楓はまた泣いてしまう。もうほとんど覚えていない、最後のおかあさんは、冷たくて硬かった。びくりと指を震わせた楓に申し訳なさそうに微笑み、触れた手を覆うように重ねられたてのひらは、柔らかい体温を宿していた。薄い皮膚の向こうで、確かに、鼓動が打たれている。喉から絞り出した声で、ようやく囁いたような声で、楓はおかあさん、と言った。
「もっと……ずっと一緒にいたかったよ。いたいよ……!」
「……傍にいるわ。楓のすぐ傍に」
「傍ってどこっ? 見えないし、会えないし、話せない、声も聞こえない傍なんて嫌だよ! おかあさん……おかあさんっ!」
捕まえていたくて。逃がさないように背に腕を回して、記憶の奥底にすら留められなかった幼い日々にそうしていたように強く抱きつけば、楓は息が苦しくなった。息が、苦しいほど、抱きしめられていた。かえで、と耳元で名前が囁かれる。そのかすかな響きにまぶたを震わせ、楓はそっと目を開いた。
「おかあさん……?」
視界の遠くに、アカデミーの校舎があった。そこへ続いて行く道は芝生に覆われていて、雲の影がゆっくりと東へ移動しているのが見える。草原を風が移動するような音が聞こえて身を起こせば、楓が座っていたベンチの後ろに広がる並木が、大気の流れにゆらゆらと動いているのが分かった。楓は、あたりを見回した。まばたきひとつで、世界が切り替わってしまった。意識は途切れることなく続いていて、だからこそ、現実が上手く理解できない。抱きしめられた息苦しさが胸にこびりついていて、ぬくもりも優しさもまだ残っていて、耳の奥では優しい声が、記憶の通りのその声が、まだ響いているようで。
「……おかあさん!」
声に出して、呼ぶ。全身を温かく包みこんでいたぬくもりが、世界をまばゆく照らし出している光の帯だったなんて、思いたくなかった。あたたかいのに、体の芯が冷えた気持ちで身を震わせる。風が吹いて、草原のように梢が揺れた。
「……楓!」
泣きださなかったのは、彼が名前を呼んでくれたからだ。楓は、慌てたように校舎の方から走ってくるエドワードを、ベンチから立ち上がることもできずに出迎えた。手に紙袋を抱えて走ってきたエドワードは、楓の前でほっとしたように立ち止り、肩を上下させて息を整えている。温かな、食べ物の匂いがふと漂った。エドさん、と言葉を零した楓に、エドワードは心配そうな表情で、そっと目を覗き込んでくる。
「PDA鳴らしても出なかったから探した。つーか、あー、位置確認すればよかったのか……。寝てたのか?」
大丈夫か、とか。どうしたんだ、とか。そう言ってしまいたそうな声の響きで、決してその言葉を選ばずに、エドワードは慎重に楓を確認している。泣いたような赤い目元も、鼻をすする様子も、普段より早く浅い呼吸も、心配そうに見つめて。なにも楓が言えないでいるのが分かったから、結局は片手を伸ばして、頭にぽん、と触れるだけでよしとする。
「寝るなら……外のベンチはもうやめとけ。風邪ひく」
「うん。……PDA鳴らしたの? 気がつかなかった」
「緊急コールの音じゃないから、起きなかったんだろ。見つかったから、いい。気にすんな。……昼メシは?」
こぶし二つ分の距離をあけて、エドワードは楓の隣に腰かけた。お昼ごはん、と繰り返して呟き、楓はゆったりと首を傾げて言葉の意味を考える。どうも、頭がまだ動かない。マイペースに紙袋の中からベーグルサンドを取り出しているエドワードをぼんやりと眺め、楓はあっと声をあげた。
「持ってきてる!」
「……起きろ、楓。な? いいこだから。そろそろ昼だから」
「起きた、起きたもん!」
