虎徹は注意深く、現れた男を見つめていた。どこか舞台衣装めいたきらびやかな印象を与える軍服は、式典から抜け出してきたと言われても信じただろう。長身で、どちらかと言えば細身の男だったが、危険な印象が付きまとうのは瞳に冷めた印象があるからだった。駆けだそうとするヒーローに声をかけたのは、本当に場に留めることだけが目的で、手助けをするつもりはないのだろう。驚愕に染まったいくつもの視線を受けても、カナートの態度は変わらなかった。ゆったりとした立ち姿で腕を組み、虎徹たちを睨みつけるようにして佇んでいる。眩い金の髪だからだろうか。瞳の色は青く違えど、それはどこか、出会ったばかりのバーナビーを彷彿とさせる立ち姿だった。
この世の誰もを信頼していない、うつくしい獣のような。
「あの馬鹿の不手際に巻き込んで、すまないとは思っている」
言葉は感情を乗せられている筈なのに、ひどく義務的に響いた。唇をゆるめ、微笑む姿もただ見せかけだけのものだ。
「あれは昔から、ここぞという詰めが甘い。だからこういうことになる。もっと警戒しろと言い聞かせたのだが……あの記憶力鳥頭女。だから手綱も付けられず、一人で出歩くなと言ってるんだ。躾が甘いのではないか?」
「そう申されましても」
「お前が拾って来たのだから、責任を持って面倒を見ろと、俺はずっと言っていただろう」
視線をヒーローたちから外さないまま、カナートが話しかけていたのは己の背後の暗闇だった。言葉を聞き逃さず、苦笑気味に返事を響かせたのは落ち着いた、年上の男の声だった。
「ですから、変質者の人権は考えなくてもかまいません。出会ったら全力で撃退なさい。即座にですよ、と教えたのですが」
「……誘拐は変質者に含んでいいのか、考えたんじゃないのかしら。シレーネは、まじめな子だから」
「あれは真面目じゃない。ただの馬鹿だ」
たおやかな女性の声も続けて響き、二人分の足音が近づいて来る。闇は彼らを恐れるように、やがて姿を浮かび上がらせた。カナートの背を守るようにして立ち止まった男女は、それでいてずっと好意的な笑みを浮かべ、ごく穏やかにヒーローたちに向かって頭を下げた。
「こんばんは。このたびは、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。早急に事態収拾に努めますので、どうぞお許しください」
「……オーチェはいつも丁寧だな」
「カナートはどうしていつも上からなんですか」
しみじみと感心しきった様子で、挨拶をする女性を見つめて呟くカナートに、年かさの男が呆れた呟きで息を吐く。三人の中で一番長身で、最も年上に見える男だ。カナートと同じような軍服を着ていたが、落ち着いて見えるのは性格や浮かぶ表情の違いだろう。たしなめる言葉に、カナートはなにを言われているのか本気で分からないようで、あどけなく首を傾げた。
「上から? なにを言ってるんだ? コージュ」
「……喧嘩を売らないで、穏やかに話しかけて、協力を求めてくださいね、と言いませんでしたか?」
「喧嘩を売らないで、穏やかに話しかけて、協力を求めていただろうが。なにを言ってるんだお前は」
自らになんの非もないのに責められた理不尽を隠そうともせず、不愉快げにカナートは眉を寄せた。僅かに唇が尖っているのは、言われたことを実行したのに褒められもしなかったこどもっぽい不満だろう。しみじみと息を吐いて、コージュはもういいです、と囁く。
「それより、時間がありません。あと二時間を切っています」
「……間に合うか?」
「間に合いませんよ。でも、間に合わせるんです。分かったらさあ、交渉をお願いします。カナート」
不安げな男の肩をぐっと掴み、コージュはカナートの体をヒーローたちに向かって押し出した。危険物を押しつけられるかのように仰け反ったヒーローたちを嫌な顔で睨んだ後、カナートは肩の手に体重をかけながらふんぞり返り、腕組みをしながらコージュを見る。
「交渉はお前の役目だろう?」
「いえ、リーダーの役目ですよ、カナート」
