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 アカデミーの卒業を待って、イワンはヘリペリデスファイナンスに迎え入れられた。それは緊急にヒーローを増やす必要性がなかったからであり、他ならぬヘリペリデスファイナンス側が、中退の意思を断ったからだ。卒業まであと半年を切っている状態で、なにを焦る必要があるのか、というのがその理由だった。学生時代は、それを失ってからはじめて理解できる大切なものである。そこでしか学べぬもの、その時間でしか得られぬものは確かにあるのだ。焦って社会に出ることも、無理をして大人の真似ごとをする必要もないのだから。決められた時間を有意義にそこで過ごして、それから会社に入っておいで、と読みやすい字でしたためられたCEOからの手紙を何度も読み返し、イワンは無事にアカデミーを卒業し、ヘリペリデスファイナンスヒーロー事業部に、正社員として就職したのであった。もちろん、ヒーローになる為の就職である。正社員として迎えられたのはイワンにしてみれば少し意外であったのだが、ヒーローとはこのシュテルンビルトにおいて、列記とした職業であり、また会社に所属するものであるから、それが普通の待遇なのであった。しかしそれでいて、イワン・カレリンとして雇用されることは、ヘリペリデスファイナンスの正社員の誰かがヒーローの『中身』だと探り当てようとする者の存在があると考えた時、あまりに危険なのではないか。
 そう遠回しにイワンが訴えのは『我が社のヒーローを歓迎する会』という、とても分かりやすい題目が据えられたパーティーでのことだった。ごく限られた信頼のできる者だけが招かれているのだという場は、しかしホテルの大ホールを貸し切って執り行われた。場に集った者たちをざっと数えただけでも、百人は超えるであろう人々が、歓談を楽しみ、飲み物を口にしている。食事は立食形式であるからか、はたまた他の理由があるからなのか、それに手を伸ばすものはイワンの目にはそう多くないように思われた。その中で白い皿に上品に料理を盛り付け、やけに幸せそうに口を動かす年若きCEOの姿はやや浮いていたが、緊張しきりのイワンが話しかけやすい理由にもなっていた。会場の中で、名前と顔が一致する者が、マイケルの他に存在していなかった、というのも大きな理由のひとつだろう。イワンの憧れる東の島国に住まう一族の血を、遠く引くのだと聞くCEOはごく穏やかに微笑み、眼鏡の奥で黒色の瞳をそっと細めてみせた。イワンの不安や困惑を面白がり、それでいて、その想いを口に出せるということを、心から喜んでいるようであった。男はテーブルに置かれたポテトフライに一口大のハンバーガーが盛り合わされた、場に合わないやけに庶民的な一皿を食べなさいとイワンの手に押し付け、緊張で空腹にも気が付けなかった青少年が恐る恐るそれを口に含むのを見届けた後、ようやく、先に出された問いについて囁いた。
「つまり君は、我が社のヒーローがイワン・カレリンであるということを誰にも知られたくないのかな」
「知られたくないというか……ヒーローの正体は」
「うん。基本的には隠されているし、知られてはいけないとされているけれど……その理由は分かるかな? イワンくん」
 手をあげる仕草でノンアルコールの飲み物を運んでいたボーイを呼びよせ、マイケルはその中からオレンジジュースを選び取って手に取ると、イワンにも視線でなにか選ぶように求めてきた。慌ててトレンチの上を見ると、数種類の炭酸飲料やジュースが並び、その中には薄く透明な黄緑に色づく、香り高い緑茶も含まれていた。冷たく氷を浮かべるそのグラスを手に取り、一口飲むと、茶葉から淹れたであろう緑茶の豊潤な香りとしぶみ、甘味が口いっぱいに広がっていく。ほぅ、と嬉しく溜息をつくイワンの様子をくつくつと笑いながら眺め、マイケルはゆるりと首を傾げ、リラックスした様子で言い募った。
「ヒーローが、ビジネスだからです」
「……え?」
