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 たまに夢も見ないで眠る夜もあったらしいが、見るとすればひとつのことだけで、それは優しさの欠片もない悪夢だった。つい先日、はじめて『変な映像を見た』と言って起きて来たくらいである。悪夢からようやく抜け出したバーナビーは、それでいて習慣めいた無意識の恐怖感を眠りに対して覚えていて、隙あらばこうして眠らないでいるのだった。叩かれたバーナビーは、くすぐったそうな顔つきだ。叱られたのに嬉しそうにはにかんで首をひっこめ、ふふ、とちいさく笑って楽しそうにしている。可愛いものが好きな乙女心を撃ち抜かれた表情でよろめき、カリーナはランチボックスを胸に抱きしめた。
「と……ところで、呼びだした用件って? まさか本当にこれだけ?」
「これだけですよ。あなた、昨日は家に帰ってないでしょう」
「だって、現場から家に帰るのに一時間くらいかかる場所だったじゃない」
 親にメールで連絡をして、ブルーローズ専用のトランスポーターに泊まったカリーナは、そのまま鏑木家の前まで送って貰ったのだ。あ、と言って扉から顔だけ出したカリーナが、もう良いありがとう、と叫ぶと大型車が走り去る音が響いたので、楓とバーナビーは顔を見合わせて沈黙した。さすがに、ヒーロー専用トランスポーターから制服姿で出てきたのはマズいのではないだろうか。身バレしますよ、と呆れた呟きをもらすバーナビーに、顔を引っ込めたカリーナはふん、と鼻を鳴らして胸を張った。
「ヒーローの正体を暴くべからず! 自分で公表した時以外は詮索しちゃいけないって、こないだ法律できたじゃない」
「ああ、そういえば……なんかそんな法律が可決されていたような」
「だから、大丈夫よ。大体、家から遠い所であんな時間に事件を起こす犯人がいけないの」
 全然寝足りない、とあくびをしながら呟いて、カリーナはじゃあありがとうね、とランチボックスを鞄の中に押し込んだ。
「また放課後、トレーニングルームで。……夕方から夜、居るわよね?」
「居ますよ。今日は僕たちも日中は書類仕事なので、トレーニングルームへは定時後に顔を出すくらいですけれど」
「……今日は事件が起きないと良いわね」
 さすがに、体が悲鳴をあげかけている。苦笑しながら頷くバーナビーも全くの同意見で、また夕方に、と言って走って行くカリーナを見送った。駅の方へ向かいながらカリーナは腕のPDAに指先を走らせ、ヒーローに纏わる連絡事がないかを確認している。その足がぴたりと止まった所を見ると、なにか連絡があったのだろう。嫌そうな顔をしてバーナビーと楓を振り返ったカリーナは、なにか迷うような仕草を見せた後、重たい足取りで駅への道を辿って行く。大変だね、大変ですよね、と他人事のような呟きを交わし、二人はぱたりと家の扉を閉めた。
 バーナビーは腕のPDAに視線を落としたものの、カリーナのように起動させずに放置を決め込み、キッチンへと戻って行く。本来ならば数時間ごとの確認義務があるのだが、バーナビーも楓も、へとへとのくたくたで、やる気になどなれなかった。本当に緊急なら矯正着信で起動する筈なので、まあ、大丈夫だろう。再びおにぎりの制作に戻るバーナビーの背に、卵焼きとおみそしる作ってあげるね、と楓は言った。それで、朝ご飯にしよう。振り返ったバーナビーはゆるく目を細めて頷き、甘い卵焼きにしてくださいね、と言った。



