味の記憶を失ったまま、楓はなんとか早めの昼食を終わりにした。味がしなかったのではない。口に入れて食べた時には美味しいと思っていた筈なのに、喉を通して息を吸い込んでしまえば、もう分からなくなっているのだ。空腹は食欲のある証拠だったから、それが満たされてしまえば、あとはもう何もかもがよく分からない混乱だけが心に残され、楓はうろうろと視線を辺りに彷徨わせた。どこへ行きたい、の問いに応えられないままだった楓が、ようやく口にすることができたのは『休める場所』で『なにか食べたい』ということだった。前者は歩き続けていたからこそ純粋な休憩を求めてであり、後者は育ち盛りの体がじわじわと空腹を訴えてきていたからだ。お腹がぐぅとでも鳴ってしまったら楓はもう三日間くらいは立ち直れない自信があったので、先にそう言いだしたのである。楓の申し出に、エドワードは分かった、とだけ言った。考えたそぶりもなくエドワードが楓を連れてきたのが、このフードコートである。天井が高く明るい作りの、植物や花で飾り付けられた空間は解放感があり、並べられた机と椅子は十分なスペースを保たれているから、多くの人が座り、行き来していても雑然とした印象が全くない。ショッピングモールであるから、当たり前にレストラン街はあるのだが、そこへ連れて行かれなくてよかった、と楓は思い、ガラスのコップに入った水を一口飲み込んだ。
純粋に空間としてここよりは狭い店内に、恐らくは向かい合って二人きり、など、きっと本当に耐えられない。今だって楓は、少女よりずっと量の多い食事を終えて一息ついたエドワードのことを、ちゃんと正面から見ることができないでいるのだから。正面に座って、向かい合ってエドワードと食事をすることは、楓にとって慣れないことだった。アカデミーではほぼ常に二人で食事をしているのだが、それはベンチで横に並んで座っているのであって、向い合せの距離感は親密に狭く、落ち着かないことこの上ない。嫌なことはなにもない。ただ、ずっとそわそわしてしまうだけだった。どうしていいのか分からない。呼吸ひとつ、瞬きひとつだけにしても。普段、どうやっていたのかが、分からなくなる。当たり前のこと、意識しないで行っていた挙動全ての、やり方が分からなくなって気持ちが焦って行く。ふぁ、と水面からようやく顔を覗かせて息をした幼子のように、たどたどしく息を吸い込む楓を、エドワードは少女に気取られぬようにちらりと見やり、微笑ましく口元を緩ませた。フードコートの席に腰をおろしてからずっと、楓は借りてきた猫のように大人しく、もじもじしながら緊張し続けている。それでいて、時折エドワードに向けられる視線は不安の色を帯びており、己の挙動不審さに嫌われないかどうかと心揺らすものだった。大丈夫だ、と言っても聞きはしないだろう。そういう時の楓は頑固で、かたくなで、まっすぐで、か弱い。下手に突いたら泣くな、と思いつつ、エドワードは挑むように視線を重ねてくる少女の目を見つめたまま、指先を髪のひとすじに伸ばした。前髪を整えるように、右から左に払ってやる。
「……食べ終わったか?」
くすぐったそうに眉を寄せて首を振って、楓はこくりと頷いた。そして向けられる視線が、あんまりにも『次はどこへ行く?』という言葉を警戒していたものだから、エドワードはそっと視線を反らし、浮かぶ笑みを噛み殺してやった。しかし、どうしても肩が震えてしまう。くくっ、と喉の奥から声がもれた所で、もうっ、と威勢のいい掛け声で楓が立ち上がる。
「っ……エドさん!」
「なんだよ」
「私っ……わ、私、トイレ行ってくるから!」