「君は、これから『折紙サイクロン』としてデビューする訳だけど、『折紙サイクロン』はTVに映るヒーローとして存在しなければならない。そこに私生活は存在しないし、生い立ちも経歴も関係なく、デビューした瞬間から『折紙サイクロン』は始まる訳だ。……つまりね、イワンくん。ヒーローとしての君と、個人としての君の存在は、完全に切り離され別個のものでなければいけない訳です。それはヒーロー活動の為というよりは、売り物としてのヒーローの為に。だから、君の主張や不安は正しいものです。イワン・カレリンと『折紙サイクロン』をイコールで繋げる要素は少なければ少ないほどいいし、ヒーローの正体を探り当てようとする下衆な輩に与えるヒントも同じこと。でもね、イワンくん。それでも結局、君が『折紙サイクロン』で、『折紙サイクロン』は君なんですよ」
 ああ、私は説明が上手じゃないね、と可笑しそうに呟き、若きCEOは困惑するイワンを眺めた。
「君の存在を守る用意はできています。だから、君はそんなことは気にしなくていい。……こう言えばいいかな?」
「守る……ですか?」
「そう。例えばさっき言ったような……『折紙サイクロン』とイワン・カレリンが同一ではないかと疑う場合、まずどこにも出していない筈の社員名簿との一致が不可欠です。アカデミーの卒業名簿から、ヘリペリデスファイナンスへ就職した者を調べるのも非常に有効だね。その上で、君がヒーロー事業部に所属することを突き止めれば、ヒーローの正体として君をイコールで結びつけるのはさほど難しくはないでしょう。あるいは、ヒーロースーツを脱ぐために専用の場所へ戻る君の後をつけて、さらには素顔を晒した瞬間を目に焼きつけ、あるいは写真を撮るなどして保存したのち、やはりアカデミーか我が社のデータにあるイワン・カレリンと一致させる必要がある。……アカデミーに残ったものと照合された場合、そうするのはすこし難しいけれど……これらはどれも、明らかな犯罪行為です。そしてヘリペリデスファイナンスは、犯罪行為を許すつもりもなければ、させるつもりもありません。この場にいる人たちは、給仕も含めて君のことを一切口外しない契約を交わしているし、もし一言でも、どんな形であっても、君に繋がる情報が各々の内側より発信されたと分かった瞬間、社会的に抹消されます」
 すくなくともこのシュテルンビルトではもう生きていけないし、主な都市での就業は不可能なんじゃないかな、と笑顔で囁くCEOは、各企業がヒーローのプライベートを守る為に決めた取り組みを、簡単な言葉で纏めて教えてくれた。まず、発覚した時点で解雇され、シュテルンビルトでヒーローを抱える企業、その関連会社、取引先に至るまでその者のと氏名経歴がブラックリストとして回される。社内の極秘事項を軽々しくもらす人物である。採用したがる企業はないだろう。けれどもそれは、あくまで最終手段として行使されるのであって、まず社員名簿に外部からアクセスしようとした時点で相手の通信機器が壊れるプログラムを組み終わっているし、トランスポーター周辺には厳重な警備を敷くし、なによりこの場に集まった君を知る者たちが君を守るよ、と笑われて、イワンは改めて大ホールを隅々まで見回した。言われてはじめて、この場にいる者たちは、イワンが『折紙サイクロン』だと認識している必要があるからこそ呼び集められたのだ、と知る。ヒーローの正体は絶対の秘密ではない。すくなくとも社内において、あるいは『折紙サイクロン』に携わって行く者たちにおいて、それは公然の秘密であるべきなのだ。そして知った上で、彼らはイワンを守るだろう。信頼できる相手しかいないから、それを食べたら自分から声をかけて話をしてごらん。大丈夫、噛んだりする人いないからね、と笑われて、イワンはぎこちなく頷いた。
 それからふと不思議に思って、イワンはまっすぐな眼差しでマイケルを見る。自ら挨拶に来てくれた者たちの中にも、見回した人々のどこにも、イワンを説得しに来てくれた奇異な少女の姿が見つけられなかったからだ。あの日、アカデミーにはこの年若いCEOと、あの少女だけが面接官として来ていたと聞く。それならば、彼はあの少女の行方を知っている筈だった。どうしたの、と穏やかに問うマイケルに勇気づけられながら、イワンは息を吸い込み、あの、と声を響かせた。
