この『和むいきもの』はなんだろう、と。入ってくるなり入り口付近で立ち止まり、そう言わんばかりの視線を向けてくるシロエにブルーは苦笑した。そしてぱたぱたと手を動かしてシロエを招くと、その仕草で初めて気がついたのだろう。冬ごもりから目覚めたリスのような必死さでお菓子を口に運んでいたジョミーが、きょと、とした表情で部屋の入り口を振り返った。そしてシロエを見て目をまんまるに開き、わ、と言う。
「シロエだ、シロエだっ。でも、あれ、大きい? シロエはぼくより年下だよね?」
「あなたより年上のミュウなんてこの世界に存在してたまるものですか。というかブルー。ねえなにこれ」
「うん? ジョミーだよ。一応、ジョミー」
ほら、このショックで泣きそうな表情なんてそっくりだろう、となぜか嬉しそうに告げてくるブルーを軽く睨み、シロエは記憶よりずいぶんと年下に見えるジョミーに目を移した。シロエの知るジョミーは、出会ってからというものの、ずっと十七か十八前後の青年の姿を保っていた筈なのだが。キツい物言いに驚いて涙ぐんでいる『ジョミー』は、確かに同一の存在だと思わせる外見をしていながらも、年若かった。
十四歳くらいだろうか。まだあどけなさと幼さを残した顔立ちだから、どんなに頑張っても十七には見えない。椅子に座っているから正確なところはわからないが、身長も低いし肩幅もちいさく、体つきもまるで成長途中の少年のものだった。けれど、ジョミーである。ブルーの言うとおり『一応』ジョミーなのだ。間違えようのないサイオンの波動がそれを証明しているし、なによりもブルーの心が嬉しげに弾んでいる。
最近『ソルジャー・ブルー』となったミュウたちの新しい長は年齢に似合わない落ち着きの持ち主で、特にジョミーの後を引き継いでからと言うものの、あまり心を揺らすことがなくなったのだった。元々、ほんのり控え目に喜んだり、そっと悲しんだりする性格の持ち主だ。無理をしている、というよりは必要な切り替えだと分かっているので納得するが、ジョミーがそうなったらミュウ一同は大慌てで止めることだろう。
くるくると落ち着きなく動き回り、喜びにも悲しみにもめいっぱい心を振るわせる。不安定ともいえるその揺れ幅も、ジョミーの魅力の一つなのだから。長を辞任してからもそれは変わらず、好きなだけブルーを愛でるジョミーの心は常に幸せで満ち溢れていた。そしてソルジャーとしてではなく、一日が終ってブルーに戻れる僅かな時間だけ、少年も心をやわらかく弾ませ、愛しい恋人の前で素に戻るのだった。
ブルーは、そんな切り替えがやけに上手だ。今もソルジャーとしての表情ではなく、ブルーとしての顔つきでやんわりと『一応』ジョミーに笑いかけている。その笑みと声の響きに、シロエは大きくため息をつく。なにがどうなっているのか全く良く分からないが、シロエに向かって怒ったのかな、とちらちら視線を向けてくる少年はジョミー以外の何者でもない。シロは即座に、ブルーの判断を己のものとして採用した。
なぜならブルーがジョミー以外に、そんな甘い笑みと声を出すわけがないからである。怒ってないから安心しなよ、とため息混じりに告げてやれば、十四歳くらいに見えるジョミーはにっこりと、無邪気な笑みを浮かべて頷いた。思わずシロエは頬を赤くし、うわぁと呻いて天井を睨みつける。なんだこれ。なにこの凶悪ないきもの。内心だけの呟きは、しかしブルーには聞こえていたらしい。苦笑いで同意される。
「ね。だからシロエだけ呼んだんだよ。リオとフィシスにも、この状況は思念波中継してるけど……とりあえず、対策立ててからじゃないと、うっかり船内を歩かせたりできないだろう? この部屋で、ずーっとぼくと二人でも、それはそれでいいんだけどね?」
「仕事しろよ新米ソルジャー。ダメ。それはダーメっ!」
