BACK / INDEX / NEXT

 完全な楓の休日を示す、カレンダーに張られたうさぎのシールが特別な意味を持つことなど、バーナビーや虎徹に分かる筈もないことだった。しかしカレンダーの前を通るたび、楓がそわそわと数日後の日付を気にするそぶりを見せ、指先でシールを幾度もなぞってはにかんで笑うのだから、なにもないと思う方が間違っている。加えて、その日が翌日となった夜、楓はま新しい買ったばかりの靴を、玄関にそっと下ろした。普段はいている革靴やスニーカーと比べて、ほんの僅かにかかとの高いきれいなサンダルである。小花模様が散りばめられたデザインは可愛らしく、それでいて今までの楓の持ちものの中には無かった、年頃の少女めいた靴だった。少女の血の繋がった父と、血の繋がりの無い養父は、楓がカリーナから、すこし大人びたデザインのワンピースを借りたことも知っている。トレーニングルームの女子更衣室で即席ファッションショーが開かれ、少女たちがきゃあきゃあと騒ぎながらあれでもない、これでもないと小一時間頭を悩ませていたからだ。ワンピースをそっと抱くようにしてそわそわと帰宅した楓は、口数も少なく夕食を済ませ、普段より二時間も早くお風呂を済ませて部屋に引っ込んでしまった。物音もしないので、すでに寝てしまっているのだろう。バーナビーはゆったりとした仕草で白いシンプルなマグカップを傾けながら、隣で落ち込んでいる虎徹に視線を移動させた。こくん、と一口飲む。スパイスを入れて温めた赤ワインが、ほっと気持ちを和ませた。
「……僕たちも、もう寝ます?」
 虎徹の視線がゆーっくりと持ちあがり、バーナビーを見るとへなへなと脱力していく。うん、これはとても重傷だ。手を伸ばして短い髪をくしゃくしゃに撫でまわしてやりながら、バーナビーはまったくもう、と甘い声で囁く。
「そんなに落ち込まなくても。ないしょにされたくらいで」
 誰と出かけるのか。どこへ行くのか。当然、虎徹は一度ではなく楓に問いかけている。しかし返ってくる言葉はうっとおしげなそれか、あるいはないしょ、の一言で終わらせられたまま、今に至るのだ。バーナビーも虎徹と同じく楓が明日、誰と何処へ出かけるのかの情報を持たないが、それはそれ、なんとなく予想はついているのである。楓の多忙な生活と交友関係を考えれば、自然と相手が絞られてくるだけの話なのだが、そこに考えを及ぼす冷静さを虎徹は取り戻せないままなのだろう。仕方がないひとですね、とくすくすと笑いながら虎徹の頭を引き寄せ、バーナビーは男の額に、そっと唇を押し当てた。
「もう寝ましょう?」
「……バニー」
「いい夢が見られますように。おやすみなさい、虎徹さん。僕はもうすこし起きていますから、眠れないようなら声をかけて」
 つまるところ、そこで落ち込んでいるくらいならベッドに横いなってさっさと眠ってしまえ、と笑顔で手を振って追い払うバーナビーに、虎徹は深く息を吐き、分かったよ、と言った。
「おやすみ。……夜更かしするなよ?」
「こどもあつかい」
「一人寝がさみしいって言ったんだよ」
 ひらりと手を振って寝室へ向かう虎徹の背を眺めるようにして見送り、バーナビーは唇にマグカップのふちをぎゅっと押し当てた。半分以上中身の残っていたそれを、一息に飲み干す。すこしむせながら立ち上がって、シンクの中へ置き、頭の中で六十秒、気持ちゆっくりと数をカウントした。きっと見破られてしまう時間かせぎだ。それでも構わない。バーナビーは努めてゆっくりと寝室へ向かい、リビングの電気をパチリと消した。