動かないで待っててね、と人差し指を突き付けるように叫び、その場を数歩動いてから、楓はあまりの台詞に気を失いたくなって、よろけるようにして立ち止まった。背にエドワードの視線を感じて、こっち見ないで、と叫びたくなるのをぐっと堪え、息を整えてから走りだす。辿りついた女子トイレに人影はなかったからこそ、楓は遠慮なく、飛び込んだ個室の壁に両手を拳にして打ちつけ、ああああああもおおおおっ、と半泣き声で叫んだ。ちょっと、今日の自分は本当にどうにかしているとしか思えない。感情が楓には理解しきれない所にあって、手の届かない場所で動いているものだから、全く制御もできないし理解することもできない。その不安感たるや、言葉にできるものではなかった。それなのに、うれしい、と思う気持ちがずっと、こびりつくようにして心にはある。なにが嬉しいのか、なんで嬉しいのか、それすら楓には手が届かないものなのに。あ、泣きそう、と思った瞬間堪え切れずに浮かんで来た涙を、楓は深呼吸ひとつで胸の奥へ押し返した。顔を両手で覆って、深く、息を吸い込む。誰かの声が聞きたかった。優しく、大丈夫だと言って欲しかった。なにも怖いことなんてないと、慰めて欲しかった。落ち着きたい。いつもの自分でありたい。私という存在をちゃんと、手の中に戻して落ちつかせておきたい。誰の名も紡げずに迷いながら震えた唇が、ようやく思い出したのは『味方』のことだった。守るよ、と記憶があざやかに声を蘇らせる。君を守るよ。どんな時でも味方でいるよ、と。告げてくれた、誓ってくれたバーナビーの存在が、楓の息を楽にする。
きっと、バーナビーなら楓の望む言葉でもって、少女の心を取り戻してくれる。怖いことではないよ、大丈夫、と囁いて。抱きしめて、この世のなにもかも、少女自身の不安からもその存在を、心を確かに守るのだというように。冷たいてのひらを温めてくれる。そのことを疑わず、信じていられる。絶対の味方。心がコトリと音を立て、手の中に戻ってくる。
「はぁ……えっと、それで……どうしよう……」
取り戻した落ち着きに息を吐きながら、楓はよろよろとトイレから脱出した。いつまでもフードコートで座っている訳にはいかないから、どこか目的地を決めなければいけないのだが、その作業が楓にはひどく難しい。せっかくカリーナに可愛い服を借りても、きれいな新しい靴をはいても、エドワードが似合っていると褒めてくれた時点でもう十分満足してしまって、見せびらかすように歩きまわる気持ちはなかったし、別の服を求める気持ちにもなれなかった。考えながら歩いていると、不意に足が鈍く、それでいて鋭い痛みを発していることに気が付く。息をつめて思わず立ち止り、視線を向けると、かかとと爪先が靴ずれを起こしてしまっていた。慣れない靴で歩きまわり、さらに先程走ったのがよくなかったようだ。眉を寄せてしばし考え、楓は行き先を決めて脚に力を込めると、普段の歩みと変わらないように気をつけ、エドワードの元へ戻ることにした。ドラッグストアに行って消毒液と絆創膏を買おう。それで、靴ずれに気がつかれる前にもう一回トイレに行って処理してしまえば問題ない筈だった。消毒液と絆創膏を買っている間、どう気がつかれないでいるかが問題だったが、頑張ればなんとかなる筈である。よし、と気合を入れた楓が、椅子に座ったまま景色を眺めているエドワードの元に駆け寄ろうとした時だった。建物が揺れた。幼子が玩具の車を掴んで上下に振ったかのように。圧倒的に、理不尽に、なんの前触れもなく。足元から立ち上る地響きを伴い、爆発音を響かせて建物が揺れた。
「楓っ!」
一瞬の、混乱と恐怖を呼び起こす前の白くぬりつぶされた空白を引き裂き、迷わずエドワードが楓の名を呼んで立ち上がる。差し出された手の意味を違えず、楓はエドワードに駆け寄り、強くその手を握り締めた。足が痛んで、息を飲む。ぐっと唇を噛んだ表情を俯いて隠し、楓は息を吸い込んで、まっすぐにエドワードの顔を見た。迷いなく。決意だけが瞳にはある。
「今の……!」