「キリサトさんは……今日は、いないんですか?」
「……いないよ。会いたかった?」
 なぜか、笑いを堪えているような表情で問い返すCEOに、イワンは素直な気持ちではい、と頷く。あれきり会話を交わす所か姿も見ていないが、イワンがこの場にいるのはキリサトのせいであり、その説得のおかげだった。一言くらい挨拶をしたいし、叶うのであればお礼も言いたい。いないんですか、とやや気落ちした風に繰り返すイワンに、マイケルは笑いだすのを堪えた表情で、来てもいいよって言ったんだけどね、と告げた。
「いえ、役職でもない一技術者がパーティーに出席とかありえないですし! って断られちゃいました。今日は研究室じゃないかな。スーツの最終調整に取りかかったと聞いているから」
「……いち、技術者?」
「そう。彼女はヘリペリデスファイナンス、ヒーロー事業部の、技術部に所属するただの技術者です。技術部の部長でもなければ、副部長でもない。肩書をなにも持たない、平社員。……なんだと思っていたのかな、イワンくん?」
 唖然として問い返すばかりのイワンに、マイケルはついに肩を震わせて笑いだしながら、なめらかな口調でそう説明してやった。薄々は分かっていたことだが、キリサトは、説得しに赴いた場で、やはり己の立場を正式にはあかしていなかったらしい。ややあって、イワンは信じがたいと告げるように息を吸い込み、忙しなく瞬きを繰り返して口を開く。
「CEOの……秘書か、補佐をしている方だとばかり」
「勘違いさせてすまないね。……そういうことだから、今日、彼女はこの場にいないし、呼んでも来てはくれないだろうけど」
 会社にはいる筈だから、会いに行けば会えるからね、と囁いて、CEOは戸惑うイワンの背を押した。持たせた皿が空になり、飲み物のグラスも氷を残すばかりだ。会場に用意させた食べ物や飲み物は、基本的にイワンの好みを考慮したものばかりだから、その大半が無駄になってしまうことは心苦しかったが、仕方がないだろう。あと一時間くらいはここにいて、いろんな人に挨拶してもらわなければいけないけれど、と保護者か歳の離れた兄のように囁いて。マイケルは不安げなイワンに、キリサトくんによろしくね、と笑った。



 真新しい社員証は、いくつものセキュリティーゲートをするすると潜り抜けさせ、イワンを社屋の奥へ奥へと導いた。迷路のような道筋を辿る必要があるのは、外部の人間が迷いこまない為であり、内部の者の安全を確保する為の手段だった。技術部はその性質上、危険物も扱う。安全確保の為の無人区画を数え切れないほど抜け、階段を上り、下り、エレベーターをいくつも乗り継いで、社屋の中にいるという他は現在位置が全く分からなくなった頃、イワンの視線の先に現れたのは、ここより危険区域であることを知らせる、黒と黄色の看板だった。工事現場にあるようなそれが、白くまろやかな壁に釘で貼り付けられているさまは異様であり、滑稽であり、それでいてえも言えぬ不安と緊張を呼び起こした。しかし、そのおかげでようやく辿りついたことを知る。踏み出す足は、どこか軽やかだった。角をひとつ曲がり、つき辺りにぽつんとある無機質な扉の前まで歩み寄る。ステンレスのプレートにはただ、ヒーロー事業部技術班、とだけ刻印されていた。深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、導かれるようにイワンは拳で扉を叩く。ごく普通の扉の感触で、ごく普通の音がした。それになんだか不思議な気持ちを覚えるより早く、内部から駆けてきた慌ただしい足音が、施錠の音を響かせて扉をあける。は、はっ、と息を切らしてそこに立つ少女は、イワンの印象に強く残るのと同じ仮面をつけていて、けれどもあの日とは違う白衣姿だった。ボタンを上から下まで全部止めているので、その下の私服は伺い知れない。けれども簡素な上下であることが、体の線に沿って流れるままの布地から伺い知れた。こんにちは、とイワンがいうよりはやく、少女はイワンに手を伸ばし、肩の辺りにぺたりと触れた。