 どうしよう、とその言葉ばかりが頭の中を埋め尽くしていた。どうしよう、どうしよう。どうしたらいい、と問いかける相手もなく。ぐるりぐるりと言葉が巡って、鼻の奥をつんと痛ませた。鏡に映る楓の顔は、自覚している以上に泣きそうで可愛くもなんともない。そのせいで少し大人びた色合いとデザインのワンピースが、さらに似合わなくなってしまった気がして、楓はその場にしゃがみ込んでしまう。朝も早い時間帯だからか、家の外から聞こえてくる音はごく穏やかだ。車の走って行く音がたまに空気を震わせるくらいで、鳥の鳴き声と風の通り抜ける音が遠く、意識の端を掠めて行く。何度目かのどうしよう、を声に出して呟き、楓はふるりと頭を振った。立ち上がって、もう一度鏡を覗き込む。すこしだけ背伸びをしたくて、借りてきたワンピース。あと一年か二年くらいすればしっくりと着られるようになるであろうそれを、深呼吸をしてから脱ぎ捨てた。せっかくカリーナから借りたものだが、似合わないと、そう自分で思ってしまったのだから仕方がない。こういう時に、と楓はクローゼットを開きながら思う。こういう時に、母親がいれば相談できたのだろうか。たとえば、異性と出かける時に着て行く服のこと。たとえば、なにを着ても似合わないような気がしてしまう、ざわざわと落ち着きを失った心の感じ。たとえば、普段とは違う風な服を着たいのに、どうすればいいのかも分からなくなってしまった時の、助けを。求めても良い相手として、存在してくれていたのだろうか。落ち込むあまり感傷的になっている気分を深呼吸ひとつで振り払い、楓はじっくりと、クローゼットに収まった服のひとつひとつを眺めてみた。
 はき慣れたジーンズを手に持って眺め、畳み直して溜息をつく。ズボンはやめよう、と思うのは、ヒーローサポーターとして活動している楓の制服が、ズボンタイプだからである。機動性と防護性を重視した、アンダースーツ素材とほぼ同じ生地で作られた服だから、スカートに変更されることは以後もないままだろう。もうちょっと可愛い感じにはしたいと思ってるんですけどね、と苦笑した技術者の言葉を信じるにしても、彼女の『可愛い』は世間一般の定義からも意味からも大幅に外れた所に存在しているので、期待してはいけないと楓は思っていた。溜息をつきながら、ちらり、とセーラー服に視線を向ける。プリーツにぴしりとアイロンがかかった制服は、アカデミーからの行き帰り、楓が身につけているものだ。膝丈のスカートである。いっそこれを着てもいいかも知れない、と思いかける意識を食い止めて、楓は深々と息を吐き出した。アカデミーにいる時、楓はだいたいサポーターの制服に着替えている。だからこのセーラー服は、純粋に通学用の制服と言っても差し支えないものなのだが、悪いことに、今日出かける相手はこれを着た楓、という存在を見慣れているのだった。なにせ、相手はエドワードである。最低でもアカデミーから駅までの道筋は送ると言って聞かない相手なので、ほぼ毎日、セーラー服姿の楓、というのを見ているのだった。どうしよう、と楓はもう一度思う。
 なにを着て行けばいいのか、本当に、ちっとも、まったく、分からなくなってしまった。誰かに相談したいけれど、その相手すら思い浮かばない。家の中はしんと静まり返っていて、虎徹もバーナビーも起き出す気配がなく、カリーナに電話をしてアドバイスを求めるにも、時間は朝の七時をすこし過ぎたばかり。起きているのは分かっているが、眠たい目を擦りながら朝食をとり、授業へ向かおうとするカリーナに相談する内容としては、ためらうものがあった。だって、カリーナはこれから学校なのである。うぅ、と眉を寄せ、楓は着直したパジャマのボタンを指先でいじくった。どうしよう、どうしよう、とそればかり考えても事態が好転しないのは分かっていた。それなのに、袋小路にはまってしまったように、もう自分ではどうすることもできない。時間だけが、じわじわと過ぎて行く。