必死に求めてはいないのだった。ただ目の前を通って行く人が居れば、ぼんやりと目が追ってしまう。その程度の興味で留まっている。胸がいくらざわめいても、アイルはそれ以上を己に許可していないのだった。だってもう色んなことがよく分からないんだよ、と溜息をつくアイルに、兄二人はそっと視線を交わして苦笑した。探すのは、別に最後でも良いのだ。最終的にそこに辿りつけばいいだけで、遠回りしても良い。
どういうものなのか。己に取ってどういう存在なのか、聞いて、見て、知って、考えて、そこからでも十分間に合うだろう。つい昨日告げられたにしては、アイルの動きは早い方だった。気がつかれないように笑い、ロイルは優しく問いかける。
「教育官について、父上はなんか言ってた?」
「……呪いとか言ってた。あと、見つけないと十歳くらいで衰弱死するんだって。ホント?」
「本当。俺とセルカは、偶然というかなんというか、探し始めてすぐ会ったから分からないけど」
歴史的に一例か二例くらいは衰弱死の記録が残されてる、と言うロイルに、セルカもうんうんと頷いた。教育官は、王族がそこにあれば必ず存在する者だ。従って巡り合えないということが無いのだが、よほど何かが起こった結果らしい。不安げに眉を寄せるアイルに、セルカは大丈夫、と囁いた。確かに本当に、そういう前例は記録されているのだけれど。
「アイルが探せば、教育官はちゃんと応えてくれるから。惹き合う筈だし、自覚は無くても症状が出るし」
「症状?」
「頭痛とか。胃痛とか。全体的に体調不良になるらしい。一番多いのが頭痛」
俺たちが『ちゃんと探し始める』とな、とセルカは悪戯っぽく笑った。
「惹き合う、んだよ。俺らはそわそわするし、あっちはなんかどっかしら痛くなるらしい。俺たちの呼び声に、あっちはそうやって応えてるんだ。……寂しいって、いうのも。一人にしないでって、いうのも。ここに居るからはやく来てって、いうのも。本当は全部全部、伝わってて、ちゃんと俺らのトコに来てくれようとしてるんだって。痛みは、そのサイン」
「あっちが痛む代わりに、俺たちは……そうだな。一番簡単に言うと衰弱する。それくらい呼ぶのは大変で疲れるから。だからな、アイル。別に焦らなくて良いし、納得するまで考えてもいい。ただ、探すと決めたなら、そこからはもうためらうな。そこからは、俺たちの命に関わる。……今だって別に、惹き合って無いわけでも呼んでないわけでもないだろうから、じりじり兆候は出てるんだろうけど……体調、悪いトコないか?」
言いながら心配になったらしく、ロイルはアイルと額をくっつけて熱を計ろうとする。くすくす笑いながら大丈夫だよ、と言うアイルに苦笑しながら頷いて、ロイルは言い聞かせた。
「もし体調悪くなったら、すぐ言うんだよ。俺たちも探すの、手伝ってあげるから」
「はぁい」
探せるのも、探し出せるのも、本人だけだと知っていて。それでも言ってくれる気持ちが嬉しくて、アイルはくすぐったそうに微笑んだ。よし良いコだ、と妹を撫でているロイルを見つめ、つーかさぁ、とセルカが首を傾げる。
「忘れてたんだけど、アイル、大丈夫になったんだ? お前、誰かに守ってもらうのすげー嫌いじゃん」
というか、その結果として誰かに傷つかれんのが嫌なんだろうけど。いいんだ、と首を傾げるセルカを見もせず、ロイルは弟をぶん殴った。ごっ、と聞いただけで痛そうな音が響き、セルカが頭を抱えて声もなくしゃがみこむ。冷たい目でセルカを見下ろし、ロイルはあのさあ、と呟いた。
「なんでお前、今それ言うんだよ……。応援してんの? 妨害してんの?」
「応援してるけど! でも気になったんだもんっ、しょーがねーじゃん!」
アイルの心は他人に対してすこしばかり敏感に優しすぎて、余計なことまで傷ついてしまうのだった。それを十分に知っているからこそ、セルカはそこを乗り越えて納得した上で教育官を考えて欲しいのだった。万一、ラグリアのようなのに巡り合ってしまうかも知れないのだし。俺は可愛い妹までアレな教育官の餌食になって欲しくないから、できる覚悟はできるうちに全部しておいて欲しいんだよ、というセルカは涙目だった。
知ってたけど本当に苦労してるんだなぁ、とセルカを見ながら思い、アイルは大丈夫、とちいさく頷いた。
「つまり私がすごーい強くなって、それで教育官も守っちゃえば万事解決なんじゃないかな、と思ったの」
「へー……。うんまあ、アイルがそれでいいなら俺はいいんだけどさ。あんま気負うなよ?」
