長く使われていなかったとはいえ、さすがに王家の離宮である、と。誰もが感心するような上等なソファの端に、シルスはちょこん、と座ってしょんぼりしていた。その姿は誰かに怒られて意気消沈しているようにも見えるのだが、そうではない証拠に、室内に説教後独特の気まずい空気は漂っていない。シルスは、ただ反省しているのだった。時折顔をあげ、エノーラを見てため息をついていることからも明白である。
いくら旧知の敵とは言え、大人気なく威嚇してしまったことは、シルスの騎士道精神に照らし合わせると許容できないことだったらしい。もっとも落ち込みの理由は、それ以上にシルフィの前で剣を抜く寸前まで気持ちを高ぶらせた点にあるようなのだが。うぁう、ちょー反省、ちょーはんせい、とどんより沈んだ声がもれるたびに、エノーラの額には青筋が浮かび上がり、消えることなくどんどん増えていく。
え、あれはなに、私にも反省を求めてるとかそういうのなの、と半眼で低く呟くエノーラに柔らかな苦笑を浮かべ、ウィッシュは深呼吸しなよ、と呟いた。ウィッシュはシルスの人となりを知らないが、なんとなく、嫌味を含んだ物言いで人の神経を逆なでするような相手だとは思わなかったからである。普通に反省してるだけだと思うよ、と言うウィッシュに、エノーラは頬を膨らませ、ふぃっと視線をそらしてしまった。
すこしばかり困った表情で、ウィッシュは視線を動かして正面を見る。ウィッシュとエノーラが隣り合わせに座っているソファの正面に、ルードとシルスが座っているので、そうすると自然に視線が絡み合うことになった。思わずほんわりと笑うウィッシュに、ルードは相手を暖かく包み込む微笑を浮かべ、互いに苦労を分かち合うような空気で頷きあう。ようするにシルスもエノーラも、己の失態に拗ねているだけなのだ。
仕方ないよねぇ、とばかりに視線を交わす二人を見比べ、シルフィは不思議そうな表情で首を傾げた。向かい合う二組とシルフィの位置関係は、ちょうど『コ』の字の縦線で、どちらとも視線が向き合うことはない。だからこその自由さで四人を観察するシルフィの隣で、アルメリアは疲れきった息を吐き出した。なだめて脅して、とりあえず二組をソファに座らせるまでは成功したものの、そこからの会話がないからだ。
アルメリアは、あまり人を急かすのが好きではないので、同じ要求を二度、三度繰り返すだけでなにか嫌気がさしてくるのだ。口を開くのさえおっくうなので、出来れば自発的にお互いの関係を分かりやすく説明してもらいたいのだが。笑いあうルードとウィッシュの間に言葉はないし、エノーラは彼方を睨んでいて口を閉ざし、シルスのみ声をもらしてはいるが会話になるものではない。このままでは、不可能だろう。
深く長い息を吐き出したアルメリアに、ルードとウィッシュから気遣いの視線が向けられる。どうかしたのか、と言いたげな目に泣きたい気持ちになりながら、アルメリアは数えて四度目になる要求を口にした。あなたたちの記憶力はどうなってるんですか、と前置きも忘れずに。
「ですから。お互い、どういった関係のお知り合いなのですか、とずっとお聞きしてるじゃないですか。自己紹介でも、他者紹介でもいいから、はやくしてください。それぞれは分かってるので必要ないのかも知れませんが、私が困ります。あと、シルフィもきっと困ります」
ね、困るよね、と水を向けられて、シルフィはこくんと頷いた。そして膝の上においてあった紙に『困るよっ』と、なぜか自信たっぷり大きな文字で書き込み、四人に向かって提示する。それに、奇妙な顔つきをしたのがウィッシュとエノーラだった。シルフィの行動の意味が分からず、どうして声を出さないのかが分からず、そして『シルフィ』と少女が呼ばれ、反応を返したことがうまく理解できていないのだろう。
来訪者二人の表情に、一番反応したのはシルフィだった。怯えるように体を震わせると、さっと紙を膝の上に戻し、泣きそうな表情で視線をうろつかせる。落ち着きをなくした態度は、なにも分からずとも可哀想な印象を二人に与えて。口をつぐみ、説明を求める視線を向けられて、ため息をついたのはルードだった。どこから話したものか、と悩む騎士団長の伏せた瞳に、その時、ふわりと動く白い髪の軌跡が映った。