「あぁ?」
心底嫌そうに問い返されても、コージュの穏やかな微笑みは変わらなかった。ぽんぽん、と肩を叩いてお願いしますね頼りにしていますよ、と囁き、カナートをしっかりと立ちなおさせて手を引いてしまう。男二人のやり取りを、ややはらはらと見つめているオーチェは、ヒーローたちに向かって申し訳なさそうに、もう一度そっとお辞儀をした。めんどくさいとばかり舌打ちを響かせ、カナートは仕方なさそうに口を開く。
「尋ねるが、この中で一番攻撃力が高いのは誰だ?」
「……その前に」
質問があるんですが、と手をあげたのはエドワードだった。サポーターである以上、ヒーローに対して情報を得てくるのがエドワードの役目である。だからこそ彼らを庇うように一歩前に出たエドワードに、小走りで楓が並び、訝しげなカナートを見つめる。言ってみろ、と促され、エドワードは言葉を選びながら問いかけた。
「あなたは……俺たちが『初代』と呼ぶ、『帝王』カナート。その人で間違いありませんか」
「なにが言いたい」
「高圧的に話さないでください、カナート」
エドワードを睨みつけて問うカナートの口を、ぱんっと音を立てて後ろからコージュが塞ぐ。なにをする話せっ、とじたばた抵抗するのを苦もなく抑え込みながら、四十代半ばくらいに見える男は、あくまで穏やかに口を開いた。
「……ご質問は私が賜りましょう。コージュと申します。彼の名はカナート。彼女はオーチェ。私たちは……この時代だと『初代』と呼ばれるNEXTで間違いありません。確認を求めているのであれば、それぞれちゃんと本人です。あなたが聞きたいのは、死んだはずの私たちがなぜ、ここに居るのか。ですよね?」
「はい。あの……大丈夫、っすか」
「心配されていますよ、カナート。後輩の前で醜態を晒さないでください」
私が話し終わるまで預かっていてください、と暴れるカナートをオーチェに押しつけ、失礼しました、と男は笑う。
「どうぞお気になさらず。……時間が残り少ないもので、手短に説明します。ごくごく珍しい能力ですが、触れた対象者を、未来の本人と入れ替えるNEXTが居るのをご存知ですか?」
「……過去から来た本人だって言いたいのか?」
「私たちは」
疑わしげなエドワードの問いに、そっと言葉を添えたのは二十代半ばに見える女性だった。紹介が確かなら、時を停止させる能力を持つオーチェは、意を決したように息を吸い込んだ。
「長く生きられないことを知っていました。寿命を自ら削る真似をしたこともあるけれど……早晩、殺されることを分かっていたからです。シレーネに残した映像をご覧になりました? 私たちは、あの映像を残した翌日から、この場所へ参りました。察した方も居ることと思いますので、言葉を濁さず申し上げましょう。あの時、私たちは襲撃されました。私たちは『初代を殺してそれに成り変わった、入れ替わりの能力を持つNEXTで、テロリストの一味である』ということに……されたもので」
「もちろんこれから逃亡するが、相手は現政府だからな……いつまで逃げられるかどうか。数カ月が限界だろうな。なあ、コージュ?」
「聞かないでください。結果は言いませんよ。……現状をどう楽観的に見ても、私たちは寿命を使いきって死ぬことは出来ないでしょう。それが分かった時点で、私たちはひとつの決断をしました。どうせ使いきれないのだから、残った寿命を有効活用しよう、と。……そこで出てくるのが、先程申し上げた未来と過去の自分を入れ替えるNEXTです。彼の能力にも制限はありますが、入れ替える未来に本人が存在していない場合、通常入れ替えることは不可能です。居ない訳ですから。それを可能にする裏技がひとつ。寿命を対価に、存在そのものを買うのです、一時間につき、十年。私が存在できるのは、二時間半」
