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 きっと花は咲く 〜虹の橋〜

 待っていた。ずっと、ずっと待っていた。


 時の流れはわからぬ。わかるのは、後から後から生き物が来ること。それらは私よりも先に旅立ってしまうこと。誰かとはにかみながら、幸せそうに旅立っていく。私はまだ、旅立てぬ。寄り添いながら歩む片割れがいない。何人も、何匹も見送った。その度に空いたままの隣に風が吹きすさぶ。優しい風なのに、いつも冷たく感じていた。


 風に誘われるように、空へ還る。愛しい子を一人、地上に残したまま私は空へ旅立つ。体の枷は、真綿にくるまれたような感覚によって取り払われた。痛みがなくなる度に、ああ、死ぬのだと感じた。痛みが生きているという証だと、感じていた。
 満足に動かせない体だった。アメジストも見えなくなり、触れることや、声でしかナリアンを認識できなくなっていた。泣いていることはわかっても、その涙を払って、抱きしめてあげることさえも叶わなかった。大丈夫だと伝えたかった。最後にナリアンの瞳を見たのはいつだったろうか。いい男になるまで、側にいると約束した。ナリアン、あんたは十分、いい男だよ。だから、だから。
「前を、向きな。あんたはいい男だよ」
 残していくことを心苦しく思う。お前が寄り添って生きていけるような人に出会うのを待っていた。安堵して、一人、旅路に出たかった。間に合わなかった。もう頬を拭ってやることも、背中を撫でてやることも、おかえりもおやすみも言えないけれど。どうか私を引き摺らないで。最後の痛みから解放された時、ナリアンを守るように立つ、ピンクの女の子が見えた気がした。知らない子。ワンピースの裾を握りしめて、瞳に涙を溜めて、唇を噛み締めて、それでも頷くから。その子は泣き顔だったのになぜだか、ナリアンはもう大丈夫だと思った。


 気づけば、オリーヴィアは知らない大地に立っていた。緑の多い、暖かくてとても過ごしやすい場所。見たこともない動物たちに、それから人。みな若く、病気や怪我をしている人もいない。誰もが輝いていた。己の手を見て、オリーヴィアは溜息をついた。皺の目立つ、荒れた手。美しい女性たち、若々しくみずみずしい人たちの前で自分だけが浮いているように思えた。場違いな己が恥ずかしくなり、この明るい世界でひっそりと闇を作り出す樹の根元に腰を下ろした。人や犬、馬や羊。見慣れた動物たちから、柔らかそうな毛皮の生き物、大きな鳥、小さく跳ねまわる、あれは兎だったろうか。見世物小屋で、遠目にちらりと見たような動物と、さまざまな服を来た人たち。男女共に誰かと話したりぼんやりと座っていたり。そして、誰かを何かを見つけると、パッと顔を輝かせ走り寄っていく。誰かと楽しくおしゃべりをしていても、毛づくろいをしていても、あっさりと離れていく。何回かその光景を見るとみな同じように七色の橋を目指していく。近寄ってみようか、とオリーヴィアは思った。でも見つめている内に、自分の行く所ではないと悟った。あまりにも眩い。私の行く所ではない。きっと、美しいものたちの行くところなのだ。人にかぎらず、生き物たちはみな美しかった。鮮やかな色彩、豊かな髪、透き通るような肌。自分にそれらはない。老いた醜い己の行く場所ではない。事実に胸が陰った。
 何組も見送った。どれくらいここに座っているのかもわからない。不思議と、喉の渇きも空腹も感じなかった。生き物たちの笑顔を眺めるだけ。時間はどれくらい流れただろう。時間という概念もないのかもしれない。一人でいる自分が苦しくて、泣きそうになってしまうのだけれど風が優しく撫でていくと慰められている気がして、その度に零れそうになる涙が引っ込む。
「ナリアン」
「それは、誰だい?」
 花が咲きほこり、たくさんの動物達。見せてやりたいと思った子の名前を呟いた。人の気配なんてしなかったのに、唐突に声をかけられ体が跳ねた。声をかけられた方、左手を見やれば、眉目秀麗な男性が立っていた。背の高さはナリアンと同じくらいだろうか。金色の、太陽のような髪。腰の辺りまで伸ばされて、さらりとしていた。毛先まで手入れのされた、王族のような男。肌もつややかで、見目のいい。驚いた後に、不躾にもじろじろと見やってしまったオリーヴィアに苦笑を見せた青年。赤い花が咲く。
