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 15話の後風味 先輩と後輩:空折・虎兎前提

 ちゃんと寝ろって言っただろ、と優しい声に叱られたので、バーナビーは仕方なくトレーニングルームの端で横になることにした。ヒーローたちが合同で使うトレーニングルームは様々な器具が置かれている他に、体を動かす為の空間や休憩の為のソファがいくつも置かれているが、圧迫感などまるで感じさせない広々とした作りになっている。バーナビーが横たわったのは、そのいくつもあるソファのうち一つで、トレーニングルームの最も死角なりやすい場所に置かれたものだった。場所を選んだのはバーナビーではなく、寝かしつけるにしては甘く前髪を撫でて行った主で、彼は現在、相棒の半日休暇をもぎ取りに上司の元へ足を運んでいる筈だった。スポットライトに照らされた空間は、苦手ではないが好きでもない。あの場所に身を置くことで情報を得ようとしていた時は、苦手だとか好きだとか、そもそも考えなかった筈なのだが。くゆるように安定しない思考を持て余し、バーナビーは静かに息を吐きだした。どうでもいいことを考えるくらい、心が逃避したがっているのを自覚する。うとうとし始めた意識で、記憶と文字情報が混在して旋回する。両親の微笑み。研究所の記憶。先日のアンドロイド。語られた忌まわしい研究、その成果。炎の中に倒れ動かなくなった愛しさ。絶望にまみれた無力感。怒りと悔しさ。赤黒く染め上げられていく感情と意識。ああ、嫌だ。眠ってしまおう。バーナビーが眉間に皺を寄せながら、閉じたまぶたに力を込めた瞬間だった。ふっと空気が動き、胸元に重みが加わった。
「……は」
 ぱち、と目を開けたバーナビーが見たのは、仰向けに寝転がっていた己に覆いかぶさるようにして顔を伏せたイワンの髪だった。しがみつくように両手でバーナビーの服を握り締め、イワンはものも言わず、後輩の胸に顔を伏せている。数秒間沈黙したのち、バーナビーはそぅっと手を持ち上げ、イワンのあちこちに跳ねる銀髪を撫でてやった。シャワーを浴びて乾かしてきたばかりなのだろう。シャンプーの甘い匂いと、温かでさらりとした髪が指に心地良い。よしよし、と無言で撫でていると、イワンはふるりと首を振る。
「触らないで」
「……よくこの体勢でそんなこと言えますね、先輩」
 呆れ交じりに溜息と共に告げてやれば、顔を伏せたまま、イワンはすん、と鼻を鳴らして息をしたようだ。涙の気配はなかった。顔は伏せられたまま、持ちあがる気配を見せない。バーナビーはイワンのくるりとしたつむじを見つめて、もう一度そっと、髪を指で撫でた。
「なにか、嫌なことあったんですか?」
「バーナビーさんが」
 撫でないで、と言わんばかりの意思を灯した瞳がそろりと持ち上がり、バーナビーの瞳の奥を見る。僕が、と言葉を促す呟きで声を止めれば、イワンは聞きわけの無い子供に言い聞かせるような口調で言った。
「不景気な顔で眠ろうとしてるので、体温でも分けてあげようかな、と思っただけです」
「……抱き枕とかに擬態してくれた方が嬉しいんですが」
「なにそれ。ワガママ言わないでください」
 無表情に近い不機嫌顔で淡々と言いきり、イワンはまたバーナビーの胸に顔を伏せてしまった。重いんですけど、と呟けば訓練だと思えばいいじゃないですか、と返されたので、バーナビーの先輩は後輩の上から退く気がないらしい。まあいいんですけどね、と溜息をつき、バーナビーはよしよしとイワンの頭を撫でてやった。
 十数分後、戻って来た虎徹が見たのは互いに抱きしめ合って眠るイワンとバーナビーの姿で。コイツら仲良いよなぁ、と感心した呟きに、反論する者はなかった。



 バニーちゃんはマーライオン可愛い 空折がくっついてだいぶ経過してる

 イワンがアルコールに酔うことは少ない。少ないだけで飲み過ぎればもちろん酔うのだが、何度か付き合ってもらったネイサン曰く『アタシも途中から記憶がないのよねぇ……』とのことなので、どれ程の酒量を重ねればその状態に陥るのかを、イワンは未だ理解していなかった。アルコールの度数や量を、一々計算しながら飲むなんてことはしないので。宴席のはじめ頃にお前なに飲んでんのとイワンのグラスを煽った虎徹は、部屋の端でぐったりと意識を見切れさせたまま、一時間が経過してもまだ復活する気配を見せない。
