訪れはいつも唐突で先触れや予兆めいたものはなにもなく、現実味を帯びた重たい音が響けばそれが逢瀬の合図だった。月明りが冴えるばかりの冷えた夜に窓硝子がゴトリと重たい音を室内に伝え、イワンはものも言わずに椅子から立ち上がり、視線を外へと投げかけた。窓枠に硝子が嵌まっていなければすぐさまそこから侵入したがる雰囲気で、まるでそこが小さな扉であるように、足をかけ身を屈め、ひとりの青年が室内を覗きこんでいる。ちらりと背に見え隠れする純白の輝きに、息を弾ませながら窓に近寄った。鍵を外す指先が震えていたことに、気が付かれたくはないけれどとうに知られているに違いない。外開きの窓を避け、キースは一度窓枠を蹴り、その身を空に躍らせる。風と遊ぶような優美な動き。ふわり、と頬を撫でて行く夜風とまなざしに、口元には微笑が浮かぶ。震えを知られていたとて、きっと、これは知らないに違いない。飛び立つ動きを美しく思い、愛おしく抱き、寂しくも申し訳なくもなるなんて。室内に入る為の決まりごとめいた仕草ひとつで、この逢瀬の為だけに天から降りてくる彼の人の心を推し量る。このまま飛び立ちはしないだろうか。けれども風の中を泳ぐようにしてキースは窓のすぐ傍まで戻り、足をかけた状態でゆるりと目を細めてみせた。
「こんばんは、イワン」
おいで、と声なく唇が動かされるのに、耳までカッと熱くなるのを感じる。求めに逆らえるとも思っているのだろうか。あるいは、従順に従うものとでも思われているのか。どうしようもなく焦れ、故に逆らう気すらないのだと知られているのだとしたら。考えて、けれどすぐ、イワンはその考えを打ち消した。晴れすぎた真昼の空色の瞳が、イワンが間違いなく傍に来ることだけを信じて向けられている。このひとは純粋なのだ。それも、ひどく。なんの為にか吐き出しそうになる息を胸の中で凝らせて、イワンは窓辺に歩んで行く。月明りの輝きが強くなり、そっと、目を細めた。眩さに眩暈を感じたふりをして、窓枠を持つキースの腕に手を触れさせる。息をして、覚悟を決めてから視線をぐんと持ち上げた。夜闇に翼が広がっている。濡れた黒色とも、藍色ともつかぬ静寂ばかりの空気をまとわせるように、白い翼がキースの背からしなやかに広がっていた。宗教画にあるような水鳥のそれに似た印象ではなく、それはもっと力強く。一度だけ近くで見た鷹や、鷲のそれに近いようだった。白く、白く、輝きを孕むそれは、イワンの身長の倍はあるだろう。羽根のひとつひとつの形は完璧に整っていて、キースの纏う風に、時折震えるように身動いた。畏怖と憧憬は、心の同じところにある。視線をゆっくり巡らせて、イワンは求められるまま、キースの瞳を覗き込んだ。ゆるく、息を吸う。
「……こんばんは、キースさん」
うん、と囁き一つ残して、伸びてきた腕がイワンの体を抱きしめる。床から踵が浮き上がるのを感じながら、イワンは彼の人の肩越し、夜に咲いていた翼をぼんやりと眺めた。それはもう光の残滓だけを残して消えてしまうところで、再び現れるとしたら、朝日を待たずにキースが飛び立って行く時だけなのだ。完全に翼を消したキースの背に腕を回し、指先で肩甲骨の形を辿る。服の上から爪を立てれば、喉の奥で低く笑われた。君は本当に可愛い、と告げられ、イワンは目を閉じるだけで言葉を返さなかった。
求められている想いを知るには、声音ひとつで十分過ぎた。肌から染み込んで血液と一緒に全身をかけ巡るような甘く痺れるような響きは、やがて正常な思考をも奪うように意識をじわりと白く塗る。イワン、イワン。その響きが、たった三文字の名を表す音が、なにより嬉しいのだと告げるよう、楽しいのだと歌うよう、何度も何度もキースは囁いた。耳に口付けたまま、乾いた唇が肌を擦りながら音を紡いで行く。逃れられぬよう頬を大きな手で包み込まれているから、首を緩くふるくらいではすこしも声は変わらなかった。白いシーツを波立たせる指が震える。覆いかぶさる体に触れることを恐れているようなそれに、キースは柔らかく笑むだけだった。いいよ、と許されているような気がする。
「……イワン」
「っ、キー、ス、さ……」
