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 やわらかで、温かな

 肌をちりちりと焦がすように感じるそれは、敵意だ。ジョミーは勉強部屋へ向かう足を止めて、吐き気を堪えるように深呼吸をした。ミュウたちの船に連れてこられて、二週間。テレパシーを感じることができずとも、向けられる悪意には敏感になった。立ち止まったジョミーに向かって、ミュウたちの視線が集中する。その中に、ジョミーに好意的なものなど一つも感じ取れなかった。たった一人も、味方のいない現実。
 ジョミーは口元に強く手を押し当てて、こみあげてくる吐き気と叫びたい衝動に耐えていた。
「ど、して……っ」
 どうして。どうして、こんな目に合わなきゃいけないんだ。どうして、そんなに敵意を向けられなきゃいけないんだ、と。言葉にうまくできないのは、神経を圧迫し続ける敵意のせいだろう。テレパシーとして、言葉として、感じ取ることは未だできない。イメージとして、掴むこともできない。それでも空気が、痛むのだ。ちりちりと、火で炙るように。ちくちくと、針で刺すように。ジョミーの意識を、絶え間なく責めてくる。
 息を吸い込み、吐くことすら困難になるほど。船のどこに居ても、なにをしていても、敵意の空気は追ってくるのだ。こうして立ち止まってしまえば、全身をからめ取って動けなくなる程に。強く、深く。ぎゅっと目を閉じることで意識を強く持ち、ジョミーは悪意を振り切るように廊下を走り出した。ただ、がむしゃらに。方角など分からない。道筋など、地図が完全に頭に入っているわけではないから、辿れるわけがない。
 だからこそ。はっと気がついた時には見知らぬ区画で、完全に道を見失ってしまっていることなど、あまりに当たり前だったのだ。しまった、と慌てて周囲を見回しても、もう遅い。向けられる視線と悪意から逃れたいばかりに、ジョミーはミュウたちの居ない方、居ない方へと走ってきたのだ。見回しても人影など一つもなく、近づいてくる足音もない。薄暗い廊下にはジョミー一人きりで、灯りだけが揺れていた。
 ジョミーは新緑色の瞳をゆっくりと和らげて、足からくず折れるようにその場に座り込んだ。背を壁にもたれていなければ、そのまま仰向けに倒れこんでいただろう。誰も居ない静寂が、ジョミーの糸を切ってしまったようだった。はぁ、と物憂げな息を吐き出して、ジョミーは額に手を押し当てた。肌がちりちりと敵意に焦げるたび、鈍い頭痛がジョミーを襲うのだ。敵意が消えても、その痛みだけは残り続ける。
 目をぎゅっと閉じて、深呼吸を二度。もう慣れてしまった頭痛を鎮める行為は、周囲になんの気配もないことが幸いしてか、そう何度も繰り返さぬうちに実を結ぶ。すぅ、と波が引くように消えていく痛みに、ジョミーは今度こそ疲れきって廊下に手足を投げ出した。そしてぼんやりと、なにを考えるでもなく周囲に視線をめぐらせる。白い、船だ。外観も白く優美なフォルムのこの船は、内部も乳白色で出来ている。
 柱や、廊下。明かりを灯す覆いや、家具のほとんどの部分が、清潔で温かみのある白だ。その中に座り込む、金と新緑を宿すジョミーは、水に落ちた油のように目立って見える。ここは、お前の居るべき場所ではないのだと。そう告げられているような気がして、ジョミーは立てた膝に額を押し付け、深く長く息を吐き出した。もう、嫌だった。アタラクシアに、家に帰りたかった。なにより、安らげる場所が恋しかった。
 あたりにはジョミー以外、誰も居ない。それなのに心から安らげないのは、この船の空気があるからだった。敵意を孕むミュウたちの空気。それがなくなれば、それだけでもどれ程楽になれるだろうか。どうか、とジョミーは祈るように考える。どうかこの痛みだけでも消し去って欲しい、と。そう思った、瞬間だった。不意に吹いた春風のように、やわらかく。暖かで清涼な気配が、ジョミーをそっと包み込む。
『ジョミー』
 手を差し伸べ、腕の中に包み込むように。守るようにひっそりと、その声は響いた。テレパシーなど、受け取れない筈なのに。声を声として、言葉として聞き取るなど、ジョミーにはまだ難しい筈なのに。相手が未分化で安定しないジョミーの力に、そっと寄り添うようにしてくれなければ、受け止めることも普通には出来ない筈なのに。声は。優しく、やわらかな声は、ハッキリとジョミーに届いた。
『ジョミー。大丈夫』
 もう、大丈夫、と。苦笑しながら囁くような声が聞こえたのは一瞬で、あとはまた聞こえなくなってしまった。それはまるで、夢の残り香が不意によみがえってきたような、現実味のない一瞬で。なんだったんだろう、とジョミーが眉を寄せながら立ち上がりかけると、不意に鼻先を金木犀の香りがよぎる。虚をつかれて目を瞬かせるジョミーの周りに、ふわりと青白い輝きが現れる。やわらかで、愛しい光だった。
 それは、ハッキリと形を保てぬようだったけれど。それでもジョミーは、それが誰であるのか分かった。
「ソルジャー・ブルー?」
 きちんと姿形が形成されていないのは、思念波によるものだからだろうか。それとも、容態が悪いからなのだろうか。船に連れてこられて、『ソルジャー・ブルー』の話は溺れるほどに聞かされたが、夢と成人検査で顔を合わせた以外、ジョミーはその指導者に会うことさえ出来ないでいた。けれど。分かる。
「ブルー。ぼくは、あなたに」
 会いたい。会って話したいことや、聞きたいことがたくさんあるのだ、と。言いかけるジョミーの前で、青白い光は一瞬ゆらめき、それからハッキリとソルジャー・ブルーの形を成して。伸ばされたブルーの指先が、ジョミーの頬を確かめるようになぞった。
『ああ』
 くすり、とブルーは微笑んだ。
『泣いては、いないね。ジョミー』
 よかった、よかった、とやわらかく微笑んで。そのままブルーは、するりと空気に溶け込むように姿を消してしまった。しばらく呆然と虚空を眺めて、ジョミーは顔を赤く染めて場にしゃがみこむ。言葉の意味も、行動の理由も、まったく分からなかった。けれど、理解できたことが、一つ。ブルーは、ジョミーを心配して姿を見せてくれたのだ。だからきっと、心配することはなかったのだ、と安心して眠ったに違いない。
「ぼくは……あなたに、会いたいのに」
 幼い頃からずっと、辛いとき悲しいとき、見守っていてくれたのはあなたでしょう、と。聞きたいのに。かすめて消えた金木犀の香りが、かすかな記憶と現実を繋ぐ糸なのだ。それを確かめる時が、やっと、やっと巡ってきたのに。ブルーはまだ青白い光だけを残して、ジョミーの前から居なくなってしまう。ため息をついて立ち上がり、ジョミーは強く前を見据えた。そして、気がつく。頭痛が、綺麗に消えていた。
 そして、身を取りまく空気も。重たくて冷たかったそれが、軽やかに暖かに変化している。大丈夫、とブルーは言った。その声がどうしてか脳裏に響いて、そして消えていく。ああ、また守ってくれたのだ、とジョミーは目を閉じて意識を集中する。たった今目にしたブルーの姿から、本体にたどり着けないかと。深く、深く意識を集中して考える。そうするとまぶたの裏の暗闇に、じわりと明かりが灯るようだった。
 それは。やわらかで暖かな、導きの光のようで。輝くそれを目指すように目を開き、ジョミーは一歩を踏み出した。

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