 相棒が先輩のグラスを飲み干してから倒れるまでの一連の流れをひどく冷めた目で見ていたイワンの後輩は、虎徹を爪先で突きながら中身を問いかけた。先輩それなんですか、とすでに若干引いている声で尋ねられたので素直にウォッカと答えたのだが、それ以来、バーナビーはイワンに不自然なくらい近づかず、虎徹の傍に座り込んでカクテルを舐めている。そんな、別に警戒しなくても無理に飲ませて潰したりしないのだが。氷が溶けて薄まっていた中身をぐいと飲み干して、イワンはさてこれで何杯目だっけ、と考えながらグラスを机の上に置いた。
 宴席の大きな長方形の机には、大皿の料理やつまみ、それぞれが注文して飲んだグラスで溢れかえっていて、酔っている訳ではないのだが今一つ己の物が判別できない状態だった。酔うまで飲み続けるかはともかく、今日もイワンは己の正確な酒量を把握しないままに宴会を終える運命であるらしい。タッチパネルに指先を踊らせて次なる飲料を、面倒くさかったので瓶で注文し終えてから、イワンはふと室内に視線を巡らせた。十畳ほどの広い部屋を五人で使用しているので、探し人はそう時間を取らず見つけ出すことができる。
 不自然な程に顔を赤らめて、キースはネイサンの隣でにこにことビールを飲んでいた。ぐーらぐーらと大きな体が時折左右に揺れているのを見る分に、あれは相当酔っている。キースの近くに置かれた空き瓶の数はそう多いものではなく、宴席開始からはたったの一時間である。そんなに度数のあるビールを飲んだのかと瓶を引き寄せて確認すれば、数ヶ国語の説明が記載されたラベルに、四%の文字が輝く。イワンにしてみれば水の代わりに飲めるワインより圧倒的に低いもので、どうしてそんなに酔えるのかと思うが、そこがキースというひとの可愛らしい所だ。経済的とも言う。
 最近のヒーローの出動回数と平均任務時間、平日の睡眠時間などを考えれば単純に疲れていたのだろうけれど、それだけではないことも分かっていた。はあ、と息をついて立ち上がり、イワンは音もなくネイサンの隣に座り込んだ。
「あまり飲ませないでください。……頭が痛くなると可哀想でしょう?」
「あら、お世話してあげなさいな」
「そういうことじゃなくて。……キースさん。キースさん? 気分は」
 どんな感じですか、と問いながらノンアルコールドリンクを注文すべくタッチパネルに伸ばされた指が、画面に届く前に絡め取られる。視線を向ければ体をゆらんゆらんさせながらキースがイワンのことを見ていて、視線が重なると太陽のような笑みを浮かべられた。イワンくん、ととびきり嬉しそうな囁きつきである。この人は時々僕のことを殺すつもりだとしか思えないと遠ざかる意識で思いながら、イワンは勤めて息を吸い込んだ。
「キースさん、手を」
「イワンくん! ちょうどよかった! ちゅーしよう!」
 視界の端で見切れていたバーナビーがマーライオンのようにカクテルを吹き出すのを確認しながら、イワンはぎこちなく首を傾げてみせた。どうしてアントニオのように完全に関係ないふりをして料理に舌鼓を打っていなかったのかとも後悔するが、同じ空間にキースがいる限り、最初からそんなことは不可能なのだ。彼の世話をしたい、というのは、もう抗えきれない欲求だと受け入れて久しい。久しいのだが、それにしてもなにがちょうどいいのか全くもって理解できない。にっこにこにっこにこ嬉しそうに楽しそうに笑ってちゅーしよう、と再び言ってくるキースに、イワンはええと、と言葉を探しながら視線を向けた。
「しませんよ?」
「しよう?」
「言い張らないでください。酔っちゃってもう……」
 キースさんが酔っちゃった時には醒めるまでキスしませんよって言ってあるでしょう、と言い聞かせると同時、空色の瞳がしょんぼりとした色を灯す。
「でも今キスしたいんだ……君にキスしたい」
「ダメ、です」
 ぴし、と言い放てば大きな体がしゅぅん、と一回りちいさくなるようだった。苛めているような気分だ。はぁ、と息をつけば、隣からネイサンが不思議そうに訪ねてくる。
「してあげればいいじゃない」
