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 疾風に勁草を知る 01

 杖を持って、指定の部屋に来ること。
 ロリエスからの指示書を見ながら、ナリアンは普段使われることのない演習室の奥へと歩を進める。滅多に、というよりは一度も使われたことのない杖は、文句ひとつ言うことなくナリアンの手に馴染んでいた。同期の三人が、それぞれ担当教員と実技をこなしている中でも、ナリアンは呪文一つ、唱えたことがなかった。それはあらかじめ、担当教員のロリエスからも言われており、きっちりととられたロリエスとの実技授業は、ひたすら紙の問題に向かうか、ロリエスと議論を戦わせるか、チェスやカードゲームに興じていた。それらが、なんの関わりがあるのか、と言われてもナリアンはさっぱりわからなかったが、ロリエスとの授業で疲れなかったことは一度としてなかった。どの座学より、脳が疲労を訴えるのだ。本来、脳は疲労を覚えない。どれだけ酷使しようと、脳が参る前に体が悲鳴をあげる。一番最初に、ロリエスが眠そうな眼差しでそう宣った。かくいうロリエスは、ナリアンがプリントに向かっている間も、大量に積み上げられた書類を右から左へと山を移していく。それでも頃合いを見計らって、ナリアンの様子を伺うことは忘れない。このペースで仕事をしているロリエスが、なぜ睡眠不足に陥るのか、ナリアンにはとんと理由がわからなかった。
 兎にも角にも、ナリアンの実技試験は、ロゼアやソキのように魔力を使って行うのではない。実技試験が始まる二週間前に、ナリアンは初めて、ロリエスの魔力に触れた。それまで、これが魔力だ、と前もって示されたことなどない。手を出せ、と言われるままに右手を差し出したナリアンの手のひらに、ロリエスは己の魔力を丸めて落とした。驚いたナリアンが手を引っ込めようとしたのに対して、動くな、動けば手が落ちるぞ、と脅されたことは記憶に新しい。怯えを見せるナリアンに、淡々とロリエスは、これが魔力だ、と解説を始める。いつ手が落ちてもおかしくない状況に、ナリアンは早く終われとばかりに、ロリエスへ相づちを打っていた。その度に、気もそぞろなナリアンの手のひらへ、ロリエスの魔力の玉が追加されていく。悲鳴を飲み込みながら、その玉を落としてはいけない、と本能的に悟ったナリアンは両手でロリエスの魔力を抱きとめ、そんな自分に泣きそうになった。
「魔力とは、力だ。難しいのなら、粘土、とでも思えばいい。その粘土の使い方、つまり魔術で、黒魔術師、白魔術師、占星術師、錬金術士、といったものに分けられる。例えば、黒魔術師は粘土を武器に変える。風の刃であったり、火球であったり、水流、氷山、岩石。つまり、何が武器となるのか。何、に値するのが、属性となる。白魔術師は、道具に変える。包帯、氷嚢、水薬。風で包帯を作るもの、水、氷、火。夢を見させることで、治してしまう理解に苦しむのもいるがな。占星術師は、粘土を己の補助具に変える。星を見るためだったり、相手を眠らせるためのまじないだったり。錬金術士は、わかるか? そうだ、粘土で物を作る。練り込む、が正しいかもしれんがな。お前の同期には、ソキがいたな。予知魔術師だ。彼女たちは、特殊で、粘土を自在に操れる。本来、黒魔術師は武器として、白魔術師は道具なのに対して、予知魔術師はありとあらゆることを行える。ナリアン、お前はどう頑張っても、己の魔力だけで、火球は飛ばせない。彼女たちは違う。氷山を築き上げたかと思えば、香を焚きつけ病を治すことも、人に嘘を信じこませてしまうこともできる。他にも、言葉魔術師、召喚術師、時空魔術師、空間魔術師などに分類されるが、自分なりの回答を持て。もちろん、私の言ったことが教科書どおりではないし、解釈は人それぞれだ」
 ぶんぶんと、うなずくナリアンに眉をひそめながらも、ロリエスはナリアンの手に玉を生み出し続けた。