「隣に、座っても?」
 声の出ないオリーヴィアは、小さく頷いた。断る理由もない。礼を言い、男はそっと腰を下ろした。羽が地につくように自然に音もなく。ふわりと香った花の香りが、男が行動を起こしたことを示していた。その動作に、少し心の臓が跳ねた。オリーヴィアだって女なのだ。見目麗しい青年が隣にくれば、頬を染めることだってある。視線を男から外し、今まで見ていた景色を見やる。頭のなかで、女性、男性、犬に猫にと唱えていなければ、視界に映るものが認識できない。先程までは真剣に見ずともわかったはずなのに。男の方に持っていかれそうになる意識をどうにかして剥がそうとした。先ほどだって、じろじろ見ていたが、見惚れていただけなのだ。同じ楽団にいたナリアンの父、ハルだって美しかった。少し垂れた眦に微笑みを向けられ、甘い声で恋唄など歌われ、一夜の恋を抱く女性を何人も知っていた。自分だって、そうだった。優しさにあふれたハルとは違い、今、隣にいる男は、冷たい、近寄りがたい、遠くから見つめていたい、王子様のような。時折、大きくなる心音に戸惑いを隠せない。己の世界に没頭しすぎていた。隣の男に手を触れられるまで、呼ばれていたことにすら気づけなかった。膝の上に置いていた左手に男の手がかぶさった。心臓が大きく跳ね、男の手を振り払った。見開いた目に映るのは、男の驚いた顔。その顔に鎮座しているのは。
「……らぴす、らずり」
 男の瞳の色。空よりも濃い、あお。オリーヴィアの知っている世界で、彼の瞳の色は一度だけ見たことのある宝石だった。その色を表す言葉はそれしか知らない。寒色なのに、暖かみのある色。
「そんなに見つめられると、照れる、な?」
 唇に少しだけ笑みを乗せた男。見開いたままのオリーヴィアの瞳を射抜き視線を絡める。振り払われた手を引っ込める。
「オリーヴィア」
 形の良い唇が紡ぐのは己の名前。ゆっくりと、低い声で呼ばれる。自分の名前はこんなに甘く響く名前だったろうか。血液を送り出す音が、耳の奥で鳴る。息をするのも苦しくなって、両手を胸にあて男に背を向けた。バクリ、バクリと脈打つ。
「オリーヴィア?」
 気遣うように声をかけられ、頭を振ってなんでもないと告げる。頬が熱い。
「オリーヴィア」
 こっちを向いて、と声をかけられても、無理だと体で拒否した。
「オリー、ヴィア」
 一音一音区切り、甘さを滲ませて呼びかけられる。体を丸める。
「オリーヴィア……」
 困ったように。苦しさに己の体を抱きしめる。
「……オリーヴィア」
 低く低く、耳だけではなく体に響き渡るように。胸が、痛い。
「オリーヴィア」
 風が側を通り過ぎていく。何度も何度も通りすぎて、花の香りをオリーヴィアのもとに届ける。小さな呟きを残して、青年が呼ぶ声は止まった。頑ななオリーヴィアに愛想を尽かしてしまったのだろう。当たり前だ。心を開こうとしない女に時間をかけずとも彼の見目であれば女性が放って置かない。ここにはうんと美しい女性たちがたくさんいるのだから。痛いほどに脈打っていた鼓動も落ち着きを取り戻し、震えていた両の手も止まることを思い出し、冷えた指先に血が通い始めた。香る花に強張りが溶けていく。優しい風、あの子のような。青年が来る前のように座り直した。見える景色は、ちっとも変わらないのに、どこか寂しく感じた。片割れを見つけ、駆け出していく生き物たちを見るのが、ひどくつらい。輝いて、美しく、しなやかで、みずみずしい。幸せそうに笑って、微笑んで。一人というありのままの現実に打ちのめされる。過去も今も、きっと未来も。零れそうになかった涙が一筋頬をつたった。払うこともせず、流れ続ける涙を風が撫ぜていく。払うように時に強く、包むようにゆるやかに。慰めるように、髪を揺らして。思い出したように、花の香が鼻孔をくすぐる。甘い香り、スッとする香り、もったりとした香り、きつい香り、安心する香り。
「花じゃない」
