閉じた瞼の向こうで、扉の閉じる音がした。立ち去る足音が耳を澄ませても聞こえなくなったことを確認して、マイケルはようやく閉じていた目を開き、深々と息を吐き出す。マイケル・グリーン。年若きヘリペリデスファイナンスCEOの頭を悩ませていたのは、たったひとつの事柄であった。つまり、誰を自社ヒーローとして採用するか、である。たった今、全員の面接が終わった所なのだが、これといった印象を残した者が一人としていない。彼らが悪いのではない。マイケルが掲げる人物像があまりに特殊で、そして最終決定権を持つもう一人が、寝ているのかと思うくらいになんの反応もしなかったのがいけないのだ。やれやれと思いながら体をひねり、マイケルは己が座っていた椅子の背もたれ、その足元部分を覗き込むように体をひねった。質の良い、色合いの落ち着いた赤い絨毯の上に直に腰を下ろし、足を伸ばしている少女のつむじが見える。それが、こくりこくりと揺れ動くことなく、不満げに不穏げにゆらりと首を傾げていたものだから、マイケルは苦笑して、少女の髪に指を絡めるよう、手を伸ばして問いかけた。
「彼らはお気に召さない?」
「……これで全員ですか? 社の資料には、もう一人いた気がしますけど」
手に持った書類を折り曲げたり、伸ばしたり自由に遊んでいる少女は、もはやそれを見るつもりなどないのだろう。絨毯の上には紙飛行機がいくつも散らばっており、窓から飛ばされる準備は万端のようだった。万一、面接を受けた本人がそれを拾い上げたら事件であるので、マイケルはそれを許可してやるつもりなど毛頭ないのだが。シュレッダーにかけなさいね、と言い聞かせれば、少女の頬がぷぅっと幼く膨らんだ。椅子の背もたれに頭の後ろを擦りつけるようにして、首から顎の線をまっすぐに反らし、少女がマイケルを見つめてくる。日系ではなく、純粋な日本人だという少女の、混じりけのない黒い瞳。
「ねえ、もう一人いたでしょう? マイケル」
拗ねて甘えたような声は、先程のつんとしました声音より、ずっとマイケルの好みだった。大体、仕事ではない時はそう話すようにと約束しているので、先程の返しは、少女のちょっとした契約違反なのだ。即座に切り替えて来たのは褒めてやってもいいのだが、それでもすこし咎める気持ちで沈黙を続けていると、少女が明らかな呆れに目を細め、はぁ、と息を吐きだした。マイケルが三十代前半に見えるのに対し、日本人の少女は十代半ばくらいの印象を振りまいていた。それだけでもすこしちぐはぐな二人であるのに、マイケルが面接に相応しい紺のフォーマルスーツであるのに対し、少女の格好は白いフリルとピンクのリボンで形作られた、大変愛らしいワンピースなのである。服と揃いの厚底ブーツはやはり白で、編みあげの紐部分がピンクのリボンという徹底ぶりだ。しかしその服装は、少女が好んで着ているものではないらしい。書類を折り終わった指先は服の、過剰に付けられたレースの編み目を落ち着かない様子でいじくり、気乗りのしない様子で爪弾いたりしている。
「……私もスーツがよかった」
「似合わなかったでしょう、スーツ」
「だからって! こんな格好っ……だからマイケル、ロリコン趣味じゃないかって言われるのよっ? 分かってるっ?」
ただでさえ私を連れ歩いてることで年下趣味だのなんだの言われてるのに、こういう格好させるからっ、と抗議する少女の口元にすいと手を寄せ、男はにっこりと微笑んでやった。黙ろうね、という意思を正確に読み取ったのだろう。従順に、それでいてぐっと言葉を噛み殺したらしき少女の唇を指先でなぞってやりながら、マイケルはようやく、そうだねえ、とはぐらかし続けていた問いに答えてやる。すなわち、もう一人面接する相手がいたのではないのか、ということを。
「いたよ、もう一人。でも辞退したらしい」
「……辞退? 体調でも悪くしたの?」