その正体を知り、ルードが勢いよく顔をあげるのと。アルメリアがシルフィを庇うように立ち上がったのは、ほとんど同時で。明らかな警戒の視線と態度にさらされ、ソファから立ち上がってシルフィへと歩み寄ったウィッシュは、困惑に眉を寄せた。場に、ぴんと張り詰めた糸のような、細く恐ろしい緊張感が満ちていく。ウィッシュはその中心で口を開きかけ、閉ざしては視線を迷わせる仕草を何度か繰り返して。
そのうち、なにもかもを諦めたかのように息を吐き、そして口を開いた。
「大丈夫だよ。なにもしない……ただ」
彼女の傍に居させて、と吐息に乗せて囁き、求めるウィッシュに、アルメリアがなにを考えているのか、と詰問口調で叫ぼうとするより、ずっと早く。女性の傍をすり抜け、シルフィはウィッシュへ駆け寄っていった。ぱたぱた、と軽やかな足音でウィッシュの傍まで来たシルフィは、柘榴色の瞳を覗き込み、首を傾げる。それは、これはなんだろう、という観察の視線ではなかった。シルフィは、ただ、不思議がっていた。
珍しいものに対する好奇心や、綺麗なものに対する感心の目ではない。無音のまばたきを繰り返すまぶたの奥で、真実を見通す瞳がにぶく輝いていた。ウィッシュは苦笑に似た表情を浮かべ、シルフィの顔に向かってそぅっと手を伸ばす。その仕草を、騎士たち三人は誰もが止めようとした。シルフィは、不用意に触れられるのを嫌う。自分から触れる以外の、相手からもたらされる接触を恐怖し、嫌悪し泣き叫ぶ。
ルードでもシルスでもそうだし、アルメリアでもそうだ。ここ数日で慣れたのか、あらかじめ予告しておけば反応も体を震わせる程度で抑えられるのだが、無言で手を伸ばすことほど恐慌の引き金になることはない。だから三人は、ほとんど絶叫するように喉をひきつらせたのだが。シルフィは、なんの反応も示さなかった。伸ばされた手がまぶたの上を覆うようにおかれ、明るい視界が薄い闇に閉ざされてしまっても。
腰に手を回されて抱き寄せられても。怖がり、嫌がることをせず、かえってぬくもりを求めるようにウィッシュの首に手を回し、ぎゅぅと抱きついた。ぽかん、と間抜けに口をあけて見守る三人分の視線の先で、ウィッシュはシルフィを宥めるように背を撫でた。徐々に力が抜けていき、甘えて擦り寄ってくるシルフィに嬉しげに目を細め、ウィッシュはごめん、と呟きを落とす。
「怖がらせたかったわけじゃなくて、分からなかったから……君が望むなら、詮索しないから。大丈夫。そのままで、いいよ。もう、大丈夫。俺が、傍にいるからね。遅くなってごめん」
彼女の代わりに、とウィッシュは言った。シルフィの体を抱き上げて、自分が座っていたソファの上にそっとおろしながら。優しい表情で笑って、ウィッシュは言った。
「完璧な代わりはできないし、なれないけど。彼女の代わりに、彼が来るまで、俺が君のことを守るよ……やっと」
やっと、出会えた、愛しい人、と。安堵の表情で無意識に囁かれた言葉に、シルフィはすこしだけ申し訳なく眉をしかめた。その言葉は、シルフィが聞いて良いものではないからだ。また、『 』が向けられて良いものでもない。鏡合わせでほぼ同一のものであるから、それはそれで正当性を持っているのかも知れないが、それにしても違うのだ。ルードとシルスが別人であるように、同じにしてはいけないものだ。
めっ、と叱り付けるように軽く手のひらで叩いてくるシルフィに、ウィッシュは唇を指先で押さえて艶然と笑った。エノーラも、そして知り合いであるルードも見たことがない表情で、笑い方だった。ええと、と困惑にひきつったエノーラの呟きが、軽く別世界に飛びかけていたウィッシュの意識を引き戻してくる。目を瞬かせて、恥ずかしげに微笑みなおしたウィッシュは、すっと立ち上がって騎士たちに向かい、頭を下げる。
