BACK / INDEX

 事件を終えて一月が経過した、春のはじまりが見えてきた、ある日のことだった。バーナビーの元に、一通の手紙が届く。白い封筒の清楚な佇まいのその手紙は、アポロンメディアからトレーニングルームへと直に転送され、ヒーローたちの邪推を呼び起こす。もちろん、バーナビーは明日もアポロンメディアに出社する予定であるから、こんなに急いで、直に運ばれてくるなどなにか事件ではないのか、というのだ。バーナビーは心底呆れた様子で隠し子ではありませんよ、と言いながら手紙を受け取り、差し出し人を確かめようとくるりと裏返しにした。その動きが、停止する。まさか本当に心当たりでもあるのか、とヒーローたちに動揺が走るが、真っ先に違う、と気がついたのはパオリンだった。少女は眉を寄せてバーナビーに寄り添い、震える腕に指先を添えて、下から顔を覗き込んだ。
「……どうしたの?」
「バーナビー?」
 パオリンがそういう反応をするのであれば、カリーナもまた、間違えはしなかった。不安げに腕を引っ張って呼びかけてくるのに、バーナビーは無言で眉を寄せ、告げぬまま手紙を開封する。歩み寄ったイワンは、ひょいと封筒の宛名を覗き込んで、沈黙した。マーガレット・テイラー、と書かれている。
「……誰から?」
「サマンサ、おばさんの……娘さんから、です」
 中に入っていたのは、飾り気のない数枚の便せんに綴られた、綺麗な文字の手紙だった。座って読もう、とソファまで引っ張られて行ったバーナビーの右をカリーナが、左をイワンが、背中から覆いかぶさるようにパオリンがくっつき、その様子を、すこし離れた所から虎徹は見守った。そろりと虎徹を探して彷徨ったバーナビーの視線がバディを見つけ、ほっと和んでから、傍らに寄り添う家族のぬくもりに、緊張を解いて行く。宛名を見て、すぐにそう、と気が付くくらい。バーナビーはそれを知っていて、予想していたのだろう。一行目に書かれていたのは時節に添う挨拶と、ひとつの、事実。
『母、サマンサ・テイラーが息を引き取りました。病室にて、家族や孫に見守られての、穏やかな旅立ちでした』
 手紙は、すこし前から年齢の為に、サマンサが体調を崩しがちであったことを告白していた。病院に定期的に通っていたことや、先日のマーベリックの逮捕という事件が心痛となって急激に体調を崩してしまったこと。それでも、最後までしっかりとした口調で、バーナビーのことを話していたという。幼いバーナビーがどんなに可愛らしかったか、両親を失ってから引きとってやれることもできず、それがどんなに心苦しかったか。せめてもの気持ちで誕生日にケーキを焼いて送れば、ほんの短い通信であろうとも、毎年顔を見せてくれたことがどんなにか嬉しかったか。ヒーローとしてデビューした時には、まるで息子のように誇らしく、心配して見守っていたことや、若い女の子に混じって雑誌を購入してしまったこと。先日、不意に泊まりに来てくれた時は久しぶりの手料理を本当においしそうに食べてくれて、今でも嬉しくてたまらなくなること。その時にバーナビーさんは、サマンサおばさんになにひとつ恩返しができず申し訳ないと言っていたけれど、決してそんなことはなかったのだとサマンサは告げ、穏やかに、笑いながら息を引き取ったのだという。私も、と手紙には書かれていた。
『恩返しをしていないと、悔やむことはありません。どうか、そうとは思わないでください。母は私たちが羨むくらい、昔からずっと、バーナビーさんのことを愛していました。先日、一週間ほどお泊りになられた時のことを、私たちがうんざりしてしまうくらい、何度も何度も、嬉しげに教えてくれました。息を引き取るその寸前まで、坊ちゃまのことをバーナビー夫妻に教えて差し上げられると言って、私たちを呆れさせたくらいなのです。あなたは、母の宝物でした。空の向こうへ還った今でも、きっと宝物のままでしょう。墓地の場所を記載します。よかったら、顔を見せに行ってあげてください。