 味噌汁を作り終わった楓が、それを三人分のお碗によそい終えた頃に虎徹は起きて来た。非常に眠たげな様子でありながらもこのまま出勤できる程に身支度を整えているのは、久しぶりの父娘生活が始まってすぐ、だらしない格好は許さないと楓に散々叱られたからだろう。虎徹はテーブルの上に並べられたおにぎりの山と卵焼き、味噌汁とマグカップに注がれた野菜ジュースを順番に眺め、ソファとテーブルの狭い隙間に体を滑り込ませるようにして床に直座りしながら、しみじみと幸せな朝だよなぁ、と口にした。体の疲れは残っているものの、テーブルに並ぶ愛娘と恋人の手料理を、なんの特別の日でもないのに食べられるという幸せ。
 大げさなんですよ、と笑いながらクッションをひとつ引き寄せて床に置き、バーナビーは虎徹の隣に腰を下ろした。すぐ隣ではなく、一人分のゆったりとした隙間がある。キッチンでフライパンを洗い終えた楓がすぐにやってきて、二人の間に体をぎゅっと押しこめ、ぱちん、と音を立てて手を合わせる。
「いただきます!」
「頂きます」
「いただきます。……いっぱい作ったねえ、バニーちゃん」
 お米全部炊いちゃったでしょ、と苦笑する虎徹に、バーナビーは箸をぎこちなく操りながら頷いた。なんとなく見つめることにすると、ピンクの兎模様の付いたバーナビー専用箸はまっすぐに卵焼きに向けられ、ふるふると震えながら一切れを持ち上げる。虎徹と同じく固唾を飲んで見守る楓は、一緒に息も止めてしまっているようだった。そーっとそーっと移動した箸で卵焼きを口元に運び、バーナビーがぱくり、と卵焼きを口の中に入れる。もぐもぐと動いた口元は、すぐ幸せそうな笑みを宿した。ごくん、と飲み込んでから隣に目を向け、バーナビーはおいしいです、と言った。
「やっぱり、卵焼きは楓さんが一番上手ですね」
「俺のは?」
「虎徹さんの卵焼き、マヨネーズの味がします」
 それが隠し味なんだよ、という虎徹にいえ隠されてませんしと言い返し、バーナビーは箸を置いてしまう。続いておにぎりに手が伸びたので、徹夜をしたわりに、食欲があるらしかった。勤務終了から三時間程度しか経っていないので、眠って居なくとも純粋な空腹感があるのだろう。ともあれ、食べるのは良いことだ。食欲があることと、卵焼きを褒められたこと、ふたつの安堵と幸せに胸を撫で下ろしながら、楓はお碗を両手で持ち、味噌汁を一口飲んでみた。頭の上でぽんぽんと軽快にやり取りされる言葉を聞き流しつつ味わえば、こちらも上手な出来栄えだった。鰹の出汁がよく聞いた、豆腐とワカメの味噌汁は楓の好みだ。虎徹の為に作られたツナマヨおにぎりをさりげなく父親の手に握らせてやりながら、楓はテレビのリモコンを視線で探す。
 頭の上ではテニスボールを打ち合うがごとく、コレステロールがどうの血管がどうの年齢がどうのと言い合っているが、仲良くじゃれているだけなので特に心配はしない。リモコンが見つからなくて首を傾げたとたん、バーナビーのてのひらが楓の前にそれをそっと差し出した。ありがとう、と無言で笑いかけると笑顔が返ってくる。思わずにこにこと見つめ合っていると、虎徹の箸がバーナビーの口に卵焼きを突っ込んだ。半目でもぐもぐと咀嚼するバーナビーに思わず謝りたくなりながら、楓はテレビのスイッチを居れた。すぐに聞きなれたニュース番組にチャンネルを合わせ、天気予報を見つめながらおにぎりに手を伸ばす。楓が握るよりふた回りは大きいおにぎりをほおばりながら、傍らの父親に冷たい視線を投げつけた。
「……お父さんは、バーナビーさんのことほんっとうに大好きよね」
