飲み物を買って帰ってくるまで、多めに見積もって五分はかからなかった筈だ。五分前の記憶を探ってみれば虎徹は確かに起きていた筈なので、さてこれは眠っているのか意識を失ったのかと考え、バーナビーは自分のデスクにコーヒーの入った紙カップを置いた。ふわりと立ち上るにおいは香ばしく、目の覚めるような気持ちにさせてくれるというのに、虎徹は椅子の上で腕を組み、首を斜めの方向に傾けたまま動かない。その瞼はかっちりと下ろされている。繰り返される呼吸は平常より深く緩やかで、近くによって頭を観察しても殴られたりした様子がない為、これはやはり眠っているのだ。五分。たったの五分で眠れる虎徹をバーナビーは羨ましく思い、けれど心から呆れて息を吐きだした。幸い、昼休憩の最中である。その時間をなにに使おうと虎徹の自由ではあるのだが、デスクの上をざっと確認してみるも、アラームになるようなものは置かれていない。携帯電話にベルのマークは表示されていないし、PDAは時間予約を示すライトを灯していなかった。これでは休憩時間が終わっても、起きないのではないだろうか。バーナビーはさてどうするかと考えたまま、自分の椅子をひっぱって虎徹の傍に近寄り、十五センチくらいの距離でバディの寝顔を観察した。
近い、と文句を言われそうな距離であるが、眠っているので声は響かない。コーヒーをゆっくりと喉に通しながら、バーナビーは思うさま虎徹の寝顔を観察した。起きていればぺらぺらとしやべり続けるか、あるいはぽつぽつと言葉を落としこんでくる形の良い唇は動かず、寝息と沈黙を響かせるだけでバーナビーの視線に耐えていた。ふと、むかむかして苛々して切なさで息苦しくなり悲しいような気持ちで胸の奥がつんと痛むほど、この男の事が好きだということを思って、バーナビーは息を吐きだした。末期だ。こんな、ほんのすこしの沈黙にも耐えられないくらい好きだなんて、それはまるで依存めいている。眠っていて欲しくないだなんて。起きて自分を見て笑って、話しかけて欲しいだなんて。バーナビーは一気にコーヒーを飲み切り、ゴミ箱にそれを投げ入れた。時計を見れば昼休憩終了五分前。ちょうどいい時間である。バーナビーは椅子から立ち上がり、虎徹が妙な体勢で体を預けている椅子にそっと手をかけた。起きたら絶対に首が痛いだのもう歳だのと騒ぐことが予想できたが、バーナビーに言わせて見ればまず寝姿と寝る場所に問題があるのであって、加齢を嘆く姿は笑いしか誘わない。ああ、でも絶対に言うんだろうなぁ、と思いつつ、バーナビーはそっと、唇を眠るまぶたに押し当てた。
「……さあ、起きてください。虎徹さん」
閉じた目の上なら憧憬のキス。
現場の範囲が広すぎる。なんなのよ馬鹿ーっ、と忙し紛れに通信に向かって叫べば、不鮮明な音声でアニエスが我慢しなさいと言ってきた。その声があんまり頭が痛そうでなければ、ブルーローズはもっと文句を言ってやったのに。人気のない道路をバイクで疾走しながら、ブルーローズは二キロ先の火災現場へ急いだ。焦げ臭い風が頬を容赦なく叩き、喉の奥を痛めつけてくる。げほ、と大きく咳き込んだ所で現場に到着したので、ブルーローズはバイクを急停止させ、飛び出すように大地にヒールを叩きつけた。ガツン、と音がして地に降り立った瞬間、すでにブルーローズは能力を発動させていた。黒煙をあげるビルを包みこむように能力を発動させ、一瞬にして巨大な氷の塊に変えてしまう。現場で一般人の救出に当たっていた消防士たちから畏怖の視線が向けられるが、少女がそれに反応する暇はなかった。げほげほと咳き込みながらバイクにまたがりなおそうとした所で、腕が強く引っ張られる。