ベンチの下から引っ張り出したのは、おべんとうばこを入れたちいさなトートバックだった。地面に直に置いてしまったのでバックの表面は砂で汚れていたが、手で簡単に叩けば落ちる程度のものである。寝ている間に落ちたのではなく、最初から下に置いておいたのが不幸中の幸いで、中身は崩れてぐちゃぐちゃにはなっていないようだった。ほっとして膝の上に広げる楓の手に、エドワードがほら、とウエットティッシュを渡す。
「いるだろ?」
「ありがとう、エドさん」
「ん。……毎日思うけど、楓、それで足りんの?」
手渡して引いて行く指先が、さりげなく楓の目元に触れ、そこに涙がないことを確認してから離れて行く。背をまっすぐに伸ばして息を吸い込みながら、楓は毎日告げられるエドワードの問いに、すこしだけ緊張しながら口を開いた。
「毎日、エドさんはそう言うけど」
「毎日心配なんだよ。……すくない」
「すくなく、ない。十分! 私は、これで、いっぱいなの」
楓の膝の上にちょこんと乗せられているのは、小ぶりなピンク色のおべんとうばこと、ややいびつなおにぎりが二つだった。虎徹が作るよりもちいさく、バーナビーが握るよりすこし不格好なおにぎり。それに、卵焼きにきんぴらごぼうに根野菜の煮物。夕食の残りの、チキンソテーが一切れ。それを彩りよくおべんとう箱につめて、楓のお昼ごはんは完成だ。なんでそれで足りるのか分からない、と首をひねるエドワードの昼食は、大ぶりのベーグルサンドが二つに、砕いたクルミの混じった山盛りのグリーンリーフサラダ、フライドポテトとドライフルーツの混ぜられたヨーグルトである。サラダとヨーグルトは、ベーグルだけじゃなくて、もっとバランス良く食べなさい、と楓が言い聞かせた成果で、つい最近追加されるようになったものだ。どうしてそんなに食べられるのかがよく分からない、といぶかしげに眉を寄せ、楓はサラダのプラスチック容器の端に煮物をいくつか分けてやる。微妙そうな顔をしたエドワードに野菜、とぴしりと言い放てば溜息ひとつで文句は出ず、粛々とごぼうに手が伸ばされる。よく煮たごぼうを指先で摘み、ぱくりと口の中に入れ、エドワードは交換と言わんばかり、フライドポテトを楓のおべんとうばこのふたに盛りつけてしまった。
「……いただきます」
「うん。俺も、いただきます」
手を合わせ、ぺこりと頭を下げるエドワードは、食前の祈りを止めてしまったのだという。その代わりのように、楓と出会って食事を共にするようになってから、エドワードは日本式の食事の挨拶を好むようになった。神様、という存在を、エドワードは信じているから、もう祈りたくないのだという。願いが届かないことを知ってしまった青年は、あとはひたすら自分の努力で乗り越えようとして、祈る言葉を途絶えさせてしまった。楓はなんとなくそうしたくなって、ベーグルサンドにかぶりつくエドワードの頭に手を伸ばし、そっと頭を撫でてみた。
「……楓?」
「なんでもない」
「なんだそれ」
なんでもないのに俺のこと撫でたりすんの、といかにも可笑しげにあどけなく笑い、エドワードは優しく目を細めて楓を見つめた。その、実はなにもかも全部分かられているような表情が、楓はすこしだけ苦手だ。意味もなくどきどきして、エドワードのことを見ていられなくなる。そーっと手を引いてなんでもないの、と繰り返し言い放ち、楓はおにぎりにぱくりと食いついた。ふぅん、とからかって遊びたがるような呟きを落とし、けれどなにも言わずに、エドワードは視線を楓から外してくれる。そうすると寂しいような気持ちになって、少女は青年が見つめる先を探すように、同じ方向に視線を投げかける。空は、きよらかに晴れていた。大きな雲がいくつか、ゆっくりと東へ流されて行く。時折過ぎ去って行く風が、梢を揺らして切ない音を奏であげた。木漏れ日の眩しさに、そっと目を細める。なんとなく、今日はこのまま平和であるような気がする午後だった。ヒーローに出動要請がかかる事件が起きず、それでいて警察が街中を駆けまわるようなこともなく。このまま穏やかに日が陰り、夜が巡って、朝を迎えて行くような。なにも起きない日であると、今日はずっとこのまま穏やかであると、不思議な確信を胸に下ろしてしまえるような午後だった。
