一度だけ。一秒だけ。一目だけ。一回だけ。
目が合った。すれ違った。伸ばした指は触れなかった。
こんにちは、も。さよなら、も。
告げ合えない。それは一度目できっと永遠の別れ。
ねえ、同じ魂を持つひとよ。
この世で唯一、完全に同一の存在の君へと、問う。
あのひとのことが好きですか?
ぼくと同じに、あなたは、あなたのあのひとのことを。
それは初恋、そして唯一の恋。
金木犀の願いと、銀木犀の祈りの物語。
起きた瞬間に『違う』と思ったのは、シャングリラを包み込む空気が慣れ親しんだものではなかったからだ。三百年、ジョミーがソルジャーとして守ってきた船の空気は、色に例えれば温かな夕暮れになるだろう。たくさんの色彩が輝きながら入り混じって、心が喜びにざわりと揺れ動く感覚。誰もが元気で、笑顔で、そして船をとても好きでいてくれている。それは、ブルーにソルジャーを受け渡しても変わらない。
ブルーはジョミーの船を愛し、それをそのまま守ろうとしてくれている。もちろん、自分なりに改良することもあるので、船の空気は緩やかに『ソルジャー・ブルーの守る船』へと変わって来ているのも事実なのだが。それとは違う空気だ。ジョミーは胸に手をあてて奇妙な騒ぎを感じないことにこそ首を傾げ、横たわって眠っていたベットから体を起こして。そこでまた、あれ、と目を瞬かせて首を傾げ、記憶を探った。
寝て起きたのは、この部屋だっただろうか。ジョミーはいつものようにハーレイの目を盗んで己の部屋を脱走し、お気に入りの展望室の一角でベンチを占領していた筈なのだが。ジョミーがいるのは『部屋』だった。見晴らしの良いガラス窓や開放的な空気、踊りだすような光はどこにも見当たらない。夜ではないのに薄暗い理由は、ライトが消されているからと、窓に引かれたカーテンのせいだろう。室内、である。
またリオに見つかって起きないように移動させられたのかと思うが、その様子でもない。リオがジョミーを運んできたのなら、必ず翠の布がかけてあるのだが、足もを探してもベットの上にくまなく視線を走らせても、見覚えのある色が目に付くことはないのだ。ため息をついて眉を寄せ、ジョミーは改めて室内を見回す。簡素な部屋だった。まず第一にものがすくないし、人が使っている気配があっても生活感がない。
あまりこの部屋で寝起きしていないのだろう。仕事が忙しいか、さもなくばどこかに泊まっている可能性が高い。そういえばブルーも実は甘えたがりで、よくジョミーの部屋に来ては二人で寝ているっけ、と考えて、ジョミーはぽんと手を打ち合わせた。違和感が自分で解決できないなら、誰かに聞けばいいのである。さて誰に聞くべきだろうか、と考えて、ジョミーは初めて自分が『呼ばれて』いることに気がついた。
思念波の受信、送信が上手くできないのはソルジャーになってからも、ソルジャーとして活躍している間も、ソルジャーを退いて力を回復しても変わらない事実の一つで。どうすれば上手にできるようになるのだろう、とミュウなりたての初心者のような悩みに首を傾げながら、ジョミーは慎重に呼びかけの思念波にこたえた。
『ええ、と……リオ? ごめん、寝起きであんまり聞こえてなかったんだけど、どうかした? というか、聞きたいことがあるんだけど、今時間いいかな。仕事中で忙しかったりするなら、誰か他の暇なの捕まえるから気にしなくていいよ。リオが一番聞きやすいけどさ』
『……いえ、今は大丈夫ですが。ジョミー?』
戸惑うような間があり、そして感情を反映して声が揺れていた。不安にというよりは、いぶかしげな感情だ。その受け答えにまた違和感があって、ジョミーは思わず口を閉ざした。胸が騒ぐ。なにかがおかしい。なにかが、違う。ジョミーの知るものではない。震える心を宥めるように、ジョミーはリオに問いかけた。
『……リオ? ぼくが寝ている間に、なにか異変は? ブルーはどうしてる?』
『ソルジャーでしたら、青の間でお眠りだと思いますが……あの』
『寝てるっ? な、なにか風邪とか怪我とか気持ち悪いとかかなっ』
それは大変っ、すごく大変っ、と大慌てでベットから立ち上がったジョミーは、不安と心配のあまり思念波を船内に撒き散らしてしまっていたのだが。その瞬間、違和感がぐんと強くなって顔を青ざめさせる。なんだ、これは。絶句したジョミーが次に行ったのは、『ちょっ、ジョミーなんだか体つきが大きくなっているというか大人びた顔つきになってませんかっ?』という大混乱のリオの思念を完全無視した跳躍だった。