カナートとオーチェも同じ時間だけ滞在していられますが、時間が切れれば存在が過去に引き戻されます。こともなげに告げられた事実はあまりに魔法じみていて、現実のこととも思えなかった。けれども嘘だとエドワードが否定しなかったのは、アカデミーの教育がNEXTの歴史を正しく伝えていたからである。『初代』と同時期に存在したNEXTに、確かにその能力を持つものが居た。能力名は『チェンジリング』。未来を知る存在引き寄せられる能力は、一定の監視下以外での発動を禁忌とされたものだった。禁忌を破った代償として、その男には死刑が宣告され、収容から二年後に刑が執行されていた。シレーネが捕らえられ、七年の時が経過した日のことだった。男は最後に、『初代』の力になれたことを心から嬉しく思う、と言い残したという。まさに今この時が、そうなのだろう。
エドワードは深く溜息をつき、彼の判断を待つヒーローたちを振り返ると、うん、と頷いてやった。
「この人たち、本物」
「最初からそう言っているだろうが」
「カナート、もうすこし静かにしていてくださいね」
喧嘩を売らないでください、と怒られたカナートは、本気で不思議がって首を傾げている。売ってない、と呟くカナートに苦笑を浮かべながら、コージュはゆるりと目を細めた。
「シレーネを、助けに来ました。ですが、私たちだけでは恐らく、力及ばない。……助けて頂けませんか?」
「それは、もちろん……かまわないけど」
戸惑いながら尋ねたのは、カリーナだった。
「どうして、そこまで出来るの?」
「……そこまで、とは?」
「なんでこんな未来まで、寿命削ってでも来て……助けようとするのかって聞いてんの」
少女らしい、まっすぐに放たれた疑問に、答えたのはカナートだった。なにを聞かれているのかすらよく分からない様子で、不機嫌にカナートは言う。
「仲間を助ける手段がそこにあるのに、お前はためらうのか? 仲間を……命がけで生き抜くための戦いに、背中を預けた仲間を救うのに、理由らしい理由が必要なのか?」
「私たちはね」
苛々と腕組みをするカナートの肩に、宥めるように指先を触れさせながら、オーチェは優しく笑ってみせた。
「世界の誰にも肯定されなかったの。私は、幸い、シレーネよりは両親に恵まれたけれど……家に迷惑をかけないように、なるべく穏便に、どこか遠くで死になさいといつも言い聞かされたわ。もちろん、自殺は醜聞になるから駄目だと止められた上で、いつも、なにか不幸な事故に襲われるように……願われた」
「俺たちもあのまま、軍にいたらとっくに死んでたな」
「NEXTだってバレた次の日、激戦が続く最前線に二人で移動になれば、どんなに馬鹿でも分かりますよね……」
幸い、カナートは己を守る攻撃手段を持っていて、コージュは、逃げのびるだけの能力を持っていた。攻守がちょうどよく合わさった二人は、力を合わせて戦いを潜り抜け、二度と軍に戻らないことを条件に退職し、シュテルンビルトへやってきたのだった。シュテルンビルトに来たのは、キエフが住んでいたからだ。NEXTの研究を続ける学者であったキエフも、ちょうどNEXT能力に目覚めたばかりだと知ったのは再会してからで、それからは三人でずっと、人目を避けて逃げていた。彼らの元にヒーローの誘いが来たのは、そんな折のことだった。軍の監視が続いていたのはカナートもコージュも知っていたので、特に居場所がバレている驚きはなかったが、初めて話を聞いた時は、ついにNEXTの合法的な公開処刑の遠回しな言い訳を考えついたのか、と思ったくらいだ。それくらい、社会はNEXTを排斥したがっていた。
気まぐれに呼び出しの場に行って話を聞けばようやく、それが本気で『ヒーロー』を作り出し、NEXTの希望となる為の計画であることを知る。ただの理想だな、とカナートは言い捨てた。荒唐無稽な夢物語ですね、とキエフは笑い、コージュはただ、真剣に考え込んだ。考えさせてください、と初めに告げたのはコージュだった。警察、司法局の代表、TV局やマスコミ各社の代表が集う場で、コージュは冷静に考える為の時間を要求し、カナートとキエフに囁くように告げた。この機会を逃せば、闇打ちされるか事故に巻き込まれて殺されるか、恐らくはもうどちらかしか道が残っていません。それは二人とも、分かっていると思います。だから、と。光をあててくれるなら、それを利用して、なんとか生きて行きましょう。協力して行けば、きっと普通に、生きて笑うことができるようになります。