「こんにちは。ウィッシュ・アーグです。よろしくお願いします」
「……ねえ、違うでしょう? それ違うでしょう? 今言わなきゃいけないのは、そういうことじゃないでしょう?」
あんたの思考回路の動きが最近全く理解できない、と涙目で頭を抱えるエノーラに、ウィッシュは幼い仕草で首を傾げた。違う、の意味が分からなかったらしい。だって自己紹介しないと、と困った風に言ってくるウィッシュに、エノーラは頭痛を堪えながらあのねぇ、と言った。
「ウィッシュ。あなた、知り合いだったの? 私……たちが聞きたいのは、そこよ」
わざわざ複数形で言ったのは、室内の空気を読んでのことである。誰と、とは告げなくても分かることなので省いたのだが、それ以上にエノーラは少女の『名』を知らなかったのだ。名前。呼びかける為に必要な、それ。呼んでいい『名前』を、エノーラは知らなかった。知っているものは、少女の反応と心が放つ鈍痛によって、呼んではならないものなのだ、と理解していたから。すくなくとも、今はまだ、許されない。
教えて、と幾重にも意味を重ねて求めるエノーラに、ウィッシュはどう言葉を並べればいいのか迷っているようだった。ああでもない、こうでもない、と響かない呟きで唇を動かし、ウィッシュは最後にシルフィに視線を向ける。まるで、指示を仰ぐように。助けを求めるに似た瞳に、シルフィは笑い返しただけだった。その笑顔、その瞳には、言葉や意思が宿っているようには見えないのだが。ウィッシュは、頷いた。
そしてシルフィと己以外の視線を一身に受けて、ウィッシュは笑顔で違うよ、と告げる。
「別に、知り合いじゃなかった。情報として色々知ってることはあったけど、それはエノーラと同じものを、同じくらいしか知らなかったと思うよ。だから本当に初対面だけど……ええと、これは、なんて言ったらいいのかな。『分かった』から、とか? ちょっと違う、かも。ええと、あの」
その感覚を、言葉に置きなおすとして。どんなものなら正確に表せるのか、伝えることができるのか、を。まだ『本物』にめぐり合わないウィッシュは、知ることができなかったけれど。それでも。遥か遠くに浮かぶ月に、手を伸ばすよりはもう近くに居ることができたから。絶望的な距離感に、苦しくなることはないと知ったから。ウィッシュは、嬉しく笑いながらいつか、と甘く囁いた。
「いつか会う人だったから。今、会えたから。俺も、シルフィも、嬉しかっただけ」
これで、もう怖くない、と。笑いあうウィッシュとシルフィに、その場の誰もが理解不能の目を向けていたのだが。いち早く諦めたのは、ルードだった。まあいいや、と起こった不思議の全てを投げ捨てる発言を響かせ、説明と自己紹介に戻ろう、と話を強引に軌道修正した。
「私は、ルード・カインスタイン。見て分かると思うけど、シルスとは双子で、兄の方。ウィッシュとは旧知の仲で、関係は……お友達かな」
ね、と笑いかけるルードに、ウィッシュもね、と呟いて頷いた。ね、じゃありません、とアルメリアは額に手を押し当てたものの、もう突っ込みをす気力も残っていないらしい。まあ知り合いならいいでしょう、と吐き捨て、視線をシルスとエノーラに向ける。顔を合わせたときから友好的なルードたちとは違って、問題なのはこちらだったからだ。今も、視線を合わせるのが嫌だ、とばかりに二人は目をそらしあっている。
それぞれ、叱り付けるように名を呼ばれたのはどちらが先だったのだろうか。エノーラとシルスはしぶしぶ顔を上げ、視線を交わし、互いにやる気なく睨みつけるような表情で口を開いた。
「エノーラ・クリスタル。本職はちょっとオチャメな暗殺者、副業はステキな布屋さん。正義の味方とも呼べるわね」
「うん。俺、エノーラを尊敬しようと今思った」
どっちの職業も、正義の味方とは程遠いのだが、エノーラにはそんなこと関係ないらしい。呆れ果てて呟くウィッシュを睨みつけて黙らせると、エノーラは挑みかかる目をシルスに向けた。シルスは、どこか挑発するような表情で口を開く。