 返事はなかったが、反省を促す娘の言葉の代理のよう、伸ばされたバーナビーの指先が虎徹の額を弾いて引き戻されて行く。ちえー、となんだかちっとも反省していない拗ね切った呟きを響かせ、虎徹の手がツナマヨおにぎりをもうひとつ取りあげた。具が分かりやすいように皿の端には文字が書き込まれたふせんが張ってあるので、適当に選んだ結果でないことは確かだった。くす、と笑ったバーナビーはもうわだかまりを捨てたようで、他のもちゃんと食べてくださいね、と響く声は穏やかだった。虎徹は娘の目から見てもちょっとバーナビーを好きすぎるきらいがあるが、バーナビーはバーナビーでくすぐったく恥ずかしくなってしまうくらい虎徹のことが好きだった。
 二人の関係に複雑な気持ちを抱いていない訳ではない。それでも、こんな風にお互いを思い合っている二人の間に挟まれて、同じくらいかそれ以上の愛情を向けられて絆されない心ではないのだ。とりあえず思考を放棄して、時間を見ながら食欲を満たす作業に戻っていると、ニュースがヒーローの活躍を報道するものに切り替わる。ちょうど、数時間前に解決してきたばかりの事件だった。それぞれに食事と会話を楽しんでいた三人の手がぴたりと止まり、視線がテレビ画面へと集中する。アナウンサーが事務的な口調で昨夜事件がありましたヒーローが出動しましたと告げるとすぐ、画面はスタジオから映像へと切り替わった。あまりに時間が遅かった為、住民の安眠を優先したヒーローTVは撮影のヘリを飛ばさなかった。
 自然と地上から見上げる形になった高層マンションの中ほど、ベランダをサーチライトが眩く照らし出されている。硝子はガムテープで目張りされ、カーテンが閉められていて中の様子を伺い知ることが出来ない。地上から、空中から、あるいは隣室のベランダから突入のタイミングを計るヒーローたちの顔には焦りが滲みだしていた。アナウンサーの声が事件発生から二時間半、警察の説得が退けられ、ヒーローの突入が許可されたばかりであることを知らせて行く。地上には数台のパトカーと警察官が待機しており、悔しげに、それでいて最後の希望を託してヒーローたちを見上げていた。
 ふと、室内から悲鳴が木霊する。動揺した動きで突入しようとするワイルドタイガーの足をひっかけて隣のベランダで転ばせるバーナビーの映像も、きちんと記録されてしまっていた。あっちゃぁ、と呟く虎徹とあーあ、と気の無い声を響かせるバーナビーは、映像の中の自分に対してやけに他人事だ。楓は野菜ジュースのマグカップを口元に引き寄せながら、映像の変化する次の瞬間を待っていた。室内から青白い光が溢れだす。その途端、閉ざされていた現場の硝子を突き抜けて、二本の腕が現れた。誰か、と叫びながら人質であった女性を抱きかかえて出てきた少女の姿にズームがかけられるより早く、画面いっぱいに折紙サイクロンのロゴが映し出される。
 見切れというより、画面ジャックに近かった。アナウンサーがやや興奮した声で、ヒーローに協力したNEXTの存在が居たことを告げ、ニュースは次の話題に切り替わった。朝の爽やかな居間に、なんとも言えない沈黙が漂っていく。ごくん、と野菜ジュースを飲みほして、昨夜の人質救出ポイントを貰うべきなのかも知れない楓が、映っちゃったねぇ、と言った。そうだなぁ、と暢気に虎徹が頷き、バーナビーもぼんやりした口調で映像流されちゃいましたね、と告げる。はあ、と三人分の溜息が重なった。
「投稿映像だもんなぁ、これ……。アニエスさんの映像回収、間に合わなかったんだな……」
「顔は映ってませんでしたし、サポーターの存在までは辿りついてませんから、あとはアポロンメディアがなんとかしてくれると信じるしかありませんが……マスク、買いに行きましょうね。楓さん」
「現場に一般の人のカメラもないかチェックする係とか、今度から作ろうね……」
