光の中であどけなさの残る彼女が笑った。でもおかしい。ぽろりと頬を伝ったのは、涙だ。
少しの動揺が自分の中に走り、相手の言動を息を呑んで見守る。彼女はありがとうと呟き、泣き笑いでその手にあるものをぎゅっと抱きしめた。とても大事そうに抱えて。
自分が何をあげたのかはわからないが、心の中がとてもあたたかい。なんだろう。考える自分を呼ぶ声が耳に甘い。
『メーシャ』
砂糖菓子がほどけるようなあたたかさに顔を上げ、たまらず彼女の頬に手を伸ばす。自然と、言葉がこぼれた。
『――俺は君にこれ以上何をあげられるかな』
けれどわかる、これは“俺”の言葉じゃない。“俺”だけれど“俺”じゃないメーシャの声だ。
すとんと落ちた感覚。しかし、動く唇は間違いなく自分のものとして感覚が捉えていた。なんとも不思議な体験を受け入れるように、メーシャはこのふたりのやりとりを見守った。
弱音に近い告白をした“俺”に、彼女はばかねと笑って駆け出す。
『孤独以外のすべてを』
そして向かってきたやわらかな体をそっと抱きしめた。
『出会ってくれてありがとう。メーシャ』
身体中に広がる安心感と、彼女が受け入れてくれた“俺の気持ち”が嬉しくて、まるで幸せを手にしているようだと思った。この感情こそが、自分にとっての幸せだと。この先にある「未来」の一端が視えた気がした。ああ、そうだ。俺たちはあそこにいく。行くんだ。必ず。そこに「幸せ」が待っているから。だから、そう、まっすぐに「みんなで行こう」幸せになるための道を歩むために。そのためには、腕の中にいる幸せにずっと隣にいてほしいんだ。――“俺”の意識と、メーシャの意識が混ざり合う。
「 」
紡いだのは、幸せの名。
今のメーシャには知ることはない、愛しい幸せ(ひと)の名だった。
ゆっくりと“俺”から意識が離される。
背後から、大事な人の声が聞こえたからだ。そうか、もうそんな時間か。
分離していく“俺”を見送りながら、もしかして見送られているのは自分のほうだったのかもしれないと思い始める。最後に覚えているのは“俺”と名も知らぬ“彼女”がふたりしてメーシャに笑いかけた幸せな、それはそれはしあわせな希望(ひかり)だった。
「おきろ、めーしゃ!」
わかってるよ。ちゃんと起きるよ。起きたらそのかわり全力で抱きしめてやる。
心の中で返事をして、メーシャは目を覚ました。
「……何、ニヤニヤしてんだよ」
目の前でふよふよと浮いている案内妖精兼育て親(?)兼大事な親友のルノンが、訝しげにメーシャを見下ろしている。昨夜は死にそうになっていたっていうのに、この元気だ。ほっとしたのを通り越して、うれしさに両腕が伸びる。
「っだぁああああ! いきなり抱きつくな!! こら! 寝ぼけてんだろ!? おまえ、まだ寝ぼけてるんだろぉお!?」
小さな体を押しつぶさないように、それなりの力でルノンを抱きしめてやる。
「おまえのそれ、悪癖だぞ! かわいいと思ったらすぐに抱きしめるのやめろよな! 特に女生徒!」
「うんうん。いいから黙ってよ。俺、うれしいんだから」
「知ってるわかってるだから恥ずかしいんだろぉおおおお!!?」
必死に照れ隠しをするルノンがとてもかわいくて、メーシャはしばらく彼を放そうとはしなかった。それほど心配が勝っていたのだろう。泣いて縋って「助けてほしい」と心の底から懇願するほどに、ルノンのことを心配していたのだから。
優しい白魔法使いは言った。
『任せて』
と。そして、そのとおりにルノンの体調を回復させてくれた。感謝してもしきれない。
ルノンはメーシャにとって本当に大事なひとだ。
どうしてこうなったのか本人でもわからないが、メーシャは三年前に記憶を失くした。
世界とメーシャを繋ぐ絆が断たれ孤独になる寸前、彼を救ったのはラティという宮廷魔術師と妖精のルノンだ。もともとふたりと顔見知りなのかどうか、記憶のない今確認することはできないが、それからずっとルノンはメーシャと一緒にいてくれた。とても大事で大事だと言っても言い足りない。これ以上の感情を繋ぐ言葉が、メーシャには見つからなかった。でもいつか見つかる。これが「最後」ではないのだから。そう、希望を胸にルノンとの最後になるかもしれない朝を迎えた。
――ここは、星降の王宮。そして、メーシャは今日ここから学園へ旅立つ。
「さてっと、俺の見送りもここまでだ!」
王宮の中庭、そこに学園へと続く『門』がある。等間隔に空いた木と木の間に、それはあった。扉のような、ものが。
「……えっと、あれかな、あの扉を開けていけばいいのかな」
「おう。あれは魔術師でなければ認識できない門だ」
「そ、っか」
魔術師。まだ慣れない肩書き、未知の領域にくすぐったくて視線を落とす。
「おまえ、魔術師なんだな」
