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 体中くまなく痺れているのは、長時間同じ体勢で居たからにプラスして、毒ガスなんてものを吸い込まされたせいだった。毒の成分がどんなものかを考えることは止めにして、シレーネは未だ目を閉じたまま、床に手をついて上半身を持ち上げる。考えたってどうせ分からないし、どんな毒であっても怖くなるだけだ。弱々しい息を何度か繰り返し、シレーネはやがて大きく、肺まで息を吸い込んだ。ところで、意識が消える直前に、なにかすごく驚くような、嬉しいことがあった筈なのだが、なんなのだろう。死から回復したばかりの体はにぶく動くばかりで、記憶も不鮮明のまま、よく思い出せはしなかった。
「……あ、れ?」
 ふと気がついたことがあって無警戒に目を開けば、そこは直前までシレーネが居た場所と、大きく異なっていた。豪奢な無人ホテルの廊下などではない。白く塗りつぶされた壁と床があるばかりの、真四角の不思議な部屋だった。天井の四方には、投影機を兼ねた監視カメラが設置されていて、壁一面にスピーカーセットが埋められているのは見て分かる。床にある仕掛けをシレーネは上手く理解しなかったが、やはり映像装置の一種が埋め込まれているように見え、首をひねって考える。もしかして、あれは、感覚まで再現する幻影のような場所だったのではないだろうか。装置が完全に沈黙して動かないのを見るだけに、故障したが壊れたのだろうが、シレーネにそんなことをした記憶はない。記憶はないのだが、しかし、力を思い切り使用した時独特の倦怠感が体に残っていて、思わず溜息をついてしまった。無意識のNEXT能力発動ほど、他者にとって危険なことはない。意識的なストッパーが外れ、能力が全開状態で発動するからだ。まさか死人を出してはいないだろうか、とシレーネが顔色を失った瞬間だった。ガチ、と独特の音。銃の檄鉄を起こす音だった。シレーネは無感動に、音のした方角に体を向ける。恐怖はなかった。
「……君はなにをしたのかね?」
「なにって言われても」
 溜息をつきながら、現れた男を観察する。どこにでもいるような中肉中背の、不健康な顔つきの男だった。研究ばかりで部屋にこもり、外へ出かけることなど滅多にないのだろう。ピクニックやハイキングとは最も縁がなさそうに見える男は、中途半端になれた仕草で銃口をシレーネに向けていた。恐らく、警察などで流通している正規品の銃だ。よく手入れがされているので、過度の暴発の危険性はない。私物だとは思えないので、男にシレーネの殺害を被害者の数だけ求めた者から借りたと思うのが自然な流れだった。銃口をじっと見つめ、シレーネは落ちつき払った態度で首を傾げる。自分で扱うことはないが、シレーネの隣にはかつて、その武器を専門に扱う男が居た。だからこそ、分かる。シレーネには当たらない。距離もあるし、なにより立ち姿が安定していないから、撃てば体は揺らぐだろう。堪えるだけの筋肉もなさそうなので、逃げ出す好機はまだ十分にありそうだった。男の質問を頭の中で転がしながら、シレーネはやけに薄暗い周囲に、今更眉を寄せて訝しんだ。
「なにって、言われても。記憶が無いんだけれど……」
「男が居ただろう」
 一向に部屋の入口から距離を詰めてこないのは、もう一人の存在を警戒してだと、さすがにシレーネにも分かった。しかし、男と言われても。心当たりが全く無くて首を逆側に捻ると、忌々しそうな舌打ちが響いて行く。そうしたいのはシレーネの方なのだが。まなじりを険しくして睨みつければ、男は銃口を見せつけるように揺らし、シレーネに告げた。
「君はキエフと呼んでいたようだ。君が殺した男の名だろう。特徴も一致しているようだったね? ……あれはどうした。どこへ行った。答えろ」
 震える指が引き金に掛かるのを見ても、シレーネの中に恐怖は生まれなかった。たぶん、あれは当たらない。息を吸い込む。
「幻覚でも見たんじゃない?」