腰に手を当ててびしりと言い放つと、ブルーは面白そうに肩を震わせて笑った。それからはいはい、といたって気楽な様子で返事をして、華奢な机に備え付けられた三脚目の椅子を指で示す。座って、と暗に告げる仕草にシロエは頷き、軽やかな動きで距離をつめると椅子に腰を下ろした。その間、ジョミーはじーっとシロエを見つめているのでやりにくいことこの上ない。口を開く仕草さえ、重たいものになる。
「そ……れで、ブルー。このジョミー、なに」
「うん。的確な質問だね、シロエ。でも説明しにくいから、本人に聞いてくれないかな」
なにをどう尋ねれば求める答えになるのかが分からず、シロエはじーっと見つめてくるジョミーに視線を移した。そして、まず観察してみることにする。シロエの知るジョミーとの一番の違いは、外見の幼さではなく落ち着きのない空気だ。シロエのジョミーも確かに落ち着きはないのだが、それとはすこし質が違う。奥底に三百年の英知を秘めながらも、元気で軽やかで動き回って感情の揺れが激しいのが正解だ。
それなのにシロエを見つめ返してくる瞳の奥に、深い時が降り積もった英知は見当たらなかった。若い、とシロエは第六感がはじき出した答えを言葉に変換し、頷く。若いのだ、このジョミーは。恐らく外見と年齢が正しく一致するほど、若い存在なのだった。うん、とすこし首を傾げながらシロエはジョミーからブルーに視線を戻し、再度問いかける。本人に、といわれてもブルーに聞かなければ分からないからだ。
「記憶喪失ですか? それとも記憶退行ですか?」
「ご、ごめんねシロエ。その二つの違いがよく分からないけど、でもそのどちらでもないよ」
「記憶喪失は、時間軸が『今』のまま、『過去』の一部、あるいは全部がきれいさっぱり消えてる状態。たとえば三日前のことだけ完全に思い出せないけど、それ以外の記憶があったとするなら記憶喪失。ジョミーの場合はボケの可能性もあるけどね。で、記憶退行はまき戻り現象だとでも思っておいて? 時間軸の基本が『今』じゃなくて『昔』に固定された状態ね。例えば、自分を十四歳だと思ってるなら退行の方」
一応簡単に説明をして、それでもどちらでもないと否定されたシロエは、そこで初めて真剣にジョミーに向き直った。にこにこと笑いかけてくるジョミーに緊張感を失いながら、シロエはああもう、と脱力して問いかける。
「ジョミー。きみ、なに?」
「シロエ、すごく頭良いんだね。びっくりした。ぼくは、ジョミー・マーキス・シン。詳しい説明は、ぼくもどう言っていいのか分からないから……読んで? ねえ、えっと……ブルー。読んでもらっても、いいよね?」
その問いではじめて、シロエはジョミーをブルーのサイオンが薄く包み込んでいるのに気がついた。恐らくは、ジョミーの思念波が悪戯にもれてしまわないように、だろう。このジョミーも思念波をコントロールするのが苦手らしい、と思いながら、シロエはブルーが頷いたことを横目で確認し、手を差し出した。ジョミーの手が、シロエの手を掴む。その瞬間、濁流のように流れ込んできたのは、記憶だった。
意識を乗っ取られるほど強くはない、しかし読み取って理解するのに苦労する濃度だ。歯を食いしばって必死に読み解きながら、シロエは『それ』をなんとか理解して手を解く。椅子の背もたれに体を預けて息を大きく吸い込み、シロエは心配そうに見てくるジョミーを軽く睨んだ。
「へたくそ。相手がぼくじゃなかったら、きみの記憶に乗っ取られてたよ。でもまあ、あんな風に目覚めて一年も経ってないんじゃ、情報の受け渡しが自分の意思でできることを褒めるべきかな。……怒ってないよ、ジョミー。ぼくらの長じゃなくて、新米のソルジャー候補さん?」
現状を把握した、というブルーへの報告を問い一つで暗に示して、シロエはふぅと息を吐き出した。そっと目を閉じて大量の情報を整理し始めると、問われたジョミーがこくんと頷く気配を感じる。
「うん。ごめんね、シロエ。ありがとう。気をつける……大丈夫?」
矢継ぎ早に色々答えて、ジョミーはシロエに手を伸ばした。そして疲労の色が濃く出ている頬を撫で、頭をなでて心配そうに見つめてくる。優しい動きの手を捕まえて、シロエは理解不能だよね、と苦笑した。
