仲間が仲間に対する想いではない。家族が家族に向けるものでもない。一人の存在が、一人の存在に対して向ける心。恋をしている、気持ち。想うことと、想われること。片方だけならいくらでも出来るが、二つが重なることは奇跡に近い。ふっと息を吐くブルーの目の前で、ひらりと手が振られる。視線をあげれば、そこにはいつの間にか席を立ってブルーの横に来ていたジョミーが居て、心配そうな顔をしていた。
どうしたの、と問おうとしてブルーの言葉が凍りつく。ふわりと布が風を抱くように、ジョミーがブルーに抱きついて来たからだ。驚きは、ほんの僅かだった。すぐに柔らかく笑って、ブルーはぽん、とジョミーの背を撫でる。どうしたの、と繰り返して問えば、ジョミーは泣き怒りの声でこっちの台詞だ、と告げた。
「ブルー。なんか変なこと考えてたでしょう」
「ああ、聞こえてしまったかな。ごめんね?」
「聞こえなかったっ! それに、別に、謝ることじゃないでしょう」
強い否定は、真偽をあいまいにしてどちらなのかを教えてくれない。心に触れようにも、ジョミーの感情が強くて跳ね返されてしまって、ブルーには分からなかった。だからこそ、その強さが、全てではなくとも理解させることがある。ジョミーに伝わってしまったのだろう。思考が言葉として、ハッキリとした形を成すものではなくとも、そこにある感情の一部を。緩やかな諦めに似た感情で、喪失を受け入れた気持ちを。
耳元で。涙をこらえる呼吸が響いた。ああ泣かせてしまう、と焦りながら抱きしめるとジョミーの額が肩に押し付けられた。リオはそんな二人を見ないようにしながら、ジョミーが食べ終わった食器を音も立てずに片付けている。すまない、とブルーが視線を向けると、リオは微笑みながら首を振って唇に指を押し当てた。静かに、ではない。そんなことは気にしなくていいから、集中してあげてください、ということだ。
ダメですよ、とやんわり叱る仕草でもあった。苦笑してジョミーに意識を戻し、ブルーはぽん、と愛し子の頭を撫でた。触れた箇所から体温と、気持ちが伝わってくる。その気持ちが、ブルーの中で言葉に変わる前に。ジョミーがゆっくりと顔をあげた。
「ブルー」
微笑みながら言葉を促す気配に、ジョミーは真剣な顔をして言う。
「話したいことと、聞きたいことが、あります」
「分かった」
じゃあ場所を変えようか、と笑うと、ジョミーはそこでやっと現在位置を思い出したのだろう。きっかり一秒だけ動きを止めると、音が出そうな勢いで顔を真っ赤にして脱力し、ブルーにもたれて動かなくなってしまった。笑いながら抱きしめなおすと、腕の中からあなたのせいだーっ、とぐもった叫びが響いて楽しい。うん、と頷いて。怒りも責めも、なにもかも愛しく受け止める気持ちで、ブルーはくすくすと肩を揺らした。
「そうだね」
後は頼むよ、とリオに告げるとお手柔らかに、と思念が跳ね返ってくる。ブルーはその意味をすこしだけ考えた後に、苦笑しながら頷いた。そしてぐったりしているジョミーを抱き上げると、さてどこに移動するのが良いだろう、と思いながら転移の準備をする。力が動く気配に、ジョミーが慌てた声で制止しようとするが、無視だ。これくらいのことで寝込むような体調なら、そもそも今、起き上がっていられないのだから。
そうだ、話をするならあそこが良い、と一人で勝手に決めてしまって、ブルーはジョミーの温かな体を腕に抱く。そして転移する一瞬前、誰の耳にも届かせない慎重さで、全ての心を置いていった。そうだね、と繰り返して。
「全部、ぼくのせいだ」
君にまつわる、なにもかも。ぜんぶ。響かない声は消えてしまって、後のどこにも残らなかった。
ブルーの移動は繊細で丁寧で、そしてどこまでも穏やかだ。攻撃にしても防御にしても、サイオンを使用して行う全てはその人の性質、魂が反映されると教わったので、これはもう相手がジョミーだからではなくてブルーの性格なのだろう。そう思いながら、ジョミーは体に全く衝撃が来ないことを、半ば呆れて目を開く。どれほど細やかに力を紡いで広げれば、ブルーのように転移することができるのだろうか。