 あと、整理していたらハウンドケーキのレシピが見つかったので、同封してお送りします。私たちはすっかり分量も覚えてしまっているので、それはバーナビーさんの手元に置いてあげてください。それでは、これからのご活躍も応援しております。テイラー家一同を代表して、マーガレットより。』
 くっ、と喉をならして、歯を食いしばって。ぼろぼろと涙を流すバーナビーの手を、イワンとカリーナは強く握り締めた。パオリンはバーナビーの背にぴったりとくっついて抱きつきながら、寂しいね、と言った。
「次の休みに、会いに行こう」
「パオリン……」
「バーナビー。ボクたちが一緒だよ。ひとりになんか、なってないんだからね。……どうして会えなくなっちゃうんだろうね」
 ついこの間まで、会いに行けばそこにいてくれたひとなのに。名前を呼んでも、もう二度と、呼び返されることがない。そのことが上手く信じられない。震えながら息を吐いて、バーナビーは涙を流した。泣かないで、とは言わず。バーナビーが泣きやむまで、三人はずっと傍にいた。バーナビーが立ちあがれるようになるまで、体温と鼓動を、分け合っていた。



 今日はずっと一緒にいたいんだ、と告げられて、明日の早朝から技術部に呼び出されているので帰りたいです、と断れる程イワンは冷たい訳ではない。キリサトに電話して事情を説明したら、分かりました末長く爆発してください、と笑顔で告げられた。なんでも日本のごく一部で流行している、カップルに対する祝福の言葉なのだそうだが、正直なところ、イワンには呪いにしか聞こえないので止めて欲しかった。まあ、月に一度の定期検診であるから、キリサトも別に本気で怒っている訳ではないのだろう。日程ずらしておくから検査だけはちゃんと受けてくださいね、と告げられただけで、一緒にいるなと言われなかったのがその証拠だ。技術者は未だに、イワンの能力を暴走するきっかけになったキースに対して根深く警戒しているふしがあって、だからなのだ。警戒を解いて貰うにはイワンの心が安定していて、それを数値で証明し続けなければいけないのだが、なんてことはない。キースはイワンを離すつもりがなさそうだし、こちらとしても離れてやるつもりがないので、つまりは時間が解決してくれる問題だった。まだすこし慣れないキースの部屋で所在なげに腰かけながら、イワンはPDAが一度だけ鳴り響き、すぐに切れたのを合図に立ちあがった。尻尾を振ってあとをついてくるジョンを撫で、窓の鍵を開けて身を乗り出し、星明かりのきらめく夜空に向かって手を伸ばす。
「おかえりなさい、キースさん」
 ごう、と風が垂直に落下してくる。すぐに手が繋がれて、イワンは眉をひそめた。指先が、冷たい。浮かぶ体をぐいっと引っ張って入れながら、イワンは何度目かも分からない注意を口にした。あのね、キースさん、と刺々しい声が響く。
「帰って来る時は手袋してくださいって、言いましたよね? 手袋どうしたんですか? こんなに冷たくなっちゃって!」
「忘れて来てしまったよ!」
「忘れてきたんじゃないでしょう、どうせ。わざと置いてきちゃったんでしょう……!」
 にこにこ笑いながらソファにもすん、と着地してブランケットをかぶるキースに、イワンは額に指先を押し当てながら息を吐きだした。どうも、繋ぐ手の皮膚が触れていないと嫌らしいキースは、イワンが何度手袋を持たせても、それをそのままポセイドンラインの更衣室に置いてきてしまう。スーツを脱いで私服に着替える場所に手袋が置いてあるので、そう慌てていなければ毎回忘れてくる訳がないのだ。これはもう、アントニオさんに教えてもらって、手編みの手袋を渡すしか方法がないかも知れない。完成する前に、温かい春が来るだろうけれど。来年の今頃にはきっと必要だから、無駄になることはないだろう。