「事件だと思う。……二回目?」
まさか、嘘だろう、と言わんばかり潜められた声に楓が問い返すより、人々が爆発的な恐怖を叫び声にして叩きつけてしまうより早く、その場に響く声があった。
『落ち着いてください、皆さん。大丈夫』
柔らかに響く青年の声。
『……ハァイ、バーナビーです』
すこしだけ笑いを堪えているようなそれは、すぐにテレビからよく響いてくるたぐいの、営業用の落ち着いたものへと変わって行く。天井近くで恐ろしいほど渦巻いた混乱と恐怖が、ゆるく解けて安堵へ変わる瞬間を、楓は肌で感じていた。人々の震えが止まる。息を吸い込むことを思い出す気配を、さらにそっと撫でて落ち着かせるように。声が、響いて行く。
『落ち着いて、大丈夫。係員の指示に従って、避難していてください。すぐに警察やヒーローが来ます。それまでどうか落ち着いて、安心して待っていてください』
大丈夫、大丈夫、と繰り返しあやすように告げられる言葉に、ようやく楓は気が付き、瞬きをする。
「あ、録音」
ジェイク・マルチネス事件以降、都市を巻き込む大規模な災害とも言える事件について恐怖と警戒を募らせていたシュテルンビルト市民の為、大きな商業施設や市役所、オフィス街や学校の一角には、有事に備えてシェルターが設置されている。そこへ移動するようにと誘導するバーナビーの録音放送は、他の誰にも与えられない希望を市民にもたらしていく。彼は正しくヒーローの一人であり、シュテルンビルトの英雄である。
「これで、とりあえずは大丈夫だよね。安全確保」
ぞろぞろと、列をなしてアトラクションへ並ぶように移動していく人々を眺めながら胸を撫で下ろす楓に、エドワードは複雑そうな顔つきで頷いた。
「そうだな。……つーか二回目かよ。なんでだよ……」
PDAを起動させて即座に各所と連絡を取り、情報収集に努めていたエドワードが頭の痛そうな声を出す。現在、ヒーローに出動要請はかかっておらず、近場から警察官が集められてショッピングモールへ向かっている最中だと言う。ヒーローが出動するかどうかについては見通しが立っておらず、エドワードと楓は現場の状況によっては警察の助けになるように、とのことだった。休みなんですけど、と控えめな言葉に休日出勤と返されて、エドワードはやれやれとヒーロー管理官との通信をオフにした。隣で通信を聞いていた楓は苦笑いをしながら、警察さんと合流しやすいように移動しておいた方がいいかな、と首を傾げている。その足がショッピングモールの正面入り口へ向かおうとするのを見て、エドワードは無造作に楓の手首を掴んだ。ぐい、と引っ張られて、少女の足がもつれる。
「わ、わっ! え……エドさん?」
「……行くぞ?」
「う、うん。……うん?」
引っ張られたのはどうしてなのかと思いつつ、楓はエドワードの後について歩き出した。しかし、進行方向が思っていたものと違う。エドワードは一般市民が避難する列を目指して歩いていて、楓が考えていた方角とは逆に進んでいた。戸惑いながら横に並び、楓はエドワードの顔を見つめる。
「こっち? ……シェルターに行くの?」
「そう」
「どうして? だって」
警察と合流しなければいけないのではないか。そう問おうとした楓の唇に指先を押し当て、エドワードはすっと目を細めた。
「……いいから」