基本的に、アカデミーが選抜した者は『ヒーローになる意思がある』とされている者だけである。ヒーローアカデミーに通っているからといってヒーローを志す者ばかりではないし、成績だけで選抜すると齟齬が出るからという理由で、あらかじめその確認は終わっていた筈なのだ。だからヘリペリデスファイナンスに届けられた資料に記載された者は、全員ヒーローになりたい者ばかりで、この絶好のチャンスを逃す者はまずいないだろう。ヒーローになるチャンスは、砂漠からたった一粒の砂を探し出して来るくらい、奇跡的な運の巡り合いによってもたらされるものだ。努力だけでは届かない。実力だけでも、なお足りない。彼らは企業によって雇用される存在だ。だからこその、運。彼らの求めるタイミングで、彼らの望む能力、人柄であってこそ、ようやく機会が巡ってくるものなのに。だからこそ、辞退しなければいけない理由など、少女には思いつかなかったのだろう。純粋に気遣わしげに眉を寄せる様を見つめながら、マイケルはのんびりと、それが理由の半分くらいではあるね、と囁いた。要領を得ない説明に、少女の唇がむっと尖る。
「いじわるしないで」
「だって、君がロリコンとか言うから」
「私が言ってるんじゃないんですー、皆が言ってるんですー」
少女の髪を指で撫でるよう弄びながら、男が向ける視線や声は、甘く緩んだものだった。誰がどう見ても、年下の少女を溺愛しているようにしか受け止めないだろう。それなのにマイケルは気分を害した様子で、皆ね、と呟き、目を細める。
「そんな人材はいらないかな……」
「マイケル。大人になりなさい。そんな理由で社員を解雇するものじゃないでしょう! っていうか! だめ!」
「考えておくよ。次はない」
君への暴言は許さないっていうだけだしね、と微笑む男をうろんな目で眺め、少女は素直に溜息をついた。ロリコンは、どちらかといえばマイケルへの暴言であるような気がするのだが、指摘しても良いことはないだろう。
「……それで?」
「ん?」
「ん、じゃないの。それで、もう一人の……イワン・カレリン? 彼はどうして辞退しちゃったの? 知ってるでしょ? ……私が、彼が一番いいなって言ってたのも、知ってるでしょ? 教えて? なんで?」
彼の能力こそ、恐らくヘリペリデスファイナンスが求めるものだった。成績も申し分なく、性格はやや控えめで内向的な記述があったが、問題視する程のものでもなかった。一番いいな、というのは大分控えめな表現で、本当は、一目見た時からイワン・カレリンに決めていたのだ。あ、彼がいい。彼にしよう、と少女が言ったのを、マイケルも知っている筈である。なにせその時、一緒に資料を覗き込んでいたのだから。なんで、なんで、と繰り返す少女に、のんびりとマイケルは口を開いた。
「この間、アカデミーの生徒が捕まっただろう? エドワード・ケディ、だったかな?」
「それが?」
「イワンくんは彼の親友で、その時、現場にいたらしい」
普通であれば、それで説明が済んだ言葉だった。その事件はNEXTが起こした事件として、またアカデミーの生徒が起こした不祥事として大きく報道され、人々の非難の的となったものだからだ。事件の当事者の親友で、現場にいたという事実は、ヒーローになる為の面接を辞退するのに十分すぎる理由だ。けれども少女はすこしばかり普通ではない相手だったので、マイケルの説明が全く理解できなかったらしい。はぁ、と語尾を跳ね上げる不満声で意味が分からないことを明確に伝え、怒りの様相に目を細めて息を吸い込む。
「それが?」
「それが、彼が辞退した理由じゃないのかな」
ぱちぱち、と少女は瞬きをして、むっつりと唇を尖らせたままで首を傾げた。分からないなりに、考えているらしい。やがて、えっと、とつっかえながら言葉が吐きだされて行く。
「イワンくんは……イワンくんも、なにかしたの?」
「なにかって?」