 乾いた音。放たれた銃弾はシレーネを大きくそれ、床にちいさな穴をあける。即座に立ちあがったシレーネが走らなかったのは、思っていたより身体の回復が遅かったからだ。短時間に何度も死と再生を繰り返したせいで、シレーネが思っているより、動ける状態になっていない。忌々しそうにシレーネを見つめながら、男がゆっくりと室内に入ってくる。銃口は体の中心に向けられていた。今度は当りそうだ、と思うが、それでも恐怖は感じなかった。死ぬことは別に、怖くない。前からそうだった。今でも同じことだ。痛いのは嫌だけれど、死ぬことくらい、別にどうという訳ではないのだ。シレーネの体は死に続けることを許さない。それでも、背をぞっと駆け抜ける感情がひとつだけあった。喉を震わせながら、息を吸い込む。
「そんなことより、『私の質問に答えなさい』」
 電気のスイッチを入れるように、能力発動は一瞬の意識の切り替えで叶えられる。燃える炎のように青白い光をたゆたわせて、シレーネは言葉に抵抗しながらも銃口を下げない男に、腹の底から怒りを叩きつけた。
「あの女の子と! 女の子を誘拐しようとしてた男たち! 彼らになにもしてないでしょうねっ?」
 女の子の、恐怖に塗りつぶされて助けを求めていた瞳と、シレーネが撃たれた瞬間の悲鳴を思い出す。怖かっただろうに、シレーネを助けようと手を伸ばしてくれたことを覚えている。あの男たちは誘拐未遂をしているので無事に関してはどうでもいいが、女の子だけでも助けたかった。最悪を想定しながら問うシレーネに、ぎこちなく、言葉が返される。
「部屋に、閉じ込めてある……無事だ」
「それは命があるっていう意味ね? 怪我させてないわね?」
 油が切れた人形のように頷く男を冷たい目で眺め、シレーネはそっと安堵の息を吐きだした。怪我もなく、命に別状がなければとりあえず安心できる。男と女の子が同じ部屋に閉じ込めてあるらしき事実は別の不安を胸によぎらせたが、ひとまず、それは考えない。男はシレーネの正面で歯を食いしばって立ち止まり、まっすぐに銃口を突き付けた。
「人心を操る化け物がっ……!」
「……私一人の為に、ここまでする……あなたたちの方が化け物じみてると思うけど」
「黙れっ! 殺人犯ごときが……!」
 あ、銃ちょうだいって言っておけばよかったんだ、とシレーネが思うより早く、引き金が引かれる。銃声は二度響いた。肩を押さえて倒れ込んだシレーネのすぐ目の前で、脚を撃ち抜かれた男が、信じられないという顔つきで部屋の入り口を振り返った。誰だ、と誰何の声に、檄鉄を起こす音がした。
「……よし、腕もやっとくか」
「ちょ、駄目ですよっ! 虎徹さん! 早く来てこのひと止めてくださいっ!」
「今行く! ったく、防火壁全部下ろしやがって。壊して来るので一苦労だ……あー、無事、じゃないな……」
 青白い燐光をまとい、現れたのは三人だった。誰もヒーロースーツらしいものを着ていない、全くの私服だったが、そちらの方がシレーネには馴染みがある。だからこそ、息を吸い込んだ。肩の痛みを、すこしだけ忘れる。
「……カナート?」
「なんだ……そうだな、公平に肩も撃っとくか。ちょっと待て」
 近距離であるのに狙撃銃で男を狙うカナートの目は、ひどく真剣なものだった。わーっ、と叫び声をあげながらカナートをはがいじめにして、虎徹は駄目だからなっ、と言い聞かせる。
「落ち着け! なにが公平だっ、なにが!」
「シレーネの肩を撃っておいて、この男の肩は撃たれなくていいだと? 貴様は馬鹿か。なにを考えているんだ」
「アンタがなに考えてるんだですよっ! ちょ、この人全然冷静じゃなかった! 防火壁がんがん蹴って舌打ちしてた時点で不機嫌なのは知ってたけど……! シレーネさん、すみません! どうにかしてください!」
 前後をバディに挟まれて阻まれたカナートは、とりあえずこれを撃ってからにすればいいか、という思考に辿りつきかけているらしい。どこを撃てば適度に致命傷から外れるかを呟きながら考えているのを聞いたバーナビーが、悲鳴のような声でシレーネを呼ぶのに、全身が脱力する。
「それではとりあえず、あの……」