 何度目かの香りをかぎ、幾度か通った香りが花でないことにオリーヴィアは気づいた。花の香が、オリーヴィアに触れる風が、来るのはいつも左の方から。ゆっくりと、顔を左に向ければ、樹にもたれ正面を見つめている青年。視線に気づいたのか、オリーヴィアの方を向き微笑んでみせた。瞳を細め、ラピスラズリを柔らかく魅せる。固まったオリーヴィアに苦笑を漏らし、立てた膝に乗せていた右手を、翻した。オリーヴィアの側に双葉が咲き、ぐんぐんと伸び始める。ひとつではなく、いくつもいくつも。オリーヴィアを中心とし、扇状型に広がっていく。小さな花が咲き、ふわりと揺れる。綿の色、デーツの色、黄身の色、蝋燭の火の色、ナリアンの瞳の色。愛して、愛でて、触れて愛しい人。生まれたばかりの花たちを風が揺らしていく。ひらりひらり、右手を振り青年の瞳が輝いていく。ちらりちらりとオリーヴィアの様子を窺いながら、花たちを揺らす。
「風よ、大地よ、光よ。私の思いに応えてくれて、ありがとう」
 唇が紡ぐのは、謝礼。ざわりと波打ちかけた心に、落ち着きを取り戻させるような温かい音。翻していた右手を握った。揺れていた花たちの動きが止まる。ゆっくりと青年の右手が開かれれば、花たちはまた揺れだす。風に揺らされるのではなく、己の思うように。
「残された魔力の全て。私にはもう一陣の風すら吹かすこと、花を成長させることも、土を肥やすことも、陽だまりを分けることも、潤いを与えることも出来ない」
 独白。オリーヴィアに向かって喋るというよりは、己に言い聞かせているような。
「でも。オリーヴィア、君に逢えた」
 逢えたんだ。噛み締めるように絞り出した声は、嬉しさが滲んでいる。ラピスラズリが揺らめく。見つめられている。青年が身動いだ拍子にオリーヴィアの体揺れる。青年の動きが止まり、苦笑をひとつ。両手を顔の横に、何もしないと意思表示を示す。手に触れたことをよほど悔いているのか、一定の距離を保ちオリーヴィアをただ見つめるだけ。それでも幸せそうに瞳を細める。やっと、やっと巡り会えた。あなたをずっと待っていた。
「ありがとう、オリーヴィア」
 幾度も名前を呼びたくて。その名を噛み締めたくて。何度も、なんども。星の数よりも、もっと多く、あなたを呼びたい。
「オリーヴィア」
 困惑したように両手を胸の前で組む彼女に手を差し伸べたい。悩むことは、寂しがる必要も、苦しむこともない。私が傍にいる。あなたの苦しみは私の苦しみ。あなたの喜びは、私の、幸せ。愛おしくて、大切で。息ができなくなる。
「なんで」
「うん?」
 ようやくオリーヴィアの声が聞けた。もっと聞きたくて、先を促す。言ってごらん。微笑めば、おずおずとオリーヴィアは口を開く。
「どうして、私の、名前を、知っているの」
 空気に溶けそうな声を拾って、己の中で反芻する。
「どうして、か」
 どうしてだろう、あなたを一目見た時に転がり込んできた。あなたの名前だと直感した。それを不思議には思わなかった。名前などなくても、私は良かった。あなたという存在に会いたかったのだから。ずっと、ずっとあなたに会いたかったから。
「オリーヴィアは、私の名前が、わからな、い?」
 問いかけのような、断定のような。きっと彼女にもわかっているはずだと、心が告げる。あなたにはわかる、はず。この胸の高鳴りが、そう告げている。困惑したオリーヴィア。少し迷うような仕草を見せる。言ってごらん、大丈夫、だから。
「……が、ガトア?」
 胸の内に、花が咲く。色とりどりの、大きな花弁から小さな花弁まで。隅々に咲き渡る花畑。ぶわりぶわりと、風が巻き上がる。色の欠片を舞い上げて、高揚する。もう一度、誰かに名前を呼ばれる日が来ようとは! 忘れかけていた己の名前。あなたが、オリーヴィアが! 他のだれでもない、あなただから! 目頭が熱くなる。抱きしめたい。抱きしめたい! 違ったかしら、と泣きそうなあなたに、この喜びを、胸の震えをどうすれば伝えられるだろうか。あの大戦の時代に生きていた時には感じなかったこの言い知れぬ幸せを。名前を呼ばれるそのことは、恨みと、死ねと命じられた時だけだった。名前を呼ばれる、そのことは。
「違う、オリーヴィア、違うんだ」
 名前を呼ばれて、こんなに、こんなにも!
