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 きっと花は咲く 01

 人の心に、花が咲くというのなら、あなたにもう一度、花を咲かせてみせる。


 例えば、ウィルス。例えば怪我。例えば、不安。きっかけは、いつも些細なことである。ふとした拍子に、坂道を転げ落ちていく。理に背けば、ほころび始める。小さな穴が、大きくなっていく。それは、取り返しがつかないほど大きく。


『ばっちゃん、だいじょうぶ?』
「ああ、すまないね、大丈夫、だよ」
 医者に処方された風邪薬と水を持って、ナリアンはオリーヴィアの寝室をノックした。2日ほど前からオリーヴィアは体調を崩していた。ただの風邪だと笑うオリーヴィアだったが、2日続いてベッドから起きあがれなかった。なんとなく体調がすぐれない、と言い始めたのはいつの頃から。寝てれば治る、というオリーヴィアの言葉を振り切り、ナリアンは血相を変えて、街の医者のところまで走った。慌てるな、という医者の腕を引っ張り自室のベッドに眠るオリーヴィアを診てもらった。気が気でないナリアンに、医者は、ただの風邪、と薬を置いて帰っていた。
 ほうらご覧、と微笑むオリーヴィアにどこか釈然としなかったが、医者が言うのだから、と己を納得させた。オリーヴィアに薬を差し出し、蜂蜜や、オートミールを食べさせた。日に日に細くなっていくオリーヴィアに寄り添いたかったが、風邪がうつるから、とすぐに追い出されてしまう。それでも番犬よろしく、オリーヴィアの部屋の前で寝泊まりをし、何か物音がすれば、すぐに踏み込んだ。その度に、オリーヴィアに苦笑され、大丈夫だよ、と返される。
 医者の置いていった薬がなくなりかけても、オリーヴィアは一向に回復の兆しがうかがえない。むしろ、じわりじわりと弱っているように見える。オリーヴィアは高齢であったし、この世界の平均寿命を考えれば、かなりの長命であった。いつ迎えが来てもおかしくはなかった。もう一度、ナリアンは医者を呼んだ。ベッドから半身を持ち上げることができないオリーヴィアを見た医者は、ろくに診察をしないまま、ナリアンを連れて部屋の外に出る。
 パタリ、と静かに扉を閉め、ナリアンに向き直る。ひどく言いにくそうに、眉根を寄せ、視線を合わせないよう、己よりも背の高いナリアンに向かって口を開いた。
「いつから、あの状態ですか」
『1週間ほど前からずっと』
「私が、検診をした頃から変わらず?」
『……はい』
 医者は1つ、溜息をついた。
「……残念ですが、もって3日。いや、1日もつか。今すぐ、その……どうして、あの状態で生きていられるのか不思議でなりません。医者として無力を感じるのはつらいことです。つらいでしょうが、なるべく側にいてあげて下さい」
 死んでもおかしくはない、の言葉を飲み込み、つらりつらりと、いくつかの病名を医者は上げていく。先ほど言われた言葉が理解できないナリアンの両耳を、それは撫でていく。1つもナリアンの心には響かない。落ちてこない。この人は何を言っているのだろう、ナリアンには不思議だった。それでも、最後に、お大事に、と言われ、そのまま玄関まで見送った。医者は、薬も手段も何も残してはいなかった。
 開け放した玄関にナリアンは立っていた。夕暮れの、鳥が何羽か巣に帰っていく。昼間の喧騒は1つまた1つと静寂を取り戻していく。風の音が止む。鳥の歌は終幕。誰かの話し声も、野菜を刻む音も、子どもたちの足音も。辺りが薄闇に包まれた頃、ナリアンの頬を一筋の風が撫ぜた。まるで、体が冷えるから中にお入りなさい、と母が子に言うように。
「うそだ」
 ようやく、ナリアンの体が動いた。吐き出した言葉に我に返る。辺りは暗い。今何時だろう、いつからここにいる、医者はどうしたのだろう、何を言われたっけ、ああそうだ、ばっちゃんが、ばっちゃんが、死ぬ。