耳に入る時計の音は、当然のことながら止まることはなかった。気持ちがどんどん焦って、呼吸すらおぼつかなくなっていく。どうしよう、と楓はひたすら考える。待ちあわせている時になにかあったら危ない、というとてつもなく過保護な理由で、エドワードは九時になったら家まで楓を迎えに来ることになっている。思考の海から浮かび上がり、再び視線を向けた時計は七時四十五分を示していた。時間はある。十分とは言い難いが、慌ててどうしようもなくなってしまう程でもない。けれども、着て行く服が決まらない。大問題で、大変なことだった。
 いっそ、ショッピングモールで満足できる服を買うことにしようかとも思うが、そもそも、そこに着て行く服が決まらないのである。どうしよう、と再びその言葉で頭の中をぐるぐるに埋め尽くしてしまいそうになる楓の耳に、その時、ノックの音が届いた。コン、と一回。控えめで、丁寧で、律儀にすら響く音だった。そうでなくとも、楓はそれを成した者を言い当ててみせただろう。この家で、楓の部屋に入ってくるのにノックをする存在など、一人しかいない。虎徹はノックなどしてくれたためしがないので、必然的にもう一人しかしないのだが。
「……バーナビーさん?」
 聞き間違えかも知れない、と不思議がりながら扉の向こうに問いかければ、うん、とすぐに返事が返ってきた。砕けた、甘い返事であるのに、その声はどこか品よく空気を震わせた。彼の言葉は怒れる感情に荒れているその時であっても、奥底にほのかに漂う気品を失ったことがない。楓はハッとして扉へかけより、最近つけて貰った内鍵を開けた。ドアノブに手を伸ばして廊下に顔を出すと、そこにはやはり、バーナビーが立っている。髪をゴムで無造作にくくり、はき慣れたジーンズとシャツという簡素ないでたちであるのに、見惚れてしまうほど、うつくしいひとだった。格好良くもあるのだが、心の素直な場所が一番に浮かび上がらせる彼の形容詞は、いつでも『うつくしい』というそれで、出会ってから一度もその評価が覆ったことはなかった。バーナビーなら、と楓は思う。この、なにを着てもある程度以上に着こなしてしまう青年は、そのせいでファッションに対するこだわりがないに等しい相手は、誰かと出かけるという日の朝にでも、服装に困って泣きそうになる、なんてこと、一度としてなかっただろう。羨ましくて、楓は息を吸い込んだ。
 おはよう、と言おうとした唇が震えて、きゅぅと結ばれる。バーナビーはおや、と不思議そうな顔でゆったりと首を傾げたあと、楓の前にそっとしゃがみこみ、下から少女の顔を覗き込んで来た。その視線を避けようとは、しない。退けることもしないのは、その行為がどれだけ、バーナビーの心を傷つけるか知っていたからだ。バーナビーはどこか傷ついてしまったような少女をじっと見つめ、やがてしゃがみ込んだままで、普段通りに楓ちゃん、おはよう、と言った。楓は、長い時間をかけてそれに頷き、うん、とだけ言った。三分か、四分近くのどうしようもない沈黙を、ただ甘やかに待ってくれたことが嬉しかった。どうしたの、と問われなかったことが嬉しい。そんな言葉をかけられたら、楓の感情は荒れることしかできなかった。閉じた唇を、呼吸の為に薄く開く。そして、いつの間にか体の横で握ってしまっていた手をこわばった動きで開き、バーナビーに向かって差し出した。てのひらは、間違えることなく繋がれる。ひだまりの、ぽかぽかした温かさを宿すバーナビーのてのひらは、まるで宝物のように楓の手を押し頂き、撫でた。
「……服が、ちっとも、似合わないの」
 ほころんだ心が、ぽつりと、言葉を落として行く。せっかく貸してもらったのに、それで、もう、どうしていいのか、分からなくなっちゃったの。震えて、今にも泣き出しそうな楓を微笑みながら見つめて、バーナビーは一度だけ、うん、と言った。だからこそ楓は、泣かず、その一言を告げられた。
