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 一滴の魔法

 一滴の雫が黄金色を作り出した。最後の幸福。ぽたり、と宝石を落とし、ナリアンは息をついた。やんわりと、視界に靄がかかる。その柔らかい世界を壊さないように、ナリアンはゆっくりとポットを置いた。手から離れた陶器の重みに力が抜ける。湯気は優しく世界を潤す。そのほわほわとした世界を、はっきりとした現実に引き戻すために、ナリアンはカップを持ち上げた。白の、くすみなく真っ白な、誰にも汚されていない、柔らかな白。乳白色は手にやんわりと馴染み、肌に吸いついているような錯覚を覚える。つるり、と手を滑らせてしまいそうなほど滑らか。簡単に、この世から消えてしまいそうなほどの脆さを含んでいる。危うげにあるそれをナリアンは愛おしげに口に運ぶ。鼻孔をくすぐる甘い香りに、唇が緩む。おいしく、淹れることがことができた。黄金色の液体を口に含む。ぶわりと広がるのは花の香り。花畑にでも紛れ込んだような、ポプリを胸いっぱいに吸い込んだような。オリーヴィアが好んで淹れていたお茶。
「愛されているような気がする」
 瞳を細め、大事なものを抱きしめたかのような、恋を、したような。甘やかな、優しくて、暖かくて、どこかほんのりとうずくような。一口飲んでナリアンは、カップを置いた。あまりにも、胸を込み上げる何かが、のどを突き破っていきそうであったから。まだ、熱を持つ、焼き菓子にすら手を伸ばせない。その味を知っているから。バターをたっぷり混ぜた、甘い生地に砕いたナッツをふんだんに淹れて、薄く伸ばして焼いた菓子。正円ではなく、適当な、歪な丸。家庭ごとに味も形も、大きさも違うであろう。見様見真似で作り始めたそれは、いつしかオリーヴィアの味に近づいていた。まったく一緒にはならないその味に、ナリアンは悔しく、そしてどこか嬉しかった。肩を並べられないことの面映ゆさ。それから、もう二度とその味を堪能できない苦しさ。置いてある焼き菓子はナリアンの味。決して、オリーヴィアの味ではない。何度作っても、似はすれど、同じにはならない味。オリーヴィアは焼く度に、好き、と言ってくれた。笑ってくれた。思い返せば、嬉しくもあり、切なくもある。
 湯気の落ち着いたカップ。鎮座したままの焼き菓子。お茶の時間を過ごしていたナリアンのもとに、無礼な客が訪れた。いや、無礼というのは些かどころか、語弊がある。軽やかなノック。誰何すれば、きちんと名乗ったのだ、彼は。“ソンケイ”すべき“センパイ”だったので、ナリアンは渋々、扉を開いた。冷め切ったお茶と、誰にも食べてもらったことのない焼き菓子がある部屋へ、ナリアンはその人を招き入れた。


 扉を開けた。それは、眠りから覚めたことに等しかった。目の前には、とろけるような優しさを湛えたイケメンの顔があった。十人いれば、九人が、格好いいだろう、と言うようなイケメンが、愛おしいもの、例えば溺愛している彼女とか、ひたすら愛情を注いでいる猫とか、を見つめ、心穏やかであるような笑みをしていた。ナリアンが寝ているはずのベッドの中で。目が覚めたその視界の先に! 同性のイケメンが、愛しているものを見つめ、幸せを噛みしめているような顔で!
 ナリアンは、ゆっくりと瞬いた。羽毛がふわりと着地するように、ゆっくりと。夢であれと祈りながら。瞳を開きなおせば、覚醒するはずだと! 残念ながら、すでに朝は訪れていて、しかもそれは夢ではなく、少々、感傷に浸っているような夢のはずだったが、それはいとも容易く、ぶち壊された。
「おはよう、ナリアン」
 寝坊助さんだぞ。バチコーン、と見えない文字を飛ばしながらのウィンクをナリアンはまともに受けた。
 夢でない。その事実に、ナリアンは眩暈を覚えた。夢であれ、願わくば、夢であれ。悪夢であろう、そうであろう、ああきっと、そうに違いない。さあ、目覚めろ、今すぐにだ。瞬きを忘れ、アメジストの瞳を見開いたまま、その宝石が乾いてしまうのではないかと誰かが心配してくれそうなほど、見開き続けたまま、ナリアンは現実を否定し続けた。
 ナリアンのベッドに潜り込んでいたのは、ナリアンの夢の中で扉を叩いたイケメンこと、世界は俺にもっと輝けとささやいている! 今日も俺の天使が麗しくて俺の心が洗われて仕方がない、と豪語する寮長であった。ナリアンの見開かれた眼前で、ひらひらと手を振った寮長は、反応を返さないナリアンを不思議そうに見つめ、二秒ほど考えた。そして、にっこりと、天使のように微笑みながら、思い至った。
 寝起きに俺がいて、喜びに胸がいっぱいになり、体が、頭が動かないんだなかわいいやつめ。
 うんうん、と一人納得した寮長は、瞳に一切の潤いを与えようとしないナリアンを袋に詰め、彼が使っていた寝具をひっぺ返し、部員が回収しやすいように積み上げ、およそ一人の人間を引きずっているとは思えないほど軽い足取りで、部屋を後にした。


