圧倒的な悪意に、息が苦しい。肺を守る骨は、焼かれるような熱を帯びていた。手足の感覚はすでになく、体のどこにも力が入らない。白黒にちかちかと瞬く視界では辺りを伺うのすら難しくて、どこに居るのかも分からない。本当は居る、のではなく、連れてこられたのだけれど。シレーネは、今にも黒いぽかりとした穴に落っこちてしまいそうな意識を震える指で握るようにかき集め、滲む血に染まった唇でぎこちなく息を吸い込んだ。肺の奥まで酸素が届かない。喉の中途半端な所でぐるりと逆巻いて、呼吸は咳となって吐きだされるばかりだ。
苦しげな様子に、辺りからは下品な笑い声が上がる。習慣的に本能的に、シレーネの耳はその声の数を数えていた。瞬時に聞き分けたのは五人分の声。すこし考えて、三人の判別を済ませると、部屋に居るのは八人であることが知れた。それでも、最低八人だ。声を上げずに見ている者や、扉の見張りも居るだろう。元より逃げられる数ではなく、蹴られ、殴られ、いたぶられ続けた体では絶望的な人数だった。希望を失いかけた意識が、白黒に瞬きながら旋回しだす。いけないと緩く首を振れば、全身に走る痛みにすこしだけ、思考力が戻ってくる。
自分がどこに居るかは分からないままだが、自分がどうしてこんな状況でいるのか、どんな格好でなにをされているのかを理解する。拉致され、抵抗する間もなく暴行を受けた手足は、関節が外れたか骨が折れるかして通常とは違う方向に投げ出されていた。舞台衣装によく似たドレスは身体に引っかかった布切れと表す状態にまで引き裂かれ、辛うじて元の色が分かるくらいだ。下着は脱がされておらず、強姦もされていなかったが、それは彼らに女性への性的興味が無いからではないことをシレーネは知っていた。
半ば痙攣に近い震えを起こしながら腕を引き寄せ、脇に力を込めて立ちあがろうとするシレーネの肩に、容赦なく男の靴底がめり込んで行く。血を吐きながら悲鳴を上げた少女に、向けられたのは侮蔑の言葉に他ならなかった。化け物め、まだ生きてやがる。意識がぐるぐると渦を巻き、ぶつりぶつりと途切れながら再生される音声をかき集めて、シレーネは告げられた言葉を理解した。そして、やはり、と悲しい納得に諦めの笑みを浮かべる。彼らはNEXT差別者だ。それも、とびきり過激な方の。最近頻発していたNEXTの殺人事件の犯人が彼らなのだろう。シレーネは彼らを追い詰め、司法の裁きに委ねる為に力を尽くしてきた。街中を飛び回り、調べ物にいくつもの夜を明かす間も被害者は増え続けた。止めることも、助けることもできなかった。
対面するのはいつも、物言わぬ屍となった同胞ばかり。そしてこれからシレーネも同じ運命を辿るのだと思うと、悔しさが湧きあがってくる。どうしてこんな目に合わなければいけないのだろう。どうして、誰も助けられないまま、こんな風になってしまうのだろう。悔しさに苦しさに、シレーネの全身が青白い光を帯びた。NEXT発動の光。シレーネの喉が息を吸い込むのと同時、無造作に男の靴先が肋骨の隙間に捻じ込まれた。そのままシレーネの体は蹴り飛ばされ、部屋の壁に激突して床に倒れこむ。痛みで青白い光がかき消えてしまうのを自分でも確認して、シレーネは浮かぶ涙を頬に伝わせた。
苦しい、悔しい。NEXTであるだけで、たったそれだけで、被害者たちはこんなにも無残に殺されて行ったのだ。どんなにか怖かっただろう。どんなにか苦しかっただろう。どんなにか、助けを求めたことだろうか。零れた涙が頬を濡らして行く。彼らはきっと、ヒーローの名を呼んだだろう。動かない手足が伸ばせずとも、心の中で必死にすがっただろう。願っただろう。助けてヒーロー、お願い助けて。その声は一つも届かなかった。その手をひとつも、握ることが出来なかった。