 至った思いに、悲鳴があがった。踵を返し、大慌てでオリーヴィアの部屋に戻る。静かにしなければ、気遣わねばと思う余裕などナリアンにはなかった。オリーヴィアが自分の側からいなくなる。ナリアンを一人置いていってしまう。覚悟なんて、できていない。
 オリーヴィアの部屋のドアを力一杯開け、飛び込む。あまりにも大きな音に、耳が聞こえにくくなっていたオリーヴィアの瞳がうっすらと開いた。ドアを開けた勢いのまま、ナリアンはオリーヴィアが横たわるベッドに駆け寄り、膝をつき、すがりついた。オリーヴィアの顔を見ることが出来なかった。
「……行儀が、悪い、よ、ナリアン」
 呼吸と同じ大きさの声が宙に溶ける。声をかけられても、ナリアンはオリーヴィアの顔を見ることが出来ない。嫌だ、嫌だと首を振る。天井を向いていたオリーヴィアの瞳が、ゆっくりとナリアンがいるであろう方向を向いたが、オリーヴィアの瞳はナリアンの姿を捉えていない。見えて、いないのだ。
「ナリアン」
 顔を、見せて。気の遠くなるほど小さな願い。潤んだ瞳のまま、ナリアンはようやくオリーヴィアに顔を見せる。ナリアンはオリーヴィアの瞳を見るのに、オリーヴィアの瞳はナリアンを見ない。顔を上げて、なんて言葉、聞きたくない。
「ばっちゃ……」
「泣き虫、だねぇ」
 泣くんじゃないよ、男だろう? そう、快活に言って欲しかった。
「ナリアン」
 名前だけ呼ばれる。ナリアンは左手を伸ばし、オリーヴィアの頬に触れた。オリーヴィアの瞳が瞼の奥に隠れる。ゆるやかに息が吐き出される。吐息はナリアンの肌をかすめたのに、熱もくすぐったさも感じられなかった。冷たい頬。奥の奥にだけはらむ熱。
「ばっちゃん、どこが痛いの……?」
 思いは言葉に。言葉は声に。念ではなく、空気が震える。風が、ナリアンの声をオリーヴィアの耳に届ける。
「……どこも、痛く、ないよ」
 優しい嘘。本当はどこもかしこも痛いのだ。頭も、鼻も、目も。口も歯も喉も。耳も肩も胸も。腕も手も腹も。太腿も、ふくらはぎも背中も、足首も。痛くないところなんて、ナリアンが触れている右の頬だけ。そこだけが温かく、オリーヴィアを癒していた。自分で熱をつくれない。熱を保てない。与えられる熱を享受するだけ。息をするのも本当は苦しい。喋ることなんてもっての他。それでも目の前の愛しい子が、涙を溜めて問いかけてくるのだ。もう少しだけ生きる力が欲しい、とオリーヴィアは天に祈った。
 伝えたいことは、ずっと伝えてきたつもりだけれど、まだ与えてやりたいと思ってしまうのは。一息吐くごとに、終わりが見える。疾うの昔に、自分の体の異変に気づいていた。退団して、5年も生きれば御の字だと、思っていた。だから、周囲にナリアンのことを頼む、と事あるごとに言っていた。あんな子だけれど、優しい子なの。そうは言わなかったが、伝わればいいのにと思っていた。
 あの子が成人するまで見守っていて欲しい、そう、近所の人々にオリーヴィアは言ってここまで生きてきた。温かくて、柔らかで、心地の良い風はいつも吹いていた。ずっと。体調が悪くなってもすぐによくなっていた。軽い風邪なら少し休むだけで元気になった。腰痛も心なしか軽く、悩まされていた膝の痛みも気づけば感じなくなっていた。もしかしたら、という思いは度々あって、その度に首を横に振ってきた。あの子は、普通の子と何ら変わりない。