夢の余韻が、まだすこしだけ胸にこびりついている。それなのにもう、それがどんな夢だったのか、嬉しかったのか悲しかったのかすらあいまいで、よく、思い出せない。それぞれのペースで口にしていた昼食も終わり、楓はおべんとうばこをちいさなトートバックにしまい直した。エドワードは腹ごなしに柔軟でもしたそうな顔つきで首を傾げながら、のんびりと空を見上げ、楓の傍らに座っている。二人のこの後のスケジュールは、珍しいことに空白だった。午後の授業が、講師の都合により無くなった為だ。トレーニングルームにでも行くか、とエドワードがぽつりと漏らすのを聞き届け、楓はそっと青年に手を伸ばし、控えめに服の裾をひっぱった。ん、と不思議そうな声をあげて、視線が楓の元まで降りてくる。なに、と問う声は穏やかに甘く、だからこそ少女は珍しく、甘えたい気持ちを殺すことなく唇に乗せてはきだした。
「このあと……どこか行ったら、だめ?」
「どこかって。どこに?」
「……どこか。トレーニングルームじゃない、どこか」
ここではない、普段は行かない別の場所。その条件を満たす場所であるのなら、どこでもよかった。どこへ行きたい訳ではない。ただ、どこかへ行きたい。あやふやで、あいまいで、ぼんやりとした気持ち。それにエドワードは苦笑して、服の裾を掴む楓の手を外させることなく、ぽんぽん、と少女を撫でた。
「どこ行きたい?」
「……行って、いいの?」
「出動要請が掛かれば現場行く義務が発生するけど、俺たちは基本的に放課後はフリーなんだよ。本当は。……アカデミーが終わった後はトレーニングルームに行き、ヒーローと交流することが望ましい、ってだけであって。望ましいは、義務じゃねぇし……楓は、もうすこし遊んでいい。だから」
どこ行きたい、と重ねて問うエドワードの瞳に灯る色はゆるく、笑うように輝いていて、楓のちいさなワガママを全面的に受け入れ、とびきり甘やかすことをすでに決めてしまっていた。厳密にいえば午後はまだ放課後ではないのだが、それはこの際、関係の無いことなのだろう。これではやっぱり行かない、と言っても、エドワードは楓を、トレーニングルーム以外のどこかへと連れて行くに違いない。なんとなく、真正面から視線を重ねて置くことができずに、楓はそっと視線を外した。代わりに見つめたのは、エドワードのてのひらだった。楓のものよりふた回りは大きい、骨ばった印象の、エドワードのてのひら。爪は短く、指先がすこし荒れている。もう片方の手は未だ、楓の頭をゆるゆると撫でていた。大切なものを慈しむように、エドワードは優しく楓に触れる。離して、という代わり、目を伏せた。優しくしないでいいよ、と反射的に言葉が浮かぶが、どうしてそう言いたくなるのか分からない。息を吸い込む。
「エドさんも……」
「ん?」
「一緒、だよね?」
確認するまでもなく、基本的に、エドワードは楓の傍にいたがる。それは本人の希望でもあるし、刑務所から出てサポーターとして活動する際に、遵守しなければならない、いくつかの義務のひとつであるという。内容について楓は、詳しくを知らないし聞いたことがない。一度聞いた時に教えない、ときっぱり告げられていたから、それ以降は尋ねることを止めてしまった。エドワードは警察やこの街を守る存在、あるいはこの国を統べる存在からNEXTとしてもう一度犯罪を起こすことをひどく警戒されているし、それと同じか、あるいはそれ以上に楓の能力暴走に対するストッパーになることを期待されている。NEXT能力の、コピー能力。己のものではないその能力のコントロールは未だ安定せず、その兆しすら見せないものだった。制御が不安定なことで、身体的な負荷を軽減している能力もある。しかし楓の能力がそれに該当するものなのかは不明で、未だ幼い精神と肉体を持つ成長途中の少女であるからこそ、未知の部分は多いのだった。エドワードは義務以上の想いで、その未知の部分を不安がる者たちから、少女のことを守ろうとしてくれている。一緒にいるというのは、そういうことだ。