 はあぁ、とまた三人分の溜息が重なる。ヒーローサポーターは、表に存在を認識されない部隊として存在している。それは完全な裏方活動が基本原則である以上に、現在のメンバーが『ワイルドタイガーの娘』と『元受刑者のNEXT』であることが大きな理由だ。そもそもが楓の特異なコピー能力の制御を目的として設立に踏み切ったサポーターシステムといえど、現在では欠かせない大きな戦力であり、助力として成長している。表沙汰にならないからこその動きが出来る彼らの存在は、人命救助のみならず、犯人の情報を得ることができ、ヒーローに今までとは違った戦い方があることを示してくれた。
 サポーターが体勢を整えて動くようになってからと言うものの、ヒーローにかかる医療費は目に見えて減り、損害賠償の請求はシーズン比四割で落ち着いている。その四割も『人命救助、あるいは犯人確保の為やむおえず』と認められる可能性が高く、今後の展開次第では支払いをさらに減らせる可能性もあるのだ。人質となった者たちの怪我も減っている。すくなくとも今シーズン、一般市民の死傷者は一人も出ていなかった。お前のおかげで今回は命が間に合ったんだ、と楓の頭を撫でる虎徹に、ちいさな頷きが返される。優しく笑ったバーナビーが、慰めるように楓の手を握り締める。持ち上げられた視線を絡めるように繋いで、バーナビーはシュテルンビルトを虜にした微笑みで、そっと楓に囁いた。
「ところで、七時半過ぎてますけど」
「……きゃ、きゃああああ!」
 悲鳴をあげて飛びあがった楓が、そのままの勢いで洗面台へ飛んで行く。急いではみがきを始めるのをのんびり眺め、虎徹はバーナビーに視線を流した。
「俺たちもそろそろマズくねえ?」
「遅い時間に終わったから、正午までに来てくれればかまわないとロイズさんが言ってました」
「……ロイズさんはなんであの時間に起きてたんだ?」
 純粋な疑問に、バーナビーは苦笑しながら言った。
「現場の隣のマンションにお住みのようで。騒ぎで起きて、そのまま待っていてくれたらしくて」
「律儀な人だよなぁ……。ふーん、じゃ、ゆっくりしてようぜ」
 伸ばされた虎徹の手が、空いた空間に置かれていたバーナビーのてにひらに触れる。ごく自然に指をからめて繋ぎ合わされて、バーナビーは視線を落ち着きなく彷徨わせた。
「……あの」
「ん?」
「まだ楓ちゃん、居ます、けど」
 楓が傍に居る時はなるべく接触しないこと、と言いだしたのはバーナビーだが、それを受け入れたのは虎徹だった。本人の教育うんぬんはさておいて、年頃の少女の前で、バディ以上の接触を持つことが憚られたからだ。それでも繋いだ手を解けないでいるバーナビーに、これくらい良いじゃねぇか、と虎徹は笑った。
「なー、楓ー? 手つなぐくらいはいいよなー?」
「キスでもなんでも好きなだけしてよ! 今話しかけないで忙しいの! ……やだもう、どうしよう!」
 わざと見せつけなければなにしてもいいから、二人とも私のテキスト見なかったか思い出して、までヒステリックに言葉を叩きつけられ、バーナビーが背もたれ代わりにしていたソファに上半身を倒れさせる。少女に夢を見ているバーナビーとしては、受け止めきれない台詞だったらしい。女の子なんてなぁ、そんなもんなんだよ、と遠い昔に妻に対して味わった甘酸っぱ悲しい気持ちを蘇らせながらも、虎徹は遠い目をして息を吐く。分かってはいるが、愛娘の成長に気持ちが付いて行かない。というか、そこまで内面の成長が早いとか思いたくないし考えたくなかった。はあぁあ、と陰鬱な溜息の二重奏に、楓がちょっとーっ、と声を荒げる。
「テキスト! 探すの手伝ってってば!」
「……最後に見た記憶は、いつ、どこで?」