「……事情があって」
「あら」
 どんな、と問いが向けられたのを、イワンはキースの腕の中で聞いた。一瞬の隙をついてイワンを腕の中に抱きこんでしまった男は、やたらと機嫌が良さそうなとろける笑みで恋人と額を重ねてくる。甘えるようにぐりぐり額を擦りつけられ、イワンは自然と喉を反らすように、キースの目を覗きこむ。
「キースさん、だから」
「イワンくん。ちゅーしよう。ね?」
 イワンのものより一回り半大きな肉厚の手が、頬を撫でるように包みこんでくる。これは不味い。離れようとキースの胸を押した指がぐっと力を込めてしなっても、ぐらぐら揺れていた筈の体はびくともしなかった。何時の間に腰に腕が回されていたのか、イワンは完全ホールドされていた。ゆるり、笑みが甘く解けて、顔の距離が近くなる。角度を作るのにほんのすこし、頬に触れた手が動かされた。
「ん……」
 その手を振り払うことが、どうしても出来ない。温かいこの手が、魔法のように風を編むのを知っている。ひとを救うてのひら。愛しくて、どうしても傷つけることができない。触れて欲しい。触れていて欲しい。この人の手に優しく包まれる幸福を知っているからこそ。逃れられない。離れられない。唇が額に触れ、頬に触れ、唇の端を辿って上唇を軽く吸って一度離れて行く。吐息は短く、囁くように空気が揺れた。ちゅう、と音を立てて唇が重なる。ちゅ、ちゅ、と唇が吸われて、また頬に触れ、髪に触れ、幾度も幾度も嬉しげに、愛を囁くようにキスが落とされて行く。
 イワンくんのつむじ可愛い、と笑われながら髪に唇が押し当てられるのを感じながら、イワンは視線を動かし、二人の触れ合いを愛おしげに見つめているネイサンを見た。視線が合う。『それで?』と問いかけるようなうつくしい炎に、イワンは諦めでいっぱいの気持ちで告げる。
「キースさん、酔うとキス魔になるんですが」
「そのようね」
「あと二時間くらいは、キスし続けるんです」
 繋いだままの手が引き寄せられ、指先に吐息が触れて行く。視線をやると爪に口付けたままウインクされたので、イワンは柔らかく微笑み、指の甲でキースの頬をそっと撫で返してやった。まあ、と呆れとも感嘆ともつかない様子でネイサンは言う。可愛いのねえ、と笑われて、イワンは苦笑ぎみに唇を和ませた。



 戦うイワンちゃんが書きたかったことは覚えてる

 はい、おはようございますバーナビーさん今日はいい天気ですね水も滴る良い男コンテストとかあったら出場すれば良いですよバーナビーさんなら多分入賞できますから僕は見てるだけというかそんなもの出たくないんで遠慮しますけど所でアカデミーの体術の授業は覚えてますか覚えてますよねさすがバーナビーさん僕もバッチリ覚えてます良い機会なのでちょっと手合わせとかしませんかしてくれますよねしますよねさすがバーナビーさんありがとうございますじゃあタイガーさんちょっとバーナビーさん借りますね。狩りますねの間違いなんじゃないかと最初から思ってた、と後に虎徹はバーナビーに語る。分かってたなら止めてください、と腹に拳を叩きこまれたのは当たり前のことだろう。
 その日は朝から豪雨だった。日付を変更した辺りから振り始めた雨は勢いを弱めることなく、シュテルンビルト全域を水で覆い尽くしてしまうようだった。幸い、浸水などの被害は出ていない。けれども午後まで同じ勢いで雨が降り続ければ分からないとのことで、ヒーローたちには有事に備え一カ所に集合しているように、と通達が下されていた。そんな状況であるからイワンは普段のバイク通勤を取り止め、バスと電車を乗り継いでトレーニングルームにやってこようとしたのだそうだ。その判断がバーナビーの不幸の始まりである。イワンの不幸というより、すでにバーナビーの不幸と言っても過言ではないだろう。虎徹たちが息を飲んで見守るモニターの中で、バーナビーの腹にイワンの折り曲げられた膝がめり込んだ。横隔膜を強打する一撃。体を二つ折りに咳き込んだバーナビーが、倒れなかったのは若さゆえの体力と日頃のトレーニングの賜物であるが、すでに半ば意地だろう。
