時計が、朝の九時を過ぎた頃、社内が活気を帯びてくるのは、その時間に仕事が始まるからである。しかしヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部、技術室の空気は、どんよりと曇ったままだった。この部屋に明るい新鮮な空気や、活気に満ちあふれた一日の始まりなんてものが存在しない理由は、ただひとつ。二十四時間営業で、大体いつどんな時に来ても技術主任が室内でごろごろしているからである。もちろん、仕事をしていることも多いが、なにをするでもなく暇をつぶしていることもあるのだった。今も、出社して来たばかりのイワンの呆れた視線の先で、キリサトは割り当てられたデスクに上半身を突っ伏しながら右手にボールペンを持ち、コピー用紙によく分からない文字列を書き連ねていた。らくがきのように見える数式と思わせておいて、あれは恐らく、ただのらくがきだ。ご機嫌な鼻歌が聞こえてくるのがその証拠で、目の前のそれ以外に意識を割り振る余地があるということが、そのまま彼女が暇をつぶしている証明になる。それが仕事であるのなら、キリサトの意識はそこにしか行かない。ぴんと張り詰めた一本の糸のように、意識はうつくしくひとつの所にだけ定められていて、他の場所で遊んだりなどしないのだった。まったく、遊ぶくらいならば帰るか休憩していればいいものを。しみじみと呆れに溜息をついて歩み寄り、イワンはキリサトの手元から、うねうねぐなぐなと数式らしいなにかが書き連ねられたコピー用紙を取りあげた。
数学でも物理でもなんでもない、よく分からない数字と記号と絵文字の入り混じった、まさしくらくがきだった。もしかして異次元のなにかを召喚する式だったらどうしようかとも思い、イワンはぎこちなく視線を外す。それが実在するかはともかく、なんとなく実行してなんとなく可能にしてしまいそうなく恐怖は、イワンの技術主任にはあるのだ。あああああー、と間延びした抗議の声が響き、少女がむくりと上半身を持ち上げる。
「イワンくん、なにするんですかー。かえしてくださいー!」
「キリサトさん。世間は就業時間ですよ。寝てください」
「ちょっと意味がわからないんですけどー」
中々に矛盾したことを要求している自覚はあるが、むくれて唇を尖らせる技術主任は、イワンが数え間違えていない限り、今日で三徹目である。なにがこうもキリサトを仕事に駆り立てるのか、いつまで経ってもイワンにはこれっぽっちも理解できないが、分かっているのはこれ以上の起床は毒にしかならないという、人類に共通している筈の事実である。まったく、と取りあげた用紙を無造作にシュレッダーの入り口に突っ込みながら、イワンは呆れた様子でキリサトを眺めやった。
「今は、急ぎの仕事もないんでしょう? なんで徹夜してるんですか。納得できたら、CEOに言わないでいてあげます」
別に、眠るのが嫌いとか、休むのがイヤとか、そういう理由ではない筈だった。ヘリペリデスファイナンスのヒーロー事業部技術主任は、典型的な仕事のできる非常に優秀なワーカーホリックだったが、一応は人類で、それなりに休みたがることもあるとイワンは知っていたからだ。遊んでいた紙が粉々にされていく音を聞きながらも惜しんだりはせず、キリサトはえーっとぉー、ともじもじと指先を遊ばせながら言った。
「ちょっとわくわくして、楽しみで、眠れなくなっちゃったんで起きていたのです。どきどきして、嬉しくて」
「……遠足とかありましたっけ」
「違いますよー! 実験です、実験! 人・体・実・験!」
うふふふふっ、と口元に手をあててはにかみながら笑うキリサトに、イワンは世も末である、と思いながら頷いた。こんなに邪気なく人体実験を喜ぶ少女というものは、あまり存在していて欲しくないのに、目の前にいるという絶望感である。
「はぁ……僕は許可してないですけど」