分からなくて、ジョミーは途方にくれた。ため息をつきながら地面に足をつけて、ジョミーは辺りを見回してみる。船の中だというのは、すぐに感じ取ることが出来た。しかし視界のどこにも、人工的な壁や柱が見当たらない。天井を見ても空調はおろか、機械の類が発見できなかった。頭の上は、見上げるばかりの青空である。慎重に目を細めて観察すれば、それがスクリーンに投影された光景だと分かるだろう。
視線を下ろして右を見ても、左を見ても、広がるのは花壇に咲き誇る草花と木々、淡い色合いのレンガと舗装されていないむき出しの土だけで。なんどか連れて来られたことのある、初夏に設定された庭園だった。なんでもブルーがジョミーの存在を感じ取り、迎えに行くまでの寂しさを紛らわす為、受けるイメージを総動員して作った部屋らしい。日差しはやや強めだが、気持ちの良い風が吹いている。
この部屋来るだけで恥ずかしくなる、とジョミーがしゃがみ込んでしまうと、ブルーは笑いながら手を差し伸べて立ち上がるよう促しながら、でも話をするには最適だろう、と言った。それも、そうなのだが。この部屋の存在を知るのは製作者であるブルーと、協力者のフィシスとリオ、長老たちだけなのである。一般のミュウは、存在すら知らない。迷い込んでも忘れてしまうよう、軽い暗示が部屋にはかけられている。
ブルーの大切な宝物であり、神殿のような部屋だからだ。あまり多くを立ち入らせたくないワガママなのだよ、と笑って告げたブルーの言葉を思い出し、ジョミーはほてる頬を冷ましながら手を取り、立ち上がった。
「座れる場所ってありましたっけ。あなたの目を見て話したいから」
立ったままでも目は見られるが、ジョミーが言っているのはそういうことではないのだろう。見上げるのではなく、水平にして。距離を近くして、じっと覗きこむようにしながら話したいのだ、というのはすぐに分かって、ブルーはジョミーの手を引いて歩き出した。何回も連れてきたから、ジョミーもこの庭園のつくりを知っている。けれどブルーの方が数え切れないほど訪れているので、案内役が逆になったことは無い。
全体が見渡せるような小高く作られた箇所に、ちょうど二人で座れるベンチが置いてある。手で触れて汚れず座れることを確かめてから、ブルーはジョミーに腰を下ろさせた。すぐに隣に座って、歩いているうちに無言になってしまったジョミーの顔を覗き込む。どうしたの、とは尋ねなかった。けれど我慢できずに名前を呼ぶと、ジョミーはそぅっと息を吸い込んで口を開く。
「ぼくは、確かにあなたの跡継ぎとしてソルジャー候補になることを了解しましたけれど」
それがあなたの死に対する許可だとは思わないでください、と。ごく静かに、感情を限界まで配した、それでいて耳に優しい不思議な声でジョミーは言った。ざぁ、と胸に切ないものを残して、風に揺れた梢が音を立てる。二人きりの庭園。向かい合った姿だから、ひどく距離が近かった。その狭い距離だけが永遠のようで、ブルーは息を吸い込んで、上手く吐き出せなくなる。言葉も、なにもかも、奪われてしまう。
許さないから、と炎が燃え盛る強さでジョミーは言った。許さないから、と見開いた目から大粒の涙を流して、震える手でブルーの腕を痛いほどに掴んだ。許さないから、と呆然とするブルーの肩を掴んで抱きしめて、その姿が風に消えてしまわないように守りながら。ジョミーはブルーに、許さないから、と何度も何度も泣きながら繰り返して、なにか告げられる気配があるたびに首を振って、聞かないと拒絶した。
「生きてよ」
いつも、いつも、どんな時も。ブルーの世界に喜びをくれるのは、たった一人だった。その喜びは分厚い雲の切れ間から見えた、嵐が終る前兆の、黄金の光に対する感動によく似ている。声が出なくて、言葉など無意味で。涙を伴って生まれて来る感情だけが、胸にひたひたと満ちていく。嬉しいのかも、悲しいのかも、よく分からない。抱きしめられる痛みと熱だけがそこにあって、肌が汗でベタついて気持ち悪い。
それでも離れない。離れたくない。どうして二人が、二人に別れて生まれてしまったのかが理解できない。そのことがものすごく悲しくて、切なくて、痛い。どうして二人だったのだろう。どうして一人ではなかったのだろう。二人が一人だったら、それはもう永遠に別れることなどなかったのに。嬉しいことも楽しいことも同じように感じられて、息をするだけで幸せに生きていけた。どうして、残して行ってしまうのだろう。