「ほ……ほんとに来たーっ!」
「え、ええー……」
 思わず、不満げな気の抜けた声をあげてしまうイワンだったが、キリサトは、事前にCEOから連絡を受けたことを、冗談かなにかだと思っていたらしい。ほんとにきたーっ、と驚きながら大はしゃぎをしつつ慌てた様子で声をあげると、ばっと室内を振り返った。
「み、みんな! イワンくんきた! ほんとにきた!」
 瞬間、上がった歓声と罵声の嵐を、イワンはきっと一生忘れないだろう。十ドルだの十五ドルだの叫ぶ声はどれも若く、悲喜こもごもに雑然として響き渡った。本当にイワンが来るかどうか、技術者たちは賭けをしていたらしい。げっそりとして室内に目をやったイワンは、あることに気がついてゆるく首を傾げてしまった。技術者たちは、ざっと数えて二十名程だろうか。男も女も確認できたが、声の印象に違えず、誰もが若かった。上は三十代くらい、一番年下に見えるのはキリサトだが、彼女を除けば二十代前半くらいの者もいた。イワンが会場で会った技術者は五十代かそれ以上に見えたのだが、それくらいの年齢の者は一人としていない。年功序列で役職が振り分けられた結果なのだろう。それを示すように、彼らの目は輝いていた。自分たちがこれから力を尽くすヒーローが、歓迎会を抜けて、ここに来てくれたことへの喜びが溢れている。ちょうど最終調整が終わって一息ついていた所なんですよー、とキリサトが告げたことでハッとして、イワンは思わず問いかけていた。
「最終調整は……ここにいる人たちでやったんですか?」
「そうですよー! 大丈夫! みーんな若いですが、ここにいるのは奇人か変人か変態のどれかに属する天才ばっかりですし! 能力はすんごいので安心してくださいねー!」
「あのなにも安心できる要素がないんですけど!」
 全力で叫んだイワンに、技術者たちはどっと笑い声をあげた。なんで安心できないのかを本気で考えているそぶりのキリサトを除き、あとは全員がイワンの意見に同意らしい。それでも、明るく大丈夫大丈夫と口々に告げられて、イワンはなんだか面映ゆく、すっと背筋を伸ばして立ち直した。あやふやな、理由のつけけられない感情が、感覚が、彼らを信頼していいのだと告げていた。彼らはきっと、自分たちの技術が作り上げたスーツをとてもとても愛していて、そしてそれをイワンが使うことを嬉しく、誇らしく思ってくれている。ありがとうございます、よろしくお願いします、とハッキリ告げて頭を下げれば、室内はもうお祭り騒ぎの大盛り上がりで、こちらこそ、と声を揃えて挨拶される。キリサトも疑問をとりあえず置き去りに、嬉しそうに笑ってよろしくお願いしますねー、と告げた。
「それで、イワンくんはなにしに来たんです?」
 ウチからは偉いおっさんどもが歓迎会に出席してた筈なんですが、あれらがなんかしましたか、と上司をまるで敬わないキリサトの言葉を聞いた瞬間、イワンは若手と役職持ちの間に横たわる、軋轢と溝の存在を確信した。偉い人たち嫌いなんですか、と問いかけたイワンに、キリサトはうーん、と考える素振りを見せながらも、答えを決めている様子で口を開く。
「嫌いじゃないですけどー、あの人たち前例がないと動けないお役所みたいな感じなんでー、使えないんですよね? 実際、現場で動いてるのは私たちですし、あの人たちは技術部と言ってもデスクワーク中心であんまり、というか全然スーツには触らないんで安心してください。許可を出すのが仕事のひとたちなので。……で? なにしに来たんですか?」
 歓迎会を抜け出してイワンがここに来る理由を、キリサトはまったく見つけられないらしい。あ、スーツ見にきたとか、と手を打ちあわせて納得しかけているのを苦笑しながら見つめ、イワンは静かに首を振った。
「あなたに会いに来ました。……お礼を、言いたくて」
「……イワンくんにお礼を言われる心当たりがちっともないので、別に言わなくてもいいんですけど」