「能力使ったり、したの? アカデミーって確か、生徒に、学校内以外での能力発動を、原則として禁止してたよね? だから、イワンくんも? 現場でなにかしたってこと?」
それならば、少女には理解できるのだろう。規則には、守るだけの理由がある。特にこの、NEXTに厳しい社会においては、アカデミーの校則は時として、彼らを守る最後の砦たりえるのだ。それを正確に理解して在籍している生徒など、ほんの一握りもいないのだが。その理由は若さであり、幼さであり、社会を知らぬという無知だろう。彼らは卒業して初めて、アカデミーがどれほど、守ろうとしてくれていたのかを知る。
「……イワンくんは、なにもしなかったそうだよ」
「現場で?」
「現場で。なにもしないで、親友の破滅を見つめていた。……恐らくはそのことで周囲になにか言われたのだろうし、彼自身も自分を責めたんだろう。ヒーローになる資格がないから。辞退の理由に、彼はそう答えたそうだ」
助けを求めた声に、手を伸ばすこともせず。戸惑うばかりで、怯えるばかりで、ただ力を持たぬ者のように見ていることしかしなかったのだから。マイケルの言葉に、少女のまなざしがきっと強くなる。それは鮮烈な怒りだった。炎が燃え上がるよう、風が切り裂くよう、少女は強い意思で信じられないと吐き捨て、床の上から立ち上がる。そうするとちょうど、運動場に面す窓から外を眺める形となった。ヒーローアカデミーは、まさしく箱庭のような場所だった。シュテルンビルトのメダイユ地区、という栄えた都市の中心近くにありながらも、不思議なくらい喧騒と切り離されている。それは人の関心が向けられていないということであり、半ば公然とした無視にも近い静寂だった。雑踏から、まさしく切り取られ切り離されて、この静けさが存在している。それに、内側に住む者たちは気がつかないでいる。差し込む光は穏やかだ。淡い色合いの青空は目に優しく、午後の穏やかな運動場を見守っている、まるで穏やかな風景を怒りを持って睨みつけ、少女がくるりと身を反転させた。ひかりを背に浴び、暗く世界から浮かび上がりながら、少女はハッキリとした声でマイケルに言った。
「アカデミーは、大事なことを教えないのね」
失望した声だった。自分の勝手な期待を裏切られたことを知り、それに対して怒りを覚えた己にこそ失望しているような、他者を徹底的に排除する声だった。それでいて静かではなく、苛烈なまでの怒りを感じさせる響きで空気を震わせて行く、声だ。耳触りの良い声だ、とマイケルは思う。少女は他人に怒りを向けることを殆どしないし、マイケルに対して本気で怒るということなど、それこそしない行為であるので、激しい感情が目の前にあっても心が萎縮することはなかった。ただ、己の内側で一切を処理しようとするのが分かるから、止めて欲しい、とは思う。伸ばした手は避けられることもなく、少女の滑らかな頬に触れてぬくもりを分け与えた。ふ、と僅かに緩んだ唇から息が吐き出されて行く。悔しげで、苦しげで、悲しげな吐息。一度だけ唇を噛んで、少女は話し始める。
「怒られるのは、規則を破った者だけでしょう……? イワンくんは、守ったのに、どうして責められなきゃいけないの。どうして、自分を責めるの? 力があるからって、助けなきゃいけないなんて思うのは、ただの傲慢でしょう。やだ、もう、わかんない……マイケル。マイケル、マイケル」
「ん?」
「やっぱり、私、彼がいい。イワン・カレリンがいい」
ヒーローにするなら。この箱庭の中から、たった一人選んで、連れて行くことができるのなら。イワン・カレリンでなければ嫌だと告げた少女に、マイケルは予想していた顔で苦笑した。
「彼はもう、ヒーローになりたくないかも知れないよ」
「説得してくるから。学校には来てるんでしょう?」
「授業には出ずに、図書館で過ごすことが多いようだから……まだ校内にいれば、そこにいるんじゃないかな」