 すぐに良くなっていた体調も、今回はばかりはそうはいかないらしい。年貢の納め時。オリーヴィアはそう思った。頬に触れるナリアンの熱は心地よい。優しい子。残していくのはつらいけれど、この子はまだ生きなくてはならない。人が、この世に何かをするために生まれてくるのだとするのなら、オリーヴィアの人生は、きっとナリアンに巡りあう為だったと、今なら言える。何かを成すために生まれてきたのなら、ナリアンは何を成すのだろう。大きな手、大きな体、大らかな心。お前が世界に微笑むのなら、お前が人に触れるのなら。きっと、きっと。慈しみ、水を与え、守ってやれるのに。お前なら。
 オリーヴィアの心に一輪の花が咲いていた。他人には見えない、一輪の花。小さな、白い、清廉な花。ひらりと、一枚、花びらが落ちていく。根本には、幾枚かの花びらが落ちていた。ナリアンの心にも、きっと、それは咲いている。誰の心にもきっと、咲いている。
 頬に触れる温かな手に見送られる。ついぞ会うことはなかった、運命の人。こんな風に、異性に頬を触られたことなどあっただろうか。恋をしたことがあったような気がする。叶うなら。叶うなら、誰かに名前を読んで欲しかった。忍び寄る死を迎え入れる。最後に、最後に一言だけ。
「なりあん、なり、あん」
「ばっちゃ、ばっちゃん……!」
 あんたはいい男だよ。ナリアンの耳をくすぐるのは風だけだった。緊張が解かれていく体に、ナリアンの左手が震える。オリーヴィアに触れている左手。
「……ばっちゃん?」
 返事はない。それでも呼吸がまだある。薄く上下している皮膚。目を凝らさなければ見えないほど。まだ、間に合う。頭はそう思っているのに、心は違う。
「ばっちゃん! ばっちゃん!」
 瞳は開かない。痛いところなどない、とオリーヴィアは言っていた。ナリアンは違うと知っていた。医者がこぼした、無数の病という言葉。朧気に記憶に引っかかっていた言葉。蝕まれている。なぜ生きているのかわからないと言われたオリーヴィアをこの世に引き止めていたのは自分だとナリアンは薄々気づいていた。


 自分の言葉が、その通りになることを知らなかったあの頃。両親と別れて、すぐの頃。読んだ絵本に出てくる少年の犬が死んだ。死ぬとは、どういうことなのかをオリーヴィアに聞いた。少し困ったように、オリーヴィアは教えてくれた。新しい旅立ちだと。じゃあどうして、絵本の少年は泣いているのかと聞いた。
「寂しい、からだよ」
「さみしいの?」
「もう、会えないからね」
「あえない?」
「こうやって会話も、手をつなぐことも、顔をみることも出来ないこと」
「……それは、いやだよ」
「嫌さ、みんな嫌だよ」
「どうして、どうして、しんじゃうの」
 そんなに嫌なら死ななければいいじゃない。みんな嫌なのに、どうして。泣きそうなナリアンを前に、オリーヴィアは喉が詰まる。絞りだすように、ナリアンに伝えた。
「ようく、お聞き、ナリアン。人、それから物。鳥に花や木。それから建物。お前のコップ。この世にあるもの全てに、寿命があるんだ」
「じゅみょう?」
「この世に存在、もしくは価値がある、時間のこと」
「そんざい? かち?」
「ここにいること、それから必要とされること」
「ひつよう?」
「いて欲しい、あって欲しいと思うこと」
 神妙に頷き返すナリアンに、オリーヴィアは言葉を続ける。少しだけ、昔を思い出すように目を細めた。
「どこまで話したかね……ああ、そうだ。ものには寿命があるんだ。どれだけ、願ってもやがて来る終わり。生き物は、ここが動いている限りは生きているのさ」
 ナリアンの小さな手をとり、そっと胸に当ててやる。とくりとくりと、打つ脈をナリアンは手のひらで感じた。
「それから、物。ナリアンのコップは、割れたらそれで最後じゃないのさ」
「われちゃったら、なにものめないよ?」
「そうだね。コップとしての価値はなくなる。けどね、お前がそれを持っておきたいと思えば、それはそれで価値なんだ。他人から見れば、ただのガラクタだけれどね」
