せっかくだから、とメーシャは月明かりに照らされた夜道を図書館の方向に向かって歩く。
昼間、ソキが白いにゃんこを見たと興奮気味に話していたことを思い出したためだ。
――満月の夜、メーシャにはやらなければならないことがあった。それは、できれば人通りのない場所が好ましい。だから、図書館付近というのは、木陰もあるし何かと便利だった。
夜道を歩く自分の足音を聞きながらのんびり歩いていると、目的地にはすぐ着いた。さて、と小さくつぶやいたメーシャは辺りを見渡す。すぐに、ソキが白い猫を見たという腰かけを見つけた。
「……ああ、あれか」
他の建物へ続いて行く道の端に、探していた腰かけはひっそりとあった。けれど、そこに白い猫の姿はない。やっぱりな。動物の習性、ましてや猫の気まぐれな性格からして、ひとつのところに居続けているわけがないと思っていた。ほんの少しの期待をため息で吐き出したメーシャは、ゆっくりと腰かけに向かう。
月光を浴びた腰かけに座り、見上げる。――そこには、煌々と輝く満月があった。
いつもの場所よりもいい位置かもしれない。そんなことを考えて、メーシャは目深にかぶったローブをめくりあげた。月光に照らされると、メーシャの白銀の髪が淡く青銀へと変化していく。キラキラと輝く髪をそのままに、メーシャは己のローブを肩からすべり落とした。
なんの抵抗もなくすとんと落ちたローブからは、メーシャの滑らかな肌が覗く。まだ大人になりきれていない体格だが、充分“男”を感じさせる。中性的であった顔つきも、学園にきてからはますます引き締まり“男”のそれへと近づいていた。
月光をその身に浴びて、メーシャは深く息を吐き出す。そして、清浄な空気を吸い込んだ。
すぅ。っと光の粒が身体の中に入っていくような感覚を覚える。
メーシャは、この瞬間が好きだった。なんとなく、新しい水を甕に注ぎ、その水で下にたまった泥をかき出すような、そんな気分に近い。深呼吸を繰り返すことで、心にたまった穢れが外に吐き出されていくのがわかった。ほのかにあたたかく感じる月の光に身を委ねたメーシャは、しばらくして自然と閉じていた目を開けた。
「――あ」
思わず漏れた声の先に、真っ赤な顔をした少女がいる。彼女はぷるぷると身体を震わせてメーシャを凝視していた。まずい。このままでは誤解を与えてしまう。瞬時に、まじめな彼女の思考を表情から読み取ったメーシャは、少女の名前を紡いだ。
「ハリアス」
メーシャの声で我に返ったのか、何度もまばたきを繰り返すハリアスにさらに言葉を重ねる。逃げる隙を与えないために。
「ごめん!」
「!?」
「驚かせた、よね……? 実はこれには訳があって……」
申し訳なさそうに苦笑をにじませるメーシャに、何か察しただろうハリアスの表情が心配に変わった。
「……何か……、あったのなら寮長を呼びにいってきますが……」
「あー。うーんと、それは大丈夫。できれば説明したいから、隣に座ってくれないかな。俺、今ここから動けなくて」
腰かけの隣をぽんぽんと手でたたく。ハリアスは恥ずかしげにメーシャの前まで近づくと、視線を逸らしてちょこんと隣に腰を下ろした。顔を背ける彼女をちらりと見やれば、耳が真っ赤に染まっている。無理もない。男性に免疫のない少女からしてみれば、メーシャの格好は目の毒だろう。周囲を気にしていたのだが、あまりにもこの場所の居心地が良すぎたのか、ハリアスの気配を感じ取ることができなかった自分の責任でもある。
自分への反省も含めて、ごめん、とつぶやいた。
「あー、こっち、顔向けなくていいから。……そのままで聞いて」
「……はい」
素直に返事をしてくれるハリアスに感謝をしつつ、メーシャは話を続けた。
「さぁ、どこから話そうかな……。とりあえず、順を追って説明するね。俺がここにきたのは、ソキが昼間白い猫を見たって言ったからなんだ」
その瞬間、ハリアスの雰囲気が鋭いものに変わった。
「…………その猫を捕まえて、どうするつもりだったんですか。愛玩動物にでもするつもりだったんですか?」
言葉の端々に棘をまとわりつかせたハリアスに、メーシャは笑って否定する。
「違うよ。もし迷子になって家に帰れなかったら、俺が保護しようと思ってたんだ」
「保護、ですか……?」
「うん。ひとりでいるのは寂しいだろ? それに、家族がいるなら家族のもとへ帰してやりたい。俺も猫の家族を探す手伝いぐらいならできるんじゃないかなって考えた」
ハリアスからの返事はない。メーシャは気にせず、今度はやってることに話を変えた。
「で、満月の光を浴びるのにちょうどいいと思って、ここで“浄化”してたんだ」
浄化とは、――満月の晩に月の光で己の魔力を蝕む“穢れ”をなくすこと。
ラティと出会ってしばらくしてからだった。彼女から“浄化”の話を聞いたのは。
学園で初めて知ったのだが、一般的には占星術師は“浄化”を行わない。そのため“穢れ”が体内に蓄積されるのは、メーシャ個人の特異体質にある、と言っていたラティの仮説が実証されたことになる。そして、それが暴走の原因だとラティは判断していた。