コージュの説得は数日かけて行われ、折れた二人と共に契約書にサインをしに行くその日。約束の時間よりすこし遅れて現れたコージュが連れて来たのが、シレーネだった。三人の他に、契約をするNEXTはもう一人いて、女性だと聞いていた二人は、もしかしてそれが『これ』なのかとも思ったが。慌てた様子で走ってきたオーチェが、シレーネに目を向けて大変意外そうに、もう一人いたんですね、と告げたので別人だと判明したのである。それからは、ちょっとした騒ぎだった。キエフとカナートはもちろん、なにを考えているんだとコージュを怒ったし、彼らの経歴を知って選抜したらしき警察や司法局も、シレーネの加入には否定的だったからだ。彼らの態度が変わったのは、シレーネの能力を知ってからだった。少女は言い争う大人たちを見て、苦しげに、たった一言呟いただけだった。やめて、と。その体が青白く光っていたかを、今でもカナートは思い出せない。覚えているのは、不思議に聞き逃さない声だと、そればかりだ。ちいさな声だった。かすれて響く言葉だった。
けれども、それは逆らえぬ命令のように、聞く者の心に雷鳴をとどろかせ、息すら止めてしまうような力だった。シレーネに、そうしたという自覚はなかったに違いない。年を聞けば十二になると言うのに、十にすら見えないちいさな痩せた体はおどおどと縮こまるばかりで、ようやく言い争いを止めた者たちを、嬉しそうに、安堵したように笑いながら見つめていた。分かったでしょう、と溜息をつきながら告げたのはコージュだった。希望を作ろうとするのなら、彼女は絶対にこちら側に居なければいけない。もしこれが悪意ある者の手に落ちたら、その時こそNEXTは社会の悪として認識され、この世界から排斥される道を辿るしかなくなるでしょう。告げるコージュの言葉は難しく、シレーネには分からなかったのだろう。少女はひどく恥ずかしそうに、全く書きなれていない者の筆跡でぎこちなく契約書に名前を書くことばかりに必死だったからだ。
そして、彼らには二年間の時が与えられた。それは実際、誰も信頼しようとしていなかったシレーネを仲間となる存在に慣れさせる為の時間であり、痩せぎすの少女を、せめて人並みに成長させる為の時間でもあった。彼らの思惑をなにも知らず、シレーネはやがて花が綻ぶように笑顔を取り戻し、仲間たちの存在を受け入れ、信頼して行った。はじめて誰からも否定されず、これからを生きる為の二年間は、誰にとっても宝石のようだった。言葉にしても、きっと、分からないに違いない。血の繋がらない家族になる為のような、二年だった。
「シレーネが居てくれたから、私は……生きる為にヒーローにならなきゃって、はじめて思えたの。……シレーネを守りたかった。一度目は守れなくて、でも、今度こそ……今度こそ、守ってみせる」
その為なら私は、死んだって構わない。厳かな宣言は微笑みながら成され、カナートとコージュはそれになにも言わないことで、同じ意見であることを示した。
「ひとの希望がヒーローなら、私たちの希望はシレーネなの。奪われた希望を取り戻そうと必死になることは、そんなにおかしいことかしら」
「……ううん」
「……で? この中で一番攻撃力が高いのは?」
話が一段落したと見て再度問いかけたカナートの言葉に、ヒーローたちはそれぞれに考え込んだ。純粋に攻撃力を比べ合ったことがないので、候補を出すことはできるが、一番となると難しいのである。悩む彼らに、カナートは考えつつ、言葉をひとつ付け足した。
「じゃ、壊すの得意なヤツ」
誰も、一秒たりとも迷わなかった。あ、この人です、とばかり全員から指差された虎徹は、さすがに遠い目をして星明かりの瞬く夜空を眺める。それはもう、壊す限定であれば誰よりも壊しているのが現状ではあるのだが、なんとも言えない気持ちで目頭が熱くなった。ふぅんと興味無さそうな呟きを発して、カナートがよし、と虎徹を指差す。