 心底理解不能だと訝しみ、少女はあどけない仕草で首を傾げた。指先が、仮面のふちを考え込みながらなぞって行く。
「私は、あなたを追い詰めて扇動しました。イエスと答えるようにです。さすがに、冷静になってそれに気がついた筈ですよね? ……だから、気にしないでいいんです」
 それでも今日、ヒーローとして入社してくれたことに、私がお礼を言わなくてはいけないくらいなのに、と笑って。少女はそっと、イワンに向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。……一緒に、頑張らせてくださいね」
「……はい」
 言葉に迷って、イワンはただ、一言だけを響かせた。少女が本心から感謝を望んでいないことが分かったので、それを尊重したいと思ったからだ。イワンの言葉にほっとしたように気配を緩めた少女の様子がなによりの証拠で、室内からはすこし感心したような眼差しが送られる。こそばゆい気持ちで身じろぎをして、イワンは用件が済んでしまったからこそ、目の前の当たり前の疑問を、ごく素直に口にした。
「そういえば、キリサトさん」
「はい?」
「なんで仮面してるんですか?」
 瞬間、場に走った動揺も、イワンは消して忘れまいと思った。視界の端で若き精鋭たちが顔を青ざめさせ、身ぶり手ぶりで『それは聞くな!』と訴えてくる。全く理解できない反応だった。そんな変なことを聞いたのか、もしかして傷でもあって隠しているのだろうかと不安がるイワンに、少女は口元にごく穏やかな笑みを浮かべてみせた。イワンとの身長差で自然と目を覗き込む形になりながら、少女はふふ、と可愛らしく笑った。
「聞きたいですか?」
「……いえ、大丈夫です」
「CEOからの業務命令です」
 遠回しの質問撤回を聞かなかったことにして、キリサトはうふふ、と上機嫌な様子で笑った。
「まったく、しかたのないひと!」
「え、ええっと……じゃあ、キリサトさんは、誰にも素顔見せちゃいけないんですか?」
 ある意味、ヒーローと同じくらいのプライベートガードがかかっていることになる。素朴な疑問に、少女はいけないってことはないと思うんですけど、と言葉を濁し、ごく普通にイワンに問いかけた。なに気負うことのない、普通の声だった。
「素顔、見たいですか?」
 どよめいたのは、やはりキリサトの背側に広がる室内だった。
「俺たちには、私の仮面を無断でひっぺがしたりした者、今後一切の希望を捨てよとか言ったのにっ?」
「まあ見ても良いですが、記憶を失うにはどれだけ頭部に衝撃を与えればいいのか実験はーじまーるよー、とかなりますがいいですか? とか言ったのに!」
「ちょっと! 人聞き悪いんでやめてもらえますーっ? 確かに言いましたけどー! 最初にそれだけ言っておけばあえてチャレンジしたりしないかなってだけでー!」
 嘘だあの目は絶対本気だったっ、と訴える若手技術者一同を、この後どうしてやろうかと考える慈愛溢れた目で見つめ、キリサトはイワンに再度問いかけた。
「で? 見たいですか?」
 そこで見たいと言えるほど、イワンは自殺願望に溢れていない。丁重にお断りします、と告げたイワンにくすくすと笑って、キリサトは分かりました、と言った。その後、改めてイワン、イコール『折紙サイクロン』の社内紹介を兼ねた祝いの場にて、酔った勢いで素顔を見せてもらったのは、イワンの人生の選択における大きな過ちである。なぜなら、素顔を見せてくれたらなんでも一つ言うこと聞いてあげます、とイワンは告げ、少女はそれに輝く笑顔でじゃあ人体実験させてください、と叫んだからだ。もちろん、イワンは断った。酔いが覚める音ってするんですね、と後に語った青少年は、少女の素顔の印象を問われ、こう答えたという。ごく普通の可愛い女の子でしたよ、と。なぜ、少女が素顔を隠す業務命令を受けているのかは、ヘリペリデスファイナンス七不思議のうち一つである。命令を下したCEOは黙して語らず、少女も口を噤んでいるが故に、理由を知る者は未だ存在していない。