耳から離れた唇が、首筋に押し付けられたままで名を囁く。肌の表面に、奥に、なにかを言い聞かせ刻み込むような響き。男の笑みは変わらない。柔らかく、優しく微笑んで、けれどイワンを包み込む手は離れなかった。イワン、イワン、と繰り返し囁かれる。いいよ、と許されているのに、どこか寂しそうで胸が痛んだ。
「……キースさん」
「うん」
視線が肌から持ち上がる。薄暗い中でも迷うことなく、重ねられる視線には信じられないくらいの熱があって泣きそうになる。呼ばれる名前で十分なのに。これ以上は怖くて申し訳なくなりそうなのに。与え足りない、と思う意思を無視できない。苦労して手汗の滲んだ手指をシーツから引きはがし、腕を絡めるようにしながらキースの首を抱き寄せる。指先から手首が弧を描くのは、万一、爪を引っ掛けることがあってはならないからだ。キースの首の後ろで手を組み合わせて引き寄せ、同時に体を持ち上げて、汗ばんだ額に唇を寄せる。吐息がかすめるだけの口付け。
「キースさん」
「……イワン」
「キースさん、キースさん……っ」
頬を捕らえていた手が離れて、イワンの瞳がさびしげに揺れる。離れないで、と求めた声が響く前に。背を抱き寄せられて、息が詰まった。もっと近くに、と掠れた声が囁く。
「おいで。……甘えたさん」
いいよ、と許されて。また意識が白く、塗られて行く。
どこかで見た覚えのあるクリーチャーが廊下をカサカサと移動しているのを半眼で眺め倒し、バーナビーは溜息と共にしゃがみ込んだ。踏んづけて駆除しようかと思わなくもなかったが、万一、飛び立たれでもしたら悲鳴をあげてしまうかも知れない。クリーチャーの動きに驚いて悲鳴をあげるバーナビー、というものは想像であっても受け入れがたいものがあったので、とりあえずはもう少し観察しようと思ったのだ。虫用のスプレーを持ってくるのはそれからでも良い。利くか利かないか、は置いておいて。じっと視線を投げかけていれば、そのクリーチャーに見覚えがある理由がすぐに分かった。これは折り鶴、というものだ。オリガミを決まった手順で折って行くと完成する、東洋の芸術品。折り鶴。バーナビーが見知ったものは足が生えて居なかった筈だが、そもそも、カサカサと二足歩行で移動するようなものでもなかった筈である。さてこれはネクストの仕業なのか、あるいは誰かの悪戯なのかと考えて、バーナビーは一番確認しやすい可能性から確かめてみることにした。カサカサ、カサカサ音を立て、一生懸命廊下をよちよち移動している折り鶴クリーチャーの前にひょいと片手を差し出し、指先でトントン、と手のひらを叩く。
「……先輩」
バーナビーの見立てでは五分か、それ以下くらいの可能性の賭けだった。無視されれば違うということで間違いなかったのだが、果たして折り鶴クリーチャーはぴたりとその歩みを止め、バーナビーの方を見るような動きをした。にこ、とバーナビーは笑って見せる。大慌てでぴょん、と手の上に飛び乗った折り鶴クリーチャーに顔を寄せながら立ち上がり、バーナビーはさて、とおかしそうに呟く。
「教えてくれると嬉しいんですが、折紙先輩」
なにを、と言わんばかり折り鶴の羽部分がぱたりと揺れる。話せないものに擬態している時は基本的には話しません、と言っていたことを思い出し、バーナビーはやや微笑む。まあ、これでいきなり彼の声がしても驚くだけだから、構わない。
「いえ……そのお姿で、なにを?」
踏みつぶすかどうか迷いましたと笑顔のままで嘯けば、折り鶴は怯えた風に大慌てで逃げようとした。ぴょいっと手の中から逃れようとするのを指先でつまみあげ、その軽さにやや沈黙する。完全に一枚の紙の重量しかない。擬態能力は質量保存の法則を無視するらしい。分かっていたことではあるがしみじみと感心して、バーナビーはあんまり暴れると紙なんですから破れますよ、と言った。ぴた、と抵抗が無くなるのだから可愛らしい。心持ち、ぷるぷる震えているような足つき折り鶴を目の高さまで持ち上げて、バーナビーはゆるく唇を持ち上げてみせた。
「先輩」
ふふ、と笑みが零れる。
「教えてくれたら『温泉まんじゅう』をあげます」
おじさんからの頂きものですが、先輩ならば良いです、と言ったバーナビーに、折り鶴はまるで飛び立とうとでもしているように、ぱたぱたぱたぱた忙しなく羽を動かして喜んだ。