隣で浮かぶルノンを見ると、彼の毅然とした横顔が目に入る。続けて、たまごだけどな! と続けた小さな友人に、メーシャはそれとなく心のうちを零した。
「……なれる、かな」
「なろうと思わなきゃ無理だな」
自然と落ちる視線は、不安の表れだ。わかっている。ここにきて怯んでいることに。けれどそれは、なんというかメーシャの覚悟の問題のように思えた。それを見抜いているのかそうじゃないのか、ルノンは夏の日差しのようにきっぱりと言い切った。
「でもそこは、俺の親友のメーシャだ。なれないわけがない」
落ちた視線が、またルノンを捉える。彼はまっすぐにメーシャを見つめていた。
「メーシャは俺の親友だ。親友を誇らない親友がどこにいる?」
ぺちぺちと頬をたたいてくる彼の瞳に、応援はない。賛辞だけが煌く。
「……おまえ、いい男だなぁ」
「俺は、おまえをそう育ててきたつもりなんだが」
表情を崩して微笑むルノンに、メーシャはこの大事な親友に贈る言葉を思いついた。そうだ。聞いたことがある、この関係の名前を。
「じゃあ、あれだな。ルノンは、俺の兄さんだ」
「え?」
「ルノンはいつでも一緒にいて、面倒をみてくれただろ? それって、兄貴の仕事っていうんだってさ。働いていたときに、ジズから教えてもらったんだ」
うん、すとんと落ちた。そうだ、きっとそういうことだ! なんだか嬉しくなって、ふふふと笑うメーシャの頭にふわりと何かが乗った。それはいつも身近に感じていた、ルノンの重み。――命の、重みであり、絆そのものでもある。
「いいか、メーシャ」
「うん?」
「この扉を抜けたら、学園だ。あとはまぁ迷うことはないだろうけど……、うん」
「なんだよ」
「……俺、おまえと出会って幸せだった」
「俺だって同じだ」
「じゃあ、これからは出会う人間を幸せにしてやれ。メーシャなら、できる」
強く、背中を押されたような気分だった。頭の上から離れていく熱にほんの少しの寂しさを感じたが、振り返らずに『扉』を見る。ルノンは、見送られるよりも見送るほうが嫌いだ。ラティと同じで。
(やっぱり似てる)
そんなことを考えながら、足を踏み出す。
「ルノン」
「なんだ」
「また、会えるよな」
「当然だ。ひとりにしないって、約束したからな」
近づく扉の前で、メーシャは右手をあげてひらひらと振った。これ以上の言葉は、もういらない。
「ん、よし」
開けた扉の先にある自分の未来を見つけにいくため、足を踏み出した。
「……行って、しまったね」
妖精の後ろには、ひっそりと木の影から様子を見ていた星降の王がいた。
「本当は扉の先まで一緒に行けたのにね」
「……いいんですよ。俺がいろいろ我慢できないんですから」
それに、と続けてルノンは王に振り返る。
「というか陛下。隠れるならもっと上手に隠れてくださいよ」
「あれ、バレてた?」
「当然です! わかりやすいんですよっ!」
そんなルノンに、王は「もういいよ」と呟く。だいじょうぶだから、よくがんばったな。そう続けられた言葉に、こらえていた何かが切れた。ぼろぼろと溢れる涙、感情を拭うことなんてできない。
「べつに、おれが、がんばったん、じゃっ」
「そうだね。でも、ルノンだってがんばったからメーシャにちゃんと伝わったんだよ。届いたんだ」
王の言葉に「俺の兄さんだ」と無邪気に笑った少年の姿が浮かぶ。でも彼はきっと、それがなんなのかを知らない。
そうなれたらいいなと思っていた。
届かないだろうことも知っていた。でも。
「っ……、あ、……あい、つ、俺の、……俺のこと、あにぎっで……っ」
嬉しさがこみあがる。今までの三年間で築いた関係が、しっかりちゃんと絆となって自分とメーシャを繋いでいることがわかった。ああ、俺のメーシャ。見守ってきたメーシャ。まだ幼さの残る横顔も、最後に見せてくれた男らしい背中も、二度と忘れることはない。それが、ルノンにとっての誇りだった。
「うぅっ、……おれ、おれ……っ、やっぱり」
「うん。そこから先は、メーシャが卒業してから言葉にするといい。もうきっと、覚悟は硬いだろうけどね」
「す、すいません、へいか」
「いいんだよ。そう思える人に出会えたということが、宝なのだから」
ルノンの頭をぽんぽんと叩いた星降の王は微笑む。春の風のようなやわらなか笑顔に、ルノンも鼻声で「はい」と答えた。
「ところでルノン」
「なんでしょう?」
ずびっと洟をすするルノンに、星降の王は真剣な表情で返す。
「ルノンがお兄ちゃんなら、ここはやっぱり俺がおとう」
「じゃ! 俺は報告会までにちょっといろいろもろもろやってますから!」
「え、ちょっとなにそのいろいろもろもろって!」
「陛下はちゃんと仕事してくださいよ。それでは、のちほど」
まるでダンスを申し込むような一礼をしてから、妖精は風に舞った。いや、踊ったといったほうが正しいのか。
ただ親友の門出を送るように、くるくる、くるくると花びらと一緒に舞っていた。