上唇の薄い皮膚をとがめるように撫でて、指先が離れていく。遅れて、息を吸い込んだ。言葉はない。焦ったように腕を引く足取りは早く、楓は靴ずれの痛みに眉を寄せながらもついて行く。やがて辿りついたシェルターは、がらんとした展示室のように見えた。天井は高く、白い壁と床がある他にはなにもない。ショッピングモールのロゴが印刷された毛布を床に敷き、そこに直に腰を下ろす人々の表情は、淡い不安を浮かべていたが、それだけだった。ひどい混乱や恐怖は存在していない。二度目の爆発が建物を襲うが、高まった感情は爆発せず、ゆるゆると押し殺され、安堵を取り戻して行く。これは安全の為の避難であり、必ず助けは来るのだと、そう信じて疑っていないのだ。その場に、どうして連れてこられたのか分からない。そこにある力なき者より不安がる表情で、楓はエドワードを見つめた。エドワードはなにかを探すように視線を動かしていて、楓を振り返ってはくれなかった。こっち、と言葉短く促され、楓はゆっくりと足を踏み出してついていく。
「あの、すみません」
エドワードが声をかけたのは、こどもを学校に通わせる年頃の女性グループだった。全員が薬指に指輪をしているから、結婚していることがすぐに分かる。華やかであっても落ち着いた雰囲気の集団から不審がられるのを気にしないそぶりで、エドワードは楓をぐいと体の前に押しやった。
「コイツ、預かっていてくれませんか」
「……え?」
「俺は警察に協力する義務があるので、行かないといけなくて」
連れていけないから。PDAに保存していた身分証を提示しながらの言葉に、初めはぽかんとしていた女性たちは、事情を汲んだように頷いてくれた。茫然としたままの楓の手が、一人の女性へと受け渡される。さ、お座りなさいな、と声をかけられるのに反射的に首を振り、楓は悲鳴のような声でエドワードを呼んだ。振り返り、手を伸ばす。
「エドさん! 私も……!」
「駄目だ」
指先が届くより早く、言葉がそれを拒絶する。驚きに震えた少女の指先をそっと手で包みこんで、エドワードはしっかりと楓と目を合わせた。
「ここで待ってろ」
「なんでっ? だって私たち」
「今、走れないだろ? ……歩くと痛いだろ?」
バディでしょう。一緒に行くんでしょう、と。叫ぼうとした言葉は喉で押し留められ、出ることを許されなかった。怒ってはいない、ただ淡々と事実を指摘し、案じるだけの表情で、エドワードはゆるく少女に向かって微笑んだ。
「連れていけない。ここで、待ってろ」
「……連れてって! 痛くても、ちゃんと走るから!」
「ばか。待ってろ」
わがままを優しく咎める声で言い聞かせて、エドワードは楓の指先を離す。すっと外気に触れる冷たさに、胸の奥が痛んだ。
「……つれてって、エドさん。お願い……」
靴ずれより、ずっと、胸が痛い。
「行きたいよ。一緒にいきたい。エドさんと一緒にいきたい!」
「楓」
「お願い……っ!」
シャラン、と涼しく髪飾りが揺れる。エドワードに強く抱き寄せられたせいだ。痛いくらいに強く抱き締められて、楓は青年の背に手を回した。行かないで、なんて、決して言えない。
「……すぐ、ヒーローが来るから」
合流しろ、という意味だったに違いない。楓も、その意味を半分は受け止めた。けれども少女の、言葉をつけられないで揺れる気持ちの部分が、それを、だから安心して待っていろ、という風に受け止めてしまう。安全な場所で、守られた場所で。助けが来るまで待っていろ、と。なんてひどい言葉だろう。なんて、無力な存在のように、楓を扱おうとするのだろう。ごく普通の少女のように、守るべきお姫さまのように、エドワードは楓を危険から遠ざけておきたがる。力が抜けてしまった楓の肩を押しやって頬を撫で、エドワードは心配げに見守る女性たちへ、少女の体を受け渡した。無言で身を翻し、エドワードは走って楓から離れていく。ごめんと、謝らなかったことが救いだった。そんなことを言われたら泣いてしまっていた。エドワードの姿は、瞬く間に見えなくなってしまった。消えた方向を見つめてぼんやりとしている楓に、少女の母親であってもおかしくないくらいの女性たちは、口々に大丈夫よ、と声をかけてくる。一人が楓の靴ずれに気がついて、立ちすくむままの少女に、座りなさいな、と促してくれた。振動が足元を揺らす。三度目の爆発に、楓は膝を折るように場にしゃがみこんでしまった。寒くもないのに、体が震える。靴ずれが、ずきずきと痛んだ。我慢できないくらい。声をあげて泣き出したいくらい。