「……考え事かい? それとも、怒った?」
 そっとソファから立ち上がって下から顔を覗き込んでくるのに苦笑して、イワンはゆるく首を振ってやった。窓を閉め、鍵もかけてソファに腰かければ、追いかけてきたキースもイワンの隣に座り、嬉しそうに笑って身を寄せてくる。このひとは絶対、分類的には犬の方だな、と思いながら頭を撫でて、イワンはふとあまやかに漂う香りに気がついた。
「……シャワー、浴びて来ましたか?」
「いいや? どうしてだい?」
「女の子のシャンプーの香りがします。カリーナみたいな」
 パトロールの途中に会いましたか、と首を傾げれば、キースはよく分かるね、と苦笑いを浮かべた。
「氷をぶつけられて、呼ばれたよ。用事があったらしい」
「……カリーナ。やめてあげてよ……」
 シュテルンビルト広しといえど、パトロール中のスカイハイになにかを投げつけられる相手など、カリーナしかいないだろう。命中させられるコントロールにも改めてぞっとするが、聞いていて胃がきりきりと痛んだ。だって用事があったし、通りがかるのが見えたから、と主張するカリーナの姿が目に浮かんだが、イワンの溜息を引きだすだけだった。あとでメールでも送ろう。そう思っていると、キースがわくわくした表情でイワンを見つめていることに気が付き、自然と笑みを浮かべた。
「どうしました?」
「うん。イワンくん、手を出してくれるかい?」
「……はい、どうぞ?」
 いや僕そんな性的な意味ででしょうかとか思わなかったからこれっぽっちも考えていなかったから、と全力で己に対して言い訳をするイワンの、ぎこちなく差し出された両てのひらに、キースは赤いリボンで結ばれた、ちいさな布袋をそぉっと置いた。ふわん、とあまやかな花の香りが漂う。
「……ポプリ、ですか?」
「そうなんだ! 以前、カリーナくんに白い薔薇の花束をあげたことがあるんだが、その花をポプリにしてくれたらしい」
 渡す機会をずっと逃していたからちょうどよかった、と言っていたよと告げるキースは少女に花束を送った理由を恋人に告げはしなかったが、イワンはちゃんとそれを、知っていた。あの花束だ。公園に通っていた時の、キースの想いの象徴のような、美しく気高い白薔薇の花束の。あの、花びらだ。
「……良い香りですね」
「そうだろう? カリーナくんも、イワンくんもきっと気に入ると言っていたよ!」
「カリーナが……カリーナに、僕がいるって言ったんですか?」
 別に隠してもいないし、イワンとキースが恋人同士であることをカリーナも知っているので会話としておかしいことはないが、それはなんとなく、帰ってすぐキースがイワンに会うことを前提とした言葉のような気がして、問いかける。キースは笑顔のままで首を傾げて、特に言わなかったね、と告げる。言葉にならない溜息をついて、イワンはそうですか、と言った。
「カリーナは、他になにか?」
「確か……」
 考えながら、キースは忠実に、少女の物言いを再現してくれた。カリーナは、すでに寝るところであったらしい。可愛らしいパジャマ姿でポプリをスカイハイの手に差し出してくれながら、どこか楽しげに微笑み、枯れた白薔薇のはなびらで作ったポプリだから、イワンが香りを気にいったらあげればいいんじゃないかしら、と。香油で匂いは足してあるけど、しばらくすれば薄くなってくるし、キースから貰えば喜ぶと思う、と。聞いて、引っかかるものがあったので考え込み、意味に気がついて、イワンは口元を手で覆った。カリーナは、それを知っていてわざとキース越しにイワンに伝えたに違いない。もらっちゃいなさいよ、と笑う少女を恨めしく思い起こして、イワンは己のてのひらにのるポプリの袋を、じっと見つめた。イワンの手に乗せた、ということは、キースはそれをくれるつもりなのだろう。じっと顔を見つめても笑うばかりで、そこから過去の恋簿頃の名残や、複雑さを感じ取ることができなくて、イワンは深く、息を吸い込む。