遺体にすがって流した涙など、なんの救いにもならなかったのだと、たった今理解する。もう救えない彼らの為に、それでもできることがあるとすれば、それは法の裁きを受けさせることだった。感覚のない、ただ『痛み』という文字情報めいた信号だけを脳に送り続ける手足に、無理矢理力を込めて行く。血と唾液を吐きだし、何度も何度も咳き込んで歯を食いしばりながら、ちかちかと白黒に瞬く景色を睨みつけた。怖気の走る空気によって生まれた一瞬の隙を逃さず、シレーネは全身を青く光らせて息を吸い込む。頭の中に描くのは一言。
その命令を、全霊を持って叩きつけた。
「うご、けっ!」
脳と神経と細胞が、悲鳴を上げながら活性化する。遠ざかっていた痛みを全身に叩きつけながらも、神かあるいは悪魔によってもたらされたNEXT能力はシレーネを裏切らず、傷付けられた少女の体を望みの通りに動かした。シレーネのNEXT能力は、言葉を発することによって初めて発動する。声の響く範囲に、そこに込められた命令を確実に実行させる能力。なんと名前をつけて呼べばいいのかも分からず、ごく正確な所はシレーネとて理解できている訳ではない、神様の力。すこし前に学者がNEXTと名前をつけたばかりのその力は、ひとの髪や肌、瞳の色よりもバラバラで、個性的で、たくさんあって、ひとつとして理解されるものではなかった。
いまも、決して自力では動かせぬ状態から立ちあがったシレーネに向けられる視線は様々で、恐怖や嫌悪が主なものであり、好意的なものは全く感じ取れない。好意などある訳がないのだ。彼らはシレーネを殺そうとして連れて来た。抵抗は殺意を煽るばかりで、異分子を排斥しようとする心を逆撫でるばかりだろう。彼らとはきっと分かり合えない。いまの社会がシレーネたちNEXTを上手く利用して、するだけして、分かろうとしてくれないのと同じように。どんな言葉も、届きはしない。それでもシレーネには言わなければいけないことがある。それがシレーネに課せられた義務であり、心に抱いた正義だった。
息を吸い込む。血の、嫌な匂いがした。
「NEXT能力者の……連続、殺人グループの犯人として、あなたたちを確保、します」
「……よく言えたもんだ」
突き付けた指は白く血の気を失っていて、細かい震えが収まる気配もない。返された声は呆れ交じりに感心すらしているようで、シレーネは主犯格らしきその男を、強い眼差しで睨みつけた。ひゅぅ、と口笛を吹かれる。
「アンタはここで俺たちに殺される。お仲間は間に合わない。俺たちは逃げる。……アンタにゃ無理だ、諦めろ」
「仲間は、きっと」
「来ねえよ。来られねぇんだ、お嬢ちゃん。TV持ってきて、見せてやろうか? いまな、ヒーローTVが生中継してる。押し込み強盗かなんかあったらしい。こことは随分離れてる。……かぁわいそうになぁ、お前さんがここで、こんな目に合ってるとも知らないで、無断欠勤だのなんだの、随分騒がれてたぜぇ? ヒーローさんよぉ」
嘲りと哀れみが、ちょうど等分になった声が心をひどく傷つけた。痛みを噛み殺した唇が震える。頬を新たな涙が伝って、シレーネの全身から力が抜けた。座り込んでしまったシレーネに、男がゆっくりと歩み寄ってくる。
「……な? もう抵抗すんなよ。お前らも、もう十分殴ったろ?」
優しげな声を本能が否定する。危険だ、逃げなくてはと思うのに、もう体のどこにも力が入らない。室内の者たち全員の同意をもぎ取って、男がシレーネの前にしゃがみ込んだ。荒れた手で顎を掴まれ、視線が無理に合わせられる。濁り切った犯罪者の瞳。狂った色に、慈悲などないと知る。にぃ、と煙草の吸い過ぎで黄ばんだ歯を見せながら、男がいっそ優しげに笑った。
「ちょっと俺が楽しんだら、後はすぐ殺してやるからな? だーいじょぶだ、抵抗しなきゃ殴りゃしねぇよ。俺はアイツらとは違う」
「ボスの趣味だけは理解できないっす。化け物抱いてなにが楽しいんスか?」
「ヤれば分かるって」