 何度、夢を揺蕩っただろう。その度に、それは現実であると気づくのだけれど。
 説明部、というやたら人に説明をするのが好きな、むしろそれを使命と、己の義務とさえ思っていそうなほどの、自分自身が知らないことに対してあってはならないことだと思い、どこまでも貪欲に知識を蓄えていく人たちの話を聞き、なぜか巨木の遥か上の枝に立つロゼアを見上げ、落ちてくる彼に悲鳴を上げるのを堪え、きれいにアイロンがかけられたシーツを見つめ、打ち震え、何かに駆り立てられるように校舎へと戻った。宙を舞った彼に、引きずられるようにして連れて行かれる光景に、恐怖を覚えたのかもしれない。早々にロゼアとソキと別れ、少しの間、メーシャと共に居たような気がするのだが、いつ彼と別れたのか、それともメーシャとそもそも歩んでいたのか、それすらも怪しい記憶でしかない。説明部に渡されたしおりを携えて、風に導かれるまま、ナリアンは歩を進めた。風のよく通る木陰に腰を下ろす。人気のない、人通りのない、風が気まぐれに花の香りや、人の笑い声、お茶にお菓子の匂いに、焦げ臭いような臭い。学校中の様子が運ばれてきているのかと思ってしまうほどの情報に意識を沈めることなく、しおりを何度も読み返した。同じ文字を何度もなぞり、意味を咀嚼する。何度めくっても、何度開いても、何度尋ねてみても、欲しい回答には沈黙を返される。ため息をつきたくなるような長い沈黙をナリアンは受け入れ、そして待つ。待って、待ち続けて、ぱたり、としおりを閉じた。どれほどそこにいたのか、何時であるのか、みんなはどうしたのであろうか、といくつもの疑問を沸かせて消していく。ゆっくりと、重い腰を上げ、土を払う。固まってしまった体をゆっくりと動かし、思い悩む。ああ、だって、望むものはなかった。この学園には、このしおりにはなかった。なかったのだ。なかった場合、作ることもできる。できるのだが。その手順は、寮長と星降の国王から許可をもらうこと。つまり、あの寮長と一戦交えなければならないこと。入学の夜に、きつく射抜かれたことは記憶に新しい。構いたがり、なのかあてつけなのか、ただの暇つぶしなのか。面倒くさい味方をされるのも、威圧的に出られるのも嫌だ。嫌なのだ。逃げ出したい欲求にかられながら、ナリアンは前方を見据えた。風が、変わった。今しがた思い描いた名を持つ男が一人、それはそれはひどく楽しそうに、嬉しそうに、微笑んで立っていた。風が彼の横を抜けていく。ローブの裾を揺らし、ナリアンと彼の間をつなぐ。その唇が、開きかけたのを認め、ナリアンは踵を返した。
 逃げるつもりだった。つもり、だった。
「ナリアン、ねぇ、ナリアン。部活はどうだ、気になるのがあったか? 入りたいのがあった? うん? 新しい部活を作りたいのなら、俺に言わないとだめだからな? 付き合うからな? なぁ、ナリアン」
 ナリアン、ナリアン、ナリアン! 鬱陶しいまでに名前を呼ばれ、その鬱陶しさに負けて、ナリアンは禁断の呪文を唱えた。
「あ、あそこにいるのは、ロリエスせんせいだー。わー、いまひまかなぁ。せんせいのぶかつが、なんだったかしりたいなぁ」
 子供騙しの、何もない場所を指で示して、相手の興味をそらす。そこには何もいないのに、あたかもそこにいるような口振りで、その名を出した。逃れたい一心で。引っかかるわけもないだろうと、少しの躊躇もあったが、逃げたかったのだ。肩に回された腕から。べたべたと触られ、無駄な話を延々ひたすら聞かされることから。
 ナリアンの頭を撫で回し、肩を組み、腕を引っ張って、心底楽しそうだった寮長の目の色が変わり、あっさりとナリアンを手放し、ナリアンが視線を向けた方へ一目散に駆けていく姿を見送った。ナリアンの心に、駄目だこの人、というどうにもしがたい感情が渦巻いた。本気で探しまくる寮長の視界に入らないよう気を配りながら、ナリアンは走った。本気でどうでもいいとさえ思っていた寮長の話の中にあった玉石。ソキが、部活を作るらしいとのこと。よくわからなかったが、ロゼアが入れられた狂宴部には断じて入りたくなかったし、そもそも活動内容がナリアンには無理だし、メーシャを探そうかと思ったが探している間に寮長に見つかりかねない、ならばいっそ、ソキが設立するお茶を淹れて飲む部活動に混ぜてもらいたい。ぜひとも! 彼女さえ望んでくれるのなら、お茶でもお菓子でも、勉強でも、子守唄だってなんだってする。俺は、おれは、自分のためにお茶を淹れられるなら、それで。
 嘘だ。
 本当は誰かと、お茶を飲んで、他愛無い話が、したい。脇目も振らず、ナリアンは走った。久しぶりに。それは、はたから見れば早歩き程度だったかもしれないが、ナリアンにとっては全速力。上がる息を抑え込んで、目指すは談話室。まとわりつく風に背中を押してもらい、足を上げてもらう。息を整えて、必死でつむぐ。
 曰く、ソキちゃんが新部活を設立すると聞き、俺の望む部活そのものだったので、ぜひ入部させていただきたく。問いかけてくるソキに、ナリアンは乱れた髪を整えようともせず、ただ微笑んだ。
『俺は誰とも、会って、ないよ。決して』
 にっこりと、何もなかったことを強調するのを忘れない。ああ、そうだ。何も、何も、なかったんだよ。今日、この日。ナリアンは、ソキの作った部活に入部しただけ。それ以外は、なにも、なにもなかった。


 ソキが設立した部活が始動するのは一週間後。ナリアンのお菓子目当てに人が訪れるようになるのは、もうちょっと先のこと。
 ふわりふわり、揺れる液体が、世界の形を変えていく。君と、君たちと飲むお茶が、こんなにもおいしいと、知るのは、きっとすぐ。

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