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 きっと花は咲く 02

 手が温かいと思ったのはいつ以来だろう。


 始まりはいつも突然で、嵐のように過ぎ去っていく。終わってみれば、疲労と充足感に満ちているのが常であるけれども、時には苦しみを伴い悲しみしか残らないこともあった。今回の始まりもやはり唐突であった。どうしようなどと、考える暇もなく、物事は駆け足で去っていく。その間だけは、悲しみも苦しみも忘れていられる、そんな気がした。


 一筋の星が流れた。真夜中の、そろそろ仕事の手を休め、疲れた体を癒すために寝台へ身を投じようとした時だった。ここは星降る国の王宮、この国を統べる国王の寝所。整えられた柔らかな布団に手をかけ、寝ようとした矢先。心がざわりと波打つ。嫌な感触ではない。ああまた、愛おしい子が増える。ふわりと微笑み、手にかけていた布団を惜しげも無く手放し、窓辺に寄る。夜の空気は澄み渡っていて、城内に掲げられた篝火も王の寝室からは少し離れている。空の明かりと地上の明かりの、ちょうど狭間にいるような気がしていた。先程、寝床に向かう前にチラリと見遣っていた景色を見つめ、口を開いた。言霊は夜の空気を割り、妖精の住む森へと駆けていく。
「ニーア。起きたら、おいで」
 急がないから。愛おしげにその言葉を噛み締める。先ほど、胸にコロリと転がってきたのは一人の魔術師の誕生を告げる文。十年以上前からその存在は知っていた。今の今まで、呼ばれることのなかったその子。もう、子どもと呼ぶと怒られる歳だろうか。時折、夢見るその子。ちらりちらりと、思い出したかのように見える姿は少しずつ大きくなっていた。その子が、ようやく祝福を受けられる。こちらにおいでと、迎えることができる。
「俺は、俺は嬉しいのだけど、お前はどうだろうね」
 夢のなかで見守ってきたその子。親が成長を見守り、嬉しさに心を踊らせているような感覚を味わっていた。楽しみなはずなのに、どこか苦しく感じた。その理由はわからない。けれど、今しがたまで呼ばれなかったその子。今でなければならないと、星のめぐり合わせがそう言うのなら。
「君は、望まれている……待ってあげられなくてごめん」
 星の瞬きが徐々に弱くなっていく。代わりに街の向こう、地平線が白んでいく。少し眠らないと、皆に心配をかける。まだこの喜びに浸っていたいのだけど。届くかどうかわからないのだけど、君に話しかけていたいのだけど。明けていく夜に追われるように、寝台に潜り込んだ。太陽と月。数年のうち短い間しか互いと触れ合うことの出来ない彼らの追いかけっこに身を委ねるために。