「じゃあソイツと……あともう一人くらい。お前、この中で一人選ぶとしたら誰だ?」
「僕ですけど」
微笑みながら立候補したのはバーナビーだが、虎徹は元より、誰も異を唱えず頷いた。虎徹が選ばれ、もう一人となれば後はバーナビーしか居ないだろう。カリーナはすこしだけ悔しそうに、頑張りなさいよ、とバーナビーに言った。もちろん、と微笑んで頷き、二人は一歩、前に出た。
カナートがなぜ、たった二人を連れて先行したのか。その理由をすぐ、虎徹とバーナビーは知ることとなった。恐らく、一度に対処できる限界が二名までだったのだろう。迷わぬ足取りでシュテルンビルトの街を歩いて行く男の背を戸惑いながら追いかけると、二人は意識が急にぐらつくのを感じたのである。最初に変調を起したのはバーナビーだったが、最も顕著に体調を崩したのは虎徹の方だった。二人は意識を無理矢理眠りに引きずりこまれるように感じ、吐き気すら催す激しい眠気に抗おうと、それぞれに立ち止まり、歯を食いしばったりしゃがみ込んだりしてしまう。数歩先を歩いていたカナートは、二人が付いてこないことを知ると溜息をつき、もう少し持つと思ったんだが、と苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「まあ、向かってる訳だから影響も強くなるか……まだ起きてろよ? お前、名前は?」
「バーナビーです……」
「いいこだ、バーナビー。すぐ起こしてやるから、もうちょっと我慢してろ」
男でも年下には優しくしてやらなければいけない、という妙な義務感を感じさせる顔で、カナートが虎徹を後回しにバーナビーに囁きかける。なにをするつもりだ、と訝しげに見る虎徹の視線をものともせず、『帝王』は慣れた仕草で短銃を構えると、それをなんのためらいもなくバーナビーに撃った。乾いた音の直後、バーナビーの体がぐらりと揺れる。血の匂いはなく、けれど虎徹の頭は反射的な怒りで一色に染まる。
「お前、なにを……!」
「うるさい、黙れ」
乾いた音がもう一発。それが己に向けて撃たれた銃の音だと気がついたものの、痛みもなにも感じず、虎徹は飛びかかろうとしていた体勢を崩して倒れこんでしまう。倒れた虎徹を呆れた眼差しで見下ろしながら、男は銃をホルスターに仕舞い直した。まったく、と溜息が闇にこぼれ落ちる。
「攻撃する訳がないだろうが。……バーナビー、起きたか?」
「起きました……あの、今、なにを?」
地に伏せたまま動かない体で視線だけを声の方に向け、虎徹は首をひねりながら道にしゃがみ込む、相棒の姿を確認した。バーナビーの声も、顔つきも、まるでよく寝て起きた、目がスッキリと覚めた日の朝のようだった。強烈な、暴力的な眠気が去ったのだろう。気が付けば虎徹の体からもそれは抜け落ちていて、気が付けば体も動かせるようになり、虎徹はもそもそと煉瓦造りの道で身を起こし、訝しげな眼差しでカナートに説明を求める。
「どういうことだよ。なにしたんだ? ……つーか、なにが起こってたんだ、今」
「俺たちは今、この街全体を飲みこんだ影の発生源に向かっている。そこにシレーネが居るからだ。この影の発生理由は間違いなくシレーネを守ることで、近づく者を無差別に攻撃する。本来であればあらゆるものを停止させている筈だから、この中で動いているものはイレギュラーだ。停止範囲があまりに広大に及んだから、眠らせるくらいしか出来ないみたいだけどな。俺が今やったのは、影に対しての攻撃。影と本体は繋がってるから、とりあえず眠気は覚めただろ? 俺はともかく、お前たちは近付くにつれ引きずり込まれる可能性が高くなる。まあ、起こしてやるが、寝落ちする前にお前らもちゃんと言えよ?」
「……よし、順序を追ってたずねましょう」