「助けてくれる……?」
「もちろん。……さ、おいで、楓」
 微笑んで。そっと広げられた腕の中に、楓は温かいお湯の中に身を沈めるような、無防備で信頼に満ちた気持ちで体を寄せた。しゃがみこんだバーナビーの腕の中は、やはりぽかぽかしていて温かく、目を閉じれば聞こえてくる鼓動が安堵ばかりを引き寄せた。嬉しそうに髪を撫でてくるバーナビーにくすくすと笑いながら、楓はもう、と仕方がなさそうに唇を動かす。
「バーナビーさん、いつから起きてたの?」
「徹夜はしていませんよ。はやく目が覚めてしまって、眠れそうになかったので、柔軟をしていただけです。……汗くさい?」
「ううん。平気。バーナビーさん、いい匂いがするもの」
 バーナビーは、基本的に体温が低い。寝起きであれば、それはさらに顕著なものとなる。目を覚ますのと、体を温める意味でも毎朝シャワーを浴びるバーナビーがぽかぽかしだすのは、朝食を食べた後くらいが常である。そうでなければ風邪を引かないように温かくして徹夜していた朝などが大体である為に、楓は思ったより健康的な理由に、嬉しくて口元を和ませた。バーナビーに、血流が良くなる柔軟を教えたのはパオリンだろう。眠くなったらちゃんとお昼寝するのよ、とおしゃまに言い聞かせる楓にバーナビーが素直に頷くのは、今日は彼も休日だからだ。タイガー&バーナビーにサポーターの二人の休みが奇跡的に重なった今日という日は、奇跡でありながらもなにか作為的なものを感じるのだが、楓は深く考えないことにした。まさか、父親と養父が楓のバディとのお出かけの後をつけるとか、そう言った理由の為に、多忙を極めている筈であるのに有給を消化してまで休みを取ったとは、思いたくないし、万一事実であった時にはちょっと落ち込んで立ち直るのに時間がかかりそうだったからだ。闇に葬る方が良い真実も、ある。
 バーナビーの手が楓の背をそっと叩くのが、体を離す合図だった。その時にはすっかり気持ちが落ち着いていたので、楓は恥ずかしげに視線を彷徨わせ、未だしゃがみこんだままのバーナビーの腕を引き、立ち上がらせる。そのまま部屋の中に引っ張り込んで問題のワンピースを見せれば、バーナビーはごく素直な顔つきで服と少女を何度か見比べ、ぱちりと瞬きをした。
「似合うと思いますけど……?」
「似合わなかったの。せっかく、カリーナさんに貸してもらったのに……どうしよう」
 泣きそうに唇を歪める楓に、似合わない訳がないのに、と微笑ましく口元を和ませたバーナビーは、少女が止める間もなくPDAに指先を走らせ、専用の回線でカリーナを呼びだしてしまった。時間にして、ほんの数秒。サウンドオンリーで繋がった通信の向こうで、慌ただしい声がなによ、と言った。今ちょっと忙しいんだけど、と告げたカリーナは、もう家を出る直前なのだろう。あれがない、どこに置いたっけ、と呟きながらばたばた駆けまわる足音が聞こえてくるのに構わず、バーナビーはおはようございます、カリーナ、と普通に挨拶をし、次いで用件をさらりと告げた。
「楓ちゃんが、借りたワンピースが似合わないって不安がるんです。貸した本人の御意見をどうぞ」
『え、絶対可愛いから! んー……確かにちょっと大人っぽい感じはするかも知れないけど、合わない服は貸さないわ』
「だ、そうです。ありがとう、カリーナ。行ってらっしゃい」
 ぷつり、と通信が切られる。そしてバーナビーは、困惑と驚愕と焦りと申し訳なさがぐちゃぐちゃになって凍りついてしまった楓の顔をそっと覗き込むと、大丈夫ですよ、と肩に手を置いた。指先が、鼓動と同じリズムでやんわりと肩を叩く。