「ニーア。君に連れてきてもらいたい子がいるんだ」
 執務室の窓から大慌てで飛び込んできたピンク色の妖精に、星降の国王陛下は気を悪くするでもなく、微笑み、用件を告げる。妖精は嬉しそうに顔を綻ばせたかと思うと、しょんぼりと肩を落とす。
 ニーアと呼ばれた妖精には心に決めた人がいた。その人をずっと待っていたのだけど、ついぞ現れなかったその人。旅をしているのだと、この街にはまた巡ってくると思う、と言っていた。いつかなぁ、とニーアは指折り数えて待っていた。季節が一巡りし、暦をいくつ重ねても、アメジストを携えた少年は、ニーアと呼んだ妖精に会いに来てくれはしなかった。
 一目その少年を見て、胸の内にたくさんの花が咲いたと、ニーアは感じた。木々の影からそっと人間たちを見ていた自分の瞳に飛び込んできたのは、一人であちらこちらを駆けまわるその子。足を止めるのは、鳥たちのさえずりを聞くとき。道端に咲いた花を撫でるとき。馬車が石畳を進むときに跳ね上げる小石の舞を見つめるとき。大人たちの聞きなれない言葉に眉をしかめる、とき。彼の歩みに併せて、周りの空気も彼を追いかけていく。子供が急停止すれば、行き過ぎたと戻り、急に止まらないで、と子供の髪の毛を引っ掛き回していく。その度に目をつむり、楽しそうに笑うその子に、花が揺れた。ニーアの視線に気づいたその子が、嬉しそうに、興味深げに近づいてきたときは、花が一斉に動きを止め、忙しく揺れ始めた。壊れそうな胸に手を当て、逃げようかとさえも思った。それでもそこにいたのは、きっと。
 唇を噛んだ妖精に、星降の国王陛下はわかっていると言いたげに頷いた。それでも君に。君が連れてくるんだ。執務机の端に、ワンピースの裾を握りしめて、眉をハの字に眉間に皺を寄せて、ロードナイトの瞳を潤す。下を向いて、唇を噛んで零れないように塞き止めている妖精に、国王は告げる。
「ニーア。君に魔術師のたまごを迎えに行って欲しい。大切な一人だ」
 ぎゅうっと目をつむって、涙を払った妖精。縋る思いも振り払って。前を向いて、くるりと回ってワンピースの裾を持ち、膝を軽く曲げペコリと頭を下げる。
「謹んで、お受け致します」
 ゆるりと微笑んで、星降の国王陛下は、薄いピンク色のカードを差し出した。花の透かし模様が入った妖精の身丈ほどのカード。妖精はそれに触れ、その手触りに鳥肌がたった。羽根の先まで震わせた。滑らかで、紙なのに水を弾き、触れた指先の水分でさえも吸収しない。あまりにも、あんまりにも、狂おしいほどの愛を感じた。丁寧に編み上げられた魔力を感じ、息をするのが苦しくなった。持てる力を最大限に使って、ニーアは大事に、大事にカードをしまった。
 このカードを受け取るのはどんな子だろう。どんな瞳をしているだろう。どんな花を、携えているのだろう。私の初めては、あの子がよかったけれど。アメジストの、胸にたくさんの花を咲かせた、優しい子。胸に手を当て、天を仰ぎ見る。昨日のように思い出せるあの日のことを胸にしまって、未来を見つめる。こちらを見つめている星降の国王陛下に、はにかみ、胸の前で手を組み、もじもじと言いづらそうに告げる。
『あの、お願いが、あって、その』
「なんだい?」
 出来ること、可能なことなら叶えてあげるよ、と笑む。そんな星降の国王陛下の視線を受け、ニーアは意を決して前を向く。
『先輩に、案内妖精のこといろいろ聞いてて、その。本当は、真っ直ぐ向かわなきゃいけないってことも、その知ってるんですけど! あの、わたし、その、案内妖精、初めてで! 星降の国だけでもいいから、周ってもいいですか……?』
 キラキラした目で、少しだけ潤ませて。机においた国王の手に、小さな両手を置き、見上げながら嘆願されてしまえば。
「……いいよー!! いいに決まってるじゃないかああああ! 誰が! 許さなくても! 俺が! この俺が! 許す!」
 許可するよ、と微笑んで、あーかわいいかわいいひたすらかわいいと、ニーアの頬を指でつつき、デレデレとした顔をする。これが一国を担う王か、と星降の魔術師たちに見られればそう言われるかもしれない。ニーアにはそんなこと関係なく、きゃあきゃあと嬉しそうに王の指をつかみ上下に揺らす。
「ああ、ニーア。大事なことを君に」


 君が迎えに行くのは、花舞の国のナリアン。この国の国境に近い街に住んでいるよ。そして、多分、彼は。嫌な胸騒ぎがするんだ。待ってあげられない。ニーア、彼を頼むよ。
 角砂糖と、これから出会う魔術師のたまごのための入学許可証を持ってニーアは妖精の森を旅立つ。先輩に挨拶をして出かけようと思ったけれど、先輩は影も形もなかった。周りに聞けば、案内妖精として出かけたよ、と言っていた。お揃い、と脳裏によぎった言葉にくるりくるりと回って踊って、嬉しくなった。教えてくれてもいいのに、なんてニーアの心に過ぎりはしなかった。空へ高く高く登っていく。丁寧にしまった入学許可証。胸に小さな両手を当て、喜びが溢れる。
『待っていて。あなたのところに、行くから!』
 その前に、ちょっとだけ寄り道させてね。少しの罪悪感を胸に宿して、しまったはずの、少しだけはみ出た思いをたぐり寄せる。アメジストの、ニーア、と呼んでくれたあの子の声。その子の声を頼りに、少しだけ、この星降の国を周る。これで見つからなければ、大人しく迎えに、会いにきてくれるのを待とう。入れ違いにならないといいな。王宮と、それに追随する城下町を眺め、ニーアは気合を入れ直す。
『ナリアン、くん』
 呟いた名前は宙に溶ける。空を走っていくそれにさらわれたのを感じた。どこか甘い響きに思いを馳せながら、ニーアは羽根をはばたかせ、空を滑っていく。次の街へ、小さな光は出発した。