一度座りこんでしまった体は、足の痛みに負けて立ち上がってくれない。追いかけたいのに。走って行きたいのに。泣くことだけは堪えて、楓は自分の足に目を向けた。綺麗な、真新しい靴だった。すこし踵の高いそれを、気持ちの上でも背伸びがしたくて履いてみた時の気持ちを思い出す。どきどきして、嬉しくて、確かに幸せだった筈なのに。服も、カリーナから借りて、バーナビーに背を押されて腕を通した時は、うきうきしていた筈なのに。今すぐ脱ぎすてて、着替えてしまいたい。我慢できずに、靴に手を伸ばす。脱ごうとした時、視界の端を青い光が掠めた。シェルターの扉が、勢いよく開かれる。
「来たぞ! ワイルドタイガーだ!」
その瞬間に感じた安堵を、楓は永遠に忘れない、と思った。お父さん、と唇だけで呟き、楓は痛みを堪えて立ち上がる。ワイルドタイガーと同時に入ってきた警察官に誘導されながら、人々がシェルターの出入り口へ殺到していた。楓を連れて行こうとする女性の手を振り払い、楓は一心に虎徹の元へ向かう。ヒーロースーツに身を包んで市民を落ち着かせるワイルドタイガーの傍には、凛とした態度で背を伸ばすブルーローズの姿もあった。急いでかけつけてきたのだろう。普段は装着しているロゴ入りの長手袋に腕を通しながら、ブルーローズは休みだったんじゃないの、と訝しげにワイルドタイガーを見上げていた。だってよぉ、と不安げに口ごもるワイルドタイガーがなぜ出勤しているのか、その理由をうぬぼれでなく、楓は分かっていた。楓がここに出かけていたからだ。そうでなくとも『ワイルドタイガー』は事件に飛び出して来ただろうが、虎徹がここに来てしまった理由は、きっと楓のせいだった。お父さん、と呼ぶこともできず立ちすくむ楓の姿に、やがて二人のヒーローが気が付く。無事な姿にあ、と声をあげて笑顔になった二人は、けれどもすぐに訝しげな表情になり、眉を寄せた。それが、サポーターが事件の現場に出向いていないことへの疑問であっても、エドワードが傍にいないことの不審であっても、楓にしてみれば同じことだった。ずきずきと、痛みが大きくなっていく。
「……大丈夫か?」
やがて、周囲から人がいなくなり、声をかけられてはじめて、楓は自分が泣いていることに気がついた。返事をしようと声を出そうとするがうまく行かずに、楓はそっと両腕を伸ばしてくれたブルーローズから、反射的に飛び退って距離を取る。驚くブルーローズに首を振り、楓は大きく息を吸い込んだ。
「追いかけたいの」
「……楓?」
「今ならまだ、追いかけられるの……だから」
触っちゃ駄目。触らないで、としゃくりあげながらそう言って、楓は握った拳で涙を拭う。深呼吸をして、顔をあげる。眩しげに目を細めて見つめてくるブルーローズと、気遣わしげなワイルドタイガーが見えた。ブルーローズは、今にも娘に駆け寄りそうな虎徹の前に腕を出して、その動きを制限している。楓に服を貸してくれた少女は確かにその気持ちを理解しているように微笑んで、うん、とちいさく頷いてくれた。頷き返して、楓は靴に手をかける。そしてそれを、ためらいなく脱ぎ捨てた。綺麗な靴は足に痛い。服は汚れてぐしゃぐしゃで、みじめで、悲しくて、たまらない気持ちだった。それでも誇らしいような気持ちで、まっすぐに背を伸ばして立てる。足が軽い。これならきっと、どこまでも走って行ける。
「……カリーナさん」
「うん。どうしたの?」
ヒーロー名ではなく、少女の名を呼んだ楓を咎めず、カリーナは優しく笑って言葉を促してやった。
「服を貸してくれて、ありがとう」
「……ううん。いいの。気にしないで?」