野次を飛ばし、囃し立てる声に取り囲まれながら、シレーネはなんとか逃れようとした。しかし立ちあがるよりも早く両肩を掴まれ押し倒されてしまって、頬を撫でられながらもう一度、抵抗しなきゃ殴らねぇよ、と耳に吹き込まれる。吐き気をもよおす程の嫌悪感に能力を発動させ、攻撃に転じようとするものの、一言を発してあとは青白い光を体に灯さなかったシレーネの状態は、男に伝わってしまっていた。過去何人も、何人もこうしていたぶっては犯して来たからだろう。おっと、と慌てずにシレーネの折れた腕をぐっと掴むと、痛みで集中を阻害してしまう。抵抗すんなよ、とおかしげに囁いた男を睨みながら、シレーネは散った力の残滓が胸にくすぶっているのを感じた。
痛くて、痛くて、くたくたに疲れ切ってしまっていて、もう一言も命令を乗せた言葉を発することができない気がした。それは酷く体力と集中力を必要とすることだったから、意識がもうろうとしてきた状態では、NEXTを発動させて置くことすら難しい。男の手が、シレーネの体に残されていた下着に触れる。瞬間、ぞわりと全身を走った拒絶感に、シレーネの瞳から涙がこぼれ落ちた。死ぬのが怖いと思ったことはない。一度も。生まれてから親にも怯えられ、蔑まれ、満足な教育すら奪われ、飢えと渇きと戦いながら一日、一日を生きてきた。
NEXT能力は常に、自分が生き残る為だけに使って来た。お腹が空いた時、ご飯が欲しくて頼みこんだ。温かい場所で眠りたい時、街角で人の袖を引いてホテルへ行く方法をいつの間にか知っていた。お金が欲しい時、きれいな服を着たい時、ほんの幼い頃に好きだった本が欲しい時、殺そうとする者から逃げる時。いつもいつも、自分の為だけに命令を乗せていた声を、他人の為に使う道があると知ったのはほんのすこし前のことなのに、遠い昔のような気がしてしまう。いつものように街角で、裕福そうな男の腕を引いて能力を発動させようとした瞬間、こんなことをしてはいけませんよ、と諭された。一緒においでなさい、と手を引かれて行った先に、ただ運命があった。
男はシレーネと同じくNEXTで、ヒーローになる為に選抜されたのだと言う。TVでショウアップされるヒーロー。人の世の悪をくじき、正義のしもべとなるヒーローに、NEXT能力者が選ばれてなるのだと。その一番はじめの何人かに選ばれたのだと告げた男は、シレーネにもそうなるようにと笑って言った。予知能力を持つ男は、だって一緒に戦う貴方の姿が見えましたからと笑いながら囁き、渋る者たちを説得して、シレーネをヒーローにしてくれた。男の言葉が嘘だったと、シレーネはもう知っている。予知はあくまで特定の人物の、数分先の未来が分かる程度の能力でしかなく、その時点で候補生でもなんでもなかったシレーネのヒーローとして戦う姿など、見える訳もなかったからだ。
どうしてうそをついたの、と問うシレーネに男は笑いながら言った。まっすぐな目をしていたから、と。荒れた生活をしていたのに、ずっとそうしていただろうに、まっすぐに人を見ることを忘れてはいなかったから。だから、自分の為ではなく誰か、顔も名前も知らない誰かの為に、能力を使うことができるようになるのではないかと。囁かれ、願われて、シレーネはその通りにしてきた。もう二度と、自分の欲望の為に能力を使いたくはなかった。だってシレーネはヒーローで、ヒーローはもしかしたらこれからの、NEXTの希望になる。希望が欲に駆られてはいけないし、希望がひとを、傷つけてもいけない。ひとはNEXTを殺しても、数年の罰が科せられるだけだ。NEXTがひとを殺すことは許されてはいない。例えそこに、どんな理由があろうとも。
下着を奪い、肌を執拗に撫でて行く指を歯を食いしばってシレーネは耐える。殺してはいけないと、ただそれだけを思った。きっと、必ず、仲間が助けてくれると。助けに来てくれると、だから殺してはいけないと、そう思ったのに。シレーネの耳に、言葉がいくつも飛び込んでくる。心にどんどん、傷がついて行く。胸の中にくすぶっていた力の欠片が、渦を巻いて開放されたがる。駄目だと思う意思を踏み潰すように、その声がハッキリと、耳に届いた。
