基本的な要求はたったひとつ。全身の必要な箇所を採寸し終わるまでは、背筋をまっすぐに伸ばして、動かずに立っていること。それはジョミーにとって、ものすごく難しいことだった。まばたきと呼吸はして良いと言われても、普段は意識しないささいな仕草を、どうしてか我慢できなくなってしまうのだ。すこし首を動かしたり、肩をすくめてみたり。緊張からか居心地の悪さか、手を握ったり、そして開いたりする。
どうしても身動きをしてしまうたびに怒られて、ジョミーはなんだかどんどん悲しくなってくる。どうしてこんな想いをしてまで、採寸などされなければいけないのだろう。それがジョミーに与えられた新しい立場、『ソルジャー候補生』になる為の第一歩で、そして通過儀礼なのだと分かっていても、やりきれなくて納得しにくいものがあった。涙を溜めた目でリオに助けを求めると、やんわりと苦笑だけが返された。
まだ五分も経っていませんよ、という言葉に先の長さを思いやって、ジョミーはいっそ意識を飛ばしてしまった方が楽なのではないか、と真剣に考える。意識がなければ、体は動きようがない。眠っているのなら別だが、精神体で抜け出す分には直立不動だからかえって都合が良いのでは、と思ったのだが。それを口に出すと、メジャーを手に持ちながら足首周りを測っていたブラウが、とんでもないと眉を寄せた。
「冗談言うんじゃないよ、ジョミー。動かれると困るけど、動かれないのも困るんだから」
「……それってぼくどうしたらいいの」
採寸している者が都合よく動かず、そして動いてもらわなければ困るのだ、と言われているのは分かっても、ジョミーは口から魂が出せそうな気分から回復しない。せめて具体的な説明を求めてそう言えば、体の前面にしゃがみ込んでいるブラウとは対照的に、後ろ側で肩幅を測っていたエラが静かな声で教えてくれる。
「測っている間は動かない。こちらが動いて欲しいと思った時は、指定された所だけを動かす。そしてまた静かにしている。それだけのことです。簡単でしょう? そうでなくとも、あなたには忍耐と集中力というものが無いのだから、良い訓練だと思って諦めなさい。さあ、腕をすこし……三センチくらい持ち上げて、曲げて。そう、そのまま動かさないで」
涼しい顔で言うエラの言葉は、ジョミーには無理難題としか聞こえなかった。しかも何箇所測るのか聞いたら、エラは表情を微塵も変えず、あと百四箇所だけです、と言った。百を超えた時点で『だけ』という単語をつけてはいけないと思うのは、ジョミーだけではないらしい。リオが苦く笑って、当分かかりますね、と言った。二人がかりで採寸して、一時間は優に越えることだろう。ジョミーは気が遠くなった。
「泣いてもいい……? なんで、なんでそんなに細かいんだよっ! 思念で測るとか出来ないのっ? 全部ぱぱぱってやっちゃえる筈だろ? リオたちの服はそうやって作ったって聞いたっ。ぼくのもそうしてよっ!」
一時間もじっとしていることを強いられると分かって、それだけでジョミーの精神は追い詰められてしまったらしい。癇癪を起こして涙ぐみながら叫ぶのに、ため息をついたブラウが無言でリオを振り返る。宥めなさい、と言葉に出されずとも分かる視線に、リオはその為に被服室に呼ばれたのだと改めて認識しながら、しゃくりあげるジョミーに近寄った。そして腕を伸ばし、ぎゅっと抱きしめてやる。
リオーっ、と頭を胸にこすり付けてくる仕草は、ジョミーが相当逃げ出したがっている証拠だった。相手がブラウとエラという、船内でも一位、二位を争う『怒らせると後々まですごく怖い女性』でなければ、リオも相手が長老だからという理由を無視してジョミーを連れて逃げてやったのだが。こればっかりはどうしようもなくて、リオは嫌々と首を振るジョミーの頭を撫でてやる。