「ああ、オリーヴィア。どうか、どうか触れることを許して」
 あなたを抱きしめたい。存在することは、兵器として生きるためだけだった。人ではない、名前は記号。呼ばれることは、己を傷つけるためだけにあった。そっと伸ばされた右手に触れて、その温かさに熱い何かが零れた。まだ、私には。まだ私には。引き寄せて、折れそうな彼女を抱き込む。胸いっぱいに空気を吸い込めば、焼きたてのパンの匂いがした。匂いでしかしらないそれ。食べたことなどない。柔らかさも知らない。味など、皆目見当もつかない。でも、きっとそれは。
「オリーヴィア、オリーヴィア」
 もう一度、呼んで。あなたの声に、呼ばれたい。呼んで、呼んでほしい。あなたに、呼ばれたい。他の誰でもなく、戴いた王の声でも、守る対象の国民でも、私を知らないあなたに、呼んでもらいたい。
「ガト、ア?」
「オリーヴィア」
 呼んで、もっと、呼んでほしい。
「ガトア……」
 頷く。胸がはちきれそうだ。
「……ガト、ア」
 もっと、もっと。
「がとあ」
 背中に手が回され、握られる。たおやかな指先。
「ガトア」
「……オリーヴィア」
 どれくらいそうしていたのか、オリーヴィアの苦しいという一言がなければ、ずっとそうしていた。やっと逢えた、私の、運命の人。やっと、やっと。一目で、わかる。ずっと夢見ていた。生きているときに望んだのは死ぬことだった。死ねば、私だけを、その人だけ愛せる存在に逢えると、逢うことが出来ると、思っていた。ずっと、ずっとあなたを待っていた。姿かたちも、名前も、瞳の色すらも知らぬまま。あなたに、やっと。
「行こう」
 彼女の手を引き、立ち上がらせる。目指すのは、虹の橋。あなたとなら、渡れる。あなたとなら。
「どこに……?」
「虹の、橋」
 歩き出したガトアを引き止めるのは、オリーヴィア。振り返れば、うつむくオリーヴィア。
「オリーヴィア?」
「行けないわ! 行け、ないわ」
「どうして」
「だって、だってあそこは!」
 美しい。見たこともないほど。ナリアンが教えてくれた、桃源郷という、それはそれは美しさのあまり言葉を失うような場所につながっているのだろう。きっと。だから、こんな老いぼれた自分では行けない。行ってはならない。
「オリーヴィア?」
「ガトアだけ、行って」
 あなたなら行ける。美しい、もの。
「出来ない」
「どうして!」
「あなたと、歩むと決めたから」
 あなたでなければ。あなたで、なければ。
「私は、いけない。私は、わたしはあそこに行ってもいい人間ではない!」
「……どうして、そう思うの」
「私は、老いた醜い老婆なの! あそこに行くのは、美しい者達だけだわ。私は、私はいけない。行っては、ならないの、でしょう……」
 顔を覆って泣くオリーヴィアを引き寄せて、両頬を包み、顔をあげさせる。綺麗な、ベリル。
「あなたは醜くない」
「嘘よ! 皺ばっかりで、くすんだ金髪だもの!」
「どこが? 綺麗な、髪だよ。それに、あなたの手は」
 白魚のような手。オリーヴィアの手を掴んで、眼前に晒す。花びらのような爪に唇を寄せる。ベリルを見据える。怯えた瞳。
「この手が、見えない?」
 あなたの肌は、どこもこんな感じに、滑らかでシミひとつない綺麗な肌。
「私に魔力があれば、あなたに鏡の代わりとなる水を差し出すのに」
 それが出来ない悔しさに苛まれる。
「私の言葉は信じられない?」
 ベリルを覗きこむ。揺れる瞳。私の瞳にあなたの姿が映ればあなたは信じてくれる?
「だって、私、さっきまで」
「ここは、虹の橋の麓。ここで、人々は運命を待つ。逢いたくてもあえなかったひとに会う。若返り、抱えていた病からも解き放たれる。あなたは、可憐な少女、のよう、だよ」
 まっすぐと射抜かれるベリルに、花が赤く染まる。照れだと自覚した。改めて言うのはこんなにも恥ずかしいのだろうか。瞳を伏せ、開く。ベリルを見つめ、言の葉を紡ぐ。
「私は、あなたと共に行きたい」
 虹の橋。どこまで続くのかも、その先に何があるのかもわからぬ未知の領域。あなたとなら、どこまでも歩める気がする。
「オリーヴィア」
 どうか、私と共に歩んで。見つめ合う、ベリルとラピスラズリ。
「私は、私の運命の、人は、あなた……?」
「そうであれ、と強く祈っている。私の運命の人は、オリーヴィア、あなただ」
「ガトア」
「オリーヴィア?」
「ガトア、がとあ」
 唇に笑みを乗せて、首を傾げる。また涙をこぼしそうな彼女。安心を与えてあげたい。
「わからない、の。私、あなたのこと、好きとか、運命、とかわからないの」
「うん」
「でも、でも」
「うん」
「あなたは、私の手を、離して、くれないわ」
「……離さないよ?」
「……後悔、しない?」
「しない」
「ほん、とう?」
「本当」
 握り返される手に、笑みが深くなる。幸せだ。叫んでしまいたい。オリーヴィアの小さな体をガトアは抱き上げて、両手を上に伸ばして、くるりくるりと回って、二人で花畑に倒れこんだ。花びらが舞い上がる。青いあおい、高いたかい空に吸い込まれていった。


 美しい世界に感謝を。
 あなたに出逢えた喜びに、祝福を。
 花は枯れることなく、咲き誇る。

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