1 兎と折紙
2 折紙と薔薇
3 兎と龍
4 空折
5 虎兎
6 兎と薔薇
7 炎牛
8 砂と楓
そういえば、と着替えを終えてロッカーの扉を閉めながら、イワンはやや訝しげな顔をしてバーナビーを見つめた。イワンのすぐ隣にあるのがバーナビーのロッカーであるから、同じ時に着替えを始めれば、大体同じタイミングで扉は閉まる。数秒差でばたんとロッカーをしめながらイワンの訝しげな視線を受け止め、バーナビーはそーっと首を傾げてみせた。現在、ロッカールームにいるのは二人である。会話の邪魔をされない変わり、どんなことを言われても助けの求められない状況に、バーナビーはやや緊張する。人当たりがよく、やや内向的なこの先輩は、時々発作的に後輩に八つ当たりめいた指導をしてくるので、こういう時に気が抜けないのだ。後輩の緊張をあっさりと見抜き、今回は違うよと限定的な否定をしたイワンは、ううぅ、と嫌そうに呻いて一歩体を引いたバーナビーの腕を手を伸ばして掴んだ。
「思い出したんだけどね?」
「な、なにをですか……?」
心当たりを探ってびくびくするバーナビーは、なるほどバディが『バニーちゃん』と呼ぶようにどこか兎めいている。身長百八十センチを超す成人男性を愛玩動物に例えるそのやり方は当初イワンには理解できないものだったが、育ちの良いおっとりとした面も持つバーナビーが抵抗を放棄して無防備に怯える様は、やはりその呼称が相応しいように思わせた。ただし兎は、己を捕食しようとした猛禽ですら、時にその強靭な脚で蹴り殺し逃れる生き物だ。決して油断していい相手ではないこともイワンは知っていたから、ぐっと掴んだ手首を離さず、問いかけにゆるりと息を吐きだした。
「バーナビーさん、一番最初に会った時、僕にキスしたの覚えてます?」
「……い、一番……さい……あ。あの、表彰台の裏で? ですか?」
「そう。KOHの発表が終わって、バーナビーさんの紹介も終わって……僕がヘリペリの皆さんの所に帰ろうとして歩いてたのを捕まえて、イワン・カレリン先輩ですよね僕はバーナビーと言いますアカデミーの出身でって僕の個人情報まで一緒にバラしてくれたあの時ね?」
バーナビーはにっこり笑って、手首を掴むイワンの手を外そうとした。しかし、イワンがそれを許す筈もない。よかったよねぇあの時誰も周囲に居なくて、とにこにこ笑いながらやたらに力を込めてくるので、バーナビーの眉間にじわじわとシワが寄って行く。
「それについては、あの後に謝ったじゃないですか?」
なにを怒っているんです、と理解しがたい、受け入れがたい様子で不服げに問いかけるバーナビーに、イワンはそっと息を吐きだした。あの時のバーナビーはやや興奮状態であったから、冷静な判断ができなかったのだと、もう分かっている。同じアカデミー出身のヒーローが、先輩として活躍していて本当に嬉しかったことも、在籍当時からイワンの名を知っていたからこそなお喜びが胸に溢れてどうしようもなかったのだということも、すでに告げられて知っていた。しかし、それとこれとは別問題である。それを怒ってるんじゃなくて、というかそもそも怒ってるのとは違って、とイワンは呟き、溜息をつきながらバーナビーを見る。
「キスしたのはなんで?」
「……誰かに聞かれたらすごく誤解されそうな気がするんで言っておきますが、あの時僕がキスしたのは、手の甲ですよね?」
じっとバーナビーが見つめる視線の先には、手首を掴むイワンの手がある。あの時は硬いヒーロースーツに覆われていた手の皮膚が、今は守りもなく空気に晒されている。うん、と頷くイワンに唇を尖らせて、バーナビーはむっとした様子で首を傾げた。
「挨拶ですよ。あーいーさーつ」
「誰にでもそうやって挨拶するなら納得してあげたんだけど、バーニーは僕以外にそういう挨拶しないでしょう」
「……ちっ」
とびきり甘やかす呼称で追いつめれば、バーナビーは聞こえるようなわざとらしい舌打ちで視線を反らした。その頬がうっすらと赤くなっているので、可愛らしくなく、これは照れているのだった。くすりと喉を震わせて笑いながら、イワンはそっとバーナビーの顔を見上げてやる。バーナビー、とちゃんと名を呼んでやれば、そろそろと戻ってきた視線がイワンのものと合わせられた。だって、と言い訳がましく、幼く、言葉が紡がれて行く。