「シルス・カインスタイン。ルードの双子の弟で、歌って踊れる副騎士団長だよん。趣味は恋の狩人だったりする」
「あのね、シルス。張り合わなくていいので張り合わないでください。あと表情と口調を一致させなさい」
「えー。やだぁん。肩こっちゃウー」
くねくねと気持ち悪く身を動かし、シルスは警戒を解いた普段通りの表情で言った。それに、またエノーラの怒りが再燃しかかるのだが、ウィッシュに咎められ、こちらも息を吐く。相手にしなければいいんだわ、コレを、と悟った物言いで視線をそらすエノーラに、それで、とアルメリアの苛立ちに刃のようになった声が向けられた。
「あなたがたの、ご関係、は?」
「ああ。え、っと……そうね。例えるなら、日陰に生えてる正体不明の多分毒キノコと、それを気がつかないで踏み潰す靴底の関係でありたい、というか。うん。まあ。そんな関係よ」
「えー。そんな色気のない関係ヤだナー。せめて、なんか触覚がたくさんあって足もたくさんあって気持ち悪くて触りたくないし見たくない毛虫と、一撃必殺の殺虫剤の関係でありたい感じ、とかにしとかなイー?」
どちらの主張する関係も遠回りで分かりにくいものであったが、共通しているのは片方が死に、もう片方が生き残ってその殺害原因となる、という点だろう。それぞれ、どちらがどちらを指しているかなど、隠れた自殺願望がない限り明白にすぎるのだが。つまりさぁ、と呆れ返ったウィッシュの声が、言葉もないアルメリアに変わり、二人の関係を簡単に纏め上げる。
「お互いに、とりあえず死ねばいいのに、と思ってるくらい、嫌いな関係、ってこと?」
「そうよ。その通りよ。分かってるじゃないの、ウィッシュったら」
つまり敵ってこと、ときっぱり言い放ったエノーラに、シルスは心底嫌そうな顔つきになりながらも同意した。そんな二人を見比べて、ウィッシュとルードは視線を合わせて脱力する。どうしようねぇ、と言ったウィッシュに、ルードはしばらく考え込んで放っておきましょう、と結論を出した。実害はない筈ですから、と訳知り顔で呆れた目を向けてくるルードに、シルスはにっこりと笑って。なにも語ろうとは、しなかった。
薄い闇が漂う室内を、火の灯りが柔らかく照らし出している。外は雪が降っているので独特の明るさがあるが、日が暮れた時間では灯りなしで室内に居るのは心もとない。音もなく降り積もっていく雪に冬の訪れを感じながら、ルードは読んでいた本にしおりを挟んで閉じ、手近な机の上に置いた。そしてもぞもぞと動きのある膝に視線を落とすと、無言で座り込もうとしていたシルフィと、正面から視線が合う。
ルードが椅子やソファに座っていると、シルフィは膝の上に座って来ることが多い。あるいは床の上に座って上半身だけを膝の上にあげ、ごろごろと猫のように擦り寄ってくる。それが『かまってかまって』という甘えの仕草だとルードが気がついたのは、ここ数日のことだった。なにせ触れるだけで恐がる状態の日もあったくらいだから、自分からすりよることが防衛反応の一環かも知れない、としか思えなかったのだ。
今も膝に座り込んできらきらした目を向けてきたので、そっと手を伸ばして髪を撫でてやれば、シルフィはうっとりと目を細めて頭を押し付けてくる。もっと撫でて、と主張する仕草は、子猫そのものだ。可愛いなぁ、と思いながら撫でてやると、シルフィはにこにこと上機嫌に笑う。思わず笑い返してやると、シルフィはすっかり甘えた仕草でルードの首に腕を回し、ぎゅぅっと抱きついて来た。その背を、軽く撫でてやる。
「どうしたの、シルフィ」
理由なく甘える少女だとは思えなかったので、ルードは笑いながらそう問いかけてやったのだが。なんでもないの、と言いたげに肩に頬がすり寄せられたので、甘えたい気分になっただけなのだろう。そういうこともある。苦笑しながら抱きしめてやると、シルフィは柔らかく目を細めてルードに体重を預けた。無防備な体全てで、信頼していることを示しているのだろう。よしよし、と撫でながらルードは視線を持ち上げ。