お兄ちゃんもちゃんと頼れよな、と涙をぬぐいながら言ってくるセルカに、アイルは嬉しそうに頷いた。ロイルもそんな弟と妹の様子にほっと胸をなで下ろしたようで、自然に浮かんで来る笑みで口元を緩ませる。和やかな空気が漂いかけるが、それは唐突に壊された。ひぐっ、とカエルを顔面で受け止めてしまったようなひきつった声を上げたセルカが青ざめ、同時にロイルも背筋を駆け上って行く悪寒に動きを止めたからだ。
毛虫が十匹、道端でうごうごしているのを見たような表情だった。え、と目を瞬かせるアイルの前で、ロイルとセルカは顔色を青白いから白いを通り越してやや土気色っぽく変化させる。
「しまった……しまった! 来る! 追いつかれた!」
「ふぎゃああああ! に、逃げよう逃げなきゃ逃げなきゃ! じゃあなアイル!」
「アイル、またな! 行くぞセルカ!」
これ以上は一秒でも場に留まっていたら地獄を見るのだ、という表情をして、ロイルとセルカは風のように走り去って行った。瞬く間に背も見えなくなってしまい、アイルは茫然と兄たちが消えた方角を見てしまう。来るって、なにが、と聞く暇すらなかった。聞かなくても分かってはいるのだが、どうして分かるのだろう、という疑問が残る。アイルはきょろきょろあたりを見回して、どこにもそれらしき人影がないことに首を傾げた。
あんなに怯えていたのだから、確かに近くに居る筈なのだが。もう追って行ってしまったのだろうか、と思った瞬間、アイルもそれを感じ取る。足元から立ち上って行く悪寒に、ぞわりと全身が震えた。思わず、本当に思わず叫んでしまいそうになってアイルが口を開くのと、廊下に整然とひかれていた絨毯が上に跳ね飛ばされるのは同時だった。衝撃は、下から来たのだった。は、と間抜けに呟いて、アイルは瞬きをする。
あくまでも、優美に。服にも髪にも乱れや汚れなど一切なく、ラグリアとラライが現れた。廊下の、絨毯の下から。それを跳ね上げて、姿を現した。本格的に理解が追いつかなくなったアイルは廊下にしゃがみこみ、めくりあげられた廊下をぺたぺた手で触ってみる。指でもつーっとなぞってみるが切れ目らしきものは見当たらなかったし、秘密の扉らしきものも発見できない。人がそこから出てこられるとは、思えなかった。
ぺしぺし廊下を手で叩き、アイルは格好つけてポーズを決めたまま静止しているラグリアに、死んだ目で問いかける。
「え? どっからどうやって出て来たの?」
「努力・正義・そして愛の結果です」
「なんの答えにもなってないよねそれ……! え、いまこの下から出て来たよね? 見間違えじゃないよねっ?」
結構良いポーズを決めているのにも飽きたのか、いそいそと絨毯を敷きなおすラライに問いかければ、第一王子の教育官は見かけだけは全く人畜無害だと錯覚しかねない、可愛らしい微笑みを浮かべて頷いた。僕は虫殺せないんですよー、素手だと、と言いながら人類でも有効そうな強力すぎる殺虫剤を散布しそうな笑顔だった。思わず後ずさるアイルにのんきに笑って、ラライは兄さんの言う通りですよ、と告げる。
「これぞヴァン・カルニエの努力・正義・そして愛の結果です。あとは教育官には基本的に限界が設定されていないもので、頑張ればわりとどんなことでもできるんですよ?」
「なにそれこわい」
「怖くないですよー。ところでアイルさま、ロイル様がどちらに走り去られたか知りません?」
言いながらラライは、正確に二人が逃げ走り去った方角を指差していた。その上でアイルに問いかけることに、一体どんな意味があるというのか。いかんともしがたい笑みを浮かべて口をつぐむアイルの視線の先で、やはり格好良いポーズをつけるの飽きたらしいラグリアが、まあ聞かないでも分かるんですけどね、と言い放った。ラライはすこしばかり不満げな表情でラグリアを振り返り、ダメですよもう、と腰に手を当てる。
「聞いて行くから楽しいんじゃないですか」
「……今日はなにしてるのか聞いて良い?」
「追いかけっこですよ。『追いかけるので逃げてくださいね。捕まえたらなにしましょうかね?』って言った瞬間、全力で逃亡を開始されましたので、こちらも全力で楽しみながら追わせて頂くことにしました。先に言っておきますが、特に意味はありません。やってみたかっただけです」
まあ一応、運動とかそういった訓練ということにしておいても良いのですけれど、と首を傾げて考えるラライの目は本気だった。ラグリアを見ても似たような表情をしているので、彼らは本当に、主君を追いかけまわしたくなったから逃げてもらっているだけ、らしい。兄たちがそういう相手に命を預けたりしているのかと思って、アイルは憂鬱になった。じゃあそういうことで追いますので、と良い笑顔でラライが立ち去ろうとする。