キリサトはちょっと不思議そうに首を傾げ、ぱちぱちと目を瞬かせてみせた。イワンと少女は謎の沈黙にしばしの間見つめあい、時計の針が進んで行く音だけを聞く。やがて、ようやく分かったらしいキリサトが、ああ、と言って手を打った。
「だって、イワンくんじゃないですもんー。エドワード・ケディがですね! 実験! していいって!」
「う、うわあああぁあ!」
言っている途中でテンションが上がってきたのだろう。おおはしゃぎで教えてくれるキリサトに対し、親友が知らない間に身売りしていた衝撃に、イワンは全身を震わせて叫び声をあげた。世の中にエドワード・ケディという名を持つ人間はもしかしたら複数存在するのかも知れないが、キリサトの手の届きそうな範囲に存在する『エドワード・ケディ』は一人だけで、残念なことにもう一人存在するという話は聞いたことがなかった。イワンは頭に手をあててぶんぶんと首を振り、悪夢を彼方へと投げ捨てたがる悲壮な声で問いかける。
「な、なんで! ……どんな弱みを握ったんですか!」
「え。なんで私が脅したことになっちゃうんです?」
いかにも不服そうに眉を寄せ、首を傾げるキリサトに、イワンは言うのも恐ろしいと言わんばかりに息を詰まらせた。じわじわと涙が浮かんで来る。哀れみなのか恐怖なのか、後悔なのか恐怖なのか、恐怖なのかよく分からないがとりあえずなにもかもがよく分からないという混乱の涙である。動かなくなりそうな思考を必死に回しながら、イワンは脳内エドワードに問いかけた。エドワード、君、どうしたの。お金に困ってたのそれともなにか人生に絶望するような出来事でも起こったの大丈夫だよ僕がこんどこそ君を守るからね、と決意を込めて心の中で語りかけると、イワンの脳内エドワードはにっこりと微笑んだ。それが現実世界の彼のように、余計な真似しなくていいから被害を拡大させる可能性がある限りお前はそこから動くな、一歩たりともだ、と告げるようなものである事実を見なかったふりして、イワンは顔をあげる。僕の親友になにをしたんですか、と改めて問いかけてくるイワンに、キリサトはふてくされた表情で首を傾げかしげ、不愉快そうな目で睨んできた。
「交換条件ですしー。べっつに脅してないですしぃー」
「どんな交換条件ですか。デッド・オア・ライブですか」
「違いますー! 私が趣味で書いてた研究レポート、コピーさせてくださいバーナビーにあげたいんでって言うから! じゃあちょっと実験に協力してくれますか痛いことと嫌なことはしないのでって言ったら! 分かりましたって! 言うから!」
証文だってちゃんと頂きましたし、とキリサトがイワンに突き付けたのは、ただのコピー用紙にキリサトの手書き文字が書き連ねられたそれだった。いくつかの条件や規約がつらつらと並ぶ、その一番下に見慣れた文字でエドワード・ケディと署名が入れられている。イワンは微笑んで恭しくそれを受け取り、シュレッダーの入り口へ突っ込んだ。紙が粉砕される音を立て、するすると飲み込まれて行く。キリサトはしばし無言でそれを眺めやり、んん、と呟いて首を傾げた。
「……えっと」
今なにが起きたんだろう、と考え込むキリサトの肩を、イワンはぽんぽん、と手で叩いてやった。
「よし、すっきりした所で。CEOの所に行きましょうね、キリサトさん。僕、呼んで来るようにと言われてたので」
「ん、えっと、えっと……。あれ、えっと……あー!」
なんてことしてくれたんですかー、と叫ぶキリサトの背をぐいぐいと押し、イワンはお邪魔しましたー、と言い残して技術室を出て行った。室内には少女の叫びがしばらく響き、扉が閉じる音と共に静寂が戻ってくる。技術者のひとりが、あくびをして時計を眺めた。もう少しで交代がやってくるから、この部屋もすこし、世間のように活気づくだろう。今日もまた、いつもと変わらぬ一日がはじまるようだった。