『確かに、そうやって測れないこともないのですけれど。次期ソルジャーの服ですから、すこしの間違いもあってはならない、ということで……良いコですから、我慢してくださいね、ジョミー。終ったら一緒にケーキを食べに行きましょう。苺のケーキ、好きでしょう? ジョミーの好きなオレンジ・アイスティーもつけましょうね。あと、ほら、前に美味しいと言ってくれたクッキーを作りますよ。アーモンドのクッキー。ね?』
よしよし、泣かない泣かない、とジョミーを抱きしめて撫でながらあやすリオの姿は、とても自然で慣れたものだった。ジョミーがなにかごねて嫌がるたび、毎回リオが宥めて来たからなのだが、その甘やかしの自然っぷりにブラウは感心した目を向ける。上手いもんだねぇ、と頷きながら見るブラウに、リオはにっこりと笑って保育セクションの方にも保父の才能がある、と褒めていただきましたから、と言った。
それが嬉しいかは個人にもよるが、リオには幸せなことだったらしい。才能はないよりあるほうがお得じゃないですか、と呆れるブラウとエラに柔らかく笑って、なんとか泣き止んだジョミーの額にキスを落とす。良いコで頑張れますね、と尋ねると、ジョミーはくすんと鼻をすすってこくっと頷いた。そしてリオをすこしだけ見上げ、チョコレートのケーキも食べる、と言った。リオはにこにこ笑って、ジョミーの頭を撫でる。
『じゃあ、頑張りましょうね。そこで見ていますからね……ああそうだ。ミント・キャンディーがありますよ。ジョミーが好きな。食べますか? ……キャンディーくらいなら食べていても支障はないですね?』
振り返って問いかけられた言葉に、エラもブラウもそれで静かになるなら、と頷いた。リオはポケットを探ってキャンディーを取り出すと、包み紙を取ってやり、本体をジョミーの口の前に差し出す。ぱく、とキャンディーを口の中に含んで、ジョミーは上機嫌でエラとブラウの元に歩いてきた。そして先程とは打って変わった協力的な態度で背筋を伸ばされたので、ブラウは心から感心してリオを見つめた。
「ジョミーは、食べ物でつると釣れるのかい?」
『いえ、そういうわけではありませんが。時と場合によるのでは? さ、機嫌が良いうちに終わらせてあげてくださいね。エラ女史も、ブラウ航海長も大変でしょうが、よろしくお願いします』
一番大変なのはこのあとなんですから、と続けられて、二人はそうだったと頷いた。次期ソルジャーとなるジョミーの、いわゆる『ソルジャー服』を作ることになったのは一日前。長老会議で決定が成されてのことだった。本人に次期ソルジャーとしての自覚や立ち居振る舞いを促す為にも、分かりやすく形から入らせよう、ということになったからだ。そこで問題になったのが、ジョミーの身体データがないことだった。
もちろん、アタラクシアのデータバンクにアクセスすれば存在しているだろうが、ハッキングがバレたら大変なことになる上に、ジョミーは成長期なのである。シャングリラに来て、もう数ヶ月。身長も体重も増えているし、骨格もすこしがっちりしてきた。以前のデータなど、服を作る上ではまるで役に立たないのである。加えて、ソルジャー服は採寸箇所が異常に多く、最新の正確な数字がどうしても必要なのだった。
てきぱきとメジャーを操り、手元の紙に次々と数字を書き込んでいく二人をなんとなく眺めながら、ジョミーはリオに問いかける。
「ねえリオ?」
『はい。どうしました、ジョミー』