ひととび。こんな時だけなんの狂いも見せないサイオン・コントロールで、ジョミーはすぐにブルーの元へと転移した。青白い光に照らされた室内で、ブルーはベットに横たわっていた。その傍らにハーレイもいて、ぎょっとした目をジョミーに見せるも口をぽかんと開けて絶句してしまう。その反応の妙を問うこともなく、ジョミーはブルーの顔を覗き込んだのだが。その時点でジョミーもぴたりと動きを止めてしまった。
「……あ、あれ? あれあれあれあれ?」
銀のまつげが薄っすらと影を落とす美貌は、確かにブルーのものだった。白くぬける決め細やかな肌も、すっと通った目鼻立ちも、目が閉ざされているとはいえ確かにブルーのものだ。しかし眠っているブルーは、『ジョミーの知っているブルー』とは、決定的に違うものがあって。それは顔立ちが示す精神的なものをふくむ年齢と、そして彼を取り巻く落ち着いた空気だった。長く、長く生きたものだけがまとえる空気。
穏やかで温かで、触れるだけで安心できるような、それ。ほっと和むのはいいことなのだが、ジョミーの知るブルーはまだそんな空気をまとえない。優しくて穏やかなのは一緒だが、年相応の可愛らしさが見え隠れしていて微笑ましいのだ。だから、目の前の存在はブルーではない。すくなくとも『ジョミーのブルー』ではないのだ。ぐらりと眩暈を感じてベットに手をつけば、至近距離できれいな紅の瞳と出会う。
いつの間にか目を覚ましていた、ブルーの瞳だった。ごく近くで見詰め合って、ブルーはジョミーに甘く微笑みかける。包み込むような笑みだった。ジョミーは思わず笑い返しながら、あれ、とまた首を傾げる。
「ブルー? ……ねえブルー。きみ、なんか育ってない? もしかしてぼくが寝すぎてた、とか?」
「それはこちらの台詞だよ、ジョミー。きみはいつの間にそんなに大きくなったのかな」
くすくすと笑うブルーに、ジョミーはにっこりと笑って。会話がかみ合っていないことを確信し、ばっと勢いよく体を起こした。そして愕然とした表情で視線を向けてくるハーレイとの距離を一気につめると、がしっとばかりに肩を掴んで引き寄せる。そしてなにを言わせる時間さえ与えず、額を重ねてその記憶へともぐりこんだ。ごっ、と痛い音が響いて衝撃が走るが、それはもう無視だ。そんな場合ではない。
心に深くもぐって記憶を引き出して、ジョミーはふらりとハーレイから離れた。なんだか信じられない記憶を見てしまった。それは違和感の正体で、そして全ての答え。ハーレイの記憶の中で、ジョミーがブルーで、ブルーがジョミーだ。ソルジャーとして、最長老として。ミュウたちを三百年守り、導いてきたのは『ソルジャー・ブルー』で。そして『ソルジャー』に次代の候補として迎え入れられたのはジョミーだったのだ。
十四歳の少年。成人検査をきっかけにミュウとして覚醒した者。ジョミー・マーキス・シン。現在のソルジャー候補こそ、ジョミーだった。ふらりと意味もなくハーレイと距離を取るジョミーの肩が、なにかに当たる。振り返ると額に汗をにじませ、息を弾ませたリオだった。リオは混乱のあまり涙ぐむジョミーをためらいのない仕草で抱きしめると、安心してください、と言い聞かせる。それは、それでも知っている熱だった。
『……リオ、リオ。りおぉー』
しょんぼりした思念波と共に、ジョミーは己の持つ記憶を全方向に向けて解放した。誰に対して、ではない。船にいる全てのミュウに対して、己の持つ記憶を目の前に提示するように見せ付けて見せたのだ。それでジョミーがなにかを間違えてしまったのか、それとも手の込んだ悪戯かが分かるから。けれど船内には動揺した空気が響くだけで、ジョミーが望んだ反応はどこからも返らずに。確信だけが胸におりる。
思わず泣きそうになるジョミーを、それでも、『違う』と分かっていても離さないリオの優しさが救いだった。背に腕を回して甘えるように肩に頬をよせ、ジョミーはそぅっとありがとう、と囁いて。顔をあげて、苦笑して待つブルーに視線を合わせる。
「ねえ。ブルー? ……一応聞くけど、きみの名前はブルーでいいんだよね?」
「うん、ジョミー。ぼくの太陽ではない、けれど確かに『ジョミー』であるきみ。きみが聞きたいことは、なに?」