「着てみましょう。大丈夫ですから……ね?」
「でも」
 似合わなかった。鏡を覗き込んだ時の、底知れない海の青さのような、悲しい気持ちを思い出して口ごもる。カリーナはつまらない嘘をつかないし、バーナビーは楓をそういう風に騙すことは、決してしない。二人への信頼が胸にあってもためらってしまうのは、瞼の奥にこびりついた、その青さのせいだった。そっと、吐息を零すように、微笑んで。大丈夫、とバーナビーは根気強く、優しく、楓の耳に吹き込んだ。
「着てみせてください」
「……うん」
 頷くと、部屋を出て行こうとするバーナビーを呼びとめて、壁を向いて待っていてとお願いし、楓はもう一度、ワンピースに手を伸ばした。ぎゅっと目を閉じて深呼吸をしてから、先程よりずっと丁寧な仕草で、布に腕を通して行く。鏡を振り向くより早く、楓はバーナビーを呼んだ。鏡より、バーナビーの瞳に映る姿の方がずっと、信じられるような気がした。
「……どう?」
 楓の姿を認めたバーナビーが、少女が恥ずかしくなってしまうくらいの輝く笑みを、うっとりと浮かべてくれたので聞く前に分かってはいたのだが。言葉にして欲しくて聞いた楓に、バーナビーは幸せそうにふふ、と笑みを零してから言った。
「とてもよく似合ってる。……そうだね、普段よりすこし大人っぽいけど、可愛いよ」
「本当に?」
「本当に。鏡、見てごらん? ……ああ、でも、その前に」
 伸ばされた指先が求めるまま、目を閉じる。薄い闇の中で、部屋に差し込む光の音が聞こえる気がした。
「……似合うよ」
 鼻の奥がつんとしても、それは悲しい気持ちではなかった。そっと目を開くと、近くにバーナビーの宝石のような目があって、楓は胸いっぱいに息を吸い込む。視線を動かして鏡を覗き込み、楓はなぜか切ないような気持ちで、そっと眉を寄せた。どうしていつも、彼は、楓に魔法をかけてくれるのだろう。
「ね?」
 にっこり笑って首を傾げるバーナビーに、ありがとう、すら声に出すことができず、楓は幼く腕を伸ばすことで応えた。ものも言わず抱きついてくる少女の背を、バーナビーは慈しむ手つきで撫で、ほぅと満ちた息を吐きだして笑う。
「納得しました?」
「……うん。ありがとう、バーナビー」
「どういたしまして。僕の、可愛いお姫さま」
 普通の青年なら歯が浮いてしまうような台詞を、この上なくしっくりと告げることができるのがバーナビーというひとである。本気で言っているのが分かるので、楓は早いリズムで鼓動を刻む心臓を、胸の上から両手で押さえ付けた。きれいなひと。うつくしいひと。彼から向けられる、まじりけのない透明な愛情は、少女の心を甘くしびれさせては嬉しくさせた。それでも恋をしないのは、彼のそれが、決して楓には向かないと知っているからだ。このきよらかな存在がひたすらに恋をし、愛する存在が己の父親だというのは、一体どういう巡り合わせで起きたとんちんかんな奇跡なのだろう。不思議な気持ちで手を伸ばせば、指先を温めたがるよう、てのひらで包まれる。ふ、と。天啓を受けたように、楓はそれに気がついた。彼は、バーナビーは、きっと本当に楓をお姫さまに想い、そして自身は物語の騎士がそうであるように、傅いて守ろうとしているのだ。存在や、心を。楓を傷つけるなにものからも、守りたいと思って。ひどく穏やかな気持ちで、楓はバーナビーを受け入れた。包まれた指先が、温かい。自然に浮かぶ笑みのまま、口を開いた。
「バーナビーさんは……、ううん。ううん、あのね、お願いがあるの。聞いてくれる?」
「うん。なに?」
「……誰のことも、敵にしないでね」
 降り注ぐ光の音は、きらきらと輝きさんざめく煌きの奏では、バーナビーの耳にも届いただろうか。神聖な。福音のような。気持ちを静かにすきとおらせていく、この音は。