柔らかく響くリオの思念波は、どんな時でも優しくて。ジョミーは思わずにっこり笑ってしまう。するとリオも嬉しそうに笑い返してくれるので、ジョミーはしばらく幸せな気持ちでにこにこしていた。その間も、だんだん慣れてきたのでブラウやエラの指示に従ってちょっと足を上げたり、腕を曲げたりするのをごく自然に行っている。言われた通りに首をぐるりと回し、両手をバンザイの形に挙げて、ジョミーはあ、と言った。
「そうだ。あのね、リオ。ぼくのソルジャー服って、ブルーとおそろい?」
『いいえ。細部のデザインとポイントのカラーを変えて、ジョミーに似合うようにするそうですが。もしかして、おそろいがよかったですか?』
ジョミーは軽く視線をさ迷わせて答えを先延ばしにしたが、やがて素直に頷いた。ちょっとだけ、そうだったら良いなとは思ってた、と告げる声は落ち込んではいなかったのだが、やはりすこし残念そうで。なにか言おうとしたリオをさえぎるように扉が開いて、硬質な足音が響く。
「でも、首元の飾りはぼくのものと双子石だよ。ジョミー」
「ブルー! それ本当っ?」
「本当、本当。やあ、エラ、ブラウ。リオも。様子を見に来たよ。採寸は大変だからね」
カツカツと足音を響かせて、入ってきたのはブルーだった。思念体ではなく、紛れもない本物だった。最近は体調も良く、よく起きていると知っていても、エラが思わず天井を仰ぐ。ブラウは深くため息をついて、ハーレイの心配もよそに出歩く最長老へと視線を向けた。
「ソルジャー。一応お伺いしますが、ドクターとハーレイから外出許可は出たんですか?」
「シャングリラはぼくの家だ。家の中を歩くのに、許可がいるのはおかしなことだと思わないかい。ぼくは思う」
つまり、許可など取ることも考えなかったということだ。苦笑したリオがどこからか椅子を運んできて、ブルーをそこに座らせる。ブルーはにこにこ上機嫌に笑いながら椅子に腰を下ろして、ぼくのことは気にせず続けてくれたまえ、と言った。気にしなければ気にならない存在ではないのだと、どう言えば分かってもらえるのだろうか。付き合いは長いのに扱いが分からない最長老に、エラとブラウはため息をついた。
それでも、採寸は進めなければいつまで経っても終らない。意識を切り替えて手早く作業に戻っていく二人に協力しながら、ジョミーはなんだか幸せそうなブルーを見て、すこしだけ首を傾げた。
『ブルー? どうしたの?』
『うん? なにがだい、ジョミー』
エラもブラウも、あまりに真剣なので声を出してはいけないと思ったのだろう。会話を思念波に切り替えたジョミーに、ブルーは柔らかな声を返した。名前を呼ばれるだけで、その声の暖かさだけで、どれだけ愛されているかが一瞬で伝わってしまう響きだった。思わず顔を赤くしながら、ジョミーはだって、と呟く。
『あなた、なんか幸せそうだから。なにか良いことでもあったのかな、って』
「ぼくはジョミーが目の前で笑ってくれているだけで、世界で一番の幸せ者になれるよ」
わざと声に出して言ったブルーに、エラとブラウの手からメジャーが落下した。慌ててブルーっ、と名を呼んでくるジョミーに、最長老は至福の笑みでなぁに、と言った。なに、ではなく、なぁに、の辺りにブルーのジョミー溺愛具合が透けて見える。どうしてあなたは恥ずかしげもなくそういうことをっ、と照れ隠しに怒るジョミーに愛しく微笑みかけて、ブルーは本当のことだからね、とさらりと告げた。
「ぼくはきみが居るだけで、こんなに幸せになれるんだ。我ながら、こんなに簡単で良いのかと思うくらいに」
心がね、弾むよ、とブルーは目を細めて笑った。それが嘘でないことを証明するわけではないのだろうが、シャングリラを包むブルーの力が嬉しそうな色を灯す。目に見えて色がつくわけではない。感覚的に染まるだけだ。それは、ごく穏やかな灯火の色。ゆらりと揺れて暖かく、思わず見惚れてしまう魅力に溢れながらも、触れれば火傷する熱さを持っている。決して目を焼かない柔らかな、それでも炎の色だった。
