外界から隔絶された家にその女性の死の報が届いたのは、遺体無き葬儀からすでに数年が経過した後のことだった。繊月はその知らせを、なんの感慨もなく聞いた。全く関係のないことだったからである。女性は繊月の仕える家の血を引く者ではなく、また、遠縁でもなかったからだ。何故そんな縁もゆかりもない存在の死がわざわざ知らされるのであろうと、考えたのはそれくらいだった。だから繊月はすぐに、そのことを忘れてしまった。
繊月が次にそれを思い出したのは、仕える家の当主に呼ばれた場でのことだ。繊月は『月の異称の一族』であり、仕える家の姫君を守る命運の元に生きている。しかし繊月は今までその役目についたことがなく、それを幸いとして生きて来た。他人が嫌いだったからだ。命を捧げるべき存在だという認識はしていても、姫君たちは繊月に取っては他人で、何時まで経ってもその認識から外れることはなかった。
異称たちはその名を頂いて大体はすぐ、守護役につかされる。繊月が逃れていたのは他人嫌いを当主が知っていたからこその、ささやかなお目溢しにしか過ぎなかった。だから当主から呼び出された時、繊月はついに誰かにあてがわれるのかと、心底溜息をついたのだ。今更必要とするのは、神隠しに遭って帰って来た三の姫か、あるいは数の上で不吉とされた四の姫か。どちらにしろ、厄介払いされるのとそう変わりは無い。どちらでもいいのだ。どちらでも、繊月が心を砕く相手にはならない。
青年の予想は半分が当たりで、半分が外れだった。当主が繊月に守護せよと告げたのは、神埼家の四人の姫君、その誰の名でもなかったからだ。聞き覚えもない名だった。詩歌のひとひらのような響きは、耳の奥に響き、しかし記憶に留まらず音もなく消えた。誰だそれは、と無言で眉を寄せる繊月に、当主は先にもたらされた訃報を覚えているかと問いかけた。繊月はそこで初めて、とある女性の死の知らせが重大なものであったと思い知った。
「……思い出しましたが、縁ある方でしょうか」
縁ある、とは『神埼の血を継いでいる』かどうか、ということでもある。繊月はあくまで『月の異称』である。守護の為の一族、その一員であるが、仕える神埼の血を持たない相手に頭を垂れる気などさらさらないのだった。低く訝しげな繊月の言葉に、当主は苦笑を浮かべて否を告げる。女しか生まれぬ神埼に子をもたらす為、尊き一族から与えられた男だった。
「その女性は神埼ではないよ、繊月。その女性の妹の子が、神埼なのだ。……儚、と言う」
「……儚」
耳の奥で淡く消えた名を、舌に乗せる。不思議な響きだった。花の香りがするようだった。繊月はもう一度、儚、と呼んでみて、舌馴染みの良い響きに感心する。
「……私の子なのだ」
心地よい気分を台無しにする当主の言葉に、繊月は眉を寄せて男を睨みつけた。
「……浮気してたんですか」
「神崎に来る前からの仲だった」
「何歳ですか? その……儚、は」
だから。これだから、繊月は他人というものが嫌いなのだ。漠然と気持ち悪い思いを抱えながら問い詰めれば、当主は罪悪感の滲む様子で繊月より二つ下の数を告げる。男が妻に生ませた姫君は、四人。その、三人目より一つ下の数だった。繊月は、睨む視線を冷たくする。
「それを、どうして俺に守れと。嫌なんですけど」
「……お前にしか頼めぬのだよ。繊月。お前は、人間が嫌いだろう」
溜息混じりにそう言われて、繊月は否定するか肯定するか、すこしの間考えた。別に、人間が嫌いな訳ではない。嫌いなのは他人だった。もうすこし詳しくするならば、自分以外の生き物全てがその対象だった。産まれた時からそうだったに違いない。物心ついた時にはすでにそうなっていた繊月に、母代りの女は抱き上げると火をつけたように泣き叫んで嫌がるので本当に苦労した、と言った。多分触られるのが気持ち悪くて我慢できなかったんだな、と繊月は思った。
「それがなにか」
「……だから、頼む」
「なにがだから、なのか分かりません。嫌ですよ。今更誰かを守れと言われるだけでも嫌で、でも我慢して覚悟して来たのに、神埼でもない外の人間を俺に守れとそう仰る? 嫌です絶対嫌です」