「誰の敵にも、ならないでね。……それで、私の。……味方で、いてね。バーナビー。ただ、私の、味方でいて……」
 途方もない祈りに似た言葉だった。たいそれた望み、そのもののような願いだった。告げたことにこそ楓が後悔してしまう前に、バーナビーはきゅ、と指先を握り締めて、告げる。
「君を守るよ」
「……いいの? お父さんに、怒られないかな……」
「虎徹さんは、面白くないかもね」
 楓の頬を、心配ないよ、と告げるように撫でてバーナビーは立ち上がった。ちらり、と視線を向けられた先の時計は、すでに八時を二十分程過ぎていた。きゃあ、と愛らしい悲鳴をあげて慌ただしく持って行く予定の鞄を引き寄せ、中身をチェックしだす楓の頭をぽんと撫で、バーナビーは廊下へ出てしまう。んー、と体を伸ばして心地よく息を吐き、バーナビーはさて、とキッチンへ向かった。あと数分で部屋から飛び出してくるであろう少女の為に、なにか朝食を作る為である。辿りついたキッチンにも、光が差し込んでいた。眩しさにそっと目を細めて、バーナビーは笑う。数分後、のそのそと起き出し、楓より先にキッチンへ辿りついた虎徹がやけに機嫌よさげなバーナビーに首を傾げ、その理由を問うたが、青年は決してその理由を明かそうとはしなかった。そのことはきっと、ずっと、二人きりのひみつとして守られるだろう。



 朝食の間中、楓の格好に対してそわそわと落ち着きなく、もの言いたげにしていた虎徹がそれでもなにも問いかけなかったのは、余計なことを言ったらどうなるか分かっていますよね、とばかり麗しく微笑むバーナビーの牽制に押し留められていたからだ。こと楓のことに関して、バーナビーは虎徹に対しても容赦がなくなるのである。元々、短気な一面を持つバーナビーだ。緊張しきった不安定な少女を不用意に突けば、その報復として、虎徹のヒーロースーツに虎縞模様ペインティングを施す許可を、ワイルドターガーのサポートチームに対して出しかねない。過去のとある一件で怒りのあまりそれを実行しようとしたタイガー・サポーターたちは、未だにそれを諦めていない節がある。相棒であるバーナビーからやってもいいですよとの一言がかけられれば、即座に実行することだろう。その時のバーナビーの怒りようによって水溶性か、はたまた油性ペイントになるだろうが、問題は落としにくさではなく、それを目の当たりにした時の虎徹の精神的ショックである。想像しようとしても、思い描けないくらい考えたくない絵面だった。
 虎徹の牽制においてはほぼ最強のカードを持っているバーナビーに、最近逆らえないのは、そういう理由があってのことだった。断じて尻にしかれているとか、そういったことではないのである。たぶん。きっと。恐らくは。しおしおと自信を無くしていく虎徹が溜息をつきながら朝食に使った食器を洗っていると、来客を知らせるチャイムが室内に鳴り響いた。洗面所から歯磨き途中らしいぐもった声で、楓がきゃあぁ、と慌て切った叫び声をあげる。ぱたりぱたりとスリッパを鳴らしながら、虎徹の傍を通り過ぎて玄関へ向かったのはバーナビーだった。手には湯気の立つカフェオレの入った、お気に入りの白いマグカップを持っている。ひとくち飲み込みながら虎徹の手元に向けられた視線が、まさかそれを終わらせずにお客様を出迎える気ではないですよね、と言っていた。断じて尻にしかれているとか、そういうことでは、決してない筈だ。虎徹は泡にまみれた食器を洗い流す作業に戻りつつ、鍵を開けて扉を開いたバーナビーの背を見つめる。緊張感のない立ち姿から、バーナビーのごく親しい相手であることが分かった。楓は誰とでかけるのかをがんとして父親に教えてくれなかったので、今も虎徹は誰が来たか分からないのである。脳内でバーナビーが打ち解けた素で対応する楓の共通の知りあいをリストアップしていると、口をゆすぎ終わった楓が奥から走りだして来た。少女は父親を振り返りもせず、バーナビーの背越し、立つ者の名を呼んだ。