ジョミーはしばらく言葉に迷って視線をうろつかせたあと、そうですか、と呟いた。その頬も耳も、赤く染まっている。嬉しく観賞しながらうん、と頷くブルーを見返して、ジョミーは消え去りそうな声でぼくも、と言った。
「ぼくも、あなたが」
そこにそうして笑っていてくれるだけで、恥ずかしいけれど。とても、とても、と。気持ちは言葉にさえならず、か細く消えてしまったけれど。耳で音に触れなくとも、ミュウは心で通じ合うことが出来るから。ジョミーの気持ちを確かに受け取って、ブルーは己の胸元辺りを指先でなぞり、魅惑的にクスリと微笑んだ。
数多くの仲間たちの胃袋を満足させる為の食堂だから、取られているスペースはかなり大きい。かつては一室だったのが大改装をしてホールになり、それでも足りなくなって二階建ての吹き抜けにしたのは、ブルーの素敵な思い出だ。仲間が増えていくことが嬉しかった。船の規模が大きくなっていくことが、楽しかった。かつては生きる為だけに取っていた食事を、楽しみにできるようになったのはいつだったのか。
思い出せなかった。けれど、思い出さなくても良いことだと思ったので、ブルーはただ微笑んで目の前のジョミーを見つめる。数種類のケーキを並べられて目を輝かせたジョミーは、コトリとちいさな音を立てて置かれたオレンジ・アイスティーの入ったグラスに感激した視線を向けて、それからリオを見て満面の笑みを浮かべた。リオは満足そうに笑い返してジョミーの隣、ブルーのナナメ前の椅子を引いて着席する。
『さあ、めしあがれ。頑張ったご褒美ですよ』
「ありがとう、リオっ。わー、今日のオヤツはホント豪華だっ」
嬉しいな嬉しいな楽しいな、とうきうき弾んだ思念をそこら中に無意識に送信して、ジョミーはケーキを食べていく。その思念を柔らかく受け止めて、ブルーは幸せのおすそ分けをしてもらった気分だった。恐らく、食堂に居る誰もがそうなのだろう。ふと顔をあげて視線を向けたり、通りすがりにジョミーを見る誰もが、その顔に笑顔を浮かべていた。嬉しさが伝染していく。暗い気分が消えて、残るのは弾む暖かさだ。
今は無意識でも、いつかソルジャーとなったジョミーは、船に己の心を伝わせて皆を守ることだろう。その時シャングリラは、明るく弾んだ船になるに違いないのだ。安らぎに満ちて静かな、『ブルーの守るシャングリラ』と、それはまったく違う空気で。それが楽しみのような、切ないような気持ちになって、ブルーは視線を揺らめかせた。後を継がせると決めたのは己なのに、今になってそんな気持ちになるなんて。
残りすくない命だ。ならばせめて後継の為に使って、大切な仲間と船を託したいと思ったのではなかったのだろうか。それは、その通りなのだけれど。描いた未来に己の姿が当たり前にないことが、悲しくは無いけれど切なくて、悔しい。その理由はとても簡単で、すぐに見つかった。ジョミーの導く姿を、ブルーはきっと見ることができないからだ。出来たとしても、その期間は長いものではない。永遠ではないのだ。
ずっと、ずっと、傍で見て守っていたいのに。それができないからこその、切なさと悔しさだった。いまさら、とブルーは思う。いまさら、なのだ。切なさも、悔しさも、思い描く未来に立てないこともなにもかも。命の期限を知り、ジョミーを見つけて嬉しくて、後継と定めたその日から、ずっと。ずっと覚悟して、決意して、分かっていた筈なのに。今になって、揺らいでしまう。それはきっと、想われる喜びを知ったからだろう。