 広告塔ヒーローとしてデビューした折紙サイクロンは、ヘリペリデスファイナンスの予想を全く裏切らず、シュテルンビルトに物議の嵐を発生させた。その大半がヒーローらしくないという批判であったが、全体のほんの数パーセントに新しすぎて判断できないけれど、まあこんなヒーローが一人くらいはいても良いかもしれない、という肯定が混じっていたので、関係者は揃って胸を撫で下ろした。諸手をあげて歓迎されるなど、最初から思ってはいない。すこしだけ受け入れられ、すこしずつ、受け止められていけばいいだけの話だった。デビューから一月が過ぎ、二月が過ぎ、半年が過ぎ去った頃には、折紙サイクロンはヒーローとして、これまでとは少し違った楽しみ方をされるようになってきた。折紙サイクロンは、広告塔ヒーローである。そうであるから効率的にTVに映り続けなくてはならず、結果として活躍するヒーローの背後に現れたり、画面の端で見切れたり、視点を移動し続けるカメラを追って次々と場所を映して現れたりしたのだが、それを面白がる者が出てきたのだ。折紙サイクロンを探せ、というのは、いつしか合言葉のように浸透し、ヒーローを特集する雑誌でもその言葉で数ページが割り当てられるようになった。当然、広告の効果も上がってくる。
 ヘリペリデスファイナンスのロゴだけが刻まれていたヒーロースーツに新しい企業ロゴが登場したのは、折紙サイクロンのデビューから一年となる記念日のことだった。それは驚きと喜びを持って市民に歓迎され、折紙サイクロンの存在そのものが、娯楽として受け入れられたことを示していた。批判は変わらずに存在していたが、それは折紙サイクロンというヒーローの活動の仕方についてであり、広告を最優先とする見切れの姿に向けられるものであり、存在そのものの批判ではなくなっていたのだった。そんな折のことである。ヒーロー界とシュテルンビルトは、新たな存在を迎え入れることとなった。バーナビー・ブルックスJr。ヒーロー界初の顔出しヒーローはイワンと同じヒーローアカデミーの出身者であり、その存在は、イワンの意識を強く揺れ動かすものだった。シーズンの終わりに颯爽と登場したルーキは、翌シーズンから目覚ましい活躍を見せ、ヒーロー界に『コンビ』という新しい概念を持って来た。それは学生時代、共に歩んでいた親友を目の前で失ったイワンに、どれ程眩しい存在だったのだろうか。自分がかつて描いた理想のような、悪をくじき、市民を守るヒーローの姿を目の当たりに、受け入れていた己の職務と比べ、どう思っていたのか。技術部はそれを知らず、ただイワンを見守り続けた。若い技術者たちはあの日、ありがとうございますと頭を下げてくれた自社ヒーローの姿を覚えていて、ひたすらにそれを信じていた。批判の声もあった。広告を優先するという事項さえ守れず、時にTVカメラに映れもせず戻ってくる折紙サイクロンを、苦々しく罵る者も確かにいた。それも、変化の兆しであったのだろう。
 一つ目の転換点は、誰も予測できなかった事故めいた事件として、彼らの前に現れた。かつてイワンが塀の向こうに失った親友、エドワード・ケディが脱走し、アカデミーに現れたというのだ。技術者たちがそれを知ったのは全てが終わった後であり、そして市民と同じ時だった。思い詰めた顔をしてヒーロースーツを身に纏い、最近はとんと御無沙汰になっていた『いってきます』の挨拶も高らかに、TV画面の前に現れた折紙サイクロンは、陽気な声で、それでいて誓いめいた決意で、視聴者に向かって宣言した。これからは、見切れだけでは終わらない、と。一瞬の、理解するまでの静寂のあと、爆発的な歓声が研究室を支配したことを、きっと折紙サイクロンは知らないだろう。それは、かつてイワンをヒーローとすべくキリサトが説得した言葉を、もう嫌だと言わんばかり否定する言葉であったが、それでいて、彼を自社ヒーローとして押し頂く技術者たちの、押し殺して目を反らしていた悲願のような言葉でもあった。いつか、いつかきっと必ず、自分の意思でヒーローになりたいのだと、そう叫んでくれる日がくることを、彼らは恐らく、イワン自身よりも信じて待って、そして報われたのだ。