分かったと言わんばかり頷いて、部屋を小走りに出て行こうとする少女の腕を掴んで止める。なに、と眉を寄せられるのに苦笑して、マイケルは身を屈めて少女の唇をそっと啄んだ。離れると同時に、少女が身を震わせて頬を赤らめていく。な、な、と唇を動かして声を出そうとするのに笑いかけ、マイケルは鞄に入れていたシルバークラウンのベネチアンマスクを取り出すと、慣れた仕草で少女の顔に取りつけてしまった。顔の殆どが繊細な銀細工によって覆われ、少女の印象がまるで違うものになる。それを満足げに見やり、マイケルは唇に指を押しあてた。
「はい、忘れ物。……行ってらっしゃい。良い報告を待ってるよ、キリサトくん」
「……行って来ます」
暗に、お仕事だからね、と口調と呼称を変えてまで説得を成功させるよう求めてくる男に呆れながら、少女は従順に返事をした。もしかして、最初からキリサトに説得させるつもりではなかったのかと思うが、半分くらいは正解だろう。イワン・カレリン不在の面接に、それなりに乗り気で挑んでいたことを知っていた。もしも少女が気に入って、自分もピンと来たらその人物でも良いと考えていたのだろう。結果は、誰ひとりとして目に留まらなかったのだが。本来は生徒指導室として使用されている、即席の面接会場の扉を閉め、少女はさて、と学内の地図を思い浮かべる。図書館はここから、すこし歩いた場所にあった。気がせいて、踏み出した足はそのまま小走りになる。きっとマイケルに聞き咎められ、楽しげに笑われているに違いないと思いながら、キリサトは静まり返った廊下を小走りに進んで行く。放課後の校舎は、ゆったりとした時間が流れている。どこか遠くで、鳥の羽音が聞こえた。
二階建ての図書館は、校舎から渡り廊下を歩いてすぐの場所にあった。外観は校舎とそう変わらないように思えるが、やはり扉を開けた瞬間に押し寄せる独特の静寂が、そこが知識の収められる場であることを示していた。少女は入室者に向けられたぎょっとするいくつもの視線を無視しながら、二階へ続く階段を見つけ出すと、ためらいなくそこに靴を乗せる。イワン・カレリンの書面上の性格や、彼を取り巻く状況からして、出入りが多くややざわめきのある一階にいるとは、どうしても思えなかったからだ。階段を登り終えると、そこに広がっていたのは重厚な本棚の列と簡素な案内板、そしてやや息苦しくなるくらいの静けさだった。耳を澄ませば、どこかで誰かが本のページをめくる音、身じろぎをする音さえ聞こえて来そうな。少女はまず案内板に目を通し、現在位置と本棚の並びと分類を見た。一階が娯楽色の多い本が並んでいるのに比べ、二階は純粋に知識を得る為の書物が多いらしい。来る者も、勉強を主な目的とする者が殆どなのだろう。足元からふわりと立ち上る喧騒は腰辺りの空気でたゆたうばかりで、少女の耳まで届かず消えてしまう。本棚の間に。点在している机と椅子の位置を確認すると、少女はそっと静寂に身を滑り込ませた。足音を立てないように歩き、本棚の影からそっと、机に向かう者を確認する。
勉学に打ち込み、集中しきった者が殆どだから、愛らしいワンピースにベネチアンマスクという異様な格好をした少女に、気が付く者はいなかった。ちらりと視線をあげる者はいたが、ぎょっとした顔つきになる前に顔をひっこめて移動してしまうので、疲れによる幻のようなものとして処理されることだろう。目立つことは本意ではない。だから、マイケルが付けなければ、我慢して素顔を晒して出歩いたのに。溜息をつきながらマスクに指先を押し当て、少女はそっと、本棚から顔を覗かせ、ひとつの机を探るように見た。そこに、一人の少年が座っていた。少年と、青年のちょうど中間。これから育って行くであろう瑞々しい予感を感じさせる、どちらかといえば小柄な銀髪の男である。ぶ厚い本を机に置いてページをめくっている視線が、鈍い動きで持ちあがった。ふと、人の気配があることに気がついたと、そう告げるように。移動した紫の瞳が、少女の姿を映し出した。劇的な混乱にひきつる表情を眺めながら、少女はふわりと足を踏み出して行く。少年の名を、キリサトは知っていた。イワン・カレリン。探していた人物だった。具現化した悪夢を眺める視線を面白く思いながら、少女はイワンの向かいの椅子をひき、腰を下ろしながらにっこりと笑う。