「はやく死ねよ、化け物」
は、はっ、と弱く息をもらすよう、シレーネは笑った。世界で一番最後の息を、ゆっくりと吸い込む。覆いかぶさる男を睨みつけた瞳の色は、生来の碧ではなく、青。髪一筋まで青白い光で染め上げて、シレーネは全霊をもって呪いの言葉を編みあげた。対象は、己を含んだ動くもの全て。止まってしまえ、呼吸も鼓動も、意思もなにもかも。止まってしまえ、消え去ってしまえ。絶対に、もう、動かないように。
死ね、とたった一言、絶叫した。
それは、ヒーローが未だ、人々に受け入れられる前のこと。
奇跡的に生き残ったシレーネはヒーローであった事実を抹消され、史上類を見ないNEXTの大量殺人犯として歴史に名を残す。たった一言の命令によって命を落とした者の数、百九十五人。直径およそ二百メートルの範囲内全ての命が失われ、電子機器は動きを止め、二度と光を灯すことがなかった。シュテルンビルトの災厄とも呼ばれるその犯罪によって命を落とした者の中に、彼女を救出しに向かったヒーローの名もあったが、彼はただ巻き込まれたとして処理され、真実は闇に葬られた。
『初代』と呼ばれるヒーローは、彼を含めて四人である。五人であったことを知る者は数えるばかりとなり、日々更新されていく記憶の中に埋もれて行った。NEXTが『登場』して、実に四十五年。『初代』は未だ、四人とされていた。
ヒーローの出動は夜であることが多い。さすがに平日の夜七時から十時、あるいは土日の昼過ぎにヒーローの出動コールが鳴り響くという非常に分かりやすい状態は脱しているが、一月平均にしてみると六割から七割が日が落ちてからのショウタイムである。残りの三割、あるいは四割の半分くらいが夕暮れ時に起きる事件なので、ヒーローの生活は昼夜が逆転したものだと思われがちであるが、彼らは基本的に会社員である。朝は普通に起きて出社しなければいけないのだ。中には学生もいるので、その生活は苛烈を極めたものとなり、規則正しい健康的な生活とは仲良くなれないことを宿命づけられている。その日も楓は、日付変更線直後に発生した包丁を持った男がマンションに立て篭もる、という事件を解決すべくヒーローと共に夜の街を駆けまわり、だいたい四時過ぎに帰宅したのだった。
前日の起床時間は六時半で、その日の予定時間も同じ時刻だった。幸いなことに、楓は平均的な睡眠時間を、合計であっても保持することをアカデミーから求められている。足りない場合はアカデミーの授業時間を相談の上、昼寝に当てても良いとなっているので、今日も登校次第、保健室に直行する予定だった。意外と勉強することに対して厳しいエドワードはしぶい顔をするだろうが、なにも言わずに同じく昼寝をしてくれるのを知っているので、問題は疲れ切った体をどうアカデミーまで引きずって行くか、ということだけだった。ベッドの上でぎこちなく腕を持ち上げた楓は、枕元に置いてある三つの目覚まし時計をパンパンパン、と小気味よく叩いて止め、枕に顔を埋めて深々と息を吐きだした。
寝不足すぎると太陽が黄色く見えるのはどうしてなんだろう。あー、うー、と呻きながらなんとか起き上がろうとしていると、楓の頭をそっと気遣わしげに撫でる手があった。思わず、本当に思わずひっと悲鳴を上げながら体を跳ね起こせば、驚いた顔をするバーナビーと目があった。黒地のシャツにベルト付きのモスグリーンのズボン、赤い編みあげブーツのいつものスタイルに、ベージュのエプロンをつけたバーナビーは、顔を赤くした楓にきょとんと瞬きをした後、ゆるゆると唇と目元を和ませて微笑んでくる。
「おはようございます、楓さん。……起きられる?」
「お、起き、ますっ。だ、だいじょうぶ……」
「そう? 無理しなくても良いよ。虎徹さんはまだ寝てたし……昨夜はよく頑張ったね、お疲れさま。そして、どうもありがとう」
