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 いつもの香り

 やわらかく広がる、金木犀の香り。それはジョミーが悲しむたび、苦しむたびにどこからともなく香り、ぎゅぅと体を抱きしめるように包み込む。いつからそうだったのかは分からない。けれど気がついた時には、もうそうなっていて、ジョミーはそれが不思議なことであると感じたことも、思ったこともなかった。友達たちに、そういった現象が起こらないのは知っていたので、すこしばかりの優越感をもつくらいだった。
 それでも誰かに自慢したりしなかったのは、そっと心に秘めておきたい事だったからだ。それに、これ以上教師に目をつけられるのは嫌だったし、言えば香りを取り上げられてしまうような、うっすらとした恐怖感も抱いていた。けれど、それも、もう今日で終わりなのかもしれない、と。そう思って、ジョミーは早朝の光を浴びながら、ベットの上でぼんやりと仰向けになり、天井を見上げていた。十四歳の誕生日だ。
 寝起きの気分がすこぶる良くないのは、どう考えても昨夜のテストのせいだろう。詳細を記憶していないのを幸いと感じるほど、心が消耗していて、起きなければいけないのに体をあげる気にならない。ため息をつき、呼吸の為に空気を吸い込んだジョミーは、ハッと気がついて勢いよく体を起こした。いつもの香りだ。金木犀の香りがうっすらと、ごく薄く、室内に残っていた。それは、完全なる残り香だった。
 その香りを漂わせる『誰か』は、ジョミーが眠っているうちに来て、そして去っていったのだろう。
「別れを」
 告げに来たのですか、と。意識せずに呟くジョミーは、空気がゆらりと動くのを感じた。そして、むせ返るほど強くなる金木犀の香りに抱きしめられて、ジョミーはうっとりと目を閉じる。ああ、来てくれた、と。姿を見ることができなくても、ジョミーを抱きしめてくれる感覚が、『誰か』がそこに在ることを教えてくれる。いつも、いつもそうだった。けれど、これからもそうなのだろうか。大人になっても、来てくれるのだろうか。
 分からなくて。胸が苦しくて、ジョミーは胸いっぱいに金木犀の香りを吸い込んだ。
「別れたく、ない」
 あなたに会いたい、と。噛み締めるように告げるジョミーの頬に、なにか暖かなものがかすめて。それを最後に、すぅと香りが薄くなり、やがて空気に紛れて消えてしまった。その、目にも見えない残滓を拾い集めるようにぎゅっと手を握り締めて。ジョミーは真新しい服を手にとって、袖を通し始めた。

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