「こんにちは」
「……こ、こんにちは」
「あなたがイワン・カレリンですよね?」
少女にしてみればなんの気ない確認であったのだが、イワンはそうとは受け止めなかったらしい。警戒と嫌悪の意思が眩く瞳に灯り、無表情と無関心の冷たい意思がそれを覆い隠して消してしまった。ふむ、と考え、少女は口元を温かく緩める。どうやら、親友が加害者となった事件を探りに来たとでも思われたらしいが、その反応は、少女にしてみれば好ましいものだった。感じる心は、少年の中にまだ息づいている。諦めていないし、消えてもいない。痛むばかりで、そこにあるのだ。まずはこの警戒を解かねば話を聞いてもらえないだろうが、その為の努力を少女はしようとしなかった。警戒は、解きたければ、相手が勝手に解くものだ。努力しても無駄な時はあるし、決定権は常に相手の手の中にある。だから、少女はあえて普通に、自分がなすべきことをした。
「はじめまして。私はヘリペリデスファイナンスのキリサトです。ヒーロー事業部がこのたび、社内に設立される件で、今日、あなたに会いに来ました」
「……僕、に」
「そう。イワン・カレリン。あなたに。……資料を頂いて、その時から、私、あなたが良いなって思ってたんですけど。イワンくん、ヒーローになりませんか?」
美味しいケーキのお店を見つけたんですけど、今から食べに行きませんか、と誘うのと全く同じ口調だった。だからこそ、冗談かなにかだと思ったのだろう。苦笑して本にしおりを挟み、イワンは静かな声でいいえ、と言った。
「辞退しました。……聞いていませんか?」
「聞きました。でも、納得できなかったので、直接お誘いに来ました。私、あなたが良いので。……ヒーロー志望なんですよね? だった、でも、どちらでもいいんですが。ヒーロー、なりません? なりたく、なくなっちゃいましたか?」
「……あなたはどうして、僕がヒーローになれるだなんて、そんな風に思えるんですか」
自嘲の為に放たれたとするより、それはもっと静かに相手を問い正す言葉だった。向けられる視線はまっすぐに、穏やかに、ひたと少女の仮面に隠され、見えにくい瞳を見据えていて、反らすことも誤魔化すことも許しはしないようだった。相手を責める視線であり、じりじりと焦げるような怒りを感じさせる眼差しだった。イワンは、彼をヒーローにしたがる少女に対して怒っているのだ。意味が分からないと首を傾げ、少女はなにを気負うこともなく、あっさりと言葉を繋げていく。
「それは、事件のことを言ってます?」
「エドの……ことは、ご存じでしょう。僕は、あの時なにもできなかった。だから、ヒーローになる資格なんて」
「ありますよ」
頬を打つような痛みもなく。火のような熱さもなく。ただ、ただ静かに、確信的に告げられた言葉だった。励ますでもなく、労わるでもなく、事実を告げるだけの言葉だった。ありますよ、と不思議そうに、足元に転がる小さな白い石を拾い上げて、相手にそっと差し出すような。そんな、声で紡がれた言葉だった。
「ありますよ、資格。ない人に、私はそんなこと言いません」
「……どうして」