随分寂しいわねぇ、と誰に聞かせるでもなく呟いて、ネイサンはがらんとしたトレーニングルームを見回した。基本的にヒーローはトレーニングルームで時間を過ごすのが常であるが、各々のスケジュールがうまく重ならないことや、呼び出しのかからない『完全休日』が複数に適応される日であれば、部屋の使用がほぼ独占状態であることも少なくはない。けれどそれは、ヒーローがバーナビーという存在を受け入れるまでのことで、ここ数年は滅多にないことでもあった。あの白皙の美貌を持つ青年は、姿形が魅力的なだけではなく、どこか放っておけない危うさも持ち合わせているものだから、特に幼い者たちは愛玩動物にそわそわと手を伸ばすよう、彼の傍に居たがり、ファンとは違う意味でもってその姿を一目でも見ようと精力的にトレーニングルームに顔を出していたからだ。代表格がイワン、その次にカリーナ、パオリンと来て、また別格の存在としてそこに虎徹が名を連ねる。最近はそこにアカデミー繋がりでエドワードと楓も参加してきたものだから、トレーニングルームは常にどこか温かな騒がしさで満ち溢れ、ネイサンは人気のない静けさと寂しさを、この空間においてはすっかり忘れてしまっていたのだ。まあ昔を懐かしむと思えば、そう悪いことではないのかも知れない。息を吐き出し意図して唇に笑みを浮かべながら、ネイサンは一人黙々とトレーニングをこなす、キースの元へ歩み寄る。キースの傍にイワンがいないというのもまた珍しく、ネイサンはほんの数年前、遙かな過去を思い出すような気持ちで、ランニングマシンの上で息を弾ませるキースに、はぁい、と柔らかな声をかけた。小走りのリズムを乱さないまま、キースはやぁ、と片手をあげてネイサンに微笑み返す。
「今日はなんだか、さびしい日だね」
軽やかな足音で爽やかな笑みをふりまく男が、ネイサンと全く同じ意識であることに対し、浮かんだのは純粋な笑みだった。そうね、と穏やかな同意は心からのもので、ネイサンはランニングを続けるキースが楽に視線を向けやすい位置で背を壁に預け、ゆったりとした態度で室内をもう一度見回した。
「なんだか、昔みたいね」
「そうだね。新鮮な感じがするよ。……昔は、私と、君と、虎徹くんと、アントニオくんだけだった」
「その頃は、名前なんて呼んでなかったわねぇ……」
彼らはあくまでヒーローというライバルであり、同業者であるだけで同僚ではなく、私生活で親しく過ごすなど考えもせず、そんなことはありえないのだと、そういう時代のことだった。いつの頃だっただろう。いつからだっただろう。彼らは互いをヒーロー名ではなく個人の名で呼び、休日に示し合わせで出かけることも、仕事のあとに食事や飲みに行くことも自然に行い、かつて存在していたぎこちなさは素知らぬふりで、時間と空気に溶け消えてしまった。思い出せばそれは、彼らよりすこし年下のヒーローが来てからのように思うが、はきとした時期まではネイサンにもキースにも分かるものではなかった。かつての緊張感が戻ってくることは、もうないのだろう。良かったのかどうかは、引退する日にでも判断すればいいことだ。ネイサンもキースも、当分そんな予定などないのだけれど。
「ところで、アントニオくんは一緒じゃないのかい?」
「お言葉、そのままそっくり返すわ」
「イワンくんかい? イワンくんはね、会社の用事が長引いてしまって、トレーニングルームにはお昼過ぎくらいに来るそうだよ。昼食はどうするつもりなのかな」
PDAの上を指先が踊るように駆け抜け、ネイサンに示されたのはメールの画面だった。そこにはキースが告げた通りのことが書かれており、昼食についてはまた連絡します、との言葉で締められている。時刻は現在、午前十一時。どうするかメールが来るとしても、今しばらくの時間が必要だろう。
「振られないといいわね」
「そうだね。それで、アントニオくんは?」
にっこり微笑むキースに、ネイサンは言葉に迷って考え込み、結局は事実をそのまま口にすることにした。
「警察で事情聴取……のようなお説教を受けてるらしいわ」
「……ん?」
「器物破損の現行犯ですって。ひったくりを捕まえようとしたんだかなんだか、よく分からないんだけど……とにかく、力余って公共物を壊した所を通報によって駆け付けた警察に発見、連行されて会社に連絡が行き、会社から司法局を通じて警察署に連絡が入り……怒られてるらしいわ」