「満月の夜にこうして月光浴をしないと、俺の魔力は穢れてしまうんだって。穢れは暴走を引き起こす、暴走は……誰も、幸せにはしない」
――幸せにもしなければ、不幸にもしない。ただ、世界に忘れられるだけ。
落ちた声が、かつての自分を思い出させる。
「……暴走、というのは……魔力暴走のことですか……?」
恐々といった様子で、ハリアスの声が届いた。メーシャは月を仰ぎながら、小さく「うん」と答える。これで黙っていればよかったのだが、なぜか次の言葉がするりと唇からこぼれた。
「俺、以前一度、魔力を暴走させたことが原因で、自分の記憶と家族っていうのをなくしちゃったんだ」
言ってから驚いたのはメーシャだ。その隣で、ハリアスの息を呑む音が聞こえる。もしかして、いたずらに彼女を怖がらせてしまったのではないかと不安が心をよぎった。
「ごめん。こんなことまで話すつもりはなかったんだ……。でも、なんだか今日はなんかついぽろっと話しちゃったみたい。怖がらせて悪いね」
隣にいるハリアスの小さな頭にそっと手をのせる。やわらかな髪の感触を手のひらに感じて、メーシャはゆっくり撫でた。
「まぁ……、その、そういう理由で、こんな格好なんだ。だから、誤解しないでほしいんだけど……」
なんの反応を見せないハリアスに不安を抱いたメーシャは、ちらりと隣の様子を伺うように視線を向ける。相変わらず、顔を背けた状態で座っているハリアスの肩は、――小刻みに震えていた。
不自然だと思うよりも早く、メーシャはハリアスの肩を掴んで、無理やり自分のほうへ向かせる。
「……ど、どうして泣いてるの……!?」
驚きの声をあげたメーシャの前で、ハリアスの眼鏡の奥、ルビーの瞳にうっすらと涙の膜ができていた。唇を真一文字に引き結び、必死に泣くまいとしている彼女の姿に、なぜかメーシャの心が悲鳴をあげる。
「怖がらせるつもりじゃなかったんだ! ごめん!」
すぐさま、魔力暴走の件を謝罪するメーシャに、ハリアスはぶんぶんと首を横に振った。きらりと頬を流れるひと雫の涙が、月光に反射してキラキラ光る。
「……じゃあ、なんでそんな顔をしているの……?」
悔しげに眉間に皺を寄せるハリアスが、ローブの袖口で自分の目元を拭った。
「私が……、泣くようなことではないっていうのは、充分理解しているんですけど、……けど!」
「……うん?」
「なん、か……、自分のことじゃないのに、なぜかココがきゅぅってなって……」
胸元を押さえたハリアスを見て、なぜか自分の心の中にあった澱みを掬い上げられたような気分になる。なぜだろう。こんな気持ちになるのは初めてだ。必死に自分の思いを言葉にするハリアスを前に、メーシャの顔は自然と綻んでいった。
「うん」
しかし、彼女はルビーの瞳をさらに大きくさせて顔を真っ赤にさせる。
「そ、そんな優しい声出さないでください……!!」
「……え?」
「また泣いちゃうじゃないですか!! どうしてメーシャさんは、そんなに優しいんですか!! 自分のことは大丈夫だと笑ってないがしろにして、いっつもみんなのことばっかり……!! 挙句の果てには猫を保護するとか……!! どんだけおひとよしなんですか! あなたのほうが、よっぽど迷子の子どもみたいな顔してますよ!!」
もっと自分を大切にして。
そう、ハリアスが言っているように聞こえた。彼女の真剣な顔が、下から覗きこんでくる。そのルビーのまなざしに、動けなくなった。
「……そう、かな……」
「そうです! そうに決まってます!」
涙を浮かべたハリアスに、どうして怒られているのかよくわからない。けれど、なぜか笑いがこみあげてきた。
「っく、……あは、……あははははっ!!」
いきなり笑い出したメーシャに、ハリアスは目を見開く。
「ハリアスは、おもしろいね」
「……はい?」
「顔を真っ赤にさせて、俺を怒る」
「わ、私は怒ったつもりではなく――ッ!!」
ぎゅ。彼女の言葉を遮るように、メーシャはその小さな身体を自分の腕の中に抱きこめた。やわらかな身体から伝わってくるのは、彼女の鼓動と体温だ。優しい音が、ハリアスの身体を通して聞こえてくる。
「……うん。心配、……してくれたんだよね?」
息を呑む彼女の耳に、メーシャは唇を寄せた。
「ありがとう」
ありったけの感謝を紡ぐと、彼女の耳が一瞬にして真っ赤に染まった。
「お、おおおおおお礼を言われるほどのことはしてません……!!」
腕をつっぱねてメーシャの身体からするりと抜け出したハリアスは、寮に向かって駆け出す。その直後、くるりとメーシャのほうを向き直ってぺこりと頭を下げた。
「…………まじめだなぁ」
少女の背中をいつまでも見送るメーシャを、満月の光は優しくあたたかく包み込んでいた。
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