 これを、どこか遠くのカナートが見えないところまで連れて行ってくれないでしょうか、とシレーネは脚を撃たれた痛みで立ち上がれない男を、指差して告げた。撃ったことはあっても、撃たれたのは初めてだったのだろう。失血や痛みよりショックで青ざめる男に慌てて駆け寄り、確保した虎徹が男を担ぎあげるようにして部屋を出ていく。医務室ですね、と呟いて見送ったバーナビーは、思い切り舌打ちをしたカナートにひきつった表情を見せ、そーっと距離を取ってから見守る視線を向けてくる。邪魔をしないと分かったのだろう。しぶしぶ狙撃銃を背負い直したカナートは、未だ座り込んだままのシレーネに目を向けた。目の前にしゃがみこむと、不機嫌そうに眉を寄せ、撃たれた肩を睨みつける。
「シレーネ」
「は……はい?」
「撃たれるのに、間に合わなくて悪かったな」
 腕組みをしながら首を傾げるその姿は、裏路地にたむろする不良に酷似していた。相変わらず人相悪いね、と呆れた声に、カナートの手が伸びてきて鼻をぎゅっと摘んで捻る。ちょっと、と声をあげて抗議しようとして、シレーネは息を吸い込んだまま、吐き出せなくなる。
「……カナート」
「ん?」
 呼ぶ声が震えたことが分かっただろうに、カナートの返事は記憶の中と変わらなかった。困ったように、それでいて温かな笑みを潜ませ、そっと言葉を促して来る。しゃくりあげるように息を吸い、シレーネはぎこちなく、言葉を囁いた。
「ひさしぶり……」
「ああ。……ちゃんと助けてって言ったな?」
「うん」
 あたたかい手が、シレーネの頭をぽんぽんと撫でる。
「助けに来た」
「……うん」
「すぐ行かなきゃならないが、あまり人様に迷惑をかけず、いいこにして……おい、こら。シレーネ」
 撫でた手は離れず、そのままシレーネの頭を胸へ抱き寄せる。
「泣くな。なんでお前はすぐ泣くんだ」
「……カナートは、なんで居るの?」
「だから、助けに来たと言っただろうが! お前を!」
 話はちゃんと聞いて理解しろ、と怒られて、シレーネは思わず、すこしだけ笑った。うん、と頷く。何度も、何度も頷いて、シレーネはありがとう、と言った。よく言えましたと褒めるよう、くしゃくしゃに頭を撫でられる。零れた涙を、カナートは怒らなかった。



 ジャスティスタワーの最上階。通常では登れぬ女神像の上に立ちながら、シレーネは暗闇に沈む街を眺め、やや落ち込んだ溜息を吐きだした。その背をすこし離れた場所から見守るヒーローたちは、少女の体がぐらついて落ちはしないかと心配で仕方がない顔つきだが、シレーネは一向に気がついた様子がない。今もいくつもの視線の先でくるりとターンをしたシレーネは、像の上の不安定な道筋を、小走りに虎徹たちの元へと戻ってくる。わ、わぁっ、と慌てた声で誰もが手を差し出しかけたが、それより早く、キースの巻きあげた風が、シレーネの体をやんわりと包みこみ、保護してしまう。そんなことしなくてもいいのに、と不思議そうな顔で戻ってきた少女に、キースはもう、年下として接することに決めたのだろう。腰を屈めて顔を覗き込み、駄目だよ、と言い聞かせる響きは穏やかだった。
「私たちは『初代』に君のことを頼まれたのだから、君に怪我が合ってはいけない。君も、危ない真似はしていけないよ。分かったね? 分かったなら、お返事だ!」
「……はぁーい?」
 自分より明らかに年上だと分かっている相手を堂々とこども扱いするキースもキースだったが、よく分かっていないようでありながらも返事をする、シレーネもシレーネだった。『初代』が、ある意味過保護にシレーネを守っていた理由がよく分かる。別に落ちたりしないのになぁ、とぞっとする高さを怖がる様子もなく下を除きこむ仕草に警戒心はなく、それでいて、落ち込んだ様子も見られなかった。シレーネを保護してすぐ、『初代』たちは姿を消した。NEXT発動の光を蛍火のよう、鮮やかに空気に散りばめて、その輪郭を崩して消えてしまった。シレーネが会うことが出来たのはカナートだけで、会話は多いものではなかった。交わされる言葉はほぼ全てがシュテルンビルトの現状と、その原因をシレーネに教えるもので、良いからちゃんと対処しろよ、と怒られた少女は唇を尖らせていた。二人は、ありきたりな再会の言葉も、別離の言葉も交わさなかった。