「ブルーローズ」
「バー、ナビー……っ、アンタ、どうしてここ、に」
「このエリア担当だったもので。……口開けて」
咳き込み、苦しい息の合間に問いかければ、バーナビーは普段通りの口調でそう答え、少女の半開きの口めがけて飴玉を押しこんで来た。ライムミントのすぅっとした甘みが、乾いた口の中でじわりと溶けて行く。間髪いれずに唇に押し当てられたミネラルウォーターのペットボトルを掴み、ブルーローズは無心でそれを飲みほした。
「こちら、バーナビー。ブルーローズを保護しました。……はい、はい。はい、ええ、なんとか」
五百ミリリットルのペットボトルは、あっという間に無くなってしまった。やや物足りない気持ちで一息つく少女の口に、バーナビーは通信でなにか相談しながら、今度は熱中症予防のタブレットを押し入れる。ちょっと、と不服げにしながらも素直に口にするブルーローズの様子を眺め、バーナビーは心から息を吐き出したくなった。まったく、ブルーローズを一人で動かすと頑張りすぎるから止めろと、再三アニエスに言っている筈なのに。連続放火魔が次々と建物に火をはなち、シュテルンビルト中を逃げ回っている状況であるから、少女の能力が最も有用であるのはバーナビーも分かっている。分かっているが、上の指示に従って、ブルーローズはすこし頑張りすぎなのだ。ふらふらになって、倒れてしまう寸前になっても気がつかず、次の現場へ、その次へとかけて行こうとする。塩分と水分を補給して、意識がすっきりしたのだろう。ふう、と心地よく息を吐きだして、ブルーローズはまっすぐな目でバーナビーを見上げた。
「止めても、私は行くわよ?」
「……数年前のサボり精神を、復活させてくれてもいいんですよ?」
「昔は昔。今は今!」
ふん、と鼻を鳴らして笑う少女は、汗と黒煙ですすけて汚れ、疲れ切っていて、それでもまっすぐに背を伸ばしていた。眩しげに目を細めてその姿を見つめ、バーナビーはバイクを走らせて行こうとするブルーローズの手を取り、てのひらに唇を押し当てた。
「どうか無事で」
「アンタも」
「行ってらっしゃい」
告げると、少女は柔らかく口元を和ませ、いってきますと微笑んだ。
掌の上なら懇願のキス。
欲望とは、根源的にはうつくしくきよらかなものである、と男は言う。その横顔がそこまで酔っている風でもなかったから、ネイサンはそっとカウンターに肘をついて身を乗り出した。二人きりで飲む時に、饒舌であるのならそれだけで珍しい。さてなにがあったのかと思いを巡らせながら、ネイサンは氷がゆるく溶けるグラスを指先で持ち上げ、唇をそっと湿らせた。
「続けてちょうだい。御高説を拝聴するわ?」
「からかうなよ。……だがなぁ、ネイサン。そうは思わないか?」
それは、うつくしく。そしてきよらかなものである。繰り返し告げたアントニオに、ネイサンはそっと微笑みながら口には出さず胸の中に言葉を響かせた。思わない。きっぱりと否定的に、そうとは思えない。どうしてそう思うの、と続きを促すネイサンから同意を得られなかったことを不服げに感じながらも、アントニオは低く静かに言葉を繋げて行く。
「欲しいと、望むことだろう」
「……そうねぇ」
「そのものが、欲しいと望むことは……なんだ、その、そうだとは思わないか?」
すこしばかり酔いが覚め、美しいだの清らかだの口に出すのが面映ゆくなったのだろう。うろうろと視線を彷徨わせてジョッキを煽るアントニオを、ネイサンは目を細めて眺めた。顔は好みではない、と思う。性格もそこまで惹かれるものはないし、酒の好みも正反対に近い。それなのに欲を持ち、望む感情を深く見つめれば、それは清らかでも、美しいものでもないのだった。恋でもしたのだろうか、とつまらない気持ちで思う。面白くない気持ちで、なぁに、とネイサンはそれを問いかけた。