 星降の国に存在するすべての街を周った。心躍るような風景、人の数。魔術師たちの詰所に行き、角砂糖を分けてもらった。案内妖精じゃない! と歓迎してもらい、後輩ができる喜びを切々と語られ、ニーアの肩を叩き頑張ってね、と角砂糖を包んでくれた。ニーアの姿を見て、久しぶりに自分を案内してくれた妖精に会いに行こうと、何人もの魔術師たちが声をあげていた。そんな風に喜ぶ彼らを見ていたニーアは、これから自分が案内するたまごのことがとても気になった。歳も背格好も、教えてもらっていない。名前と住んでいる場所だけ。男の子だとは思う。意地悪されたりしないかな。笑ってくれるかな。仲良く、なれるかな。不安と期待と少しの無念と。
 最後の街で、これも巡りあわせだとニーアは星を眺めた。満点の星空。花舞の国との境目はもうすぐ。この星々をもう一度、見上げるのは約二ヶ月後。幾度も見上げた星空。星降の国の中心よりも星の数は減ってしまうけど。
『あなたに、祝福を。それから。ナリアンくんに、幸いあれ』
 心に思い浮かべたアメジストの君へ祝福を。これから出会うたまごへ、幸福を祈る。花舞の国。千紫万紅の花咲く祝福の地。ニーアがこれから迎えに行くのは、この祝福の地に住まうたまご。早ければ、明日。遅くても明後日。ワンピースの裾を握りしめて、不安に耐える。初めての、ひと。寄り道して出会った魔術師の面々は、大丈夫よ、ってみんな笑ってくれた。信じないわけではないけれど、鵜呑みにもできなくて。空を今一度見上げて、ニーアは魔術師たちが嬉々として作り上げてくれた小さなベッドに潜り込んだ。優しい星の光に照らされて、ピンク色の妖精は瞳を閉じた。