 そこで半泣き声で鼻をすすりあげながらでも、協力してやるのがバーナビーの可愛い所で偉い所だ。よしよし、と手を伸ばして頭を撫でてやると、バーナビーはぎゅうと目をつぶったままで虎徹の手に頭をぐいぐいと押しつけ、もっと撫でろと無言で要求してくる。お望みのままに好きなだけ撫でくり回していると、首を傾げて考えていた楓があっと声をあげた。
「アカデミーの! ロッカー!」
「……楓」
「忘れてたの! 怒んないでっ!」
 お父さんだってよく職場に忘れ物してくるでしょう、と言われれば虎徹に勝ち目など残されてはいなかった。バーナビーもちょうど携帯電話を机に置き忘れた所だったので、居心地が悪そうに口元をむずむずとさせている。騒いで探しまわっているうちに、いよいよ時間が差し迫って来たらしい。きゃあきゃあと慌てた叫びをあげながら家中をかけずり回り、メイプルマークのランチボックスを手にとって、楓が玄関へ駆け抜けて行く。少女が真新しい靴に足を突っ込んで立ち上がり、玄関の扉をまさに開けたその瞬間と、チャイムが鳴ったのは全く同時のことだった。
 チャイムの音が鳴り終わる前に響いた少年少女の悲鳴に、虎徹とバーナビーはぎょっとして玄関口に視線を送る。なんとか、転倒を免れたのだろう。胸元に激突した少女の肩を両手で押しやりながら、身の潔白を証明したがる表情でエドワードが二人を見ていた。若干状況を理解できない表情で、バーナビーがそっと口を開く。
「おはようございます、エドワード先輩……?」
「おはようございます。楓、お願いだから一刻も早く自分の足で立って俺から離れろ。俺の命の為に。そして今後のバディの為に」
「お父さん! だめっ!」
 俺の娘から離れて貰おうか、とする父親の不穏な気配に、エドワードの発言がなくとも気がついていたのだろう。機敏な動きで己のバディを背に庇うよう立ち直した楓は、一切の容赦なく虎徹を睨みつけた。
「もう、どうしてすぐそうやって! 睨んだりするの!」
「だってさぁー……だってさぁ、かえでぇ」
「エドさんは! 私の! バディなの! 不純な目でみないでよ変態っ! 変態、変態っ、へんたいっ!」
 ごく一部の業界でしかご褒美でない罵倒は、虎徹の心を確実にえぐったらしい。ばったりと床に倒れこむのを鼻を鳴らしていちべつし、楓はさて、と身を反転してエドワードに笑いかける。
「エドさん、おはよう。どうしたの?」
「……いや、普通に迎えだけど。制服は?」
 女ってマジ容赦ねぇ、と言わんばかりのぬるい笑みで受け答えしながら、エドワードは楓の格好に対してゆるく首を傾げてみせた。エドワードが着用しているのは、サポーターの制服である。アンダースーツと同じ生地で出来た黒の上下に、司法局の紋章と百合の花の刻印がある白いマント。首元には、付け襟によく似た爆発物が付けられている。それを忌々しそうに見つめつつ、楓は分かっていてセーラー服のスカートを摘み、その場でくるりと一回転してみせた。制服だよ、と言ってみた楓に、エドワードは微笑ましそうな表情で手を伸ばす。ぴん、と額をはじいた人差し指が、少女の髪を耳にかけてから離れて行く。
「ばぁか。……ってことは、連絡見てねぇな?」
「連絡? うん。お仕事?」
「仕事っつーか。……その前に、制服あるか?」
 基本的にサポーターの制服は、自己管理である。原則的にはアカデミーの中にある専用更衣室に保管、となっているが、昨夜のように緊急出動が夜から朝にかけて行われた場合、自宅に持ち帰って洗濯していいことになっている。楓が昨晩着ていたものは、洗濯機の中で泡まみれになっている筈である。あるけど洗ってる、と困ったように言う楓に、だろうと思った、とエドワードが息を吐く。