居心地が悪そうに双子の兄と保護した少女から視線を逸らしているシルスに、微笑みかけた。
「どうかしたか、シルス」
「そ、それはこっちの台詞だったりするんだヨー。るー、なんで怒ってらっしゃるのかナ?」
がくがくとわざとらしく体を震わせるシルスに、ルードは笑みを深めてみせた。分かっているくせに、といいたげなルードの予想通り、もちろんシルスはその理由を知っている。知っているのだが、知らないふりを続けているだけだ。子猫のようにごろごろ甘えていたシルフィは、そこで顔をあげてルードとシルスの顔を見比べる。けれどそれだけで、シルフィはまた目をうっとりと閉じ、ルードに体の全てを預けてしまった。
この腕の中に居れば絶対大丈夫、と安堵しきっているようだった。眠ってもいいよ、と囁きながらシルフィの月光色の髪を撫でながらも、ルードは針のような視線を弟に向けることをやめない。シルスは、それでもしばらく抵抗していたのだが。四十秒経った頃にシルフィから、まだ無駄な抵抗してるの、と言いたげな視線をちらりと向けられてしまったので、悲しく諦めることにしたらしい。だってぇ、と拗ねた声が響く。
「あのウィッシュ君はべっつにルードの知り合いらしいからいいけどぉーっ、あのエノーラちゃんだけは簡単に迎え入れるワケにはいかなかったんだヨー? だってあのコ、昔ってかちょっと前に、アルちゃんのこと殺そうとしてたんだしぃ」
「シルス。詳しく」
なんですかそれ、私は知りませんでしたよ、と語調を厳しく言い放つルードの腕の中で、シルフィが怯えたように身を震わせる。シルスはけろっとした口調で言わなかったもん、と告げながらも、シルフィに心配する視線を向けた。二人分の心配を向けられながら、シルフィは苦しげな、悲しげな表情でルードを見上げた。じっと数秒間見つめてから、腕の中から出ようとすることなく振り向き、今度はシルスに目を移す。
ゆっくり、シルフィの唇が動く。そこから声が響かないのが不思議すぎる動きで、シルフィは問いかけた。
『いまも?』
今も、そうなのか。エノーラはアルメリアを殺そうとしているのか。そう問いかけながらも、シルフィの表情は断言に近い強さで違うはずだ、と言っていた。弱く和らいでいた瞳の輝きが、恐ろしい程に強まっている。嘘を決して許さない煌めきをまっすぐにシルスに向けながら、シルフィはふわりと花が綻ぶように微笑んで。そしてまた目を閉じ、疲れたようにルードの胸に頭を寄せてしまった。ふぅ、と息が吐き出される。
ルードは戻ってきた体温に緊張が解けたため息をつき、シルフィのまぶたの上に手を置いた。このまま眠ってくれれば良いのだが、そんなことにはならないだろう。シルフィは広がった薄い暗闇を嫌がるようにルードの手をどかせ、危険な色など一切ない目でにこにこと笑う。警告は一度だけで、二度目からは猶予など与えはしないのだろう。無垢さに眠っている残酷さを垣間見て、ルードは思わず苦笑してしまった。
「シルス」
「……ハイ」
うん。怒られた、と今度は演技ではなくカタカタ震えながら、シルスは涙ぐみつつ口を開いた。アノネー、となめらかな発音なのにどこかぎこちなく響く、他者には絶対真似できない発音でシルスは言う。
「今は疑ってないし、怒ってないし、別にエノーラちゃんのコト嫌いじゃなーいヨ? 潜入してた時だって、そういう依頼だったのかも知れないけど、アルちゃん以外になんの手出しもしてなかったし。ただ、その時ネ、俺はあのコの目的知ってたのに邪魔するだけで、ちゃんと怒ったり敵対的な態度取ったりしなかったからさー。それに対して怒ってなかったとか、思われるのは心外デショー?」
「どうして、その時私に知らせなかったんです」
「知らせたら、ルードはそういうの容赦しないで殺しちゃうからに決まってるデショ? でしょデショ?」
唇に指を一本押し当ててちゃめっけたっぷりに笑って、シルスは不愉快そうなルードに真剣な声で告げた。嫌なんだよ、と。表面だけは普段通りの軽さで、けれど刃の鋭ささえある声に、ルードは怒ろうとしていた口をつぐんだ。迷ったあげくにシルスの名前だけを呼び返せば、普段通りの笑顔で出迎えられる。