ヒーローだからって賠償金払えばそこらのもの壊しても許されると思うなよっ、というのは、このシュテルンビルトを守る警察の、特に街の治安を守るべく巡回警備している警察官の皆さまの一致した魂の叫びである。未だもってアンチヒーローの最大勢力は警察官であるから、アントニオはこれ幸いとみっちり叱られ、嫌味の嵐に見舞われていることだろう。ネイサンにも、キースにも、経験のあることだ。それはまた、と口元を引くつかせながら助けに行った方がいいだろうか、と被害者を案ずるのと同じ声を出すキースに苦笑いをし、ネイサンは大丈夫だと思うわ、と諦めと笑いの入り混じった声を出した。
「どうも、シャーナちゃんがアントニオを保護してくれたみたいなの。……ものすごく怒ってはいるようだけど」
「ああ、カリーナくんの?」
半年ほど前に起きたとある事件において遭遇した、ブルーローズファンのアンチヒーローである女性警察官の名に、キースは感慨深そうな呟きで頷き、ランニングのリズムを緩め始めた。
「それは確かに、事情聴取のようなお説教だろうね……」
こみあがる笑いを無理に押し殺した表情で、キースはあくまで真面目にそう告げた。どうやら精神を削られるような嫌味、言葉の暴力の嵐を心配しなくても大丈夫らしい。午後にはトレーニングルームに来るであろうアントニオはぐったりと疲れ切っているだろうが、それはハイスクールの生徒が生徒指導の教師に捕まったのと同じくらいの衝撃で、決して後を引くものにはなりえない。昔みたいな今日だけど、と呟き、キースは小走りをゆっくりとした歩みに変え、ネイサンに微笑む。
「昔とは違う。……ああ、いい未来になったね」
あの頃、夢見ていた先を今として歩いている。そんな風に満ち足りた笑みでうっとりと囁くキースに、ネイサンはただ頷くことで過去の感傷に別れを告げた。ちょうどその時、扉の開く音がして小走りにパオリンがやってくる。やぁ、とネイサンと同じように片手をあげて出迎えたキースに明るい笑みを浮かべ、パオリンは不思議そうに、目を瞬かせながら二人へと歩み寄る。視線がしばし周囲を探し、あれ、とばかり首が傾げられた。
「イワンと、アントニオさんは? 今日はひと少ないね」
寂しいなー、と軽く不満げに唇を尖らせるパオリンには、つまり彼らの傍にその存在があるのは当たり前のことであり、トレーニングルームがにぎわうのが普通のことだった。なんだかたまらなく愛おしくなって両腕を伸ばし、ネイサンはパオリンをぎゅぅっと抱きしめる。わっと声をあげ驚くパオリンは、それでいてじっとネイサンの顔を見つめ、指の先でそっと、マダムの胸元の服を摘んだ。くいくい、と引っ張られる。
「大丈夫だよ。そのうち、皆来るよ? ……タイガー&バーナビーと、サポーターは二人とも、今日はお休みみたいだけど」
「あらぁ、今日だったの? 楓ちゃんのデート」
「うん! 楽しんで来れるといいよね!」
楓のデート服を選ぶ為に女子更衣室にて開催されたファッションショーには、もちろん、審査員としてネイサンも参加していた。休みのメンバーに保護者二人が含まれていることに一抹の不安を感じなくもないが、まあバーナビーがいるなら虎徹は大丈夫だろう。後をつけるなんてことはしない筈だ。きっと。すでにエドワードが手を打ち、そのフォローのせいでイワンがトレーニングルームに現れないことを知らないネイサンは、関係者が共通して持つであろう微笑ましく苦い希望にそっと唇を和ませ、もう一度強く、パオリンを抱きしめて、離した。