 見つめてくるナリアンを見つめ返しながら、オリーヴィアは言葉を紡ぐ。価値は人それぞれだと。難しい顔をするナリアンに、オリーヴィアは笑う。
「人は、死ぬ。それは絶対だよ。どんなに強くても、どんなに立派でも、どんなに優しくても。どんなに、意地悪、でも。残されることはつらいさ。好きな人、大切な人ならなおさら。でもね、ナリアン。死ぬとは、旅立ちなんだ」
 だから、寂しくても見送ってやらなければならない。いつまでも泣いていたら、旅立つものがいつまでもそこにいてやらなければならない。それじゃあ、ダメなんだ。だからね、ナリアン。笑っておやり。寂しい、でもいってらっしゃいって。お前の、笑顔が何よりの旅路の道標に、勇気になるよ。
 その日は、なんとなく人恋しくなって、ナリアンはオリーヴィアと枕を並べて眠った。ぎゅっと、オリーヴィアにしがみついて、いずれ来るであろうその寂しさが永遠に来なければいいのにと、オリーヴィアとずっといっしょにいられればいいのにと。
 その日を境に、ナリアンは1つ、願った。どうかどうか、オリーヴィアがずっと元気で生きて、生きていてくれますように。僕を、残していきませんように。


 遠い過去に願った。確かに自分は、そう、願った、夢物語。出来るはずがないと、思っていたのに。オリーヴィアは確かに生きている。今も、注意を払わなければ、わからないほどの呼吸。ナリアンが望んでいなければ、願っていなければ、オリーヴィアは苦しまずに眠ることが出来ただろうか。己の我侭で、いたずらに彼女に負担を強いていたのではないだろうか。オリーヴィアの頬に触れていた手。触れる前は、温かかった自分の手。いつの間にこんなに冷えたのだろう。オリーヴィアの体温を奪っているような気がして、ナリアンはそっとオリーヴィアの頬から手を避けた。代わりに冷えた左手と右手を組む。組んだ手を己の唇に引き寄せ、目をつむる。祈りの姿。まともに祈ったこともないくせに、信仰心のかけらもないくせに、すがれるのならすがりたかった。
「おれは、俺は、どうなってもいいから。だから、どうか、どうか、ばっちゃんを、」
 助けて欲しい、とは紡げなかった。風が、頬を撫でていく。髪の毛を優しく梳いていく。どうしてやることも、私には出来ないと、そう言い聞かされたような気がした。瞳を開く。視界が歪んで見える。布団に隠されたオリーヴィアの枯れ木のような左手をナリアンは祈りかけた手で救い上げ、包み込んだ。驚くほど、悲しくなるほど、その手は軽かった。
 人はいつか死ぬ。大切にしていても、いつかは壊れてしまう。小さなナリアンが、両親の代わりに愛してくれたたった1人に願ったのは、ずっとずっと傍にいて。ずっと一緒にいて欲しい。それでも、人はいつか旅立つのだとオリーヴィアが教えてくれた。一緒にいてあげることは出来ない。ナリアンは、この手を離さなければならない。オリーヴィアを解放してあげなければならない。どうしようもないほどの病。手を離せば、オリーヴィアは苦しみから解き放たれる。それは一瞬だ。一瞬、つらい、だけだ。ナリアンは首を振った。一瞬でも、それは嫌だった。オリーヴィアはもう生きられない。この手を離して、このてをはなして、オリーヴィアの旅立ちを見送るのだ。願うのをやめなければ、ならない。それでも、それ、でも。
「もし」
 ぽつりと、願いの始まりが宙に溶ける。
「……もし、俺に力があるのなら。もしも、俺の願いを叶えられるのなら。どうか、どうか、聞いてくれ。俺の大切な人、ばっ……オリーヴィアに巣食う数多の病を、俺に、おれに移して欲しい」
 どこかにではなく、消してでもなく、己に。願いは響き渡る。
「そして、オリーヴィアに安らぎを。頼む」