「先輩は……僕のことも、あまりご存知ではなかったようですが。僕は、先輩のことを知っていて……ヘリペリで折紙サイクロンをしていることも、マーベリックさんから聞いて知っていたんですけれど、でも、実際に同じヒーローになって近くで見たら、やっと実感がわいたというか……嬉しくて。先輩が、色々あったのに、ヒーローとして活動していることが、僕は本当に嬉しくて」
「うん」
「っ……尊敬して、いて。だからつい……」
驚き、逃げようとするその手を引き寄せて。想いを伝えるように、衝動的に唇を触れさせたのだと告げるバーナビーに、イワンは苦笑しながらうん、と頷いてやった。そのまま、掴んでいた手首を口元に引き寄せる。え、と目を瞬かせるバーナビーに僅かばかり微笑みかけて、イワンは後輩の手の甲にそっと唇を押し当てた。
「僕も。君のそういう所、尊敬してるよ。バーナビー」
「……褒めていますか?」
「すこしだけ」
くすくすと笑って手首を離してやれば、バーナビーはそれをぱっと己の胸に押し当て、悔しげな表情でイワンを見つめてくる。可愛いなぁと笑いながら、イワンはさて、とトレーニングルームへ続く扉へ足を向けた。
「行こう?」
はぁ、と溜息をついて、バーナビーがとことこと後をついてくる。これは可愛いし懐かせたくもなるな、と彼のバディに大いに同意しながら、イワンはトレーニングルームの扉を押しあけた。
手の上なら尊敬のキス。
イワン・カレリンは女性の扱いが得意な方ではない。そうであるから、泣きじゃくる少女を落ちつかせる方法も思いつく訳ではないのだ。それなのになぜ、カリーナはイワンの背にべったりとくっつき、青年のシャツを涙をぬぐうハンカチ代わりにしているのだろうか。正面からくっついてくれれば、頭を撫でてやることもできるのだが。イワンはソファの背もたれに対して平行に腰かけさせられたぎこちない姿で、そっと背後を振り返ってみせた。カリーナ、と呼ぶと未だぼろぼろと涙を流す瞳のまま、少女は気に食わないと言わんばかり鋭い視線を向けてくる。
なによ、と叩きつけられる言葉は涙声だ。イワンは身を捻って手を伸ばし、カリーナのふわふわの柔らかい髪をそっと、上から下に撫でてやった。育ちの良い猫みたいな感触。念入りにお手入れされた少女の髪は、どちらかと言えばイワンの気分を落ち着かせてくれる。ゆっくり、ゆっくりと髪を撫でてやりながら、イワンは苦笑してカリーナの目を見返す。
「……どうしたの?」
すん、とカリーナは鼻をすすりあげる。やっと聞いた、と怒ったような口調で言われて、イワンはぽんぽんと少女の頭を撫でてやった。
「聞いていいか分からなくて。ごめん」
「いいわよ。許してあげる。……友達と喧嘩したの。それだけよ」
言う間にも、耐えがたかったのだろう。みるみるうちに溢れてきた涙が、瞬きのたびにカリーナの頬を流れ落ちていく。泣きたくないとむずがるようにまぶたに力を入れ、かすかに震えながら少女は息を吸い込んだ。
「いつも約束やぶるねって、言われたの……」
「……うん」
「そ、その理由も教えてくれないねって。怒ってるとか、そういうんじゃなくて……もう、諦めた、みたいな感じで。……この間の、出動が、そのこの……誕生日で、一緒に遊ぼうねって」
たどたどしく言葉を告げていくカリーナをやや乱暴に背中から引き剥がし、身を反転させて、イワンは己の胸へ少女を抱き寄せた。背中に回ったカリーナの腕が、強くイワンにすがりついてくる。理不尽な怒りをぶちまけるように、痛い程の力で。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる少女の髪を、イワンはそっと撫でてやった。
「私は、ちゃんと覚えてたの……誕生日だってことも、そのこが私と出掛けるの、すごく楽しみにしてくれてたことも」
「うん」
「でも、コールが鳴って! 私、その瞬間に全部吹き飛んじゃったの! 行かなきゃって、それだけで! 助けに行かなきゃって……、後悔なんてしてないの。だから謝れない。謝れないよ……」
潔癖で鮮烈で真面目で、とても素直な少女だから、その言葉を口にするのに抵抗があるのだろう。謝れば、ヒーローとして飛びだして行ったことを否定してしまうような気がして。そのことが怖くて告げることができないでいる少女は、ある意味、心の底からヒーローだった。彼女の魂のある位置は、人の理想とするヒーローのそれの近くにありすぎて、いつの間にか少女の意思を置き去りに誰かがそこへ導いてしまって、時々こうしてカリーナを苦しめる。少女は、あまりに気高い。普通に生きるには苦しいくらいに。穏やかな仕草で髪を撫で、イワンは泣きじゃくるカリーナと額を重ね、目を覗き込みながらそっと言い聞かせた。