「じゃ、まずアカデミーだな。予備があるからそれ着て……行くまでにPDA起動させて、ちゃんと連絡確認しろよ?」
「はーい。じゃあ、行ってきます! 所でエドさん、その格好で電車乗ってきたの?」
「やめろよ絶対電車乗りたくねぇし。ユーリさんに送ってもらったんだよ。ほら、待っててくれてんだから行くぞ」
 扉が閉まってしまうと、とたんに家は静かになる。バーナビーは倒れたままで動かない虎徹をじっと眺めて助け起こすべきか慰めるべきか考えたあと、すこし放置してみることにして、流れ続けるニュースと世界の音に耳を傾ける。なにせ虎徹の家は防音のしっかりす過ぎているきらいのあるバーナビーの家とは違い、耳を澄ませば通りの向こうの音くらいまでは拾うことが出来るのだ。耳慣れたアナウンサーの声をBGMにしながら、道を走って行く車の音や駅へ早足に向かう靴の音、店のシャッターを開ける音や、それに驚いた犬が吠える声を聞く。視線を向ければ晴天が広がっていて、溢れる光は徹夜をしたバーナビーの目に眩しすぎるくらいだけれど、ただ嬉しいような気持ちになって、そっと目を細めた。
 思わず、口元が穏やかな幸福に緩む。平和とはとても言い難く、事件ばかりの起こる街だけれど。この街を大切に愛して住む人たちが、こんなにも生きている。頑張れる気持ちになれますね、と呟いた独り言に、思いがけずそうだな、と返事が返ってくる。その驚きを幸せだと教えてくれたひとに、バーナビーはそっと身を屈めて唇に触れてやった。なにせ言葉よりそうする方が、回復すると分かり切っているので。とたんに元気になった虎徹にくすくす笑いながら身を寄せて、もうすこししたら出勤しましょうね、とバーナビーは言った。



 虎徹とバーナビーがアポロンメディアのエントランスを潜ったのは、時計が十一時三十分を示した頃だった。太陽はすでに登りきっていて、日差しが好き勝手に街並みを照らし出している。本当なら十一時には出社しようと思っていた時間が三十分もずれ込んだのは、その日差しを見たバーナビーが日焼け止めが切れたから買わなければいけない、と頑なに主張したせいだ。バーナビーは現役モデルと比べれば数は少ないものの、それでも結構な数の雑誌の表紙を飾る存在である。家の中では虎徹の服をおさがりだと言って平気で奪って袖を通すくせに、こと肌に関しては神経質なくらいに気を使っているのが日常だった。
 そんなことを気にするなんて男らしくない、と言った主張にバーナビーが小馬鹿にした表情で口を開いた時点で勝敗は決まっていたのだが、本日の決め手は『そんなことばかり言っているから楓ちゃんに変態とか言われるんですよ?』だった。男らしくないうんぬんと娘からの罵倒がどう繋がって行くかを虎徹は全くもって理解できないが、大体からしてバーナビーがバディの小言に対し、相手を小馬鹿にした表情で口を開くのは、勝率九十パーセントがはじき出された時だけだ。それ以下の時はもっと、拗ねるか諦めるか溜息をつくかのパターンに分かれ、半分くらいの確率で口応えもせずに虎徹の言うことを聞き入れるのである。
 かくしてドラッグストアでお気に入りの日焼け止めをいくつか買い込んだバーナビーは、ゆったりとした足取りで虎徹と共にエントランスから奥のフロアへと足を進めつつ、手の甲につと指を這わせて首を傾げた。
「うん、大丈夫そうです」