 床を掘り削るような踏み込みと体重移動で留まったバーナビーから素早く離れ、イワンは肩を大きく上下させて呼吸を整えている。額には汗がびっしりと滲んでおり、体に張りついたトレーニングウェアが消耗の激しさを物語っていた。ゆったりとした黒い半ズボンが太ももの半ばに張りついているさまは、事情を知らぬならばいっそ扇情的であり、事情を知ればただ恐ろしかった。白い、なんの飾り気もない半袖も、服を着ていて動きを制限しない以外の意味は持たされていないのだろう。鍛え上げられた筋肉の筋がうっすらと見てとれた。バーナビーとイワンは全く同じ服装で対峙していたが、印象が違うのは単に身長と体格のせいだろう。すらりと鍛え上げられた体躯のバーナビーは、与えられた痛みを逃そうと緩く頭を左右に振り、翠玉の瞳を苛立たしげに細めていた。唇が動けば言葉を吐きだしていることを知らせるが、リアルタイムの映像だけで音声を切っている虎徹の元に音までは届かない。
 横から伸びてきた指が音声のスイッチを入れた。虎徹の視線を向けられ、カリーナはだって、と唇を尖らせる。なに言ってるのか気になるじゃない。そうなんだけど、と渋い顔をした虎徹の耳に、バーナビーの声が飛び込んでくる。
『……痛いんですけど』
 それはそうだろうな、と虎徹は思う。先程の膝蹴りの前にも、バーナビーはかなりの攻撃を加えられている。それを行ったのはイワンだが、対峙する青年は遠回しな終了の申し出に、なぜかひどく嫌そうな顔をした。痛いのは別に知ってる、とその顔に書いてある。
『大丈夫ですよ、バーナビーさん』
『いえなにも大丈夫じゃないんですけど先輩』
『我慢我慢』
 ね、と言い聞かせるように告げた、微笑みの残像が網膜に刻まれる。鋭いものが風を切って行く音。頭と脚の間に腕を食い込ませることで一撃を回避したバーナビーは、身軽く離脱して着地したイワンに、我慢の限界のような視線を向けた。
『……反撃しますよ、先輩』
『すれば?』
 おいで、と指先を踊らせて誘うイワンの口元に笑みさえ浮かべられていなければ、バーナビーも切れはしなかった筈なのだ。たぶん。ぶちっ、と相棒の忍耐が引きちぎられる音を虎徹が聞いた瞬間、バーナビーがほぼ初めての攻撃に転ずる。なんであんまり反撃しなかったのバニーちゃん、とのちに聞いた所、明らかに相手を馬鹿にする表情で先輩に攻撃するとか先輩のアカデミー時代の成績とか知ってから選択肢に入れてくださいと言われたので、あえてしていなかったらしいが、その時はもう冷静になれていなかったのだろう。踏み込みによって相手との距離を詰めたバーナビーの片足が優美な線を描くように持ちあがり、イワンの肩をしたたかに蹴り飛ばす。まともに肩を蹴られたイワンの体勢が崩れる。頭からぐらりと下に倒れかかった体は、しかし直後に床につかれた手によってまっすぐに跳ね上がった。直線的な動きで再び腹を蹴られ、バーナビーはその場にしゃがみこむようにて動きを止めた。イワンも、背中から床に落下してしばし動かなくなる。ぜいぜいと荒い呼吸音だけが響いたので、虎徹は再び音声を消そうとした。
 したのだが、それより早くバーナビーの舌打ちが響く。だから、と世を呪うような声でバーナビーが叫ぶ。
『痴漢にあったストレスをひとで解消しないでくださいって言ってんですよっ!』
『尻を揉まれただけで痴漢じゃないですあれは痴漢じゃないんです絶対に痴漢じゃないです! なんでぼくが朝から痴漢なんかに会わなきゃいけないんですか女の子でもないのに!』
『先輩の顔が可愛いからじゃないですか! ちょっとやめてください腹ばっかり狙わないでください陰湿な苛めみたいじゃないですかばーかばーか先輩のばーか! 痛い! 痛いって言ってるじゃないですか痛い痛い痛い!』
 全身をばねのようにして飛びあがったイワンが、未だダメージから回復しないままのバーナビーを容赦なく踏もうとしていた。がつがつ音を立てて食い込む靴底から、バーナビーは床を転がることで逃げ回っている。果てしなくシュールな光景だった。素直に先輩の八つ当たりを受けていた分、体力的な消耗が激しかったのだろう。背中を踏みつけられて拘束されたバーナビーは、痛い痛いと叫びながらじたばたもがいていた。
『痛いんですってば! 踏まないでください先輩実はドエスでしょう! いっ、いたたたたた! ちょ、いたいいたいいたいっ! ば、ばか! 先輩のばかっ! ばかーっ!』