「好きな娘でもできたってことかしら?」
「だったら」
ふ、と短く男くさく笑う横顔の、瞳だけがこちらを見ていた。
「どうする?」
「……どうもしないわ」
駆け引きめいた言葉の繋ぎは、やはり、この男らしくない。見かけは普段と変わらずとも、悪酔いでもしているのだろうか。まったく、誰が面倒をみると思っているのだか。そろそろ飲むのはやめておきなさいな、とジョッキを取りあげるネイサンの手首を掴み、アントニオは難しげな顔つきで目を覗き込んで来た。
「どうもしないのか? ネイサン」
「ええ。……ねえ、離してちょうだい。どうしたの?」
「お前が欲しい」
うつくしく、きよらかな。根源的な欲望でもって、存在を求める。酔いなどひとかけらも存在しない、まっすぐな目で告げられて、ネイサンは意識を凍りつかせた。
「……ほ」
「本当で、本気だ」
体の位置を近くされる。背に回され抱き寄せた腕が、逃れようとするネイサンの体を引き寄せてしまう。
「……急に」
「前から考えてはいた。結論を出したのは今だが」
散々モーションをかけておいて、ここで逃れようとするのがお前らしいよ、と笑われて、ネイサンはアントニオの短い髪を掴んだ。やめろよ、と眉を寄せられるのを睨みつけ、至近距離で言い放つ。
「いいこと? アタシのそれは、うつくしくも、きよらかでもないのよ?」
傷つく前に止めて起きなさい、と最後の一線を嘲笑うように、アントニオがネイサンの肩に額をつける。乾いた唇が服越し、腕の辺りに口付けた。唇で触れたそのものこそ、うつくしく、きよらかであると告げるよう。根源的な想いそのままに知ってると囁けば、首筋に一瞬、吐息が触れて離れて行く。
「……嫌な男だこと」
腕と首なら欲望のキス。
ソファにうつぶせで眠っている楓の顔は、完全にクッションに埋まっていた。窒息しないのかと毎回心配になるが、器用に呼吸はしているらしい。一度起こした時に怒りながらそう言われたので、エドワードは心配しながらも揺り動かそうとした手をひっこめ、ソファの空きスペースに腰を下ろした。んー、と声をあげて身動きをした楓は、ころりと寝がえりを打って今度は仰向けになった。そう幅のないソファでどうしてそう器用なのかとエドワードが感心するくらい、無意識の動きに危なげはない。ずりおちたブランケットだけを引き寄せてかけ直してやると、ぬくもりが戻ったことに、楓の表情がほんわりと和んだ。疲れているのだろう。深い眠りに落ちた意識はそうそうのことでは現実に立ち戻らず、夢の世界で少女を遊ばせている。乱れた髪を整えてやりながら額に手を押し当て、エドワードは熱がないことを確認した。楓は時々、疲れが原因で熱を出す。寝れば治ると少女の言葉通り、ある程度の休息があればすっと引いて行く発熱で後を引くものではないのだが、無い方がいいに決まっている。てのひらごしに感じる体温は平常のもので、心に緩く安堵が満ちて行く。
「……ゆっくり寝ろよ」
ぽん、と肩の辺りを手で叩き、エドワードは腕時計に視線を落とした。出動がかかったヒーローたちがトレーニングルームに再集合するまで、あと一時間はかかるだろう。つい先程、犯人確保をヒーローTVが告げたばかりなのだから。さて、それまでに報告書の作成でも終わらせてしまおう。よっと声をあげてソファから立ち上がり、エドワードは少女の眠りを温かく守護するブランケットを指先で持ち上げ、祝福のように唇を押し当てた。
さてそのほかは、みな狂気の沙汰。