行ってらっしゃい、と送りだしてくれる言葉に頷いて、楓は能力を発動して走りだした。壁も、なにも、障害にならない。まっすぐにエドワードの後を追う楓を見送り、ブルーローズはワイルドタイガーの前に出していた腕を下ろした。息をはいて、脱ぎ捨てられた靴を拾い上げる。十二時の鐘の代わりのように、幾度目かの爆発が建物を揺らした。
バーナビーに一視聴者として憧れていた頃、楓はお姫さまにも憧れていたことを思い出した。ごく正確に思い起こすのならば、楓はお姫さまで、王子さまはバーナビーだった。いつか迎えに来てくれるかもと、そんな夢を描いていた。大好きな人に、大切な人に、迎えに来て貰いたい、そんな夢があった。けれども、それは夢であったのだ。目覚めれば消えてしまう、愛おしい夢の形。走りながら楓はそんなことを考えて、泣き出しそうな気持ちの中、唇に笑みを浮かべる。あれは夢だ。守られたがりの少女の夢。お姫さまを夢見ていた、私の夢。夢は終わり。こちらが現実。ショーウインドウに映る自分の姿に、楓は泣き出しそうな吐息で笑う。靴はなく素足で、大人びたワンピースを身に纏い、ぐしゃぐしゃの髪にきれいな飾りが揺れている。安全な場所で、迎えが来る場所で、待っていればきっと、お姫さまにだってなれた。ごく普通の女の子のように、誰かに守ってもらっていられた。でも、それを選んだらいつまでも、エドワードの傍に居られない。楓は知っている。普通の女の子では、守られるお姫さまでは、エドワードの隣には立てないのだ。彼はきっと何度でも、楓のことを置いて行く。安全な場所に、大切なもののように、楓をそっとしまい込んで置いて行く。そんなことは許せない。そんな酷いこと、二度と受け入れたくはない。お姫さまを夢見ていた。綺麗な服、可愛い靴。魔法をかけられるみたいな幸せ。かわいい女の子になりたかった。でも、そんなものはもういらない。それらは楓の、ひとつの望みだって叶えてくれない。今、それがハッキリと分かった。
胸にくすぶる感情の名前だって楓には分からないのに、それを苗底に、赤い花が咲いて行く。芽吹き、つるを伸ばし、一輪の花が開いて行く。鮮やかな赤。その花をなんと呼ぼう。その感情につける名前が、楓の足を先に進ませる。その花の血のような赤さが、ひとつの、ひとつだけの望みを少女に追わせた。
「エドさん……っ」
傍にいたい。このひとの、傍にいたい。離れたくない。置き去りにされたくない。安全な場所において、一人でどこかへ行かないで。義務じゃない。バディだからじゃない。私が。私という存在が、ただ傍にいたいだけ。その為に必要なんだと分かったから、私はもう、憧れなんていらない。
「エドさん、エドさん……!」
悲しいことはたくさんある。怖いことも。嫌なことも、たくさん。でも、大丈夫だと思える。傍にいれば大丈夫。消えないけれど、忘れさせてはくれないけれど、でもいいの。一緒なら立ち向かえる。一緒なら、乗り越えて行ける。恐怖の前にだって立てる、ただ、傍にいてくれたら。それを許してくれたなら。
「……エドさん」
繰り返し、呼ぶ名前。それに、応えてくれたなら。
「……エドさん!」
「……か」
走って、走って。辿りついた場所で名前を呼べば、振り返ったエドワードは驚きに目を見開いて息を吸い込んだ。エドワードはなぜか爆発物処理班に取り囲まれていたが、犯人と間違われている訳ではないのだろう。膝に手をつき、息を整える楓とエドワードを見比べた彼らは、訳知り顔でそっと視線を外し、青年の背を少女に向かって突き飛ばした。エドワードはたたらを踏むように前に出て、楓の前で立ち止まる。首を傾げて恐る恐る、エドワードは少女という存在を確かめるように呼んだ。
「か……え、で?」