「どうしてって、言われても。あなたが考えるヒーローになる為の資格と、私が考えるヒーローになってもらう為の資格が、たぶん全然違う所にあるからだと思うんです。たとえば、正義感とか、人を助ける、とか。そういうの? 精神的な、立場のあり方っていうのかな……別に、そういうのは、私、いいんです。それは本人が胸に抱けばいいだけの話で、私が提示したい条件じゃないし、資格でもないし、ヒーローになる為に絶対必要って訳でもないと思うんですよね。ヒーローアカデミーで、あなたがどんな教育を受け、どんな理想を胸に抱き、夢にして描いていたかは分かりませんが、ヒーローは……私たちにしてみれば、ヒーローは一種の商品であって、職業にはなるでしょうけれど神聖なものではないんです。……さて、その上でもう一回言いましょうか。私は、あなたにヒーローになる資格があると思っています。そして、私はヒーローにするなら、あなたがいいとも思っています。理由、聞きます?」
潔癖で崇高な少年の理想が、踏みにじられ傷つけられる様を、キリサトは柔らかく微笑みながら見ていた。この箱庭で、大事に大事に守られた学びやで、彼らNEXTがどんな夢を見ているのかは、言葉を失ったイワンの表情を見れば十分に理解できるものだった。それは夢で、そして幻で、あえて言えば清らかな理想であり、それ以上でもそれ以下でもないものだ。キリサトは、イワンに現実を突き付けに来た。その上で、その手を引っ張って箱庭の外へ連れ出しに来たのだ。おいで、と誘うような問いかけに、イワンは息を吸い込んだ。
「……聞きます」
キリサトの提示した残酷さを否定したがるその若さと弱さが、少女の罠へ、イワンの背を突き飛ばして行く。にこ、と口元だけで笑って、少女は楽しげに囁いた。
「私が欲しいのは、広告塔なんです。悪と戦うヒーローではなく、弱さを守るヒーローでもなく、スポンサーの広告を効果的に示す、その為のヒーロー」
怒りと失望が、イワンの瞳に広がって行く。悲しみより、怒りの強い眼差しだった。少年の誇り高い自尊心が、ひどく傷つけられたのだろう。少女はそれを、好ましいと思った。
「……TVがなければ、助けていいですよ、もちろん。戦っても良いです。けれど映像があなたを映す限り、あなたには、スポンサーアピールをしてもらいたいんです。別にね、できるなら、戦いながらとか守りながらとかでもいいんですが、そんな器用なまね、そうできる訳もないですから。……私たちは、戦わないヒーローが欲しいんです。戦わないNEXT。その為の力がなくても、ヒーローという存在にはなれるのだという希望。そのモデル。……意味が分かりますか? イワン・カレリン。あなたでなければいけないんです。私は、あなたが、いいんです……。言葉に傾ける耳があるのなら、聞いて、そして考えてください。私たちが欲しいのは、広告塔なんです」
いいですか、と少女は言った。訝しげに、淡く持ちあがったイワンの視線を捕らえて。ゆっくりとした口調で、真剣に、真摯に、語り聞かせた。
「資格がない、とあなたは言いましたね。きっとそれは……そういう考えが、ヒーローアカデミーでは一般的で、そしてシュテルンビルトにも多い考えなんでしょう。ヒーローはひとを救わなければいけないし、その為の力を持たなければいけない。彼らは憧れで、身近だけれどある意味手の届かない存在で、NEXTで、けれどもその力を犯罪に使う訳ではなく、常に市民の傍らに、人々の救いであるのだと。それは……それはね、きっと、間違ってないんです。それはそれで、正しいんです。でも、でもね、イワンくん。私は、私とマイケルは……それを、どうにかしたいって、思ってるんです。どう言えば、うまく説明しきれるか分からないんですけれど、ヒーローは……ヒーローはもっと、力じゃなくて、攻撃力とか、防御力とか、そういうのじゃなくて、そういうものに頼らなくて、もっと……もっと無力で安全だって、宣伝してまわるのでも、いいと思うんです。NEXTの広告塔として、機能していいと思うんです」
それを、あなたに頼みたいんです、と少女は言った。