 その代わりのように、最後まで繋がれた手は、離されなかった。カナートの体が光に崩れ始めても、まっすぐな目で視線を交わし合い、どちらも声を響かせることをしなかった。どちらにしても、今生の別れであることは知っていただろうに。カナートはシレーネに泣くなよ、と笑い、少女は微笑むことでそれに応えた。それからすぐ、カリーナたちがジャスティスタワーに到着し、ヒーローたちはシレーネの得た情報を元に誘拐されたとみられていた少女と、閉じ込められた男の無事を確認して、街を一望できるこの場所に来た。シュテルンビルトが見たい、とシレーネが言ったからだ。私が知ってるこの街はまだブロンズステージだけで、こういう風に立派になった街は見たことがないから、と。全てが影に沈められている街は、黒に塗りつぶされ、建物の輪郭すら目をこらさなければ分からない。普段は眩いばかりのネオンは、遠く遠く、メダイユ地区を離れれば見ることができたが、手の届かない星のようで、決して身近な生きた明りとは感じられなかった。派手にやっちゃったなぁ、と溜息をつき、シレーネは胸に手をあて、そっと目を閉じた。
 カナートは、シレーネに現在街が闇に沈んで住人は眠り、機械は全て停止していると告げた。影ではなく闇と言ったのは、大まかな現象が同じであればいいと思った為と、キエフの説明をする時間が残されていなかったのだろう。今も守護してくれている事実を知らないのであれば、納得するだけの言葉が無ければ混乱を招くだけだった。だから、それを知っているのは虎徹とバーナビーだけなのだが、閉じていた目を開いた少女は、キエフがどこかに居ることを知っているようだった。すこし寂しげに笑うと、シレーネはトントン、と足を鳴らして立ち姿を整え、舞台役者が観客にするように、誇り高くのびやかに、うつくしい笑みを浮かべて一礼した。
「今回は本当に、巻き込んでしまってごめんなさい。お詫びにもならないけど……ちゃんと街は元に戻します」
「……どうするつもりなんですか?」
 シレーネの能力の効果範囲は、声の届く限りである筈だ。制限限界を突破しているとは言え、メダイユ地区はあまりに広い。たとえキースに風で声を拡散してもらったとしても、限度があるだろう。なにか無理をするつもりなのでは、と不安がるバーナビーに、シレーネは大丈夫、と嬉しげに笑った。
「歌います!」
「……歌?」
 いぶかしげに虎徹が問い返し、そうしてからあ、と声をあげて目を瞬かせる。シレーネは、『初代』である時、なんと呼ばれていたのか。歌姫、と虎徹はその名を呟く。
「……久しぶりに歌うから、あんまり上手くないかも知れないけど……あんまり笑わないで、聞いていてね?」
 清聴を求めて唇に指を押し当てはにかんで笑い、シレーネは大きく息を吸い込んだ。前へ、一歩だけ踏み出す。
『――ねえ、私を思い出して』
 かすかに震えながら放たれた一音が風に乗り、シレーネの全身が青白く染まる。暗闇に染まった街を愛しげに眺め、シレーネが片手を差し出した。おいで、となにか誘うように。
『さようならを告げた日の、私を。やさしく、思い出して……時々でいいから、思い出して欲しいの』
 変化は、劇的に現れた。調子の悪いラジオのような音を一瞬だけ奏で、ジャスティスタワーの照明が復活する。そびえ立つ女神像をライトアップする光に照らされ、シレーネはそこが華やかな舞台であるかのように、歌う。
『どうかお願い。そうすると約束して……?』
 感傷的な歌詞と、美しい旋律の歌だった。有名なミュージカルナンバーでもある。バックダンサーから、トップ歌手へと踊りあがって行く為の曲。薄闇の中から、光を浴びる為の歌。
『私たちは一度も口にしなかった。私たちの想いが枯れることなく、海のように変わらないものだなんてこと。……でも、今でも覚えていてくれるなら、すこしだけ立ち止まって、私のことを想って欲しいの……』