もしも抱きしめあう為に生まれたのなら、二人でよかった。それなら二人であることと、出会いに感謝できるのに。一人にしてしまうのなら、二人は一人で生まれたかった。生きて、と泣きながら、産まれた瞬間のように泣き叫びながらジョミーは繰り返す。生きて、生きて、生きて。その言葉だけしか知らない幼子のように。その言葉だけしか発せない定めのように。その言葉だけを選んで、ひたすらに言い聞かせた。
「生きて、ブルー。生きて。三百年、ぼくの存在を待っていてくれたと、嘘じゃなく言えるなら」
「嘘じゃないっ!」
肩を掴んで体を引き剥がして、近すぎた距離を離して目を覗き込んで、ブルーは叫んだ。たくさんの嘘を重ねても、それだけは偽りなく本当のことだったから。
「ずっと待っていたよ。ずっときみに会いたかったよ。ずっと……ずっときみの目を見たかったよ」
涙が浮かぶ新緑の瞳。色が綺麗な翠だと分かったのは、ジョミーがジョミーとして生まれてきてからで。ずっとずっと、考えていたのだ。どんな色なのか。どんな風に見つめてくれるのか。底なしの深い、綺麗な瞳は。どんな色で、どんな風に、どんな感情を宿して。見つめてくれるのか、出会えるのかを考えながら三百年間を過ごしてきた。それは胸を暖かくする考え事で。だからブルーは、決して、こんな風には。
泣かせる為に待っていたのでは、なかったのに。泣かないでよ、とブルーは言った。するとジョミーは涙をこぼしながらもきょとんと目を瞬かせて、そしてブルーが大好きな表情で笑い出す。幸せがその笑み一つで分かるような、愛されて大切に育てられてきた表情で。
「あなたも。泣かないで、ブルー」
嘘だって疑ったわけじゃないんだよ、ごめんね、と頭を撫でてくるジョミーの声を、どこか遠くに聞きながら。ブルーは恐る恐る自分の目元に手を伸ばして、そしてぎょっと指先を震えさせた。そんなブルーに、ジョミーは思い切り笑い出す。気が付いてなかったんだ、と今度は笑いすぎで浮かんできた涙をぬぐって、ジョミーはブルーの頬にキスをした。
「いいこと考えたんだ。お願いなんだけど、きいてくれますか?」
双子だったらもっときっと楽にできたんだけど、とにこにこ笑いながら、ジョミーはブルーの返事を聞く前に言う。
「あのね、ブルー。ぼくと一緒に生きて」
そして。もうひとつ。
「それで、ぼくと一緒に死のう」
問いかけではなく、決定事項を告げる気安さで。にっこり笑いながら言ったジョミーに、ブルーは動きを止めてしまった。ジョミーはブルーと手を繋いで、上機嫌に笑いながら告げていく。
「大丈夫、ブルー。一人にしないよ。これからも最後の瞬間も、一人にはしない。だから……一人に、しないで」
繋いでしまおう、と重ねた手から、ジョミーの心が流れ込んでくる。繋ぎとめるのではなくて、ただ、繋ぐのでもなくて。二つを一つに繋いでしまおう。二人は二人にしかなれないから、一人にはなれないから。片方を片方が繋ぐのではなくて、両方で一つにしてしまおう。
「生きてなんて、ワガママだった。ごめんね、ブルー。言い直すよ。……ぼくと一緒に生きて、死のう」
いつでも。幸せを運んでくれる。心を優しい気持ちでいっぱいにしてくれる『誰か』の名前を、ブルーは生まれて三百年して、やっと知ることが出来て。大切に、大切にその名を呼んだ。
「ジョミー」
「大丈夫。ソルジャーは僕が継いであげるから、あなたは安心してぼくのものになればいい……ぼくはとっくに、あなたのものなのだし、釣り合いが取れてちょうど良いんじゃないかな。ね、ぴったり!」
そしてにこにこ嬉しそうに笑うジョミーに、ブルーはもう絶対に勝てやしないのだ。幸福な諦めに身をゆだねて頷けば、ジョミーの笑顔がさらに明るくなる。ぴかぴかに輝くお日様みたいだ。可愛いなぁ、とうっとり笑うブルーっと、ジョミーはいそいそ手を繋いでいく。手袋の上からいったん、それぞれ両手を繋ぎ合わせて、なにか違うと首を傾げて。お互いの手袋を取って直に触れ合って、指を絡ませて満足する。
「……ジョミー?」
「黙って」
どくん、と鼓動が耳の奥で響いた。それも、二種類。微妙に重ならない鼓動に、ブルーはぐらりと眩暈を感じる。ジョミーも同じなのだろう。苦しげに歪んだ表情が同じ不快感を感じているのを物語って、ブルーは恐らく原因である手を離そうとする。しかし強く握りなおされて、それは叶わない。黙って、ともう一度言い聞かせるように言って、ジョミーは息を吸い込んだ。どくん、どくん、と重なり合わない鼓動が響く。