 青い青空の元。花舞の国境付近の街。そこで見かけた背の高い、褐色の肌でふわふわの髪の、アメジストの瞳をした青年。記憶の中のあの子とは、だいぶ変わってしまったけれど、一目見てわかった。だって、目の前の青年の心にはたくさんの花が咲いているもの! 昔よりは、だいぶ減ってしまっているようだけど、それで咲いた花は一輪一輪が美しい。まさか、まさか会えるなんて。嬉しくて、嬉しくて。顔を両手で覆って、頬を押さえて、くるりくるりと回って。ナリアンくんのところに行かないといけないけれど、せめて彼の名前が知りたくて、そのままついて行った。もう一度、こちらを見てくれないかなって思った。もしかしたら、あの時の子って言ってくれないかなって。目の前に飛び出てみようか。そう思って、はたと立ち止まった。もし、もし、彼は私の姿が見えないのだとしたら? 待っていても、見つけてくれるなんてこと、ありえない。そう思うと、立ちどころに気がしぼむ。飛び出す勇気はなくて、でも名前が知りたくて。望むのは自由だ。ふらりふらりと、彼にまとわりつく花の香りに誘われるように、ひらりひらりとついていく。肩掛けの鞄、少し重そうだなぁなんて。人通りの少ない方を選んで進んで行くのを追いかける。顔をよく見たいと思いながら。
 花がまばらに咲いた庭のレンガ造りの二階建ての家。大事に大切に扱われてきたのだろう、少し古く感じたものの外装は手入れがされ綺麗な臙脂の壁。ただいまと、開かれた玄関の扉に慌てて飛び込んだ。無意識の内に不法侵入を犯してしまったニーアは、その事実に気づき玄関の扉に額を打ち据える。しばしの反省の後、やってしまったものは仕方ないと怖怖と開き直り、青年が歩んで行った方へ飛んでいく。少しの緊張をまとい、見とがめられなければいいなって。
「おかえり、ナリアン」
「ただいま、ばっちゃん」
 老婆と青年の間で交わされた帰宅の挨拶。その中で、青年の名前を知る。思い焦がれて、待ちわびたひとの名前。ナリアン、くんと言うのだ。妖精の胸がピンクに色づいた。ナリアン、なりあん。素敵な、名前。ほう、っと溜息をついて、彼の名前が知れた喜びに心が安らぐ。ゆっくり大きく、花が揺れる。ああやっと、名前を知れた。あの時、会う約束はしたのに、彼の名前を聞くのを忘れていた。ニーア、と彼は名付けてくれたのにも関わらず、ニーアは想い人の名前を聞いていなかった。妖精の森に帰り、先輩に想い人の名前を聞かれるまでちっとも意識しなかったのだ。また会えるから、そうどこかで思っていて、だから大丈夫だと気持ちが告げていたから。聞いておけばよかったと、幾度か思った。姿を思い浮かべるだけで、寂しさを紛らわしていた。せめて、名前を知っていれば届かない思いを文にしたためられたかもしれない。何度も何度も、名前を聞けばよかったって思った。
『ああ、ナリアン、と言うのね。ナリアン。ナリアン!』
 愛おしくて、何度も何度も口をついて出てくるアメジストの君の名。ようやく呼べた喜び。ようやく呼べる喜び。この心の震えは私だけのものだ。顔を両手で覆う。熱を上げていく両頬が恥ずかしいから。その合間も、ナリアン、と万感の思いを込めて口からこぼれ落ちていく。不法侵入をしていることも忘れて、ニーアはくるりくるり、あっちへこっちへ、ジャムの瓶にもたれ、ティーカップの縁に腰掛け、テーブルの上にぼんやりと座り、陶酔していた。魔術師のたまごの"ナリアン"の元へ行くことさえも今の彼女はそっちのけであった。青年の行く方へついて回り、私、今、幸せなんです、と言わんばかりに笑顔を振りまいていた。彼女の周りから花が飛んでいるようにも見える。
 アメジストの君の名前を心ゆくまで、いいや、心が魔術師のたまごに入学許可証を届けに行くことを思い出すまで堪能したニーア。高かった陽は、すっかり星の瞬く夜になっていた。アメジストの君が布団に入り、灯されていた蝋燭の火が消えたのを合図にニーアは、悲鳴を上げた。
『ナリアンくんの名前を知って、喜んでいたら、夜です!』
 涙声である。浮かれすぎた、と消された蝋燭の側で膝を抱え落ち込む。己の使命は魔術師のたまごを学園に導くこと。それなのに。
『私ったら、私用ばっかりで仕事が出来てない!』
 ごめんなさい、とたまごへ。先輩にはばれないようにしよう、と心に誓った。カーテンの閉められた室内は、月の光を遮り、暗闇を作り出していた。ピンク色に淡く輝く己の燐光で、眠るナリアンの頬を照らす。伏せられた睫毛、鼻梁、それから唇。額にかかった前髪で作り出された影は、彼を昼間より少しだけ幼く見せた。愛おしくて、離れがたくて、ずっと側にいたくて。胸が締め付けられる。惜別の思いを抱きながらも、断ち切るように首を振る。窓の鍵を外し、そっと押し開く。妖精が通れる幅だけ開けて、ベッドに眠る愛おしい人を見る。行かなきゃ、と頭は思うのに、体が動かない。ぎゅっと、ワンピースの裾を握りしめて、ナリアンへ近寄る。そろりそろり、起こさないように。少し開いた窓から風が忍び込んでくる。閉めておけば良かった。ナリアンの髪を、頬を撫でていく風に、ひやりとする。起きてしまいそうだと、心臓がうるさく音を立てる。どこか試されているような、自慢されているような気がしてならない。唇を噛んで、ナリアンの唇までひとっ飛び。触れるか触れないか。唇の端にそっと口付けて、風に追い立てられるように窓の外へ飛び出した。
『ふふっ』
 ナリアンの家と隣家が一望できるまで高く飛ぶ。漏れ出るのは、嬉しさ。ステップを踏むように、登っていく。唇に両手を当てて、頬を染めて。風に揉まれながら上昇する。
『ナリアンくん! 待ってるわ、約束、待ってるから!』
 触れてしまった。触れてしまった! 堪え切れないほどの喜び。心の臓が飛び出てしまいそうなほどの高鳴り! どこにだって行けそう。なんだって出来そう! 魔術師のたまごがいるという街をぐるりぐるりと回って、それでも足りなくて。みんな寝静まっているから、探せないのに。それでも、体は止まらなくて。スイスイと、空を飛ぶ。羽根を震わせ、ダンスを踊るようにふわりふわり。ターンも、ステップも組み込んで。跳ねて駆けて、止まって軽やかに。風が追いかけてこなくなって、ようやく木の枝に腰を下ろして息を整える。大きく息を吐いて、飛び出てくるのは笑い声。嬉しくて、たまらなくて。どこか、苦しくて。笑いながら、涙が転がり出た。ぽろりぽろり、後から後から、大粒の涙。ワンピースにシミをつくり、頬を伝う。拭っても拭っても払いきれない。楽しくて、嬉しいはずなのに。ちっとも悲しくないのに。
『ナリちゃん、なりあん、くん』
 会いたい。お話がしたい。見つめ合って、笑いかけられたい。隣に、いたい。出会わなければ、案内妖精にならなければ。
『ナリ、ちゃん』
 こんなに胸が苦しくなるなんてこと、なかったのに。
 空が白み始める。染め上げられた藍の色を変えていく。新しい一日が始まる。今日こそは、今日こそは。