君のおかげで犠牲者もなくスピード解決できたよ、と微笑むバーナビーにも疲れは見え隠れしているが、楓と違って眠たげな様子は見られなかった。これはまさか寝ていないのではないか、と過去何度も合った不眠の疑いも濃く不安な眼差しを向けてくる楓に、バーナビーはちょっと困ったように微笑み、身を屈めて少女の頬に唇をそっと押し当てる。習慣めいたおはようのキスは、それでいて、誤魔化したいことがある時のバーナビーの癖だった。もう、と呟いて怒りを告げようとした楓の耳に、あまりに甘く緩んだ幸福の笑いが忍びこむので、少女は今日も上手く追及することができない。
幸せで、幸せで、嬉しくて仕方がなくて思わず漏れてしまうバーナビーの笑い声に、勝てる鏑木家の人間はいない。今の所は、一人も。頬を両手で押さえながら、昼間に眠れるようならすこしでも寝てね、と言うのが精一杯の楓に、バーナビーは笑みを深めて頷いてくれた。できるだけ、楓との約束を守ろうとしてくれているのを知っているので、これですこしは安心できる。よかったと思いながらベッドから立ち上がり、スリッパに足を突っ込んで大きく伸びあがりながら、楓は忙しなく視線を彷徨わせた。案の定、窓際に置かれたちいさなノートパソコンの前には文字が走り書きされたメモが何枚も散らばり、空になったテイクアウトコーヒーの一番大きい紙カップが横倒しに転がっていた。
朝の四時過ぎになんとか家に辿りつき、体を拭いてベットに倒れ込んだ楓と、起きたら風呂に入ると言い残して同じくベッドの住人になった虎徹を見送ってから、バーナビーは事件の報告書を書きあげてしまったらしい。二四時間営業のカフェの経営努力は認めてやってもいいが、徒歩圏内にそういうものがあると、バーナビーが平気で徹夜を決行するので止めて欲しかった。まったくもう、と溜息をつきながら着替えの為にバーナビーを部屋から追いだして、楓はクロゼットからセーラー服を取り出した。基本的にアカデミーは自由制服だ。私服登校も認められているので楓も本当ならそうしたいのだが、通う筈だった中学のセーラー服が採寸まで終わっていることを知った虎徹が、娘の制服姿が見たいそしてそれで通って欲しいと涙ながらにゴネたせいで、ほぼ毎日着ることになっている。
週七日のうち、三日くらいがセーラー服だ。年齢的に着ておかしい服ではないものの、当たり前のことながら学内でセーラー服は楓ただ一人の為、毎日がちょっとしたコスプレ気分だった。正直やめたくて仕方がないが、どうせアカデミーに辿りつけばサポーターの制服に袖を通さなければいけないので、そう長い時間着ている訳でもないしと最近はほぼ諦めることにしていた。それに、シュテルンビルトはオリエンタルタウンと違って、誰も彼もが最新の流行を追ったファッションを身につけていて、学校と仕事で忙しい楓は満足に服を買う暇もなく、結局制服が一番無難である、という事情もあった。慣れた仕草でスカーフを巻き、鏡の前でくるりと回ってスカートのひだを手で整える。
前髪を三つ編みにしてピンで止め、残りをシュシュでまとめながら部屋を出て行くと、キッチンでおにぎりを握っていたバーナビーがすぐに気が付き、うっとりとした笑みで楓に頷きかけた。
「似合ってるよ、すごく可愛い」
「ありがとう、バーナビー」
殆ど毎朝のことである。それでも僅かに上ずってしまう声に落ち着きを取り戻させるべく、楓は小走りにキッチンへ駆けて行く。元は虎徹が独り暮らしをしていたこの家に、楓が来て、バーナビーも混じるようになってからどれくらいの時間が経過しているだろう。すっかり馴染んだ様子でキッチンを動き回る姿に、少なくとも楓がシュテルンビルトに出てきた数か月前より早くこの家に『住む』ようになっていたのだと分かっても、それを追求したことはなかった。楓にとってバーナビーは、家族と表すよりも、大好きで大切な兄と思う方が心にしっくりと当てはまる間柄だ。憧れで大好きなヒーローで、父親の恋人で、楓の自慢のお兄ちゃん。