 それが汗で塗った液が流れてしまわなかったことへの満足感なのか、はたまた肌に合わなくて赤くなったりかゆみが出なかったことを喜んだ呟きなのか、虎徹には察してやることができなかった。できるのはせいぜい、お前の言いたいことはぜーんぶ分かってるぞ、と言いたげな笑みを浮かべてよかったなと囁いてやることだけで、そうするとバーナビーは信頼と好意を込めた眼差しでじっと虎徹を見つめ返し、はにかんだ様子すら見せながらはいと控えめに囁きを落とすのだ。ほんとうに分かってやれないことに胸がちくりと痛みを発するが、虎徹が分かっていないことにバーナビーは気が付けないので、お互い様なのだろう。
 ひとは全てを分かり合えない。だからこそ、分かち合える喜びがある。なんの気なしに伸ばした手でバーナビーの頭をもふもふと撫でながら歩き、虎徹はふとした違和に気がついて意識の糸を張り巡らせた。殆ど同時にバーナビーも纏う空気を張り詰めたものに入れ替え、それでいて表情にも足取りにも変化を見せないまま、パスの必要な入口ではなく、受付で微笑む女性の元へ方向転換した。切り替えのタイミングから言って、バーナビーは己でも違和に気が付き、そしてほぼ同時に虎徹の意識も変化したことを感じ取ったからこそ、予感や誤解ではなく、明確な違和があると認識したのだろう。片方だけに頼り過ぎない信頼が嬉しい。営業用の笑顔に三割増し、本物の喜びを溢れさせて、受付の女性がバーナビーにおはようございますと告げる。続いて虎徹に向けられた視線にも溢れるばかりの好意があったが、なにかを思い出すように瞬きをする仕草を、ヒーローはどちらも見逃さなかった。
 なにかありましたか、と柔らかに響く声で問うバーナビーに、受付の女性はしっかりと頷いて口を開く。
「ヒーロー事業部のロイズ総合部長より、お二人が出社しましたら電話で連絡を入れるようにとの指示が出されています。受付に」
「……俺たちにじゃなくて、ですか?」
「はい。エントランスに姿を見せたら直通でワンコール鳴らすように、と。……お二人の、どちらにも連絡が取れないとのことで、大変お困りの様子でした。お待ちになっている方もいらっしゃいますし……」
 二人は同時にPDAに目を落としたが、手首に巻きつくバンドはしんと静まり返ったまま、未だ起動する様子を見せなかった。携帯電話が通じない場合はこちらに連絡が入るので放置していたのだが、まさか、と思った二人はほぼ同時に指先でPDAを叩き、落としていた電源を復活させようとする。しかし、なんの反応もしなかった。え、あっ、と声をあげて狼狽する虎徹の隣で、バーナビーは冷静に故障の二文字を心に浮かび上がらせていた。まさか同時に故障するとは思っていなかったせいで、虎徹のスマートフォンの充電切れを放置して出社したのが仇になった。
 これではデスクに置いてあるバーナビーの携帯電話は、ロイズからの着信履歴でいっぱいだろう。経理の女性が気がついて、ロイズに告げてくれていればいいのだが。なんとも言えない表情で沈黙した虎徹とバーナビーにくすりと笑い、受付の女性はワンコールで電話を受けると、そのまま受話器を差し出してきた。
「はい。ロイズ総合部長ですよ」
「……おはようございます。鏑木・T・虎徹、出社しました。携帯は充電切れ、PDAは故障に今気が付きましたすみません!」
『はい、分かりました。おはようございます。バーナビー君も一緒だね? 昨夜は遅くまでお疲れさまでした。怪我はないと聞いているから、心配はしていませんでしたが……連絡は取れるようにしておきなさい』
 はあぁああ、と魂の底から息を吐き出すロイズの声は、憔悴しているというよりも呆れかえったそれだった。幾分安堵が混じるのは、まあ大体そんなことだろうと思いながらも、なにか連絡もできない騒動に巻き込まれてしまったのでは、という可能性が頭を掠めて行ったからだろう。このシュテルンビルトにおいて迅速に報道されない事件というのは少ないが、あるにはあるのだ。警察と二部リーグの網をかいくぐる誘拐事件、拉致事件、爆発事件に殺人事件。それらにヒーローが巻き込まれた場合は解決の代償として規模が爆発的に拡大し、被害が甚大なものになるのがお約束で、バーナビーも虎徹もそれぞれに『前科』があった。