「ええと。いや、これ、どういうことなのかなぁ、って」
それは私が聞きたいのですが、と言わんばかりのハーレイの視線を軽やかに無視して、二人のソルジャーはにっこりと笑いあった。なんだか嬉しくなってしまって、自然に浮かんだ笑みだった。和んだ空気を漂わせながら、ジョミーは面白いねぇ、とやんわり目を細める。
「ここが、ぼくの世界じゃないなんて」
全く同じようでいて、ジョミーとブルーの立場が入れ替わった世界。そこに『ソルジャー・シン』として長く生きたジョミーが存在し、『ソルジャー・ブルー』として三百年の時を生きたブルーと顔を合わせていた。金木犀の香りを漂わせるソルジャー・ブルーはふんわりと笑い、そして面白いことになったね、と緊張感のない呟きを落とす。
「さて。ぼくの太陽は……『ぼくのジョミー』は、そうすると」
「ぼくと入れ替わっちゃったって考えるのが正しいかなぁ」
どうしようねえ、どうしようねえ、と緊張感を取り戻してください、と絶叫されそうな穏やかさで、二人のソルジャーはほのぼのと笑いあい、悩んでいるのか悩んでいないのかよくわからない空気で首を傾げあっていた。そのうち二人のソルジャーは、考えることがめんどくさくなったのだろう。まあぼくらがどうにかなってるから大丈夫だよね、というある意味信頼のおける、それでいて乱暴な結論を下してしまった。
それでいいんですか、と向けられるリオの視線に、三百年生きたソルジャーたちは、それぞれ有無を言わせぬ笑みを浮かべて振り返る。そして口々に大丈夫大丈夫、といたって気楽な声を響かせた。
「だって、ぼくのジョミーだもの。きっと可愛がられてるに違いないだろう? というか、ジョミーを可愛がらなかったらぼくじゃない」
「そうそう、ぼくのブルーだからね。きっとお茶でもしながら考えてくれてるよ。だからなにも心配いらないよ、リオ。すこし待てばきっとどうにかして連絡が……ああ、そうだ、ブルー。たぶん船の構造は同じだと思うけど、迷ったら嫌だから案内してくれないかな。ブリッジまで」
「ああ、いいよ。もちろんだ」
行きながら色んなところに顔を見せていくといい、とブルーが笑うのは、先程ジョミーが全館放送した混乱がまだ収まりきっていないからだった。『本物の』ジョミーはどこに行ったのか、という問いも混乱の中には含まれていたので、誤解を解くと共に説明しなければいけないだろう。嫌だなぁぼく説明って苦手なのに、とため息をつくジョミーと並んで歩きながら、ブルーは穏やかな笑みを浮かべて青の間を出て行く。
その背を見送りかけてから、慌ててリオは二人を追った。完全にかやの外に置かれたあげく、なりゆきを見守るしかできなかったハーレイを連れて。廊下を出た所でやっと己を取り戻したハーレイは、今のアレはなんだったんだ、という視線をリオに向けたのだが。右を見て左を見て、もう視界の範囲にソルジャーたちが発見できないことを悟ったリオは、思念を使って二人の大まかな位置関係だけを把握した。
そして真剣な表情になって、ハーレイに向き直る。
『ブリッジへ急ぎますよ、キャプテン』
「理由を聞いておく。なぜだ」
『分かりませんか? だってあれはジョミーですけれど、ソルジャー・シンで、そして一緒にいるのはソルジャー・ブルーですよ? ソルジャー二人が仲良くしながら出歩いてるんですよ?』
それのなにがブリッジへ急ぐ理由になるのか、と考えるハーレイを、リオはできの悪い生徒を見つめる教師の視線で眺めやった。そうしているうちにも、ソルジャーたちのやけに楽しそうな、はしゃいだ気配が船に満ちていく。時間の猶予は、あまりない。思い切りため息をつきながら、リオは答えを教えてやった。
『なにをやらかすか分かったものじゃないでしょう』
「急ごう」
やっとことの重大さを理解したハーレイは、顔を青ざめさせて走り出した。別に二人自体に害はないのだが、なにせジョミーの為なら結構何でもやってしまうブルーと、ソルジャーとして安定した力を持った『ジョミー』の組み合わせなのである。それだけで、ばくぜんと『なにか』をやらかしそうなのだった。問題を起こさないでブリッジまでたどり着いてくださいね、と必死に祈りながら、リオもハーレイのあとを追った。
事故を未然に防ぐのなら傍にいた方が良いのは分かりきっていても、即座に指示を出せるブリッジの方が安全だと信じて。