扉を抜けると、深緑に囲まれた石畳の小路に立つ。道は続き、挟むように等間隔で街灯が置かれていた。それを眺めて、メーシャはうんと頷く。
「……確かに、迷うことはないな」
道はひとつ。まるで自分の未来のようだと思った。学園までのまっすぐな道のりはひとつしかないけれど、そこから先はきっと分かれている。そうだ、学園が分岐点なんだ。それがわかる分、足を踏み出すまでに少々時間がかかったのかもしれない。
無意識にわかっていたのだろう。それが、――己の覚悟がこもる一歩だ、ということに。
ふと、頭にルノンの言葉が浮かんだ。
『いいかメーシャ。入学式までが、旅だ。しっかりおまえの足で歩いて、おまえの世界を拓け』
すごくルノンに会いたくなった。ついさっきまで一緒だったからよけいに会いたい。だって、いつも一緒にいたんだから。
「うん」
けれど、少年は前を向くことで、甘えを覚悟に変える。こつ。踏み出した一歩に、どうしてだろう泣きたくなった。
振り返ることなく前へ進むメーシャの足取りは、二歩目から確実なものに変わる。コツコツと靴音を響かせ歩いていくと、今までの思い出が蘇ってきた。
ラティとルノンに初めて会った日のこと。
勉強机の明かりを消し忘れて、ルノンに怒られたこと。
学園への招待状を手にしたときのこと。
他にも語りつくせないほど、たくさんの記憶をラティやルノンと一緒に作ってきた。孤独に思う夜もあったけれど、悲嘆に暮れてる暇はなかった。それほどまでにふたりから与えられた愛情は大きい。きっとメーシャにとって、ふたりに出会えたことが『奇跡』なのだ。
「俺、がんばるよ」
誰にともなく呟いた言葉は約束となり、風に運ばれ、――学園の門に向かった。
「ようこそ」
そう言ってメーシャを中へと招き入れたのはひとりの青年だ。
「新入生だね?」
口元に笑みを浮かべた青年が嬉しそうに言った。
「はい。……よろしくお願いします」
なぜだろう。不思議と緊張しない。どちらかと言えば、ルノンと別れる前のほうが緊張した。ぐっと腹に何かが落ちて、心が凪いでいるのを感じる。
「落ち着いてるね」
「あ、いえ、普段はこんなんじゃ……」
「そうなんだ」
多くを語ることもなく、青年は口元をほころばせた。頼りがいのあると言ったほうが正しい背中に続いて進む。メーシャにとっては、なんだか大きく見えた。ふと、頬を撫でる優しい風を感じて目を閉じる。
穏やかに、ゆるやかに、時間が進んでいるように感じた。居心地がいい。とても。風の中に混じる花の香りに、メーシャの顔は綻んだ。周りに意識が分散していたせいか、目を開けた先にいたはずの案内役の青年の背中が少しだけ遠かった。メーシャは追いかけるように、彼に続いて角を曲がる。その、直後。
「きゃぁっ」
「うわっ」
両手に積み上げられた本で前が見えない女生徒とぶつかった。ばさばさと音を立てて本は落ち、辺りに散らばる。メーシャは少し足元がよろけた程度だったが、少女にとっては大きな衝撃だったのだろう。その先ではしばみ色の髪をした少女が、しりもちをついていた。お約束といわんばかりに、かけていた眼鏡も見事にずれている。
「大丈夫ですか!?」
駆け寄ったメーシャに、少女は慌てて居住まいを正す。そして恥ずかしそうに、辺りに散らばった本に手を伸ばしていった。痛いともなんとも言わないので、きっと怪我はしていないのだろう。慌てて拾う少女とともに、メーシャもそれを手伝った。
「……あの、すみませんでした」
立ってみたら自分よりも小さな少女に、最後の本を手渡したメーシャは深く頭を下げた。
「大丈夫、ですから。……その、顔を上げてください」
彼女に言われたとおり姿勢を正す。目の前の少女は、やっぱり小さかった。
肩口で切り揃えられたはしばみ色の髪はふんわりとして、小顔な彼女の輪郭を綺麗に隠している。真っ白な肌に映えるのは、眼鏡の奥にあるルビー色の瞳だった。大事に抱えている古びた本に、顔を隠すようにして鮮やかな瞳は伏し目がちだ。もっとちゃんと見せてくれたらいいのに、そう思った。
「新入生くん、どうしたの? トラブル?」
後ろについてきているはずのメーシャがいないことに気づいたのか、青年が少女の後ろから小走りにやってきた。すみません、と勢いよく謝り、すぐに向かおうとするのだが。
「ちょうどいい。ハリアス、この新入生くんを談話室まで案内できるかな。ちょっと寮長に呼ばれてしまってね」
青年の急な頼みに、弾かれたようにハリアスと呼ばれる少女は顔を上げた。その表情は不安に染まっている。
「でも、その、本を図書室に……!」