「謝っていいんだよ、カリーナ。……ごめんって言って、大丈夫」
「でも!」
「そのごめんは、ブルーローズの否定にはならないから。……一番にしてあげられなくて、大事にできなくてごめんねって、そういう意味でいいんだよ。……辛いね。苦しくて、悲しくて仕方ないよね。でも、もう選んじゃったんだよね、カリーナは」
どう生きていきたいのかを、どう生きていくのかを。無意識に選び取ってしまっている者として、カリーナはあまりに年若く、そして普通に行きすぎている。誰より気高い少女は、それでいて誰より一般の社会に近く日々を過ごしているのだ。ぐっと嗚咽を噛み殺した唇が震え、涙が頬を伝っていく。それを拭うようにてのひらを触れさせて、イワンはそっと少女の額に唇を掠めさせた。
「……泣かないで」
額の上なら友情のキス。
たとえば、世の中の女性が喜ぶような言葉や贈りものを渡されても、パオリンは心を揺らすことがない。それを考えればバーナビーにとってパオリンは扱いにくい異性であるだろうに、青年の様子は普段と変わらないものだった。微笑みを浮かべられて繋がれた手は温かく、きゅっと力を込めてパオリンのてのひらを包みこんでいる。男性的なしっかりとしたてのひらは、見かけからして性別の差を感じさせるものなのに、その肌は白くきめ細やかなものだった。よく手入れがされている肌は、どちらかと言えばカリーナの、少女めいた印象にすら近いものがある。しげしげと見つめながら歩くパオリンにゆるく笑って、バーナビーはどうかしましたか、と言った。やや不安げな、穏やかな声。視線を持ち上げて顔を覗き込み、パオリンはううん、と男の不安を否定してやった。
「きれいな手だな、と思っただけ」
「ありがとう、パオリン」
ごく自然に伸びてきた手が、少女の肩をそっと抱き寄せる。人にぶつからないように守る仕草は優しく、バーナビーはにこにこと笑っていた。ついうっかり恋愛めいた感情で、好きな相手、ではなくてよかったな、とパオリンは思う。こんな風に大事に大事にされたら、あっけなく勘違いしてしまうだろうから。バーナビーのこれは身内扱いで、妹扱いのようなもので、懐に入れた大切な存在を、優しく優しく慈しみ守りたいと思っているだけなのだ。パオリンはバーナビーの家族である。そしてバーナビーは、パオリンの家族である。同僚で、仲間であることに加えた、もうひとつの絆。形もない、誰が認めてくれるでもない、互いの言葉と想いだけが繋ぐか細く強靭な関係は、二人の手を人混みで繋がせるのにためらいを持たせないものだった。他のひとなら、パオリンは嫌がっただろう。
それは幼いこどものような扱いだと思っただろうし、エスコートされる女性めいた行いに心が反発しただろう。けれど、バーナビーならいいのだ。繋いで欲しいとも思うし、繋がなければ、とも思う。バーナビーは人混みでパオリンがはぐれてしまうことを恐れているのだろうけれど、恐らく少女はそれ以上に、青年がどこかへ消えてしまうことを怖がっている。ぎゅっと手に力を入れ直して、パオリンは笑う。
「バーナビーさん」
「はい」
「屈んでくれる?」
すこしばかり不思議そうな顔をして、バーナビーは頷いてくれた。膝を折り、背をまるめて顔の距離を近くしてくれたバーナビーを、パオリンはじっと見つめる。一日、少女の買い物に付き合ってくれたわりに、ちっとも疲れた風に見えないのは基礎体力がオデュッセウスの社員とは違うからだろうか。興味の示す所へ次々と行きたがるパオリンに付き合うと、カリーナやネイサンですら、時にはすこしばかり疲労の浮かぶ顔つきになるというのに。それともパオリンの買い物と一緒に、バーナビーも好きにショッピングを楽しんでいたからなのか。気が付けばパオリンはカリーナとお揃いの白いワンピースをバーナビーに購入されていて、着た時には見せてあげる、という約束まで取り交わしていた。あいにくと今日は一緒ではないカリーナにメールで報告した所、勝手なことしないでよ、とぐったりした姿が目に浮かぶような返信がすでに手元に届いていたが、怒ってはいないことを知っていた。