どうしてあなたは僕たちが全部事情を分かっているような説明の仕方をするんです、と溜息をつきながら立ち上がったバーナビーは、虎徹にちらりと気遣わしげな視線を向けた。それに苦笑しながら虎徹も立ち上がり、どうして分からないんだろう、と訝しんでいるカナートを見つめ、溜息をつく。
「なぁんにも知らねえこどもにするみたいに説明してくんねぇ? 質問はバニーちゃんがしてくれるから」
「まず今、あなたは街を飲みこんだのが影だと言いましたね? なぜ影だと分かるんです? 心当たりでも?」
たたみかけるように左右から言葉を発してやれば、カナートは不愉快げに眉を寄せたものの、文句をあげることはしなかった。それでいて、無視するような幼い振る舞いもしなかった。歩きながらだ、と言って夜の明りの無い道を進みながら、ゆっくりと、まるで昔語りでもするような口調で告げていく。
「心当たりは、ある。影だと言ったのも、そのせいだ。これは……大部分がシレーネの力だが、現象そのものを引き起こしてるのはキエフだからな」
「……キエフ、と言うのは」
「キエフはキエフだ。『影』を操るNEXT。キエフの意思で広げられた影の中にシレーネの力が加われば、その影の範囲はただの危険領域になる」
カナートの説明は、要領を得ているようで、全く分かりにくいものだった。説明をしているようで、謎がどんどん増えていく。あなたより会話するの難しいです、とぼやくバーナビーに虎徹は文句を言いたい気分になったが、大人としてぐっと堪えてやった。カナートの説明は、考え込んで言葉を探しながら紡がれるので、ひどくゆっくりと時に専門的な言葉を交え、時に飾り気のない言葉で続けられていく。
「キエフは」
暗闇に、鼓動より早いリズムで刻まれる足音を響かせながら、カナートが言う。
「死んだ筈だった。というか……間違いなく死んだんだが、シレーネを助けようとした瞬間、三人分のNEXT能力が激突し、混ざり合って、その結果、シレーネの体は時間を停め、キエフの意識がひとかけら、シレーネの影に焼きついて残った」
守護霊みたいなものだな、と告げ、溜息を吐く。
「それ以来、シレーネの命に差しさわりがあるような事件が起きると、こうして出てきては遠慮なく全体攻撃をしてくれる。困ったものだ」
「それを、シレーネさんは?」
「知らないと思うぞ。意識が絶えるのと入れ替わりに表層化して、回復すれば消えるみたいだからな。……これだけの規模で問題が起きていると知れば、あのつんつる頭の馬鹿女もすこしは学習するんだろうが」
うんざりとした顔つきで嘆かわしく首を振るカナートの言葉は、過去何回か、こうした現象が起きていることを示していた。
「だからシレーネが起きればこの状態は解除される……ことが多いが、絶対ではないし、なによりシレーネの身に降りかかる危険から逃れられていなければ同じことだ。もう一度は耐えられまいよ。お前たちも……一般人も」
まったくキエフは手加減というものを知らない、と息を吐くカナートは、それでいて呆れも怒りもしていないようだった。純粋に、心から仕方ないと思っているだけで、面倒くさがりながらも事態収拾に全力を尽くすつもりなのだろう。考えながら、つまり、とバーナビーは問いかけた。
「これは、シレーネさんの力ではないと?」
「いや、全体の意識を停止させてるのはシレーネの力だ。ただ、範囲の拡大にキエフの影が使われている。実行したのはキエフだから、シレーネは不可抗力だろうが……なんと言えば良いのか分からん。お前たちは単体発動しかしないのか?」
周囲が暗すぎるせいでハッキリしないものの、だんだん、景色が見覚えのあるものになって行く。カナートは知らない街の筈なのに、よく迷わず道を進んでいけるものだった。感心半分、不安混じりに後をついていきながら、目的地を問いたい気持ちをぐっと堪え、バーナビーは口を開く。行くべき場所など、辿りついてから分かれば良い。
「あなたが言っているのは……まさか、NEXT能力の、合同発動のことですか?」
「なんだ、お前らやらないのか」