『バーナビーさん、悪口のボキャブラリー少ないですよね。せめて××××くらい言ったらいいのに。……で? なにか言うことは?』
『っ……先輩は痴漢にあったりしてません! 僕の勘違いでした!』
 つまり、開口一番で先輩大丈夫でしたか痴漢にあったりしませんでしたか、と後輩に心配されたことが相当頭に来たんだろうな、と虎徹はしみじみと考え、放送禁止用語の悪口を微笑みながら言い放つイワンの声をこれ以上響かせないよう、再び映像の音声をオフにした。



 アウトを書こうと思ったらアウトのあとになった空折

 乾き切った空気に光が差し込んでいる。目を開けてしばらくそれを眺め、イワンはベッドに手をついて体を起した。隣では健やかな寝息が響いている。すこしばかり早く、目が覚めてしまったらしい。申し訳程度に服を身に付けた状態で寒さに眉をゆがめ、イワンはのそのそとした動きで床にはらい落とされたタンクトップを拾い上げ、ジャケットとズボンも引き寄せ手早くそれらを身に付けた。冷えた室内と同じ温度の服はイワンの体からさらに熱を奪い、温めることをしてくれない。溜息をついて体から滑り降りた毛布を引き寄せ、肩までかけて枕に頭を逆戻りさせれば、うっとりと夢にまどろむ含み笑いが、すぐ近くから響いてくる。溜息をついて手を伸ばし、イワンはキースの頬に指先を触れさせた。
「起こしちゃいました? ……なに笑ってるんですか、キースさん」
「うん? ……さむい?」
 おいで、と囁く声と腕は同時に与えられる。イワンの包まる毛布ごと胸に引き寄せ、ぎゅうっと抱きしめるキースの意識は半覚醒なのだろう。ほわほわした口調でイワンくんだ、と嬉しげに頭に頬を擦りつけられて甘えてくるのに息を吐き、イワンはキースの体に手を回してやった。冬用のぶ厚い生地のパジャマをちゃんと着こんでいるから、キースの体はイワン程には冷えていない。けれども布地が邪魔をして体温を感じられないので、イワンは数秒だけ考え、キースのパジャマの下に腕を突っ込んだ。うとうととまどろんでいたキースがびくっと体を震わせるが、それでも起きるまでには至らないのだろう。イワンくんが冷たい、としょんぼりした声で囁かれて、イワンは慰めるように背をそっと撫でてやった。
「すぐあったまるので、我慢してくださいね。……というか、なんでキースさんだけちゃんとパジャマ着てるんですか」
「着ないと夜が寒いじゃないか……」
 至極まっとうな答えが、昨夜イワンの服を剥いであれこれ好き勝手し、最終的に下着だけ身につけ直した所でもう限界と意識に判断させて眠らせる原因を作った男でさえなければ、受け入れられるものだったのだが。イワンはにっこりと笑って、冷えた手をキースの背中に押し付けた。さすがに、目が覚めてきたのだろう。こら、と甘く咎める声を無視して、イワンはキースの背中を撫でていく。昨夜なんども縋りつき、指先で辿った背中は寝汗でしっとりとしていて覚えているものと感触が違う。
「……仕方ないな」
 好きにさせると決めたのだろう。苦笑しきりの声でかたくイワンを抱き寄せた腕は、眠りを誘うようにイワンを撫でてくるばかりで、背を辿る手を止めさせようとはしなかった。
「君は、私の背が好きだね……?」
「そう思いますか?」
「うん。……いとしく、触れてくれる。君の指が、私も好きだよ」
 たまらない、というように喉を震わせて笑われる。意趣返しに爪を立ててやれば、キースはますますイワンを抱きこんで、決して離そうとはしなかった。息苦しいくらい抱き寄せられて、イワンはそっと目を閉じ、指先でキースの骨のかたちを辿って行く。まっすぐに伸びる背骨も、肺を守る肋骨の形も、それらを覆う筋肉もなにかつくりものめいて美しく、イワンはそっと息を吐きだした。肩甲骨の形をなぞる。飛び立つ鳥の、はねのあと。ぐっと指先に力を込めて、息を吸い込む。
「……キースさん」
「うん? なんだい」
「キースさん、キースさん。……キース」
 イワンくん、イワン、と柔らかく名が呼び返される。強く抱きしめられながらキスしてもいいですかと囁けば、キースはどうぞ、と笑って目を閉じてくれた。

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