半透明の鉱石だ。眠る赤子の心のように、純粋な白を宿した半透明の鉱石。それはなにものにも染まらぬ色であり、なにものにも変化していく色だ。彼の声は例えるならば『それ』だった。揺れる意識でそう考えながら瞼を持ち上げれば、前髪を梳いて行く指先があった。額を擦って行く毛先がくすぐったいが、文句を言うには意識が唇を動かす程には目覚めていない。ふぅと息を吐いてもう一度瞼を閉じれば、子守唄にするには意識が求める心地良い声が、さわりさわりと空気を揺らしているのを感じた。
淡く吹く風に似ていた。なにを歌っているのか耳を澄ませても、言葉は途切れ途切れにしか伝わって来ない。勿体ないと思いながらも、それでも十分心が満ちていく。歌うだなんて知らなかった。それも、ひとが寝てる間に。起きている時に歌声を聞いた覚えがないから、もしかしたらこれまでも、眠る意識に囁きかけていたのかも知れない。彼が歌っていたのは恋歌だった。いとしく、いとしく、囁かれていた。視線は己とは違う方向に向けられているのかなにも感じなかったけれど、皮膚には触れず、前髪を撫で続ける指先が己に対するものだということを告げている。目を閉じたまま、手を伸ばして指先を掴む。
驚いて跳ねる指を逃がさず、口元に引き寄せて唇を押し当てた。そのまま紡いだ言葉が、彼の奏でた歌の一節だと、気がついただろうか。穏やかな影が顔にかかる。前髪に口付けた唇が歌のように、おやすみねぼすけさん、と囁いた。
バーナビーの怒り方には二種類ある。頭に血が上ってしまってひどくこどもっぽく喚くやり方と、逆に意識がすぅっと凪いだ状態でひどく冷静になるやり方だ。今日は後者らしい、と虎徹は安全圏に身を隠しながら思った。なぜ分かるかと言えば、もうすでに横顔からして全然違う。頭に血が上った場合の面差しは頬にうっすらと朱が散り、目は吊り上げっていて身ぶり手ぶりも加わるものだから、それはもういかにも怒っています、という状態が出来あがっているのだ。
対して、冷静になった時のバーナビーは、笑う。微笑する。うっとりと見惚れるような麗しい笑みを浮かべ、ちょっと機嫌よさげにほんのすこし、右に首をかしげて見せる。それから背筋を伸ばして緩く腕を組み、カツン、とブーツのヒールを微かに鳴らして立ち直す。モデルのような立ち方ではなく、それは脚全体に緊張を漲らせた立ち方。つまりは蹴るも踏むも自在に行えるように絶妙に調整された戦闘状態に己の状態を調整してしまうのだ。それに初めて気がついた時、虎徹は正直、血の気が引いた。
なにが怖いって、それが本人の無意識であることが一番怖い。つまりは敵とみなすのだ。怒らせた相手を、今から怒りを叩きつける相手を、バーナビーは純粋に敵とみなすのだ。それは言葉による罵倒より純粋に肉体的な危険を予感させるが、基本的にバーナビーは一般人に向けて暴力を振うことがない。基本的にがつくのはワイルドタイガーではない時の虎徹や、折紙サイクロンではない時のイワンがしばしば被害にあっているからだ。
雑誌の取材でスキンケアはなにをしていますか、と問われたことがいらついたので蹴らせてくださいと事後承諾で言い放たれた時、虎徹は最近の切れやすい若者本当に怖いと思ったものだが、男として気持ちは分からんでもなかったので甘んじて受け入れてやった。さて今日はなにがそんなに気に食わなかったのかと思い、虎徹はそーっと顔を出してバーナビーが敵認定を下した取材記者を観察した。まだ年若い青年は、バーナビーよりすこし年上くらいに見える。
青年はぽかんと口を半開きにして、麗しく微笑むハンサムの顔を眺めていた。気持ちは分からんでもない。あれは極上の微笑みだ。ただし表面だけ。色彩を失った業火に程近い瞳の奥の怒りに、さて彼はいつ頃気が付くだろうか。というかバーナビーは本当になんで怒ったのかと、真面目に聞き流していた質問事項を記憶を探って蘇らせ、虎徹はぽん、と手を打ちあわせた。思い出した。確か、バーナビーさん、最近の私生活はどうお過ごしですか女性の噂なども聞きませんが、とかなんとか。数日中に、確実にバーナビーブラック質問リストに追加されるであろう要項を思い出し、虎徹はバーナビーが薄く唇を開いたのを見て取り、両耳を手で塞いだ。