犬猫を追い払うように手のひらを振って、繊月は立ちあがった。当主は傷ついた子犬のような目をして繊月を伺っているが、青年はそれを鼻で笑い飛ばす。他の者なら絆されるのかも知れなかったが、あいにくと繊月は犬も好きではないのだ。可愛くないですと冷たく言い捨てて場を辞そうとする繊月の袴の裾を、当主は無言で引っ張った。繊月は手の中から布を取り返そうとする。しかし、かたく握られていて上手くいかない。
「……離してください」
「頼む。お願いだ。お前以外に頼めぬのだ」
「それはそうでしょう浮気相手の子供の守護など、どの異称であっても断りますよ俺でもね! 離してくださいこどもじゃあるまいし、見苦しい真似をするものではありませんよ。恥ずかしくないんですか。だからアンタいつまで経っても威厳がないとか言われるんですよ」
さあ手を離してください、と言い聞かせ口調で告げた繊月に、当主は無言で泣きそうに顔を歪めてみせた。繊月はひくりと口元を歪め、苛立ちを隠せずに舌打ちする。いい年した男が要求を聞き入れられぬというそれだけで、そんな愛玩動物みたいな顔をするとは何事か。可愛くない。気持ち悪い。気持ち悪いから離せ、と繊月が暴言を吐くより早く、素早く開いた障子の向こうから男が現れる。当主を守る『月の異称』だった。確か、半月。その名を頂いた者だった筈だ。
繊月が思い返している間に二人との距離をつめた半月は、容赦も躊躇いも慈悲も優しさもない仕草で足を振り上げ、そのまま当主の腕を蹴飛ばした。手が繊月の衣から外れる。相当痛かったのだろう。声もなく痛みに悶える当主を冷たく見下ろして、半月は腕を組み、ほとほと呆れた息を吐きだした。
「繊月くんになにをしているんですか、貴方は……。ああ、すみませんね、繊月くん。これがなにかワガママでも言っていたのでしょう。気にしなくていいですから」
これ、と言って当主の手のひらを踏みにじる半月が浮かべていたのは、清らかな笑顔だった。痛い痛いと抗議する当主の声は、半月に取って特に気にするものではないらしい。いつものことだ。常ならある当主への同情心が今日はなく、繊月は素直に頷いて部屋を出て行こうとした。その背を、当主が呼びとめる。
「繊月……!」
「嫌です」
「お願いだ! 彼女が消えたのなら、儚は……!」
追いすがる声に、反応を返したのは半月だった。半月は無言で繊月の手首を掴んで引き留めると、儚のことですか、と当主に問う。当主が頷いたのを見るや半月は茫然とした顔で繊月を振り返ったが、青年の表情で察したのだろう。すぐに険しい顔つきで、当主を睨みつけた。
「説明を省いたでしょう」
「う……つい、気が急いて」
「だから断られるんです。……繊月くん」
繊月が当主の温情によって仕える相手を無く過ごすことを許されていた特例とするなら、半月もまた、異称の中では特例の立場を持っていた。異称は本来、姫君を守る。その対象に当主は含まれておらず、半月がそうしているのは半ば自主的な行動で、それでいて暗黙の了解を得ていることだった。同じ特例、だからなのだろうか。繊月は半月の言うことに、ほんの少しだけ、逆らえない。呼びとめられてしまえば退室することも、手を振り払うこともできず、繊月は俯いて沈黙した。話の流れで、言われることは分かっていた。
うなだれて、諦めたようにも見える姿に、半月は苦笑する。そっと手首を離してやりながら、半月は下から顔を覗き込むようにして、年下の異称に語りかけた。
「亡くなった女性は、儚の最後の保護者だったんだ」
「……最後の?」
「そう、儚の母親は彼女を産んですぐ……死んだ。父親は知っての通りここに居るから、彼女には両親が無いも同然だ。だから儚はずっと、母親の姉の家族に引き取られて生活していた。その姉も、死んでしまった。調べたけれど、夫君は悲しむあまり家を出て行ってしまったらしい。実の娘と、儚を残して。……なにも君に保護者になって欲しい、と言うんではないんだよ。けれども……守る存在が必要だとは思わないかい」
ゆっくりと言葉を紡がれ、囁かれて、繊月は眉を寄せて考え込む。半月の言葉は真実を語っているようだったが、それでいて、なにかを隠していた。繊月は無言で睨みをきかせ、首を傾げて続きを促す。それだけではないでしょう、と言いたげな仕草に、半月は苦笑した。
「儚はね……」
言葉を探して、半月が口ごもる。その間も、なにもかもが、繊月の苛立ちを募らせて行った。ふと、柔らかな香りを漂わせるようなその名を、無暗に口にして欲しくないのだ、と気が付く。ん、と眉を寄せて訝しむ繊月を不思議そうに見やりながら、言葉を探しあてた半月は言った。彼女はね、と。繊月の望み通りに、甘くはかない名を口にはせずに。