「そう思わない? ブルー。なんでこれが……嫌われるというか、受け入れられないというか。まあ、『今』は多少改善されたようだけど。辛かったね、ジョミー。でもよく頑張った。大丈夫。きみはぼくらの、大切な長になれる」
だから、頑張れ、と。違う世界で大変な苦労をしているジョミーに笑いかけてやると、少年の頬がかぁっと赤くなる。そんなことまで伝えるつもりではなかったのだ、と捕まえた手のひらから心が零れ落ちた。成長を保障された喜びより、辛かったことと悲しかったことを共有させてしまった罪悪感が広がっていた。まったく、と苦笑して、シロエは自分よりすこしちいさいジョミーの体を抱きしめる。
「大丈夫。なんの負担にもなってない……はやく、そっちの世界のぼくが、傍に居られるようになればいいんですけど。そしたらリオみたいにずっと傍にいて、ジョミーを支えてあげられるのに。もうぼくのことは見つけたんでしょう? 焦らないでもいいけど、早くシャングリラに連れて来てくださいね」
「う。うん。ありがとう、シロエ」
「こっちこそ」
ぼくを見つけてくれてありがとう、と笑われて、ジョミーはすこしためらいながらも頷いた。そしてシロエの腕の中から抜け出して、二人のやり取りを見守っていたブルーに向き直る。
「ねえねえ、ブルー」
「うん。なになに?」
にこにこ問い返してくるブルーに、ジョミーもにこにこ笑い返した。瞬く間に和んだ空気が漂うのを、シロエは呆れ半分、感心半分で見守る。ブルーの方が多少年上の感じはするが、それでも二人は同じ十四歳なのだ。同い年が目の前にいて嬉しいのと、お互いがお互いのブルーとジョミーを大好きなので、なんとなく嬉しくて楽しくて仕方がないらしい。お互いに可愛いなぁ、と思っているのをシロエだけが感じ取る。
いや二人まとめて可愛いから、と言いたいのをぐっとこらえて見守ることにしたシロエの前で、ジョミーは幼い仕草で首を傾げる。あのね、と続けられる言葉からすると、おねだりの仕草らしかった。
「ぼく、ブルーとシロエだけじゃなくて、こっちのリオとフィシスと……ハーレイ先生とか、長老たちにも会ってみたいし、カリナたちもいるんだったら会ってみたいな。だめ? ねえねえ、ブルー。だめ?」
『……助けてシロエ』
『ごめん無理』
こんな可愛いの外に出したらそれだけで危ない、という理由のみですぐには賛成できないブルーは、思念波でシロエに助けを求められたのだが。おねだりジョミーを直視できないシロエは、視線を逸らして即答した。だめかな、だめかな、とブルーを見つめてくるジョミーに、諦める兆しは見つけられず。しばらくしてブルーは、しっかりジョミーを守らなければっ、と決意を深めて頷いた。
「うん。いいよ。会わせてあげる……けど、約束」
「なに?」
「ぼくと手を繋いで歩くことと、シロエの傍から離れないこと」
ぼくを巻き込むのやめてくれないかなぁ、と嫌そうな視線に笑顔で応えて、ブルーは元気よく頷くジョミーと手を繋いだ。
『だって、一人で歩かせるわけにはいかないだろう』
『それもそうだけど……ああもう、分かったよ。お供すればいいんでしょう?』
『ありがとう、シロエ』
嬉しくにっこり笑いかけてくるブルーに、シロエは大きくため息をついた。このちいさいジョミーもたいがい分かっていないが、ブルーだって全然分かっていないのだ。たとえばシロエが了解したのは、ブルーの意を汲んでジョミー大好きな船内クルーたちから守ろうとしたわけではなくて。もちろん、そのつもりもあるのだが、それだけではなくて。ブルー大好きなクルーからしてみれば、この組み合わせは凶悪すぎる。
可愛くてちいさいジョミーとブルーが、手を繋いで船内をお散歩、だなんて。誘拐犯が涙を流しながら大喜びしそうなシチュエーションを、実現させるわけには行かないのである。とりあえず思念でリオに応援を呼びかけ、すぐに行くと返事をもらいながら、シロエは二人を先導して歩き出した。