 TVの前で宣言した勢いはどこへ置いてきたのか、おどおどと戻ってきたイワン・カレリンを出迎えたのは若き技術者たちの歓声と、キリサトの無言の握手だった。強く握った手が喜びに震えて、温かく、イワンに少女の喜びを伝えた。これからはもっと頑張るから、一緒に頑張っていくから、と口々に祝福する騒がしさの中、少女はあの日、とちいさな声で囁くように告げた。あの日、私が告げたのは全部が嘘ではないけれど、イワンくん、私は、あなたに向かって嘘をつきました。ひどいことを言いました。あなたをヒーローとして迎えたいが為に、分かっていて、あなたを傷つけて追いつめました。ごめんなさい。ヒーローにしてしまえば、いつかって、そう思っていました。いつか、イワンくんがもう一度、自分でちゃんと希望を取り戻して、なりたかったヒーローになる為に、もう一回頑張ってくれるんじゃないかって、待っていました。だから、ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします。折紙サイクロン、そして、イワン・カレリン。私たちのヒーロー。あなたがヘリペリデスファイナンスのヒーローであることを、私たちのヒーローであることを、これまでもそうだったけれど、これからは今以上に、嬉しく誇らしく思います。でも、決して無理はしないで。危険のさなかに急に飛び込んで行くには、あなたには経験がなく、私たちにはサポートの技術が足りない。いつか、必ず、そういう日は来るだろうけれど。その時には必ず私たちも頼って、そして一緒に、あなたを守る術を連れて行ってください。イワンはそれに、確かに頷いた筈だった。二つ目の転換点が、焦りによってイワンから正常な思考を奪い、そして技術部のヒーローという存在に対して盲目的な者がそれを見逃したりさえしなければ、確かにそれは叶えられる筈だった。
 彼らがそれを知ったのは、やはり全てが終わった後だった。どうしようもないほど、取り返しがつかなくなってからだった。許可を下すのは役職持ちの者で、技術者たちはただスーツの整備をする為の存在であることを、キリサトがこの時ほど、悔やんだことはなかった。ジェイク・マルチネスを捕らえる為、イワンは単身、擬態能力を発動させ、敵陣に潜入したという。身に着けていたのは補助的なアンダースーツだけで、ヒーロースーツは研究室の片隅に、完璧な整備をされて置き去りにされていた。イワンの能力ではヒーロースーツもろとも擬態させることはできなかったから、アンダースーツのみで行くしかなかったのだろう。その自体を想定できないくらい浮かれていた自分と、あれでもヒーローなのだから大丈夫だろう、とその状態での出動を許可してしまった役職持ちの両方を、呪い殺したいくらいキリサトは悔やんだ。もしも、ヒーロースーツも能力の範囲に含ませるような作りにしておけば、きっともうすこし、安心して待っていられたのに。折紙サイクロンの潜入失敗と、意識を失って病院に運び込まれた報告を聞いたキリサトは、その足をまっすぐにCEOの元へと向かわせた。七大企業のCEOと市長が集う会議室に臆することなく足を踏み入れ、すぐ終わるからとマイケルを連れ出し、キリサトは宣言する。逃げるのを止めにするから、だから。私に、技術部トップの座をください。こんな想いをもう二度と、あなたにも、私にも、技術者たちにも、そしてイワンくんにも、絶対に味あわせない。理想を守る為の、実現する為の力をください、と。告げた少女に、CEOは待ち焦がれた告白を聞く喜びで笑い、いいよ、と囁いた。
 ジェイク・マルチネス事件終結からしばし、ヘリペリデスファイナンスでは異例のリストラが決行された。主にヒーロー事業部の、技術部に対してそれは行われ、残ったのは若き精鋭のみだという。人数にして、二十余名。あの日、歓迎会を抜け出して来たイワンを、出迎えた者たちだった。

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