 魔術師のたまごを探して、ニーアは花舞の国境に近い街を飛んでいた。行き交う人々は、みな明るく、街も交通の要所として賑わっていた。街中の至ることに咲いている花。季節に応じて咲き誇る花々に、人の心も明るいように思えた。星降の国とはまた違った明るさを見ているような気がした。ふわり、ふわりと飛ぶニーアはキョロキョロと道行く人々を眺める。探すためのヒントは、住んでいるところと名前。ニーアには、経験がない。どうやって魔術師のたまごを見つけるのか、疑問に思ったこともない。きっと目と目が合って恋に落ちるようなそんな感じなんだわ! と思っていた。だから、どこに住んでいるのかが重要であって、目と目が合ってそれでいて恋に落ちるような感覚がしたらそれが運命なのだ。名前や容姿の必要など必要ないと思っていた。何も考えず人々を視界に収めながら淡い光を纏いながら飛ぶ。たまごにも、妖精は見えるから。母親の背中におぶられた赤子が手を伸ばしてくるのを妖精は交わし、そっと微笑む。
『大きく、なったらね』
 大きくなるに連れて、あなたは記憶の片隅に仕舞いこんで忘れてしまうだろうけど。期待と寂しさを込めて。泣き出す赤子に少し心を痛めながら、ニーアはたまごを探す。そしてまた、ナリアンを見つける。とくり、と音が大きくなり速度が速くなる。彼を取り巻く風たちがにわかに強さを増す。首を振って、見ているだけの意を示せば、またゆるやかに風は吹き始める。
 三日間、ニーアは街を飛び回った。一件いっけん、家を周り街中の人の顔を、瞳を見たのに恋には落ちなかった。アメジストの君を除いて。見つからない、どうしよう。木の枝に腰掛け、星を数え、溜息を吐いた。
「妖精か?」
 見下ろせば、焦げ茶色の髪をまとめあげた女性。目元には、眼鏡。黒の少しだけ意志の強そうな瞳をのぞかせている。
『こんばんは』
「こんばんは。一人か?」
 契約しているようには見えないが、と続けられる言葉にコクリと頷いた。顎に添えていた手を、木の枝に下ろし、見上げてくる女性を見返した。
『案内妖精なの』
「案内……? ああ、もうそんな時期か」
 なるほど、と頷いた女性は、少し考えこみ妖精に手を伸ばした。
「降りてこい、首が疲れる」
 断る理由もないので、ニーアは伸ばされた手にそっと降り立った。引き寄せられ、胸の位置に連れて来られる。すまないな、と言う女性に首を振った。
「迷子か?」
『……違うと思います』
 問いかけられた言葉に、不安が膨らむ。肩を小さく落とした妖精に気づいたのか、手伝うか? と女性は問う。黒の、オブシディアンのような瞳を見つめ、手伝ってもらってもいいのかな、と過ぎった。
「お前と、私が黙っておけばわからん」
 ダメなんじゃないですか! と、目を見開き震える妖精に返ってくるのは、決断を迫る言葉。いつの間にかニーアは両手を組み合わせ祈りの形になっていた。
『……ひみつ、にしてくれますか』
 もちろん、と頷く魔術師に小さく、お願いしたいです、とニーアは返した。鷹揚に頷く魔術師に、情報を与えようと口を開きかけたのだが。
「この街の南の外れに、臙脂色の壁で二階建ての家がある。そこに住んでいるのは、お年を召された女性と銀髪の青年だ。ああ、この街にその条件に合致するのはその子しかいないからな」
 お前の探している子はその子だと思う、と魔術師は微笑みひとつ見せずに言い切った。瞳をこぼれんばかりに見開いた妖精は、ぽかんと口を開けたまま、わかったか? の言葉に頷いた。
「じゃあ、明日、日が高いうちにお行き。そうだ、角砂糖、足りてるか?」
 新しく角砂糖をもらい、じゃあな、と踵を返す魔術師を見送ったニーアは木のうろに潜り込む。もらった角砂糖を食べる。齧りつけばじわりと広がる甘み。しゃくしゃくと噛み締め、ザラリとした舌触りが溶けていく。じんわりと腹の底に溜まっていくのを感じながら、三個の角砂糖を平らげる。空腹が少し満たされたのに唇を緩める。日が昇ったら、南の外れの臙脂色の家に向かうのだ。臙脂の色をした壁の、花がまばらに咲いたナリアンくんの家が頭を過ぎった。
 体を丸め、羽根を休める。目を閉じれば、轟々と流れる音が聞こえる。耳朶を打つのは生命の音色。木の生きる音。生を感じる子守唄を聞きながら、ニーアは長い旅路の、たまごのこれからの旅路を思うのだった。

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