「キースさん」
「うん」
「……これ、僕が貰っていいんですか?」
 ずるいやり方だ、と思う。傷心につけ込んでキスをした時から、きっと、手口としてはなにひとつ変わっていない。知らないことを良いことに、イエスを得るやり方。ネガティブな方向に思考が沈んで行くのを感じながら問いかければ、キースはその薄ぼんやりとした暗闇をはらってしまうかのよう、眩い満面の笑みでいいとも、と言った。
「もらって欲しい。君が、よかったら……!」
「そうですか。では頂きますね。……ところで、キースさん」
 苦笑いと共に問いかけずにはいられなかったのは、キースがあんまり嬉しそうで、あんまりキラキラしていて、あんまりうきうきしていたから、罪悪感が引っ込んでくれなかったせいだ。
「うん、なんだい?」
「枯れた……枯れた白薔薇の花言葉を知っていますか」
 知らないならどう告げれば一番傷つけないで済むだろう、と思いながら、イワンはポプリに口付けるよう顔を近付けて、あまやかな香りを胸いっぱいに吸い込んだ。華やかで、甘すぎるような気もするが、どこか落ちつく香りだ。もしかして染み込まされた香油自体は、薔薇のものではないのかも知れない。明日カリーナに聞いてみよう、と思っていると、ポプリの上からそっと手を包まれる。イワンくん、と呼ぶ声が弾んでいた。
「知っているよ」
「そうですか。……えっ?」
「うん? 貰ってくれるんだろう? イワンくん」
 幸福そうに、うっとりと微笑むキースは、確かにその花言葉を知っているのだった。枯れた白薔薇の花言葉。それは『生涯と誓う』という。生涯を君に誓い、そしてそれをあげるよ、と笑い、キースは硬直するイワンに、くすくすと笑った。
「君が知らないと思っていたんだが……なんだ、イワンくん、知っていて貰ってくれたんだね? 嬉しいよ。とても嬉しい」
「う、ううぁ……キースさんは、なんで知ってるんですか」
「カリーナくんは物知りだ! とっても!」
 そういう意味込みでのカリーナからの贈りものだったことを、イワンは初めて気がついた。してやられた、と思う。カリーナにも、そして、そんなそぶりを見せもしなかったキースにも。じわじわと頬に熱が集まって行くのを感じて、視線をゆっくりと反らした。とがめるように甘く、声が囁く。
「イワンくん。……イワンくん、嬉しいよ。本当に、とても、とても嬉しいんだ。嬉しい、イワンくん。嬉しい……」
 はぁ、と満ち足りた溜息をつかれて、イワンは改めて、キースのことが好きだと思った。こんな風に囁かれて、喜びで胸がいっぱいでどうしようもない様子を目の当たりにして、鼓動が早くなるくらい、息がつまるくらい、幸せだと感じる。恋が。こんなに心弾ませるものだとは、思わなかった。
「……イワンくん」
「はい……はい、なんですか?」
「あいしているよ……」
 うっとりと微笑んで、あまく溶け滲む声でそっと囁かれて。恋という想いそのものに、叩き落とされる。意味の分からない涙が出て来そうで息を必死に整えていると、キースは風を抱く穏やかな動きで、ソファに座るイワンの前に両膝をついた。ポプリを持つままの手を引き寄せ、首を傾げるように、キスがひとつ。向けられる視線は透明な、ひどく美しい、空の青。
「私を、君の一部にしてくれると幸せだ」
「……一部、ですか」
「うん。そう、たとえば……ここに」
 伸ばされた指先が、トン、とイワンの胸を叩いて離れていく。
「君の、心のある場所に……私を住まわせて欲しい」