 街の明かりが灯って行く。暗闇に、ぽつりぽつりと、息を吹き返して行く。そのひとつひとつに語りかけるよう、静かに清らかに、歌声が響いて行く。
『私たちが分かち合ったものや、一緒に見たものを思い出して……? 悔んだりしないで。ああすればよかっただなんて』
 街を飲みこんだ影が、光の中へ消えていく。メダイユ地区と、他地区との境界線が消え、眩いネオンが姿を現した。
『あの日々を思い出して? あの頃を振り返ってみて!』
 人の息吹がよみがえって行く。時間が動きだし、夜から朝へと変わろうとしていた。午前の五時過ぎ。すでに寝坊をしたと慌てて家を飛び出す者もあるだろう。目ざましが鳴りもせず、いつものように起き上がれなかったことを訝しみながら。いつも通りの一日が始まると、疑うことなく信じながら。
『私があなたを思い出さない日なんて、一日としてありはしないの』
 ヒーローたちは、ただそれに聞き入った。
『花はしぼみ、夏の果実はしなびていく……花にも果実にも、そしてひとにも。輝きを放つ季節というものが、あるの』
 光が。朝日がまっすぐに線を描きながら、シレーネの姿を照らし出していた。
『……でも、どうか約束して?』
 青白い輝きが消えていく。
『ときどきは、私を、思い出すと……』
 最後の一音まで歌い終えて、シレーネは肩で大きく息をした。眼前に広がる街は、早朝を迎えて慌ただしい。なにせ、たった今、一斉に起き出したばかりなのだ。この時間とは思えない活気に溢れた人々の声が、街の空気をざわめきで揺らす。ヒーローたちを振り返ったシレーネは、己の成果に満足をした顔つきで、どうかな、とばかり首を傾げてみせた。すこしばかりの沈黙の後、歌姫には相応しく、言葉ではなく拍手が送られた。シレーネは嬉しそうに笑い、静かに聞いてくれていたヒーローたちに、もう一度お辞儀をした。



 シレーネが刑務所の最奥の特別房、NEXT犯罪者の中でも特に凶悪と指定されたものが幽閉される住み慣れた一室へ戻ったのは、本来の予定より五十三時間が過ぎた頃だった。元々、二十四時間にも満たない開放であったことを考えれば、随分長く外に居たことになる。疲れた体をくったりと簡素なベッドに横たえながら、シレーネは己を出迎えた看守たちの、泣きそうに安堵した顔つきを思い出す。彼らはシレーネが外で巻き込まれた事件をニュースで知り、もう戻って来れないのではないかと胸を痛めてくれていたのだ。この場所はシレーネを閉じ込める為のものだが、それでいて、外の悪意から完全に守る為の檻でもある。彼らは番人ではあるが、同時にシレーネの守護者のような気持ちで、刑期が『その死の時まで』とされた少女と、長い時を付き合ってくれているのだった。中には、シレーネがヒーロー時代、助けた市民の血を引いている者も居る。シレーネが犯したのは確かに罪であるが、それでも罪だけではなかったと、知る者は残っているのだった。温かな気持ちで眠る為に目を閉じ、シレーネは事件のことをすこしだけ考える。
 朝を迎えたシュテルンビルトを眺めた後、年若いヒーローたちには限界が来たのだろう。前日も出勤で疲れ切った体はなによりも睡眠を欲していたらしく、眠りこんでしまった少女らを仮眠室に運び、シレーネは迷いながらも警察署へ連絡を入れた。自分が無事であること、急に行方をくらませた理由、犯人を確保してあること、現在はヒーローたちと共にあること。伝えるべきこと、伝えなければいけないことは多く、混乱して上手く言葉を紡げなかったシレーネを、助けてくれあのはヒーロー管理官の男だった。ユーリ・ペトロフですとシレーネに名乗った男は、てきぱきとした口調で少女の説明を補足し、警察の体制の不備を叱り、彼女の安全が本当に確認できるまでは司法局とヒーローがその身を確保し守ります、と言って電話を切ってしまった。ヒーローたちの歓声はユーリの英雄的な行為をたたえるもので、これから巻き起こる混乱や騒動を知りながら、すこしも煩わしさを感じさせないものだった。