不安げな問いかけに、エドワードは素直に頷く。
「一緒。イワンかバーナビーか……カリーナでも呼ぶか?」
「皆忙しいんだから、駄目だよ、そんなの……どこ、行こう?」
早口で慌ただしく咎め、楓は困りながら首を傾げた。感傷的な気分が義務的な場所へ向かうことを嫌がっているだけで、特に行きたい場所がある訳ではないのだ。ううん、と眉を寄せて考え込む楓を苦笑しながら見つめ、エドワードは決まってないなら、と言った。
「ショッピングモールでも行くか?」
「……どこの?」
シュテルンビルトにショッピングモールは、いくつもある。東西南北のエリアにわけて考えるだけでも、それぞれひとつ以上は存在しているのだった。対象とする年齢層や売りがまったく違うので共存できているようなのだが、オリエンタルタウンでは考えられないことだった。問い返す楓に、エドワードは南の、と若者向けのそれがあるエリアを告げ、加えてこうも言い添えた。必ず楓が食いつくであろう、と確信している微笑みで。
「ちょっと前にできた、新しいヤツ。バーナビーがイメージモデルかなんかで、撮影場所にしてたトコ」
「そこにする!」
「……本当に、バーナビーのこと、好きな」
目の前に垂らした釣り糸にもくろみ通りぱくりと食いついたさまを微笑ましくも呆れた様子で眺めやり、エドワードはやや理解できない、とも告げる風に呟いた。一緒に暮らしていてもまだそんなに好きなのか、と不思議がっているようでもあった。かつての憧れのヒーローで王子様だったひとは、今は楓の家族である。同時に父親の恋人であるのだが、それはそれとして、兄のような気持ちで少女はその存在を受け入れている。父親の恋人、ではなく。それはそれとして、彼は楓の血の繋がらない兄であり、大切な家族の一員なのだ。憧れの気持ちが消えた訳ではないし、好きだという想いが薄れた訳でもない。けれどもテレビや雑誌でしか触れなかった時のようにどきどきする好きというよりは、もっと落ち着いた、溢れるような愛おしさの好きに変わってはいる。それでも、好きなものは好きなのだ。決して、変わりはしなかったのだ。うん、バーナビーさん大好き、ととびきりの愛しさを告げるように言う楓に、エドワードは苦笑し、しきりと首を傾げながら呟く。
「そんなに好きな相手に、よくタイムセールでトイレットペーパーとか買ってきてって頼めるよな」
「だって、一緒に暮らしてるもの。買い物くらい、普通に頼むよ? ……エドさんは、なんでお使いの内容知ってるの?」
「ちょうど、そのショッピングモールでバーナビーに会った時、そんな話したからだけど」
どうしてそんな会話になったのかを、エドワードは積極的に話す気がなかった。説明しにくいからである。しかし幸い、楓は別の所が気になったようで、きりりと眉がつり上げられた。
「……行ったの?」
「どこに? タイムセール?」
「違う。ショッピングモール!」
なんで苛々してしまうのか、楓にはよく分からない。エドワードには、もっと分からなかっただろう。宥めるように楓を撫でたてのひらが、そのまま離れて行かずにもう一度髪に触れたことに、心がそっと落ちついて行くくのを感じた。
「仕事で。……警察からの呼び出しで。それが終わったあと、イワンに見つかって、一緒にバーナビーの撮影の見学してた」
「……あ」