「難しい仕事です。攻撃力の高いNEXTでも、防御力の高いNEXTでも、それはできないし、できたとしても嫌がるでしょう。分かっています。私が求めているのは、一般的なイメージのヒーローの仕事ではないんですから。……企業的な利益を最優先に言えば、私たちはただ、ヒーローという、誰もが見るであろう広告枠が欲しいんです」
「どうして、それが僕に……僕が、できると思ったんですか」
「あなたの力が、一番やさしかったから」
相応しい、ではなかった。優しい、とキリサトは言った。心からそれを信じる声で、笑いながら、首を傾げて囁いた。
「だから、私があなたがいい」
「……すこし、考えさせて頂けますか?」
「すこしって、どれくらいのことです?」
悩みながら導き出された掠れ声を、楽しげに笑いながら受け止めて。少女はあのね、と目を細める。
「本気で悩んで本気で決めるなら、三分あれば事足りるんです。私はそう思いますよ。だって、それ以上って自分と他人へのいろんな言い訳と、リスクをあれこれ考えているだけなんですから。いいんですよ、そんなこと。決めるのは、やるか、やらないか。それだけでいいんです。どちらかだけ、決めればいいんです。もしやるなら、悪いようにはしません。絶対。私は、私の理想の為に、あなたをちゃんと守ってみせるし、あなたの望みも叶えてあげます。そうすることで良いこととか、悪いこととか、その判断を最終的に下すのは私じゃなくてイワンくんですけれど、私は私なりに、良いことばっかりイワンくんに来るようにって考えていますし、そうする為の努力を、いっぱいいっぱいするつもりです。力になります。だから、私があなたにあげる考える為の時間は、三分。決めるのは、やるか、やらないか、それだけのことを。百八十秒で、さあ、決めて?」
見えない砂を口いっぱいに詰め込まれたような苦しげな顔をして、イワンは弱く息を吸い込み、眉を寄せて黙りこんだ。少女は時間を計ることさえしなかったが、正確に心の中で数を減らし、決断の時をじっと待っていた。やがて、契約の言葉がこぼれ落ちる。少女はその言葉に、嬉しそうに微笑んだ。
少女が部屋を出て行ってから戻ってくるまで、多めに見積もっても一時間はかからなかっただろう。軽やかな足音が近づいてきた所で腕時計に視線を落とし、マイケルはその時間の短さに笑いだしたい気持ちになる。足音が、扉の前でぴたりと止まる。ノックより早くおかえりと囁いてやれば、嬉しげな音を立てて扉を開いた少女が、それこそ飛び込んでくるような勢いで室内に体を滑り込ませた。
「ヒーロー! 決めて来ましたよ! イワン・カレリンくんです。ばっちり! ばっちりですー!」
「はいはい、おめでとう。ありがとうね。おつかれさまでした。……ちゃんと説明、してくれましたね?」
「もちろんですよー! 広告塔になってくださいねって」
言いました、と周囲に色とりどりの花びらを撒き散らすような上機嫌で笑いながら、キリサトはマイケルの元まで歩み寄った。うふふ、と押さえきれない喜びで肩を震わせ、少女の指先が仮面の紐を解いて素顔をさらす。
「さあ、忙しくなりますよ。……協力してくださいね? マイケル。ヘリペリデスファイナンス、CEO殿?」
「もちろん。君も……ちゃんと休んだりするようにね?」
「はい! ちからいっぱい善処します!」
満面の笑みで言い放った少女の額をてのひらで軽く叩き、マイケルは仕方がなさそうに溜息をついた。これはもう、業務命令として休憩時間と休日を強制的に取得させるしかないだろう。この、天才的に休むことが嫌いな天才は、その命令をいかにして誤魔化し、潜り抜けるかに力を使いそうなことが問題なのだが。経理部かどこかに、規律を守らせることに熱心な人間を配置して、技術部を監視させる必要がありそうだった。キリサトがいる以上、技術部は恐らく、類は友を呼ぶ状態になる。休まないとひとは倒れるんだよ、と言い聞かせるマイケルに、少女はびっくりしたようにぱちん、と瞬きをして。それからくすぐったそうに笑って、はぁい、とだけ返事をした。