 それから、シレーネの記憶はすこしあいまいだ。一段落が付くまでは起きていようと思ったのだが、メダイユ地区全域に放射した能力の疲労が激しく、いつの間にか意識を失っていたのだ。目覚めたのはその日の昼過ぎで、ヒーローたちに割り当てられた仮眠室のベッドの中だった。起きて身支度を整えるとすぐ、シレーネはトレーニングルームに連れて行かれ、すでに忙しく動き回っていたヒーローたちと対面した。改めてシレーネがお礼の言葉を口にするより早く、彼らは少女の体調を心配し、警察に犯人を引き渡したことと、黒幕は動機を含めて調査中であること、そう時間はかからずに特定まで辿りつくであろうこと、そしてシレーネの身の安全が確認できるまでは一緒に居て貰うことを告げ、早朝から流れっぱなしだというニュースを見せてくれた。報道規制がかけられているのだろう。ニュースは『初代』のこともシレーネのことも告げなかったが、警察の上層部に所属する男が犯罪組織と繋がりがあったことを告げ、組織の腐敗を指摘しながら、誘拐された少女の無事を喜んでいた。少女はやや記憶に混乱が見られるとされ、しばらくは入院するという。それを聞いたシレーネは、溜息をついて唇を噛む。
 シレーネの存在は、明るみに出て良いものではない。だから、あの少女の『シレーネが撃たれたのを見た』という記憶は、誘拐の恐怖と混乱が招いた幻覚として処理されることだろう。少女の将来を思えば、それでいいのかも知れない。精神科の先生とかがうまーく処理してくれればいいんだけど、と呟くシレーネを見るヒーローたちの視線は物言いたげだったが、本人が納得しているのでいれば、仕方がないと思ったのかも知れない。特にそれについての意見が交わされることもなく、黒幕とされた幹部の男が捕らえられるまでの時間を、シレーネはひたすら穏やかに過ごしていた。なにをしていた訳ではない。強いて言えばカリーナやパオリンがひっきりなしに持ってくるお菓子を口にしては笑い、楓やエドワード、イワンやバーナビーといったアカデミーの面々が繰り出す質問に答え、ネイサンやアントニオの気遣いに安堵しながら、虎徹やキースの教えてくれる捜査の進展状況に頷きを返していた。トレーニングルームから一歩も外に出る訳にはいかなかったので、本当に、それくらいしかやることがなかったのである。
 捕らえられた幹部の男は黙秘を続けているが、必ずしかるべき裁きを受けさせる、とユーリは約束してくれた。それで、シレーネには十分だった。あとの顛末を、シレーネは知らない。無事が確認されたとして、刑務所への護送が決まったからだ。けれども、失意を感じる結果にはならないだろう。シュテルンビルトには今でもちゃんとヒーローが居て、司法局の者たちと協力しながら、警察と共に街の平和を守ろうとしている。警察も今回のことで反省するだろうし、心配することはなにもないように思えた。ふぁ、とあくびをして、シレーネは目を閉じる。これでもう絶対に、死ぬ時まで外には出られない。けれどもそれが、なんだと言うのか。出歩いて事件を起こしてしまうくらいなら、箱の中に閉じこもっていた方がいいように思えた。意識がゆっくり、まどろんで行く。眠りはすぐ、訪れた。



 真夜中に、ふと、目を覚ました。



 なんだか随分長く眠っていた気がして、シレーネの意識はぼんやりとしていた。あの事件から何回寝て起きたのかも、よく思い出せない。現役ヒーローたちと言葉を交わした日は遠く、数か月前のように思えたし、数年前のようにも感じられた。なんの変化もない箱庭の日々は、日付と時間の感覚を摩耗させ、それらをどうでもいいと思わせてくれる。ぐーっと腕を伸ばして息を吸い込み、シレーネは目を瞬かせた。真夜中だと感じたのは、青白い月の光が部屋に満ちていたからだ。しかし、光は明るすぎ、そして優しすぎた。思わず高い位置にある窓に目を向けるが、そこから差し込む光の筋は見えなかった。それなのに、光は部屋を明るく、照らし出している。シレーネは、なぜか、笑ってしまった。口に手をあて、肩を震わせて、くすくすと笑いを響かせる。その時が来たのだと、ようやく分かった。