 そうすれば、会えなくなる日が来ても。きっとずっと一緒だろう、と囁くキースに、イワンは手を伸ばしていた。そっと頬を撫でれば、嬉しげに目を細めて笑われる。なぜ、今日キースが一緒にいたがったのか、ようやく分かった。サマンサを失ったバーナビーの姿に、喪失するということを思い出してしまったからだろう。カリーナが今日に限ってスカイハイを乱暴に呼びとめたのも、敏感に気がついていたからに違いない。それは確かに、今日でなければいけなかった。
「僕も、キースさんの一部に……なりたいです」
「うん。おいで。……でも、風になるのはいけないよ。私は君に会いたい。顔を見て、言葉を交わしたい。触れて、手を繋いでキスをしたい。君のままで、私のものになって欲しい」
「……僕だって、ちゃんと一緒にいたいですよ?」
 自分で選んで風に擬態してしまっていた訳ではないのだと告げれば、キースは嬉しげにくすくすと笑い、うん、と頷いてくれた。その笑顔にイワンは、傍にいてくれたんだね、と叫ぶようにして告げられた瞬間を思い出す。そして、息を飲んだ。それはなんのきっかけだったのか。古い箱の鍵が開いて、鮮明に思い出が零れ出す。記憶があざやかによみがえった。思い出したのは、ひとつの希望だ。希望を抱いた、理想のことだ。アカデミーにいた時、隣にエドワードがいて、まだ笑いあっていた時。どんなヒーローになりたいかを、まだ夢物語のように語り合いながら、笑いあっていた時のこと。イワンが一番はじめに思い描いたヒーロー。それは、スカイハイの隣に立つヒーローになること、だった。憧れていた。ひたすらに、目指していた。そのひとの隣に、そのひとの助けとなって、立つこと。それをエドワードは笑いながら、馬鹿だな、と言った筈だった。馬鹿だなイワン、それはヒーローの仕事じゃねぇよ。叱るように笑われた、けれどもそれが、それこそが、イワンの夢見た。
「……キースさん」
「うん? ……どうしたんだい? イワンくん」
「僕は……あなたの、助けになれたでしょうか」
 泣きそうに顔を歪めるイワンを、すこし心配そうに眺めて。それからキースは力強く、イワンの不安を消してくれた。
「助けてくれたよ、イワンくん。君は……私を、何度でも」
「……ヒーローみたいに?」
 馬鹿な問いだ。分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。キースは辛そうに問うイワンにふふ、と笑い、手を伸ばして頭を抱き寄せてくれる。ぎゅっと背も引き寄せられ、抱きしめられながら、イワンはキースの声を聞く。
「君はヒーローだよ、折紙サイクロン」
「……うん」
「助けてくれたね。何度だって君は私を、助けてくれた。……ありがとう、ヒーロー。……ありがとう、折紙サイクロン」
 君が、こういう風に泣くのをはじめて見たよ、と愛おしげに囁いて。キースは泣きじゃくるイワンの瞼にそっと唇を寄せ、祝福のようなキスを送ってくれた。



 通い慣れた道を、ゆっくりと歩く。公園に吹く風はやさしく、キースのことを出迎えてくれた。空は光に溢れた水の色をしていたが、どこまでもなめらかな薄い雲に覆われ、太陽の姿は見えなかった。光はぼんやりと降り注ぐばかりで、どこかを明るく照らしだしたりはしていない。加えて今日はすこし、風が強い。梢が揺れ動く音が耳に触れ、けれども気分を穏やかなものにさせた。キースは両手に抱えた花束を、いつも座っていたベンチの上に置いた。白いカスミソウの花束をレースペーパーでくるみ、赤いリボンで留めた花束。かつて抱えて通っていた白薔薇のそれより、ずっと彼女のイメージに近い気がして、微笑みを浮かべる。花屋の少女はキースの姿に目を見開いて、おひさしぶりですね、と笑い、詳しい事情はなにも聞かずに、語る想いに添うような花束を作りあげてくれた。感謝を伝えたいんだ。きっとただ、それだけだったんだ。会えないけれど、でも、それだけを伝えて贈りたいんだ。