一度うっかり『おにいちゃん』と呼んだらバーナビーが感動のあまり一時間嬉し泣きをしたので勤めて呼ばないことにして、楓は青年を呼び捨てで固定することにした。シュテルンビルトの雑誌の表紙をいくつもいくつも飾る美貌のかんばせを、その一言で台無しにしてしまう訳にはいかないのである。なにせバーナビーは本物の幼子のようにしゃくりあげ、声をあげ、目元をごしごしと擦りながら泣く。その一時間で現れた赤みを引くのに三時間はかかったので、大変な手間なのだった。とっても手のかかる大変なお兄ちゃんだなぁ、と思いながら、楓は慣れた様子でおにぎりを作り続けているバーナビーの手元を覗き込み、首を傾げた。
数がやけに多かったからである。近所の人を招いておにぎりパーティーが出来るくらいだ。キッチンの空きスペースがほぼおにぎりで埋まっていると言っても過言ではない。家にあるお米、全部炊いたな、と思いながら訝しげに視線を持ち上げた楓に、バーナビーはふんにゃりと、幸せそうに笑み崩れながら囁いた。
「朝ご飯と、おべんとうと……差し入れです」
「みんなに?」
「みんなに」
各社が発売しているヒーローランチボックスのひとつを手に取り、バーナビーはその中に作り終わったおにぎりを詰めて行く。デフォルメされたブルーローズの絵がついたランチボックスの蓋がパチンと音を立てて閉められた瞬間、チャイムの音が鳴り響く。あ、と言ってそのランチボックスを手に持ったまま普通に玄関に向かおうとするバーナビーの、ちょうちょ結びにされたエプロンの紐を掴んで止め、楓は駄目っ、と言い放つ。バーナビーのマンションとは違い、この家は玄関の覗き穴で確認するまで、扉の前に誰が立っているか分からない。それなのにバーナビーは至って無防備に扉を開けてしまうので、幾度見知らぬ通行人が黄色い悲鳴をあげて騒ぎになったことだろう。
最近は近隣住民もそれとなく事情を察し、優しく見ないふり知らないふりをしてこの英雄のプライバシーやら私生活を守ってくれているが、それでも全てがそう優しい訳でもない。私が出てくるからキッチンで待ってて、としょんぼりバーナビーに容赦なく言い放ち、楓は小走りに玄関へと向かった。すこしだけ背伸びをして覗き穴から外を確認し、楓は勢いよく扉を開け放つ。あまりの勢いに、きゃぁ、と可愛らしい悲鳴が上がったが、構いはしなかった。嬉しい気持ちそのままに両腕を伸ばし、抱きついてしまう。
「カリーナさん!」
「え、えっ? ……おはよう?」
「うん! おはようございます!」
戸惑った声をあげながらも抱きとめてくれたカリーナからは、甘い花の香りがした。シャンプーの匂いだろう。鍛え上げてなお華奢で柔らかな身体は大人の女性になりかけているもので、楓の憧れをうずかせた。ぱっと離れた楓に微笑みながら、カリーナは開け放たれた扉の向こうへ、バーナビーの名を呼んだ。すぐに現れたバーナビーはおはようございますと笑いながら、ブルーローズのランチボックスをカリーナに押し付ける。受け取ったカリーナは大変微妙そうな顔つきでランチボックスに視線を落とし、深々と溜息をついてありがとう、と言った。
「学校で食べる。……バーナビー、アンタちゃんと寝たんでしょうね?」
「寝ましたよ」
「二四時間以内に睡眠取ったんでしょうね?」
笑顔でうそぶくバーナビーに、カリーナは慣れた様子で言葉を変えて問い直す。明確な嘘をついてないだけで、バーナビーは一昨日の夜にはちゃんと眠っていたのだ。バーナビーは笑顔のままで視線を彷徨わせ、これから二十四時間以内には寝ますよ、と呟いた。背伸びしたカリーナのてのひらがバーナビーの額をぺちんと音を立てて叩き、馬鹿、と言って玄関に置かれた虎徹の靴を睨みつける。全く、この靴の主はなにをしていたのだと言わんばかりの視線に、楓は複雑な気持ちを覚えながら同意の形に頷いた。復讐を果たすまで、バーナビーの眠りには悪夢しか訪れていなかったらしい。