「人魚の末裔なんだ」
「……は」
「人魚の、末裔。アンデルセンの人魚姫、読んだことあるだろう? あの人魚。……ですよね?」
半月が確認を求めたのは、成り行きを見守っていた当主だった。男は、もう説得を半月に任せているのだろう。従順な態度で頷きだけを返してきたのを確認して、半月は唖然とした声をあげた繊月に視線をやった。
「……信じられないのも無理はないけど」
「……当主が言ったのなら病院に行かせますが、半月が言うなら。……本当、なんですか?」
「これが言うにはね」
指先を泳がせるように動かし、半月は当主を指差した。口調から半月も直に確かめた訳ではないと分かるが、それでも信じているのだろう。半月は当主の言うことを疑わない。あるがままに信じる。繊月は息を吐きだした。
「それで、その人魚の末裔を……俺に守れと。大体、よく考えたら神埼の血は引いてないじゃないですか。当主の子なら、それは久野木くのぎ である筈だ。管轄が違います。それともまさか……まさか、その女に神埼の名を与えていたのではないでしょうね」
「鋭いね、繊月くん。そのまさか、だよ。儚の母親は外に居る者だけれど、同時に、形式上は神埼の側室扱いとなる。その娘である儚は、つまり、異称持ちの守護対象者だ……例外ではあるけれど、ね」
物憂げな溜息をついた半月に、それはこちらの動作だと繊月は言いたくなった。愛人を持つな、と言う訳ではないが、家の外に作るとは何事なのか。しかも恐らくは、いままで誰にも秘密で。その、愛人の姉だか妹だかが亡くならない限りは、今もそうであった筈なのだ。繊月は頭を振って息を吐きだした。
「よく……」
「ん?」
「よく、今まで無事で……。アンタよく放置しておきましたね。危ないとは思わなかったんですか?」
神埼の名を持ち、久野木の血を引く姫君ですよ、と繊月は頭の痛い気持ちで言った。人魚の末裔云々は置いておいて、それだけで外に出しておくには危ない存在だ。神埼は要の代替えと成る血筋だ。最も尊き一族になにかがあった場合の、保険の為にある家だ。一族があるからこそ、この世界は平穏を保っている。そんなおとぎ話めいた話を本気で信じているからこそ、それらを守る繊月のような存在は居るのだった。それを考えてみれば、人魚の末裔という話も、分類的には似たようなものなのかも知れない。それは非現実めいていて、おとぎ話の住人でありながらも、しっかりと世界に根付いている。
繊月の呟きに、答えたのは当主だった。
「儚の傍には、もう一人居るからな……それと、母親が居れば大丈夫だと思っていた」
「……もう一人?」
「母親が人魚の血の家系らしいんですよ。現れる個体特徴はまちまちらしいので、遺伝的にどうなっているのかは分かりませんが。儚に現れているのは『人魚姫』の血。もう一人に現れているのは……『セイレーン』です。『セイレーン』は人間嫌いで攻撃的、かつ、容赦をしないらしく……つまり、全部『セイレーン』が処理しています。放置できたのは彼女がいたからです」
ならばこれからも大丈夫ではないのかと言いかけて、繊月は半月と当主の微妙な表情に気が付いた。繊月が思い至ることに、彼らが気がつかない訳がない。考えて、繊月はまさか、と口元を引きつらせた。
「歯止め役が消えた、ということなんですか?」
「大正解。繊月くん、その通り」
「……儚は」
なぜだか眩暈を感じて、繊月は額に指先を押しあてた。
「儚は、自分では身を守れない?」
「……通常、人魚の末裔は、普通の人間より弱く出来ている。『セイレーン』の攻撃性が異常なだけだ」
「では、なぜ、もっと早く……!」
繊月、と戸惑う声で名を呼ばれ、青年は頭の痛みを振り払うように首を振った。無性に気持ちが苛立った。
「なぜもっと早くに、俺を呼ばなかったんですか!」
「……お前、人間嫌いだろう」
「嫌いですよ。ええ、嫌いですよ大嫌いですよ。でもそれとこれとは違うでしょう! 守れないだなんて……自分を守ることもできないだなんて、そんな相手を、よくも……よくも、外に放置しておけたものですね」