 ベッドから立ち上がる。その手をそっと、ぬくもりが包んだ。一歩、足を踏み出す。
『シレーネ』
「うん」
『行こう。皆、待ってる』
 うん、とシレーネは囁いて歩き出す。遠くから、泣くな、と怒る声がして、シレーネは笑った。やがて、青ざめた月の光のような輝きが、部屋から消える。一粒落ちた涙の雫だけが、シレーネがそこに居たことを証明する全てだった。



 ビルの谷間を、青白い光が駆け抜ける。街頭テレビはこぞって彼らの活躍を映し、市民は歓声をあげてヒーローたちを応援していた。今日の舞台となったのは、商業ビルの立ち並ぶ一角で、彼らが追うのは身軽な窃盗団の者たちだった。元は曲芸団だった者が多く所属する窃盗団は、NEXT能力もないのにビルをぽんぽんと飛び回り、予測しにくい動きで逃げ回りながら、巧みにヒーローたちの追跡をかわしている。彼らの多くは観衆の目を意識した動きが体に染みついているから、一つ一つの動きが見事で美しく、完成され洗練されたものとして目に映る。こうなると、俄然ヒーローTVは娯楽としての色を強く帯びてくる。元より人的被害のない事件だからか、寄せられる意見の中にはもっと窃盗団の動きを追って欲しいというものまであって、それをうっかり聞いてしまったヒーローたちは、なんとも言えない気持ちでげっそりと溜息をつく。
 ねえこれ、もしかしてまたどっかの手引きとかがかかった事件じゃないのよね、とうっとおしげに疑ったのはブルーローズだったが、ヒーローたちは全員が同じ意見でうろんげに首を傾げ、考え込む。引き起こされる事件の殆どが、人為的なそれであった時期はすでに終わっている筈だ。しかしぐんぐん上がって行く視聴率と、夕方から夜にかけての時間帯、そしてパフォーマンス化している取り物劇は彼らにそれを思い出させるのに十分で、自然にやる気が低下していく。でも逃がしちゃってまた窃盗事件が起こっても大変だよねえ、とのんびりした口調で言いながらビルからビルへ飛び移ったドラゴンキッドは、指示を仰ぐように仲間たちを見回した。一カ所に誘導されていたのか、自然と集まってしまったのかは分からないが、かなりの広範囲にばらけて追いかけていた筈なのに、軽く視線を動かすだけで全ヒーローの姿が確認できた。やっぱり、なんとなく、仕組まれている気がした。視聴率は現在、最高の伸びを見せているらしい。帰りたい、帰っていいですか、帰りましょうよ、とアカデミー組みの男たちがぶつぶつ文句を言いだすのを、楓がなれた風にしかりつけ、宥めているのが回線越しに聞こえてくる。姿は見えないが、近くにはいるのだろう。
 ともあれ、一カ所に追い詰められた窃盗団に、逃げ場はすでにない。大量ポイント獲得のチャンスではあるので、ヒーローたちはそれぞれに気を取り直し、青白い光で薄闇を照らし出して行く。一時間の使用制限も解けたワイルドタイガーとバーナビーも、タイミングを見計らって能力を発動させることだろう。辺りを何台ものヘリが取り囲み、スポットライトがまばゆく、ヒーローたちを照らし出す。彼方から、そして近くからもわっと歓声が上がり、お気に入りのヒーローを呼ぶ声がする。自然に笑みを浮かべたのは、誰だっただろう。気が付けばヒーローたちは楽しげに笑い、窃盗団は困惑に顔を見合わせる。きっと彼らには、分からないだろう。不意に胸にわきあがる、このくだらないくらい簡単な愛おしさを。
『さあ、見せ場よヒーロー! 準備は出来たわね?』
 それぞれから響く気合十分の声に、アニエスは満足したのだろう。行ってらっしゃい、と送り出す言葉に、力強く、ヒーローは応えて飛び出した。きっと今日も明日も、一週間後も一カ月後も、一年後も十年後も、こうしてヒーローは飛び出して行くに違いない。そこに己の姿がなくとも、シュテルンビルトにヒーローが居なくなる日は、きっとないのだ。『初代』が現れて以来、この街の住人が、ヒーローを失ったことなどないように。希望は今も、青白く輝いている。

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