「……パオリン?」
じっと見つめるばかりの少女に、どうしたのかと思ったのだろう。そっと問いかけてくるバーナビーに笑って、パオリンはそっと、地からかかとを浮かびあらせた。爪先に体重がかかる。そっと頬に唇を押し当て、離れて、パオリンは柔らかく微笑む。
「え、っと……」
少女の仕草も、微笑みの意味も。嬉しく受け止めつつ、バーナビーには分からないのだろう。ほんのりと頬を染めて困惑されるのに、パオリンはぎゅっと手を繋ぎ合せた。胸の中がぽかぽかして、温かい。さあ、帰ろう、と告げれば、バーナビーは分からないなりに苦笑して、少女の手を引いて歩き出す。また来ましょうね、と囁き落ちる声が温かく響いたからこそ、パオリンは笑い声をあげて頷いた。
頬の上なら満足感のキス。
それじゃあ、おつかれさま。ゆっくり休むんだよ、とかけられる声に君たちこそと笑いながら告げ、キースは大地を蹴って空に身を躍らせた。鳥より軽やかに、舞いあがる木の葉よりうつくしく、その体は瞬く間に空の高くへ飛んで行く。出動を終えたばかりなのに全く、と呆れと心配が等分になったような声が背を追いかけたが、キースはそれを聞き届けつつ、はやる心を押さえきれずにぐんと高度をあげていく。能力の連続使用、長時間使用はよくないことだ。体調にも影響するし、いざという時に疲れてしまってはいけない。加えて今のキースは顔を隠していないから、本当なら空を飛んではいけないのだが、ポセイドンラインはたび重なる説得の末、とうとう止めさせることを諦めてしまった。きっとキースが駄々をこねるこどものように、どうしても、とねだったからだろう。空の王者を抱くポセイドンラインの従業員は、他社の者がそうであるように、総じて自社ヒーローをどうしようもなく甘やかすのだ。地に足をつける者からは顔の判別がつかないくらいの高さで静止して、キースはほっと息を吐きだして伸びをする。今日も都市の平和を守れた満足感と、緊張と恐怖から解放された心地よさがじわりと体に広がって行く。さあ、これからどうしようか。
昼過ぎというには遅く、夕方とするには僅かばかり早い、中途半端な時間である。女子組が示し合わせてケーキを食べに行くことにしていたのを思い出し、キースはそっと目を細めて笑った。どこかの店で温かいものでも口にしながら、ゆっくりと時間を過ごすのも、良いかもしれない。トレーニングルームへ行こうかとも思っていた気持ちを止めにして、キースはさてと、と地上へ視線を投げかけた。そこから、空を舞うキースの姿を見つけるのはきっと難しいくらいの高さであるのに。ひとつの視線が絡みつくのを確かに感じて、キースはぞくりと身を震わせた。キースの意識は、視線の先は、間違えようもなく一人を見つけ出す。ふ、と重力の束縛が身に戻ってくるのを感じて、キースは落下するように浮遊の力を弱くした。上空から叩きつけられるような風圧が来ても、その存在はやや迷惑そうに眉を寄せるくらいだった。まったくもう、と告げるような顔つきで、手が差し出される。踊るようにその手を取って空中にひっぱりあげ、キースははしゃいだ声で彼を抱きしめる。
「イワンくん! ティータイムを一緒にどうかな!」
「ちょっ、と……! 急に飛ばさないでくださいって言うか……! スーツ着てないのに飛ばないでくださいって言うか! キースさん、なにしてるんですかっ?」
「うん? デートのお誘いだよ、イワンくん。デートしよう!」
地上三十センチの低空飛行で踊るようにイワンの手を取り笑いながら、キースは身を屈め、延々とおしかりの言葉を続けそうな恋人にそっと口付けた。ちゅ、ちゅぅっ、と可愛らしい音を立てて何度も啄めば、全身を怒りで強張らせていたイワンの緊張が、諦めと共にゆるく解けていく。あああもうー、と溜息をついてキースの胸に頭を預け、イワンは脱力しながら呟いた。
「デートしたくなっちゃったんですか……?」
「デートしたくなっちゃったんだよ。イワンくん、デート、しよう?」
「……二時間なら」
その後は僕、トレーニングルームへ行って今日のメニューをこなしたいので、と妥協してくれるイワンに満面の笑みを浮かべて、キースはもう一度恋人の唇を啄んだ。当然、ティータイムが終わった後は、キースも一緒にトレーニングルームへ行って汗を流す予定である。
唇の上なら愛情のキス。