その服の裾を掴んで引きとめ、アイルはあのね、と問いかけた。止めはしない。止まらないからである。
「なんで兄様たちの居場所分かるの? 兄様たちも、なんか気が付いて逃げたみたいだけど」
「ああ、それはですね。僕がロイル様の教育官で、ロイル様が僕の主君だからですよ。ね、兄さん」
「ええ。私はセリィアイス様の教育官ですから。居場所くらい、何もしなくても把握しております」
惹き合うんだよ、とセルカの声が蘇る。その存在が確かに己の唯一であれば、それだけで。
「……そういうものなの?」
「そういうもの、です」
だから僕はロイル様がわりと真剣に『ラライが今すぐ階段から落ちて複雑骨折とかして動けなくなったりしないかな』と思っていることだって分かります、とラライはごく真面目な顔をして言い切った。そうですか、とわりとどうでもよくなりながら頷くアイルの前で、ラグリアが余裕の笑みで言い放つ。私だってセリィアイス様が『ラグリア今すぐ食中毒になってお腹痛くなって動けなくなってくれないかな』と思ってるの分かります、と。
「それは……すごいね」
それが分かったとして、いったいなんの喜びと発展があるというのか。兄様は今日も逃げ切れないんだろうなぁ、と思いながら惰性でこくりと頷いて、アイルは深々と溜息をついた。あんまり兄様いじめないであげてね、と言いながら走り去る二人を見送って、アイルはんーっと伸びをした。いつの間にか胸のざわつきは収まっていて、気持ちもなんとか落ち着いている。兄たちの今後の不幸は、なるべく考えないことにした。
私の教育官、ああいうひとだと嫌だなぁ、と真剣に呟いて、アイルはなんだかもうすこし、知りたくなった。教育官、というのは、本当になんなのか。自分のそれを探そうと思う気持ちになる前に、知っておきたいことがたくさんあった。不思議な気持ちだった。すこし、気恥ずかしい気もした。アイルはさてどうしようと思いながら視線を彷徨わせ、目的地を決めるとそこに向かって歩きはじめる。とりあえず、身近に聞くのが一番だ。
人の流れを見ていれば、聞かなくてもなんとなく居場所が分かる。今日使用されているであろう執務室に向かいながら、アイルは居るかなぁ、と胸をわくわくさせた。国王の教育官、トリアーセは昨日アイルが帰って来た時には不在で、すごく残念だったのだ。やがて、視線の先に第一執務室が見えてくる。人が忙しなく出入りしているので、国王は今日はそこで仕事をさせられているようだった。教育官も居るだろう。
わくわくしながら扉から顔だけをひょこ、と覗かせたアイルのすぐ横を、なにかが吹き飛んで行く。反射的に視線で追ったアイルは見たのは、廊下にうつぶせになって倒れて動かない、父親の姿だった。
「う、わ……! 申し訳ありませんアイル様、当たりませんでしたか?」
茫然としているうちに声がかけられ、アイルはひょい、と抱きあげられてしまった。慌てて抱き上げた者に顔を向けると、金色の瞳が柔らかに微笑む。綺麗な青年だった。薄水色の髪は細く一本に結ばれていて長いのだが、女性的ではない。サラサラの毛先を摘んでひっぱりながら、アイルはあのね、と首を傾げた。
「トリアーセ。父上蹴った?」
「手加減はしましたよ。……いつまでも見苦しく倒れていないで、起きてください。ほら、アイル様ですよ」
娘の前でいつまでもそうだらしなくしていない、とびしりと言い放つトリアーセは、国王を蹴り飛ばしたらしき右の足をわずかに振って、かすかな音を立てて靴底を床に下ろした。そっかやっぱり蹴ったんだ、と思いながらアイルは久しぶりに会うトリアーセにぎゅーっと抱きついて、父上なにしたの、と聞いてみる。ラグリアやラライと違ってトリアーセは、一応正統な理由がなければ国王であり主君である人を蹴ったりしない。
また、その原因が十割父親にあると知っているアイルは、折檻してくれる教育官に感謝こそすれ、今更庇おうとは思わないのだった。トリアーセは理解ある王女に感謝するような表情で息を吐き、無言で一枚の書類を手渡した。書面に目を落として、アイルはすぐに納得する。どうして他国にも回さなければいけない超一級の重要書類に、くまとうさぎがラインダンスしているイラストが書き込まれているのだろうか。
うん、もっと踏んだり蹴ったりしていいと思うよ、と言うアイルにトリアーセはにこりと優美に微笑んだ。そうですか、と問いかけられて、アイルは深々と頷いた。だって父上、どうせ反省してないし。無慈悲な娘の呟きに、国王はがばりと顔をあげてしてるって言った、と抗議したのだが。うるさい黙れ馬鹿国王、と言い放ったトリアーセの靴先があごを跳ね上げるようにして決まったので、また床に倒れて動かなくなってしまった。