「これは誰かにお願いしておくから、大丈夫。今は新入生くんを談話室まで案内するほうが大事だから」
口調はやんわりしているのだが、言っていることは厳しい。ぐっと押し黙ったハリアスに、青年は頼むねと言うとメーシャに微笑んだ。
「そういうわけだから、ごめん。あとはこのハリアスに任せます。わからないことがあったら、彼女に聞いて」
それじゃ。最後にそう付け加えて、青年は元来た廊下を戻っていった。残されたのは、押し黙ったハリアスと、少女の扱いに困るメーシャだ。うーんうーんと視線をあちらこちらに向けた末、メーシャはハリアスの前に立って、彼女の顔を覗き込む。本の影に隠れるように俯いていたルビーの瞳が瞠目した。
「ああ、あの、怖がらないでもらい、たくて」
「……」
「えっと、その、……俺、メーシャって言います。ハリアス……さん? よろしくお願いします」
怖がらせないよう微笑んだのだが、彼女は何も答えない。いよいよ困ってきたメーシャに、青年から頼まれたらしい少年たちの足音が聞こえてきた。ばたばたと騒々しくこちらまでやってきた足音は三人だ。びくりと肩を揺らしたハリアスの様子に、きっと顔を合わせたくないのだろうな、などと思ってメーシャは彼女の手を無理やり取った。その拍子に、彼女が手にしていた本が床に落ちた。
「え、え?」
「走って」
手早く用件を伝え、驚く彼女の手を引いたメーシャは、廊下を走る。
走るのは好きだ。風をきると、気持ちがいい。それに、今気づいたけれど、撫でる風はルノンに頬を触られているときと似ている。そのとき初めて、またルノンのことを考えてることに気づいた。自分が思いのほか寂しい思いをしているのを知り、苦笑が漏れた。
風に混ざる花の香りを頼りに、メーシャとハリアスは中庭までやってきた。
こんなに走ったのは久しぶりだ。まるでルノンと出会った三年前のようだと懐かしさに口元が緩む。あの頃はよく走ってたなぁ。そして、またルノンのことを考えてる自分に、情けないを通り越して呆れた。
(だってしょうがないよな。兄貴なんだし)
自分でそう納得することで落ち着いた。
「もう大丈夫ですね」
振り返ったメーシャの、目に映ったのはしゃがみこむハリアスの姿だ。彼女はぜーはーぜーはーと息をするのも困難な様子。メーシャは慌てて日陰を探した。少し大きな木の根に影が集まっていたので、そこで休ませようと彼女を見る。
(動けない……よな。この様子じゃ)
走らせた元凶が自分だからこそ申し訳なくて、メーシャはしゃがみこんだハリアスの耳元に唇を寄せると断りを入れた。ごめん、と。そして。
「!?」
ハリアスの体を軽々と抱き上げる。
「あそこの木の下、日陰になってるから、ちょっと休みましょう」
理由を告げてお姫さま抱っこをしたメーシャは、彼女ともども木の下まで向かった。女性を抱き上げたのは初めてだったが、こんなに小さくて、やわらかくて、もっと力を入れたら折れてしまうんじゃないかと思うほど、弱いと感じた。
正直、力加減がうまくできない。
「何か飲むもの持ってきましょうか?」
木の根に座らせるようにハリアスを下ろしたメーシャ。その言葉に、彼女は首を横に振ることで応えた。今度は会話ができた、と内心で喜んだメーシャは、彼女の隣に腰を下ろし、木漏れ日を見上げる。影という冷たさの中に光という温かさを感じた。
「…………あの」
「はい」
隣から聞こえた声に視線を移す。ルビーの瞳が、困惑するように揺れていた。
「あの、えっと、……新入生で、……疲れているのに」
「大丈夫ですよ、昨夜は王宮でしっかり休んできましたから。それよりも、なんていうか……俺のほうこそ走らせちゃって、すみません」
「運動不足なだけだから……。あと」
「はい」
「その、私、たぶんあなたよりも年下だと思うから、敬語はやめてください」
「でも先輩ですよね?」
「年上の方に敬語で話されると、なんだか落ち着かなくて……」
微苦笑を浮かべたハリアスに、メーシャは素直に「わかった」と答える。
「えーっと、じゃあ、ハリアス?」
向けられたルビーの瞳が瞠目したのを見て、もしかしたら敬称があったほうがいいのかもしれないと思ったが、言ってしまったことは戻せない。それに、もっと仲良くなれば敬称など邪魔になるだけだ。メーシャはハリアスの表情を見ないフリして、笑った。
「ハリアスは、まじめなんだね」
「……よく、言われます」
「あ、ごめん」
「……なにがですか?」
「気に……、してた?」
「いえ。まじめなのは本当のことですから」
そして、会話が途絶えた。