心当たりがあったようで、楓は声をあげて気持ちをすっと飲み込んだ。エドワードは慎重に楓を見つめながら、その日に行っただけ、と告げる。あとは分かってるだろうけど楓と一緒だったし、忙しくて俺も遊びに出歩いたりはしてない、と。苦笑しながら告げるエドワードに、楓はなんだかじわじわ恥ずかしくなって来て、ちいさな声でうん、と頷き、返事をした。
「そ、そっか……そうだよね。……サポーターの仕事だったの?」
「次回は楓も一緒にって言っとく」
「うん。……じゃあ、いい。分かった」
誰かと一緒じゃなかったの、と問う代わりの言葉に、エドワードは苦笑しながら応えてくれる。楓は恥ずかしさを隠すように頷きながら、ゆるやかな安堵に胸を撫で下ろした。なんだろう、と思う。なにが嫌だったんだろう。考えを見つめてしまえば恥ずかしさに似た気持ちが思考を阻んで、楓はぶんぶんと頭を振った。次があるなら、その時は楓はエドワードと一緒に行ける。今は、それだけでいい。もやもやした気持ちを持て余しつつ、楓がベンチから立ち上がろうとした時だった。二人の手首のPDAが同時に着信音を奏でる。零れた溜息は、くしくもまったく同じ響きを帯びていた。事件、空気読め、である。
「……はい。鏑木楓です」
「エドワード・ケディです。事件ですか、事故ですか、調査ですか? ヒーローの出動の可能性は?」
しぶしぶ通信をオンにした楓が答えるのを聞きながら、エドワードもベンチから立ち上がり、少女の頭をぽんぽん、と撫でた。エドワードはなにかにつけて楓の頭を撫でるが、それがこども扱いなどではなく、ちょうど良い高さに頭があるから、という事実を少女はもう知っていた。なにかの時に、本人からそう聞いたからである。意味もなく触れたりすることはしない相手なので、慰めてくれることは分かるのだが。通信を繋げて名乗ったきり、むくれてなにも言おうとしない楓に変わって、エドワードはてきぱきと二人に通信を繋げてきた相手に対し、質問を重ねて情報を引き出し、指示を仰いでいる。そうしながらもエドワードは楓の手を引いて、アカデミーの校舎へ歩きだしていた。私物を含めた貴重品や、サポーターの制服がロッカーにしまいっぱなしだからである。大体の場合、アカデミーに到着した時点でサポーターの制服に着替えてしまうのだが、今日に限って二人ともが私服のままだった。ではすぐ向かいます、と言って通信を切ったエドワードが溜息をつきながら振り返り、楓の顔を覗き込んでくる。ぽん、と手が頭を軽く叩いた。
「仕事」
「……うん」
ヒーローの出動はたぶんナシで、だから捜査協力で警察まで行く、と簡単に説明し、エドワードは俯く楓に苦笑した。
「次の休み。……楓は三日後だったよな?」
「うん」
アカデミーの休日は土日であるが、少女の休みはそれに重ねられていない。『第一級の緊急事態が発生しないかぎり呼びだされない』という意味での休みは数日ごとに設定されていて、楓の次の休みは三日後だった。それがなに、と呟く楓に俺もなんとか休みにしてもらうから、とエドワードは囁く。
「その日にショッピングモール、行こうな」
「……いいの?」
「いいよ。休み、もらってくるから。待ってろ」
だから今日はこれから仕事、頑張れるな、と言外に告げられて、楓はようやく顔をあげて頷いた。
「エドさん」
「ん?」
「……わがまま言って、ばっかりで、ごめんなさい」
でも、叶えてくれようとしてありがとう。恥ずかしげに、申し訳なさそうに言う楓に、エドワードは眉を寄せた。
「全部叶えてやる」
「……エドさん」
「ワガママなんて思ってないで、やりたいことは言えよ?」
楓は、うん、と頷いた。言葉がうまく出てこない。少女が頷いたのを確認して、エドワードは楓の手を引いて歩き出した。すこし早足で進まれるのに、小走りについて行く。導くために繋がれた手は、かたく握られたままだった。