「しないというか……! 実際に使用した例に先日遭遇しましたが、合同発動はずっと、机上の空論だとされていて」
意外そうな声に驚きながらそう言えば、その事実には全く興味が無いと言わんばかり、ふぅん、と気の無い返事が返される。
「検閲でも入ったんだろ。能力の拡大範囲が尋常じゃないから、下手な使い方すると危ないしな」
「……身を持って体験しています」
「あと相性もあるしな。相性良いとぽんぽん発動するが、相性悪いとなにも起きなかったりするし。まあ、それはいい。……で? 俺がお前らをさっき撃った理由は、お前らが発生する力に抵抗しきれず、街と同じように眠りそうだったから、だ」
大きな角を曲がり、カナートは眼前にそびえ立つ建物を目にすると、無感動な口調でここだな、と言った。それは己の内側の感覚を確かめるようでもあり、かすかな疑問を思わず呟いたようでもあった。虎徹とバーナビーは道筋から薄々気がついていたものの、辿りついたジャスティスタワーに顔を見合わせて息を吐き、なんとも言えない気持ちで沈黙する。灯台もと暗し、とは言うが、まさかここにシレーネが居るとは思わなかった。二人に構わずタワーに向かっていくカナートに、バーナビーはそっと問いかける。
「撃つと、眠らなくなるんですか?」
「いや……俺が撃ったのは、お前らの影だ。キエフの力が及び、シレーネの力で眠らせる媒介になる、影。それを攻撃して、能力範囲から切り離した。……もう眠くならないだろ?」
「影を、撃つ?」
見渡す限り全てが夜の闇に沈められている中、差し込む光は天の高くにある星や月の弱々しいそればかりで、影など落ちはしないというのに。そもそも地に映るそれを撃つなど、できることだとは思えなかった。いっそ不愉快そうに問い返したバーナビーに、カナートは唇を和ませて微笑む。
「それを『撃とう』と思えば、俺には『撃てる』んだよ」
「……あなたの能力は?」
今更のような問いだった。カナートは気を悪くした様子もなく、ジャスティスタワーのエントランスへ向かいながら告げる。
「『標的に弾をあてる』こと。標的の範囲に含まれるのは、俺が『撃ってあてようとするもの』全て。専門は狙撃。銃ならなんでも、と言ってやりたいが、自動銃なんかだと能力が上手く発動しないのが欠点だな。ガトリングが使えればよかったんだが……そういう訳で、俺の能力は性質上、純粋な破壊に対しては攻撃力が低い」
さて仕事だヒーロー、とカナートは無人のエントランスを前に二人を振り返り、分からないって言ったら撃つ、とでも言わんばかりの輝かしい笑みで、とても偉そうに腕を組んだ。
「コージュによると、シレーネがいるのは『なにもないが、どんなものにも変化する四角い部屋の中』だそうだ。このビルの中にある、そういう部屋に心当たりは?」
「なにもないが、どんなものにも変化する……?」
「……部屋?」
まあ大まかな位置なら俺にも分かるから、そこまで全部壊して直線通路を作ってもいいんだが、と狙撃銃を背負って首を傾げるカナートを止めつつ、二人は視線を見交わした。この建物の中に、そんな謎かけを解かなければ辿りつかないような部屋が合っただろうか。やがてカナートが痺れを切らしそうな頃、虎徹がぱん、と手を合わせて叫ぶ。
「あー! あれだ、バニーちゃん! あれだよあれあれ!」
「具体的に!」
「あの、あれっ! あー……バーチャルトレーニングルーム!」
あの部屋なんにもないけど、どんなものにでもなるだろ、と言った虎徹に、バーナビーはなぜか舌打ちを響かせた。虎徹が先に答えに辿りついたので、なんとなく嫌だったらしい。頭の回転は僕の方が上なんですからね、と言うバーナビーの頭をくしゃくしゃと撫で、虎徹は静かに待っていたカナートを振りむいた。そして、そういうことなら、と意気込んで告げる。
「案内できるぜ!」
「頼む。……あと一時間もない」
そろそろ焦って来た、と全くそうは見えない顔つきで淡々と吐きだし、カナートは慌ただしく走りだす虎徹の背を追いかけ、暗闇に包まれたジャスティスタワーの中を疾走した。