 くだらない過失か、さもなくば事件のどちらかだと思っていた不安が被害のない方で解決した故の安堵なのだろう。すみません、と心から謝る虎徹にそれ以上の不満と嫌味が叩きつけられないのは、相手の寛容な諦めと諦めと諦めと諦め、諦めと慣れと諦めと、連絡を取ろうとしていた用件が控えているせいに他ならなかった。ロイズに胃薬が結構な頻度で処方されているのを知ってから、虎徹だってそれなりに悪いとは思っているのだ。深く長く、降り積もった感情を押し流して行くような溜息が電話の向こうで吐きだされ終え、さて、と気を取り直した呟きで会話が再開されていく。
『PDAは仕方がないから、すぐ斎藤くんに修理を依頼するように。それより、君たちにお迎えが来てるから、彼女と一緒にトレーニングルームへ移動するように』
「……はぁ、分かりましたけど。……彼女?」
『対策はしっかりしてあるそうだけれど、身の危険を感じたら、即座に対処するように。どんな場合でも正当防衛が成立するから。バーナビー君にもそう伝えておいてね』
 いささか物騒にすぎる言葉は、護衛を視野に入れたものとは違っていた。今から会うであろう、その人物が虎徹たちに危害を加えようとした場合。それを想定して放たれた言葉だ。なんだかきな臭いものを感じながら虎徹が通話が切れた受話器を受付の女性に手渡すと、隣で会話を聞いていたバーナビーが唇を不機嫌に結んで視線を向けてくる。帰りたい、だ。言わなくても分かる。うん、駄目、と笑顔で頷くことでバーナビーを場に押し留めると、うつくしい青年は腕を組み首を傾げ息を吐き視線を彷徨わせると、唇を薄く開いてふう、と息を吐きだした。なにをしても絵になる青年は、その実、どうすれば観賞用に相応しいかを分かって行動することがある。
 エントランスから入ってくる社外の人間、これから営業や商談に向かおうとする社内の人間、同じフロアに居た者の選別などせず等しく意識を奪って魅了してみせた青年は、スッキリした、と言わんばかりに微笑みを深くした。元々バーナビーは、そこに居るだけで注目を集める存在である。元から向けられていた視線を奪って魅了する芸当など、息をするのと同じくらい簡単に違いない。動機が腹いせでなければ特技として褒めてやってもいいのだが、虎徹はやや白い目を向けて嘆かわしげに沈黙する。だってこれは、楓が腹いせにティッシュボックスを掴み、床に叩きつけて機を紛らわすのと同じレベルの行為なのだ。
 自分の魅力を悪用するのやめなさい、と窘めた虎徹に、バーナビーは平然と考えておきますと告げ、こちらに向くいくつかの視線に笑みを返して手を振った。きゃあ、と嬉しげなさざめきがエントランスの空気を華やかに揺らす。浮かれた柔らかな、緩んだ空気が漂っていたからこそ、虎徹はいち早くそれに気がついた。エントランスに設置されたいくつかのソファがある辺りから、ひとりの少女が俯き加減に歩いて来る。足取りは重くはなかったが、ゆっくりと辺りを警戒していて、決してヒーローに近づいて行く浮ついた気配を感じさせることがない。虎徹はバーナビーの腕を軽く叩き、歩んでくる少女に向かって足を進めた。無言で後をついて来るバーナビーの、珍しくも感心したような溜息が背をむず痒くさせた。

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