儚。知ったばかりの名を、甘く響く舌馴染みの良いその名を、繊月は胸の中で繰り返した。当主に対して吐き気がする程の怒りがこみあげてくるが、それを叩きつけるのは後回しだった。場を去ろうとする繊月を、戸惑いのままに当主が呼びとめる。
「繊月……?」
「……俺が守りますから、準備を終えたら儚がどこに居るのか教えてください」
「繊月くん」
当主のそれとは違って、半月の呼びかけは年若い異称をたしなめるものだった。その意味する所を正確に理解していたから、繊月は気持ちを落ちつかせる為に息を吸い込んだ後、ゆっくりとした口調で言い直す。
「私が、儚の『月の異称』となり、従僕となり、姫君をお守り致します。これより、命尽きるまで」
「はい。よろしい。駄目だよ、繊月くん。口調を荒らしてはいけません」
「……気をつけます。気が立っていたものですから」
失礼します、と言い添えて場を辞して行く繊月を見送って、半月は当主を振り返る。
「よかったですね。受諾してくれて」
「……ああ」
「大丈夫。繊月くんだって、なにかしら感じていた筈ですよ。『月の異称』はそういうものです。誰になにを言われずとも、誰が真の主であるのか、体のどこかが知っている。……繊月くんの主は、儚ですよ」
彼があんな風に怒るのを初めて見ました、と面白がる半月に、当主は苦笑しながら頷いて。すぐにでも家を出て行くであろう青年に、愛し子の行く末を託した。
海の近い街だ。電車をいくつもいくつも乗り継いで辿りついたちいさな駅に降り立った瞬間、繊月はなによりも早くそう思った。海の近い街だ。潮騒がうるさい程に耳につく。ふと視線をあげれば街並みの奥にすぐ海が見えるが、それにしても耳にこびりつくように波の音がある。それはいささか異常な程だったが、人魚の末裔が住む場所として、相応しいようにも思えた。手書きの地図を手に、繊月は街を進んでいく。真新しい景色に、目を奪われることはなかった。
辿りついたのは、ごく普通の一軒家だった。青い屋根の二階建てで、取り立て特徴のない風に繊月には見えた。表札を見ると、水原みずはら とある。それが亡くなった女性の苗字であり、『セイレーン』の住まう家である筈だった。儚も、そこに同居している筈だ。繊月は深呼吸をして、インターフォンに手を伸ばす。しかし押すより早く、扉が開いた。
「……誰」
攻撃的な速度で開かれた扉が、音を立てて壁に当たる。それを気にした素振りもなく、少女が繊月を睨んでいた。繊月よりひとつか、ふたつ年下に見える、セーラー服の少女だ。特徴と一致するが、違う、と繊月は反射的に思う。これは違う。この少女ではない。そうするのであれば、これは。
「……『セイレーン』?」
少女は動揺を見せず、代わりに攻撃的な意思を瞳によぎらせた。なぜ知っているのか、どこでそれを知ったのか、興味すら持たないのだろう。少女は明らかに繊月を異常とみなしていて、そしてひたすらに排除したがっていた。少女は息を吸い込み、繊月に向かって言葉を叩きつけようとする。その時だった。
「叶?」
声が、繊月の耳に届いた。雑踏の中であっても、その声ならば、苦もなく聞き分けることができるだろう。そう思わせる程まっすぐに響く、透明な、それでいて感情のない冷たい声だった。
「誰なの? ……誰か、来たの?」
来ないで、と言おうとしたのだろう。叶、と呼ばれた少女が振り返るのと同時に、家の奥からもう一人、セーラー服を着た少女が現れる。繊月は息を吸い込み、その名を呼んだ。
「儚」
疑うこともなかった。すぐに、そうだと分かった。戸惑うセイレーンを押しのけるようにして前に出て、繊月は儚の手を取る。ちいさな白い手が、戸惑いに震えている。誰、とその目が言っていた。微笑んで、繊月は少女の前に跪く。そうすることにためらいは無く、喜びだけが、胸に広がった。
「初めまして。私は繊月。神崎家、ご当主様の血族である儚様、あなたを護りに参りました」
「……せん、げつ?」
「はい」
たどたどしく繰り返す儚に頷いて、繊月は微笑む。儚は困惑したように眉を寄せて、繊月を見つめている。
「……繊月。あなた、繊月、と言うの?」
「はい。儚様」
少女の眉が、ますます寄った。繊月に繋がれてしまった手を、取り返したいようだった。
「……儚、でいいから。手、離して」
求めに従って、繊月は手を開放してやる。ほっとした表情に笑みを浮かべながら、繊月は囁いた。
「はい、儚」
花の香りのように、甘く響く名だと思った。