 願いは届いた。ナリアンを中心に風が踊り始める。円を書くようにふわりふわりと舞い上がり始める。敷き詰められた床板の隙間から埃がさらわれる。それらは外へと行こうとする。締め切られた窓がギシギシと軋む。閉じられているのを嫌がるように外へ外へと力任せに押していく。上へ、天井を伝い、横へ。建物自体が、オリーヴィアの部屋を中心に軋み始める。アメジストの瞳に映るのは、ベッドに横たわる老婆だけ。棚に飾られていた花も、本も。机の上にあったノートも羽ペンも。壁にかけられた、帽子もショールも。床に落ちては舞い上がっていく。椅子が耐え切れずに倒れても、机が床を滑っても、ナリアンの瞳が見据えるのは、オリーヴィアだけ。その瞳に、慈しみも優しも、温かさもない。ナリアンは、己の体から何かが出ていくのを感じていた。重く、ドロリとした、泥のような。指先を中心に噴き出している。体が熱い。外面が熱くなったかと思うと、腹の底が熱くなる。皮膚と、内蔵が熱くなり、血液の循環によって、どこもかしこも熱く、煮えたぎる。頭が、沸騰しそうだ。ドロリとした感覚でさえも熱く、燃える。体が千切れそうな、引っ張られるような感覚も襲い始めた。恐怖はなかった。オリーヴィアの苦しみはこれでなくなる。安らかに旅立てると、ナリアンは知ったから。
「さあ、おいで、こちらに」
 握っていたオリーヴィアの手を離し、両の手を虚空に掲げる。光を戴くように、何かを捧げ持つかのように。ナリアンの言葉を合図に、風がオリーヴィアに襲いかかる。傷つけるのではなく、包み込み、オリーヴィアの体を隈無く駆け巡っていく。オリーヴィアの体を駆け抜けた風はナリアンへ戻る。苦しみを1つ、携えて。いくつもいくつも、風はナリアンへ戻る。ナリアンに抱かれることが至高だと言わんばかりに、勢い良くその身に喜びを乗せて戻っていく。ナリアンは口元を弛め、オリーヴィアを見つめていた。オリーヴィアの目元、眉間、唇、喉元。見えるところに色が差し、刻まれていた皺が緩くなる。オリーヴィアが明るくなる度、ナリアンは暗くなる。世界の法則。両者は均一でなければならない。いつの間にか、窓は暴れることをやめ、外に向かって開いていた。どれだけの時間が経ったのか、風がナリアンの頬を優しく一撫でし、消え去った。残されたのは、血色の良くなったオリーヴィア。それから、血の気の失せたナリアン。痛むであろう体をものともせず、掲げていた両腕をゆっくりと下ろし、オリーヴィアの頬を一撫でして、自分の体を抱え込んだ。先程までの熱はどこかにさり、冷たくなっていく己の体に不思議と笑みが零れた。
「オリーヴィア、あなたの行く先に光りあれ」
 これで、いいのだ。自分は大丈夫、だから。あなたは、これから長い旅をするのだから、苦しみは全て捨てて、おいきなさい。痛いであろう。身を切られるような苦しみ、息をするのも。死んでしまえば、楽になるだろうか。そんな思いを携えて、ナリアンはひとつ微笑んだ。あなたに苦しみがないのなら、それが私の幸福。穏やかな顔をしたまま、ナリアンは床に倒れた。苦悶の表情ではなく、満たされた顔。オリーヴィアは無事に旅立った。寂しくはない、俺は、俺には"これ"があるから。いつでも、あなたと一緒にいられるから。人の心に、花が咲くというのなら、今、一輪は散り、もう一輪は咲くことをやめてしまった。


 ひとつ、光がはじけた。ナリアンと、オリーヴィアしかいないはずの部屋で、薄いピンク色の光がはじけた。同時に、風が吹く。オリーヴィアの身を包み、その身が朽ちるのを押しとどめる。
 2人しかいないはずのこの部屋で、少女の泣き声が聞こえた。それは、開かれた窓を飛び出し、紺色の空に散りばめられた星々に、オリーヴィアとナリアンの家の周りに咲きほこった幾多の花々を蹴散らして飛び上がっていった。

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