「エドさん! お、おはよう……ございます」
「ん、おはよう、楓。慌てなくても大丈夫だからな? ……鏑木さんも、おはようございます」
 家の中に一歩足を踏み入れる形で楓を出迎えたエドワードは、その時点で虎徹の存在に気がついたらしい。奥のキッチンへ視線を向けて礼儀正しく挨拶をされるのに、虎徹はぎこちなく頷き、それから慌てておお、と声を出した。あからさまに動揺した声だった。バーナビーが思い切り溜息をつくが、虎徹は聞こえなかったふりをして、タオルで手を拭きながら玄関まで出てくる。隣に並び立たれるとバーナビーはちらりと虎徹に視線を投げ、濡れたタオルを受け取って首を傾げる。
「……洗いもの、終わったんですか?」
「終わったぜ? ……なんだ、楓が出かける相手、エドワードだったのか」
 父親が出てきたことに明らかに嫌そうな顔つきで身をかたくし、緊張する楓の頭をぽんと撫で、虎徹は苦笑しながらエドワードを見た。エドワードはシャツにジャケット、細身のジーンズにブーツという、とりたてて特別なものでもない、どこにでもいそうな青年の服装をしていた。ただ一点、チョーカーに見える首の爆発物のことさえ知らなければ、ごく普通の格好である。エドワードは全身をざっと眺めて行く虎徹の視線にゆるく苦笑してから、腕に抱えていた封筒を虎徹に差し出した。A4サイズの茶封筒である。なんだ、と首を傾げる虎徹に、エドワードはしれっとした態度で手土産です、と言った。
「とある人から提供を受けた、マンスリーヒーローのレジェンド特集、特別号。……差し上げます」
「うおおおおおお!」
 賄賂か。これはいわゆるご機嫌とりか、と思いつつ、虎徹は封筒を両手で持ち、天に捧げるようにしておたけびをあげた。エドワード先輩さすがです、とぬるい目を向けながら折りたたんだタオルを腕にひっかけ、カフェオレを飲んでいるバーナビーにも、封筒が差し出される。きょとん、としてバーナビーは目を瞬かせた。えっと、と一拍考えたのち、声が出る。
「僕にもですか? ……これは?」
「NEXT能力の、分析研究レポート。こういうの好きだろ?」
「はい。こちらは、頂いても?」
 胸にぎゅっと抱えながら心持ち弾む声で問いかけたバーナビーに、エドワードはやるよ、と先輩ぶった微笑みで頷いた。イワンとはまた気持ちの向け方が違うものの、エドワードもバーナビーにとってはアカデミーの『先輩』である。ヒーロー活動においては主戦力とサポートという立場の関係上、エドワードとバーナビーとイワンの関係は、奇妙にねじれてちぐはぐなものだったが、彼らは公私の立場の違いをごくあっさりと受け入れ、バランスを取りながら生活している。今はごく、プライベートな時間だ。だからこそ心持ち丁寧な言葉の響きで例を言うバーナビーに、エドワードは『先輩』らしい落ちついた態度でうん、と頷き、後輩が贈りものを喜ぶさまを、目を細めて眺めていた。それが純粋な観賞ではなく、様子を伺う視線であったことに気がついたのは、楓だけだっただろう。楓がなにか問いかける気配に気がついたエドワードは、すいと視線を動かして少女に目を向け、唇の前にそっと人差し指を押し当てる。楓がぱっと口を噤むとエドワードはにっと笑い、そっと楓の手首を掴むと、ゆるく己の方へ引っ張った。とと、と楓が小走りにエドワードの背に隠れるように移動すると、青年はごくあっさりとした様子で、虎徹とバーナビーに頭をさげる。
「じゃあ、そういうことなんで。夕方には帰します」
「……行ってきまーす」
 聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声でエドワードが挨拶するのにならって楓がそーっと言ったのは、喜びに没頭する二人に、それぞれの世界から戻ってきて欲しくなかったである。虎徹はレジェンドへの崇拝に近い憧れを掘り起こして喜んでいるし、バーナビーは口元をほんのりと和ませて知識の探求にしばし埋もれる時間を喜んでいる。くつくつ、と目論見が成功した喜びに喉を鳴らして笑いながら、エドワードは静かに、楓の家の扉を閉めた。ぱたり、と静かな音。気がついた様子は、まだ感じ取れない。そのまま二人で足音を立てないようにそっと歩きだし、次第に早足に、一つ目の角を小走りに曲がって駅へ向かいながら、浮かんで来る笑いに肩を震わせた。これで今日一日、あの二人はそれぞれ読書に没頭するに違いない。
「あ、そうだ」
 一度だけ振り返り、大人げない追手がかかっていないことを確認して、順調に駅まで辿りついて電車を待つホームで、エドワードは楓に手を伸ばす。
「遅くなったけど、楓にも」
 おみやげ、とゆるく解けた声で囁き、器用に動いた手が楓の髪に差し込んだのは、銀のかんざしだった。細い鎖で繋がれた、赤や金の色に塗られた微細な花が揺れ動き、星くずのような音を立てて耳を楽しませる。後で鏡見てみな、と言い残して手を離したエドワードは、先程己がそうされたように、楓の全身を眺め、その出来栄えに満足するかのような笑みを浮かべた。
「似合ってる。服も。……靴も。おめかししたろ」
「……ちょっと、だけ」
「よしよし、可愛い」
 頭を撫でる手が、こども扱いしていることは分かったのだけれど。楓はそっと胸を手で押さえ、ゆっくりと息を吸い込んだ。普段よりすこしだけ鼓動が早い気がする、その理由に。気持ちがまだ、辿りつけない。視線をあげて、エドワードを見る。
「……エドさん」
「ん?」
 なに、とそっけなくも聞こえる、けれども柔らかく響く声で問い返されて、楓はなんでもない、と首を振った。ホームに、電車が滑り込んでくる。移動しはじめる人の動きから庇うように、ごく自然に、エドワードの手が楓の指先を捕まえた。
「楓」
「……うん」
「離れるなよ?」
 うん、と頷きながら呟いた声はきっと、ちいさすぎてエドワードまで届かなかった筈だ。ぎゅぅ、と指先に力を込める。しのびやかなエドワードの笑い声が、楓の耳の奥に、いつまでもこびりつくようにして残った。恋とか、好きとか、そういう気持ちは楓にはよく分からない。だからこの気持ちをなんと呼ぶのかも、楓には分からない。おかあさん、と声にならない言葉で、心の中に響かせる。幸せそうに笑う、ほんのささいなことで嬉しそうにする、そのことが、胸がきゅぅってなるくらい、せつなくて、息がつまるの。
「エドさん」
「ん?」
「あの、ね。……髪飾り、ありがとう」
 呼びたかっただけ、なんて、そんなことを言えもせずに。思い出して改めた言葉に、エドワードはふっと嬉しそうに笑い、どういたしまして、と告げた。その、表情に。胸の奥で息が詰まって、繋いだ指の先まで、あまくじんとしびれていく。せわしない瞬きは、意味も分からず流れてしまいそうな涙を誤魔化す為だった。俯いてしまう楓に、エドワードはなにも問わず、手を伸ばしてそっと髪を撫でてくれる。エドさん、とくちびるで名を綴る。声には出さなかった。だから、きっと気のせいだ。楓、と呼ばれた気がしたなんて。聞いたことのない声の響きで、どんな人混みでも、どんなに距離があっても、きっと聞き届けてしまうような、そんな声で。けれどちいさく、か細く、囁くように。名前を呼ばれただなんて。宝石のような、宝物のような、そんな響きで。

BACK / INDEX / NEXT