「悪いとは言ってないヨ? でもさ、もしかしたら殺さないで良い相手まで、ってのはどうかなって」
「その時の彼女は……殺さないで良い暗殺者だ、と判断したということですか?」
「うん。邪魔してれば諦めて帰る感じかナって。焦ってイラついてたけど、追い詰められてはなかったから」
勘だったけど大正解だったヨ、と胸を張るシルスを、怒るか殴るか蹴飛ばすか物を投げるか、数日間口を聞かないか、とりあえず許してやるかをルードはしばらく悩んだ。判断が正しかったにしろ、勘だったと言われてしまえば褒める気もなくしてしまう。結局双子の弟に甘すぎる騎士団長は、実害がなかったのだから、と理由付けして己を納得させた上で処罰ナシにしてやった。次回がないことだけは付け加えたが。
シルスは満足そうに笑って、るー大好きっ、と弾んだ声で言った。ルードは適当な響きの声ではいはい、と流すものの頬がかすかに赤い。会話が一段落ついたのを見て取ったのだろう。シルフィはルードの膝の上からするりと床に下りて、すこし離れたところに立っていたシルスの元へと向かった。そして思い切り背伸びをすると、シルフィは不思議そうな顔つきで待っていたシルスの頭をよしよし、と撫でる。
正直にお話できて偉いねー、と褒められているのだろう、とシルスは結論付けて、そして思わずしゃがみ込む。シルフィがどこまで分かっていたのかは分からないが、それは恐らく全てなのだろう。ルードとウィッシュ、シルスとエノーラの関係を、お互いが話した以上のことまでもを理解して、だからこそ怒ったのだ。シルスが別に今は危険でもないと認識しているエノーラに対して、嫌がらせだけで敵視したから。
エノーラは、すくなくとも今は誰の敵でもない。そうでないのなら、『 』として、敵対することを許しておけないのだろう。敵視するのも、敵対するのも、本当の敵だけで十分だから。争いの火種は、無い方が良いのである。心配そうに覗き込んでくるシルフィに視線を合わせて、シルスはアノネ、と優しく言い聞かせるように問いかけた。
「シルフィは、俺とるーとアルちゃんの三人と、エノーラちゃんとウィッシュ君の二人と、シルフィと、どれが一番大事にできる? ……怒るとか、そういうのも、大事なコトだと思うよ。でもね、他の人の関係とか気にしてる余裕が、あるわけじゃないでしょう?」
こんなに傷ついたままなのに、とシルスはシルフィの頬に手を伸ばして撫でる。シルフィはその動きに柔らかく笑っただけで、拒絶の動きを見せはしなかった。それでも痛ましげに顔を歪め、シルスは言葉を重ねていく。
「るーもこないだ言ってたけど、俺も言う。シルフィがいま一番気にしなきゃいけなくて、大事にしなきゃいけなくて、選ばなきゃいけないのは、シルフィだよ。まず、自分のこと、だよ。いいカナ? ……できるカナ?」
シルフィは、思いっきり困った表情になって腕を組み、首を右に傾げた。そしてじっと答えを待つシルスの目の前で、今度は左に向かって傾げる。見守っていると、シルフィはしきりに右と左に首を傾げ、うんうんと考え込んでいた。傾げる動きが早すぎて、もげないか心配になってくる。それでいて笑いがこみあげてくるので、シルスは吹き出さないようにこらえるのでせいいっぱいだった。本人は真剣なのだから。
やがてシルフィは動きを止めると、部屋の隅に置いてあった筆記具を持ってくる。そしてそこに文字を大きく書いて、シルスに向かって満面の笑みで見せ付けた。
『分かったよ分かったよっ! 頑張るよーっ!』
それがもし『 』なら、考えた末に難しいよ、と苦笑しただけだっただろう。あるいは頑張る、分かった、くらいは言ったかもしれないが表面的なもので、頑なに心は動かなかったに違いない。しかしいまの『 』はシルフィだから、自分を優先する、という要求を受け入れることができるのだ。それが、一番の違いだった。