どうしてここに居るのか、全く理解できていない様子だった。エドワードは、楓がちゃんとヒーローと合流して、着替えてから来ると思ったのだろう。全身に視線を走らせ、素足であることを確かめて眉を寄せている。なんだってそんな格好で、と小言が飛び出してくる気配を察して、楓は息を整え切れていないのも構わず、顔をあげてエドワードに手を伸ばした。
「……エドさん」
「楓?」
「おいてかないでっ……! おいて、いかないでっ!」
頬を両手で包むようにして背を伸ばし、視線を重ねて距離を近くする。ひとつの空気を分かち合って吸うように。同じ呼吸ができるように。瞳を覗き込んで、ひたすらに告げる。
「置いて行っても、追いかけて行くって思って。私は……私は普通の女の子じゃないんだよ、エドさん。NEXTなの。戦えるの。あなたのバディで、私は……!」
瞳に映る、涙を零す女の子が。自分だなんて思いたくなくて、楓はぎゅっと目を閉じた。泣かない。泣きたくない。弱くない。強くなりたい。もっともっと、強く、なりたい。守りたいと思わせないように。息を吸い込んで、目を開いた。
「私は、守らなきゃいけないお姫さまじゃない。か弱い女の子でもない。私は、私はあなたのバディなの。だから……!」
「……楓」
「おいて、か、ないで……!」
無言で、エドワードは楓の背を支えるように腕を回した。身を屈めて膝裏に回されたもう片方の腕が、有無を言わさず楓を抱きあげる。驚いて首に腕を巻き付けるよう身を寄せれば、エドワードはそっと楓の肩に顔を伏せ、かたく少女の体を抱きしめてきた。楓、と名前が呼ばれる。胸が苦しくなるような声。
「楓、楓……」
「エドさん?」
「……楓」
痛みを堪えているような。痛みを耐えているような。悲しい声だった。胸の中でかすれて響く、消えずに残った夢のような。
「楓……」
かなしい声だった。
昼食の為に待ち合わせた、校舎をのぞむベンチで、楓は温かな日差しに目を細めていた。ショッピングモールに行く約束をしたのがこのベンチで、数日前のことの筈なのに、なんだか随分昔のことのように思える。さわりと梢を揺らし、心地良い風が過ぎ去って行く。うとうとと目を閉じてしまえば、楓の意識は淡い夢の世界に手招かれた。半分眠って、半分は起きているからだろう。どこまでも広がる平原で出会った母に、楓は思うままの言葉を、口に出して告げた。
「なにもいらないの。どうしよう、おかしいよね。でも本当なの。エドさんの傍にいられないなら私、なにも、なんにもいらないの……わがままだよね、きっと。困らせてるよね、きっと。ううん、絶対。分かってるの、分かってるのに……一緒にいたいって、思っちゃうの。おかあさん、ねえ、おかあさん。教えて? 心の奥に咲いた、赤い花の名前。なんて呼べばいいの? ねえ、おかあさん。これがそうなの? これが、 なの……?」
「……楓?」
「ふぁっ!」
急に降ってきた声にびくんっと身を震わせて、楓はぱちりと目を見開いた。至近距離で顔を覗き込んでいたエドワードが、またこんな所で寝て、と呆れの溜息をつきながら離れていく。口元に手をあててよだれが大丈夫だったか確認しながら、楓は急激に霧散していく記憶をかきあつめ、押し当てた手をそのまま頬に滑らせた。顔があつい。なにを言おうとしていたのか、聞こうとしていたのか、うっかり覚えている記憶がにくい。ぎこちなく、こわごわと、視線をあげていく。エドさん、とちいさく呟いて呼べば、不思議そうにエドワードが楓を向いた。
「なんだよ、楓」
「わ、わたし……寝言、言ってたり、したかな?」
「特になにも。聞いてないけど?」
そっか、と胸を撫で下ろす楓に視線を向けず、エドワードは持って来た紙袋をベンチの上に置いた。昼食ではなさそうな音に顔を向けると、エドワードは大きな紙袋から、四角い箱を取り出した所だった。
「……なにそれ。お昼?」
「これ? 靴」
「誰、の……っ」