「この先、なにがあっても」
どくん、と。重ならない鼓動の距離が、すこし近くなる。
「楽しいことも、苦しいことも分け合って」
近くなる。二つだった鼓動が、だんだんと一つに重なっていく。触れ合う指先からなにかが流れ込んで来て、そして流れ込んでいく。二つが、一つに繋がっていく。ああそうか、とブルーは微笑んで、苦しげなジョミーの頬に先程のキスを返した。そして目を合わせて笑いかけて、苦しみを半分受け入れる。大丈夫。望んでいるのはジョミーだけではないよ、と。触れて溶け合う力に、命に、囁きながら。口を開いた。
「病める時も、健やかなる時も。この片割れを愛し、この片割れを助け」
「二人が共にあることを、誓います」
「……なにに誓おうか。かみさま?」
信じてもいないくせに、とジョミーはブルーと額を合わせて笑いあう。手のひらから感じる熱も、鼓動も、もうなにもかもが一つだった。重なり合ったのではなくて、もう溶け合って交じり合って一つで、どちらが望んでも分離できない。
「ブルーに誓う」
「じゃあ、ぼくもジョミーに誓おう」
そして、そっと唇を重ねあって。二人は、まるでちいさなこどもにでもなったように、無邪気に笑いあった。この世で最後の呼吸もこうして分け合って、そして二人で幸福に眠りあおう。
芝生の上で。子猫のようにじゃれ付きながら甘えるジョミーを撫でながら、ブルーはそういえば、とあることを思い出して首を傾げた。ここに来る前の食堂で、ジョミーはブルーに話したいことと聞きたいことがある、と言っていたのだが。今の所ブルーは『話したいこと』しか耳にした覚えがなかった。解け合った鼓動に笑みを浮かべながら、ブルーは膝の上に頭を乗せて眠りかけているジョミーの額を、とん、と指で叩く。
「ジョミー? なにかぼくに聞きたいことがあるんじゃなかったの」
「……思い出すからちょっと待って」
言ったことは覚えていても、言おうとしたことが出てこないらしい。えっと、えーっとー、と膝の上でごろごろしながら考えるジョミーを、ブルーは本当に可愛いなぁ、と思いながらずっと撫でていた。可愛くて我慢できずに思わず抱きしめると、ジョミーは思い出したらしい。あ、と腕の中で器用に手を打ち合わせると、あのねあのねっ、と弾んだ声で問いかけてくる。
「ブルーの服とぼくの服、デザインが違うのは聞いたんだけど、マントの色は?」
一緒がいいなぁ、と思われていることは瞳の輝きですぐに分かったのだが。ブルーは苦笑して、青じゃないよ、と言った。とたんにしょんぼりしてしまうジョミーを飽きずに撫でながら、ブルーは赤にしたんだ、と笑う。
「ぼくのマントが青……というか、蒼だったのはね、ジョミー。仲間に安らいで欲しかったから、なんだよ。見た者が安心するのが蒼という色で、そして夜の眠りの色だからだ。ぼくはこの船に来たミュウたちに、安らかに眠って欲しかった。心配もなにもなく、恐かったことを忘れて、新しい朝に笑えるように。ゆっくり眠れる夜の家であって欲しいと、ずっと思っていたんだよ。でも、もうそれも終わり。ジョミーが来たからね」
おはよう、と眠そうなジョミーに笑いながら、ブルーは囁いた。
「ぼくはミュウの夜だった。そして、きみが朝だ。眠れる力を揺り起こして、元気いっぱいに走り出して欲しい。眠りと安らぎの三百年は終わり。だから、マントは蒼じゃない。ジョミーのマントはね、赤。朝焼けの赤で、太陽の赤。一日の始まりの赤で、世界の始まりの赤。目覚めの赤で、炎の赤だ。情熱と、革命の赤だ。ぼくの太陽、きみにぴったり」
さあ眠いなら寝てしまって良いよ、と笑うブルーの腰に、恥ずかしそうに抱きついて。ジョミーは寝心地が良い場所を探してもぞもぞと動きながら、じゃあ赤で納得しますけれど、と言って、ブルーを見上げた。
「忘れてる、ブルー。もうひとつ」
「なにが?」
「赤。あなたの目の色だ」
いつでも一緒、と嬉しそうに笑ってジョミーは目を閉じた。疲れていたのだろう、すぐに寝息が響いてくる。ひとつになった鼓動を噛み締めながら、ブルーはうっすらを赤く染まった頬で天井を見上げて。かなわないなぁ、と嬉しく笑った。