ころんと寝台に横になって、シルフィはなにもない虚空を見つめていた。アルメリアは寝る前に朝食の準備をしてくると言ったので、しばらくは一人きりだ。くあ、とあくびをして、シルフィは一日の間に起きたことを考える。詳細には思い出せないので、なんとなく恐かったことと安心したことと、受け入れたことだけを考えた。特に、受け入れたことを。自分を優先しなければいけないことについて、静かに考えを巡らせた。
それは、いったいどういうことだろう。人の心配をしないで自分の心配をしていれば良い、と言うことかとも思うが、それだけではないのだろう。きっと。きっと、それは、助けを。そこまで辿りついて、シルフィはぎゅっと目を閉じた。そんなことは、できそうになかった。それは恐くて、悲しくて、そしてシルフィには必要のないことだ。『 』が回復するまで待って、それまでの守りになるシルフィには、そんなものいらない。
けれど、約束してしまったので困ったことになった、とシルフィはため息をつく。約束は、破りたくない。それがどんなにささいなものであっても、守っていたい。守れるものなら、そうしていたいのだ。出来なくなった時が、どれだけ悲しくても。
「……もう、すこしだけ」
透明な声が響く。それは確かにシルフィの唇が紡ぎ、喉が空気を震わせた『声』だった。けれどシルフィはそれを自覚しない。目を閉じて寝台に横になったまま、闇を見つめることもしないで己に言い聞かせる。
「まっていて」
それでいて誰かにそっと囁きかけるように、シルフィは告げる。
「わたしが、わたしをとりもどすゆうきがもどるまで。まっていて」
それまでは優しい夢を見ていたいから。
「ごめん、なさい」
ゆっくりと、シルフィは誰かの名前を告げようとした瞬間だった。軽い音が響いて扉が開き、アルメリアが姿を現す。勢いよく寝台の上で体を起こしたシルフィに、アルメリアはなにか起きたのかも知れない、と思ったらしい。慌てて駆け寄って抱きしめてくるのに、シルフィはぼんやりと、眠たげな様子で首を振る。その唇は動くことなく、声が出ることなど忘れてしまった様子で。アルメリアの眉が、かすかに寄った。
「本当に、なにもなかったの?」
うん、とシルフィは頷いた。
**********
びくんっと体を震わせて、イェレは背後を振り返った。そこには琥珀色の髪をした女性が横たわるだけで、目覚める気配もなくいつも通りである。それでも、その変わらない光景にほっと胸を撫で下ろして、イェレは反射的に掴んでいた剣の柄から手を離した。そして不審げな目を向けてくる三人に、照れたように笑う。
「な、なんでもなかった」
「……疲れてるなら、寝に」
「行かせるかーっ!」
行け、もしくは行こう、と。どちらかをバルが言う前に、ヤグルは青年が座っていた椅子の足を横から思い切り蹴飛ばした。ヤグルにしてみればどちらでもよかったので、言葉を最後まで聞く必要もないのである。当然の結果として椅子ごと吹き飛び、床に倒れたバルの姿に、ヤグルからは勝ち誇った視線、ミンスからは哀れみの眼差し、イェレからは心配そうな表情が送られた。バルは、ゆらりと立ち上がる。
「ヤグル。テメェ……表に出ろっ。今日こそ殴るっ」
「こっちの台詞よーっ!」
「それにしても、変だなぁ?」
二人の大騒ぎは日常なので、イェレは止めることさえ無駄だと判断したようだ。倒れた椅子を元に戻して座りながら、苦笑しきりのミンスに向かって首をかしげる。
「なんか、いま動いた気がしたんだけど……感じなかった?」
「いいえ。特には」
問われて、改めてミンスは眠る女性に目を向けた。セルキスト城内でバルが薬品を大量投与してからというものの、以前に増して女性に目覚める気配がなくなったのである。いまも、安らかに上下している胸が動きとしてあるだけで、特に『動く』といった兆候は見つけられない。気のせいでしょう、と片付けたミンスに頷いて、イェレは大声で言い争うバルとヤグルに目を向けて、仲良しだよねぇ、と不満げに言った。
アイルさま、と。かすかに動いた唇に、気がつきもせずに。