「……ありがとう」
 風が吹いている。すこし強めの、穏やかな風が。導き、行く先を指し示すかのように。ざあざあと音を立てて、吹いている。
「君に会えて、本当に嬉しかった」
 花束を留めるリボンに、身を屈めてそっと口付けて。かつての恋心を宿して、キースは微笑み、立ち上がった。
「もう行くよ」
 それじゃあ、また。囁いて身を翻し、キースは数歩ベンチから離れた。その背を突き飛ばすように強く、荒れた風が吹き抜けていく。ごうっ、と音を立ててキースの背から瞬く間に天へ駆け抜けて行った突風は、置き去りにした花束のリボンを解き、花を巻きあげて吸い上げていく。息を飲んで、キースはそれに手を伸ばした。艶やかなリボンに、指がかかる。けれども。
「……っ!」
 握り締めるより早く、するりとリボンは指を撫で、空の高くへ飛んで行ってしまった。飛んで追いかけることができるのだと、そのことすら忘れ、キースは茫然と空を見上げる。その背を、そっと抱くように。優雅に動く、女性の腕のように。包みこむように、風が、吹いた。
「……え……?」
 どくり、と大きく音を立てる心臓を持て余しながら、キースは振り返ってベンチを見た。そこには誰も座っていない。花束を追いた名残もなく、ひかりがただ一筋、差し込んでいた。風が吹く。穏やかに。それでいて、強く。
「……っ、あ……!」
 空を、見上げる。雲の切れ間はどこにもない。天へ巻きあげられていったリボンも、花も、いくら探しても見つけることができない。ベンチを振り返る。ひとすじ、奇跡のように現れた光の帯が、音もなく消えていくところだった。穏やかな感謝を伝えるように、キースに向かって風が吹く。
「……キースさん?」
 おずおず、声がかけられる。視線を向ければそこには、イワンが立っていた。公園の出入り口で待ちあわせていた筈なのだが、いつまで経ってもキースが来ないので、探しに足を運んでくれたのだろう。ああ、なにか言わなければ、と思いつつ言葉が出てこないキースに、イワンは手を伸ばしてきた。指先が、キースの目元をぬぐう。涙がひとすじ、流れていたことに、そこでようやく気がついた。拭った指に口付けて笑い、イワンは柔らかな笑みで問いかけた。
「なにか、悲しいことでも?」
 聞きますよ、だから話して、と求めてくる恋人に手を伸ばし、キースはイワンを力いっぱい抱きしめた。
「……イワンくん」
「はい」
「彼女に、届いた気がしたんだ……。ありがとうと、伝えられた、そんな気がして……!」
 思い違いかもしれない。勘違いかもしれないそれを、イワンは黙って聞いてくれた。ぽんぽん、と手が背を撫でていく。やがて、ぎゅっと独占欲を示すように抱き締められて、キースは笑いながらイワンを抱き返した。
「イワンくん……大丈夫だよ、イワンくん!」
「……いえ、ちょっと抱き締めたかっただけなんで」
「彼女にした私の恋は、私を飛び立たせて、それからすこし、迷わせてしまったけれど……君への恋は、私の空を広げてくれる。私を空へ、戻してくれる。そんな恋だ」
 だから、大丈夫。飛び立ってそして、何度でも君の元へ戻るよ。笑いながらイワンに口付けて、キースは静かに問いかけた。
「飛び立たせてくれるかい、イワンくん。そして、必ず、君の元へ戻ろう。……誓うよ。だから、どうか」
 飛ばせて、と。囁くキースの背を撫でていたイワンの手が、離れる。ゆっくりと、不可視の翼を撫でるように空を愛でた手が、キースの服を掴んで引き寄せ、唇を重ねさせた。シュテルンビルトに、風が吹く。梢を揺らして、どこまでも。裏路地、日溜まり、花屋の店先。ビルの谷間や、硬く繋いだ手の表面、重ねた唇のすぐ傍を。風が吹く。空は晴れ。どこまでも青く。

BACK / INDEX