箱のふたを開け、エドワードは怯えるように身を引く楓の前に片膝をついてしゃがみ込んだ。白い箱の中に入っていたのは、女物の靴だった。先日、楓が履いていたものよりはわずかに踵が低い、可愛らしいデザインの少女の靴だ。華奢な作りは運動に適しているとは思えず、慣れない足を痛めてしまうだろう。嫌、と全身全霊で訴える楓の片足を両手で包み、エドワードはそっと地面から持ち上げる。立てた膝の上に足先を乗せて、エドワードは無言で、少女の靴紐を解いてしまった。軽い音を立てて、靴が片方、地面に落とされる。するすると靴下も脱がされ、もう片方の足も同じようにされてしまう。少女の素足を包みこむように手で撫で、エドワードは楓の目を見て告げた。
「ゆっくり歩くから」
「エドさん……?」
「……普通じゃない、なんて、言うなよ」
苦しげに声を潜めて、エドワードは懇願するように囁いた。楓は素足にされた爪先を眺め、じわじわと、泣きだしそうになるのを堪えている。どうして、そんなことを言うのだろう。ひどいと思った。だって、普通では置いて行かれてしまうのに。守られてしまうのに。それでは傍にいられないのに。
「だって」
言葉は衝動的に零れて行く。ベンチの上で逃げるように身をよじって、かすかに響くだけの声で、楓はエドワードを睨みつめた。ひっく、と泣いているような吐息の音。
「だって、私、NEXTだよ……!」
「俺だってNEXTだろーよ、お前の父親も、バーナビーも。ヒーローも、アカデミーに居るヤツはみーんなNEXTで、でも、普通の人間。……普通の、可愛い女の子だ」
「じゃあ、じゃあ……バディだもん! エドさんのバディだもん! バディなんだからっ……!」
かんしゃくを起こして、裏返った声で言い募る楓を、エドワードは静かに見つめていた。なにも履いていない足の甲をゆったりとてのひらで撫でて、うん、と頷いて淡く微笑む。
「……お前は、俺の、バディだ」
「うん。うん……だから」
「だけど、別に、いいんだよ」
同じものであると、認めているのに。向き合ってそれを肯定しているのに。ちぐはぐで、噛み合わない言葉だった。眉を寄せて首をふる楓に、エドワードは真新しい靴を手に取って言う。
「連れてくから」
「……エドさん」
「履いて、楓。……似合うと思って、買ってきたから」
諦めたのに。なにもいらないと、本当に思っているのに。傍にいたくて、それだけなのに。
「……走れないの」
瞬きをすれば、零れて行く。涙を隠して、言葉だけを捧げて。楓は、恭しい仕草で靴をはかせるエドワードを見ながら、そっと囁いた。
「この靴だと走れないよ、エドさん」
「……うん」
知ってる、と。告げるように微笑み、エドワードは楓を射抜くように、強い瞳で少女のことを覗き込んだ。きれいな靴が、足元を飾っている。青年の指先がそっと、靴の上から足の形を満足げに撫でた。その指が、離れて。唇に押し当てられる。忠誠を誓うような仕草。靴ひとつで、エドワードは簡単に、楓をお姫さまにしてしまう。諦めたのに。なにもいらないのに。こんな靴では置き去りにされてしまうのに。それは本当に嫌なのに。どうして、嬉しいと、思ってしまうんだろう。
「……エドさん」
「楓。……楓」
「エドさん……エド、ワード……さん」
指先を、伸ばす。絡みあうようにすぐ、手は繋がれた。トン、と楓の足が地に下ろされる。よいしょ、と声をかけて体が引き上げられ、向かい合わせに立たされる。普段よりすこしだけ、視線を交わす距離が近い。それに淡く笑って、エドワードは楓の頭をやさしく撫でてやった。
「昼、食べるぞ?」
「……うん」
「よし」
いいこ、とこども扱いして笑うエドワードに、楓はもう、と怒ったような声をあげる。絡めた指先を繋いだまま。決して、どちらからも離そうとしないままで。
胸に赤い、花が咲いている。
その名前をまだ、告げない。