穏やかな風が楽しそうにメーシャとハリアスを撫でていく。ワルツを踊っているようにやわらかで、楽しげな風に身をゆだねる。会話がないのに、とても、とても穏やかな時間だった。
「……あの」
木に寄りかかって目を閉じていたメーシャに、戸惑いがちな声が届く。目を開けると、立ち上がったハリアスがメーシャの顔を覗きこんでいた。
「もう、大丈夫……、なので」
「あ、うん。ありがとう」
ルビーの瞳に微笑んだメーシャは、ひとつ伸びをしてその場に立ち上がった。風が通り抜ける。ハリアスのはしばみ色の髪が、揺れた。かわいいなぁ。見つめた少女の顔は、世界のものだった。彼女自身のものでもない、世界がまだ広いときの顔だ。自分の世界を狭めていない証拠。その時期すらない己の過去に、やはり少しだけ寂しいと感じる。
「メーシャ……、さん?」
「ああ。気にしないで、なんでもないから」
「でも」
「いいの。それに、ハリアスは男が苦手みたいだから、場所だけ教えてくれれば適当に行くよ」
「そ、それだと意味がないです。私が、副寮長から、……その、頼まれましたので」
顔を隠すための本を持ってないせいか、落ち着きのない様子でメーシャを見上げ、頬を染めたと思ったら俯いた。その様子がかわいくて、まるで猫みたいだ、なんてメーシャは思う。
「何かしてる途中だったんだろ?」
俯いていたルビーの瞳が無邪気にメーシャを見上げた。目をぱちぱち瞬かせて、少女は「あ」と小さな声を出した。
「本、運んでただろ? まぁ、もう運ばれてると思うけど、そのあとは? 何かするんじゃなかったの?」
自分が何をしようとしていたのか徐々に思い出したのだろう。ハリアスの表情が、みるみる変わっていく。しかし、かといって目の前のこともないがしろにできないと言うようにメーシャを見る。考えていることがわかるせいか、少女を落ち着かせるように頭を撫でた。
「俺のことは気にしないでいい。ハリアスは、自分のことをやっておいで」
「……でも」
「まじめなのはとてもいいことだけれど、時には肩を抜くことも大事だよ。大丈夫。俺が談話室、だっけ? そこにいれば問題ないだろ」
不安に瞳を曇らせていた彼女の瞳が、徐々に強さを取り戻す。どうやら、自分でどうするか決めたようだ。
「ごめんなさい。でも、その好意を受け取ることはできません。これは、私の仕事です」
彼女の意思は固かった。そこまで決めているのならと、メーシャも「わかった」と言うしかない。
「じゃあ、案内よろしく頼むよ。ハリアス」
「はい。あ、でも」
「ん?」
言いにくそうに口を開けたハリアスは、少しだけ唇を尖らせて頭の上にあるメーシャの手を指差した。
「……子ども扱い、しないでください」
必要な主張はそれなりにするハリアスに、メーシャは笑った。憤慨だとでも言うようにルビーの瞳は拗ねていたが、メーシャが笑っているのはそれが理由ではない。
『子ども扱い、するな!』
以前どこかで、ルノンに言っただろうセリフを思い出したからだ。
これは初めてルノンに料理を教えてもらったときのこと。教えてもらったからには自分ひとりで出来ると思い、料理に挑戦した。はらはらとメーシャの周りを飛び回り、あーでもないこーでもないと口を出すルノンに、とうとう口にしたセリフだった。
ああ、ここに、かつての自分がいる。過去と言ってもたったの三年前だが、メーシャにとっては大事な三年だ。そのときの自分に会えたような気がして、おかしかった。
「ご、ごめん、ハリアス。気を悪く……、するよね」
唇を尖らせて視線を逸らすハリアスに、メーシャはしゃがみこんで顔を覗き込む。どうか機嫌を直してほしいという願いをこめて、少女に微笑んだ。
「俺が悪かった。……本当に悪かったと思ってるから、そんな顔するなよ。な?」
「……じゃあ、もう近づかないでください」
そう告げた彼女から拗ねた表情がなくなり、出会ったときよりも緊張を纏っているようだった。何かに怯えているというか、怖がっているというか、自分から線を引いているというか。わからないが、メーシャにも覚えのある表情だった。
「私、……馴れ合いをするために学園に来たわけじゃありませんから」
そう言って踵を返した小さな背中に、メーシャには考え付かないほどの荷物があるような気がした。孤独を好む人間は、その理由がある。少女もまた、理由があるような気がした。しかし、ルノンに鍛えられたメーシャにそれはきかない。むしろ似たような人間に出会えたような気がしてわくわくした。
「うん、やっぱりかわいい」
いろいろ間違った感想と発言は、本人だけが気づかない。
談話室に向けて歩くハリアスの小さな背中を追いかけるように、メーシャは駆け出した。