ショッピングモールで買い物をするのが目的ではなく、その場所に行くのが目的だった二人は、真新しい建物の中に入った瞬間、意図せず視線を交わし合ってしまった。さて目的を果たしてしまったぞ、という困惑に、最初に笑みを見せたのはエドワードだった。まあいいか、とばかり苦笑したエドワードは、楓に向かって片手を差し出し、あまやかに誘うように一言、おいで、とだけ呟いた。その言い方はひどくずるい、と楓は思う。だってそれは決して淑女の扱いではないし、それでいてうんと年下の幼子を連れていくのとも違う。同い年くらいの異性にはきっと、言わない筈の囁きなのだ。ねえ、どんな風な相手にそれを言うの、と尋ねたい気持ちをぐっと堪えて差し出したかすかに震える指先は、エドワードのてのひらにやんわりと包まれる。父のものとも、バーナビーのものとも違うてのひら、体温。何度も繋いだ筈の手が、何度も感じたことのある体温が、まるで別物のように楓の意識を直撃した。ひたひたと胸に満ち、涙を喉の奥まで浮かび上がらせてくるものの正体が分からない。そっと視線を足元に落として手を引かれるまま、無言で後をついていくのに、エドワードは声をかけはしなかった。それを、楓は嬉しく思う。よかったと、安堵する。だってきっとそれがどんな言葉でも、どんな響きで紡がれた名前でも、エドワードの声であるだけで、涙は零れてしまっただろうから。
手を繋いで歩いて行くだけ。ゆっくりと、まっすぐに、清潔に整えられた建物の中を。どこを目的とするでもなく、人のざわめきとたくさんの音の中。さわさわと揺れる心地良い雑踏の中を、眩く輝く光の中を、淡い影を落として二人は歩いて行く。呼吸の為に顔を上向かせれば、胸のつかえと息が楽になる。ふと、体から力が抜けるのを感じた。エドワードは振り向かない。歩みはゆっくりと、楓の歩幅に合わされている。
「……ねえ、エドさん」
「ん?」
「どこへ、いくの」
夢のようだと、不意に思う。温かなぬくもりに包まれて、目覚めの一瞬前にだけ見る、意識に鮮明な印象だけを残して消えていくだけの、夢のようだと。透明に響いた声に応えるよう、エドワードは楓の指先を包む手に、微笑むような力を込めた。
「どこに行きたい?」
「どこでもいい。……どこでもいいよ。どこだって、いいよ」
「どこでも。楓の行きたい場所、連れてってやる」
肩越しに振り返った瞳が、一心についてくる楓の存在を認めて満ちるように笑う。ふうわりと、光にまどろみ遊ぶ喜びのようだ。それは、純粋な喜びそのもの。ぎゅぅ、と胸の奥が甘く締めつけられていく。そんな風に、笑われて。そんな風な、目で見られて。嬉しくない女の子なんて、きっといない。
「……ずるいよ」
体の中で持て余す体温を逃がしたくてゆるく首を振れば、エドワードがくれた髪飾りが、耳元で涼しげな音を立てて存在を主張する。幸せそうに忍びやかに笑い、エドワードは楓の答えを待っている。なにも言わなければこのままずっと、どこへ行くでもなく、手を引いて歩いてくれるのだろう。エドワードはきっと、どこかへ楓を連れていきたがっているのだ。その場所も分からず。ただ、温かで安らかな、優しい場所へ。
「エドさん……」
それが嬉しくない訳ではない。けれど、楓には分かっていた。そこにエドワードはいない。そこへ。エドワードが納得してしまうそこへ辿りついたら、楓はきっと、そこへ置いて行かれてしまう。置き去りに、手が、離されてしまう。
「エドさん、エドさん……ねえ。ねえ、待って、待って……」
か細く呟いた言葉は、ぎこちなく唇を震わせ消えていく。蟲している訳ではないだろうに、エドワードは返事をくれない。引かれて行く手に、繋いだてのひらにもう片方の手を伸ばして、包みこむようにして引っ張る。
「待って……!」
「……どこ行くか決まったか?」
「まだ。でも……連れて行ってね。ちゃんと、連れて行って」
なにを言われたのかまるで分からないように、エドワードは不思議そうに目を見張り、楓を振り返った。その唇がなんの言葉を告げるより早く、楓は息を吸い込んだ。
「エドさん」
「……なに、楓」
傍に居たいの。他にはどこに行かなくたっていいの。平気なの。浮かんでは消える言葉たちを、今はどうしても口に出すことができずに。困ったように眉を寄せて唇をきゅっと閉ざした楓に、エドワードは仕方がないな、という風に笑った。