 真新しい知識を胸に、指定された部屋の扉をナリアン叩く。
『失礼、します』
 扉を押し開けた部屋は、天井が低く、そして狭かった。奥行きもなく、大人三人が寝転がれるだけの広さ。そこにロリエスは佇み、ナリアンを待っていた。
「こんにちは」
「ああ」
 部屋の狭さにナリアンが扉を支えたまま、まごついているのをロリエスが中に入るように促した。中に入ってみて、改めて狭さを感じる。頭を打ちそうだ、とは思わないが心なしか、首をすくめてしまう。ロリエスとの距離も近い。近くならざるを得なかった。ぎゅっと、杖を握りしめる。ひどく気持ちが落ち着かなかった。締め切られた部屋は、より一層、狭さを感じた。
「最初に言っておく。この試験は、降りても構わない」
「……え」
「ただし、この試験を受け、合格しなければ卒業はありえない」
「どうし、」
「死ぬかもしれないからだ」
「……全員が、通る道、ですか」
「ああ。多分な」
「多分ですか」
「全員に聞いて回ったことなどないからな。まぁ、黒魔術師は大抵、通る道だと思うが」
「そう、ですか。全員に、死ぬ可能性が?」
「大半はない。現に私は、実技授業の最初に行った」
 表情一つ変えず、ロリエスはナリアンを見つめる。対してナリアンは、ロリエスを見つめ返すことが出来なかった。心臓がうるさく鳴る。杖を握っているはずなのに、それはするりと手のひらから逃げていきそうだ。
『どうして、死ぬんですか』
「お前が、お前であるがゆえに」
「俺が?」
 意味がわからない、と困惑するナリアンに、ロリエスは眼鏡を外し、ナリアンを見つめる。レンズ越しに見えていたオブシディアンの瞳は、裸眼となり深く色を落としこむ。
「……魔力の話をしたな」
『……はい』
 意志なのに、震える。何を言われるのかわからない。
「魔力を持つものが、魔術師ではない。魔力を操るものが、魔術師だ。人は誰しも、少なからずそれを持ち、生きている。我々は、その中の一握り。己の中の魔力を知覚し、扱うことができる。だから、魔術師、と呼ばれる。私はそう、思う。ナリアン、お前は、自分がどれだけの魔力を持てるか、わかるか?」
「えっ、と」
「具体的な言葉で、これぐらいと表現が出来るか?」
『……わか、りません』
「だろうな。私にも、わからない」
 お前の、器が見えない。
「先生は」
「私か? 私は、井戸ぐらいさ。街に点在する、生活を支える井戸。人々の暮らしを支えるが、そこまで量は多くない。水源があれば、湧き続けることはできるが、いずれは枯れてしまう。これでも多い方だ、と言うと、お前はどう思う?」
 黒の瞳がナリアンを見つめる。いつもの眠そうな瞳ではない。
「例えば。は? お前、魔力あんの? え? こんだけ? ってのもいれば、湖に立つ俺、とかいうわけのわからんやつもいるし、大樹と例えた者、バケツ、本、池だと答えたやつもいる。ただし、これは持てる量だ。常時、すり切りいっぱいあるわけではない。青々と茂る大樹も冬になれば葉を落とす。バケツの底にしかない水、ページの抜けた本、乾ききる寸前の池。体調にも、環境にも左右されるだろう。八割くらいがベストなやつもいれば、常に満タンで保持しているやつもいる。ナリアン、お前はどうだ?」
 すがるようにナリアンは、ロリエスを見つめる。ロリエスは、一つ頷き、チリン、と軽やかな音を立てる鈴をナリアンに差し出した。赤の長い組紐が付けられた銀色の鈴。手のひらをコロコロと転がせるほどの大きさ。
「それをつけていろ。魔術具だ。同じものが、この部屋の四隅に。それは結界を表すから触るなよ」
 ロリエスに言われるままにナリアンは、鈴を首から下げた。胸元で鈴が揺れる。
「お前を引き止めてくれるだろう」
 外していた眼鏡を再びかけ直したロリエスの瞳は、眠そうな眼に戻った。
「お前の実技試験は、自分自身の器を知ること。これは、おそらく、死ぬ可能性がある。お前には、選択肢をやろう。この試験を受けることを先延ばしにしても構わない。それが、未来永劫でも、私は構わない。受けない代わりの試験はある。選べ」
 ぎゅっと、杖を握りしめる。ささくれのない、触り心地のよい杖。職人が優しく磨いたのだろう。凹凸を残しながらも、指を傷つけることは決してない。
『この試験を受けなければ、卒業、出来ないんですよね』
「正しくは、クリアすることだがな」
『ずっと、ここにいるってことですよね』
「生きることは出来る」
「……やります。やらせて、ください」
 ロリエスは、器、と言ったが、ナリアンには、自分が何者かを問われている気分であった。人間か、どうかさえも疑われているような、そんな気がした。
「期間は、三週間ある。好きに使え。ただし、この部屋からは出られない」
「え」
「出られない」
「ご、ご飯とか」
「……必要か?」
「……え」
 出られない、ということにナリアンは驚いた。ベッドどころか、トイレすらもない部屋。毛布一枚たりともない。それでも最大三週間の時間が用意されている。ナリアンが何を必要としているのか、心底わからない、という風に、ロリエスは首を傾げる。そんなロリエスを見て、ナリアンはますます混乱した。自分の感覚がおかしいのか、とさえ思う。
「……すぐに、必要なくなるさ」
「え?」
「お前が、やると言うのなら、私は、お前を信じよう。お前が、この扉をお前の手で開けて出てくることを、祈っている」
 ロリエスは、スイっと、右腕を持ち上げ、人差指をナリアンの胸の中心に当てた。
「誓おう。私は、花舞の風の黒魔術師、ロリエス。天と地が、最も離れたこの時を持ち、この場、この戒めを背負いし青年を、再びまみえるまで、私の心を青年に砕こう。ナリアン、私は、お前を信じているよ」
 だから必ず、迷わず、戻っておいで、待っているから。言葉にせずとも、伝わることをロリエスは信じた。
 右腕をおろし、ナリアンの瞳の射抜く。動揺を隠せないアメジストに、幼さを感じた。
「時間だ。筆記のテストもあるから、早急に戻るように」
 ナリアンの横を通りぬけ、扉を開き、ロリエスは外に出た。先程は、自然に閉まった扉は開いたまま、ロリエスの姿を見せる。
「自分の手で、始めなさい」
 ロリエスの言葉に誘われるまま、ナリアンは手を伸ばした。狭い部屋、ナリアンは苦もなく、扉に手が届いた。触れたか、触れないか、扉はゆっくりと閉まり始め、ロリエスの姿を隠していく。心の隅に宿ったのは不安。幼子が、母の姿を見失ったようにナリアンは泣きだしたくなった。ロリエスの薄い唇が、何かを言いかけ、それがナリアンに伝わる前に扉は閉まった。


 扉の向こう、ロリエスは、開いた唇を閉じた。ぎゅっと、噛みしめるように、引き結んだ。今更の言葉だった。生きて戻れ、なんて。時期尚早であっただろうか。もっとかけてやる言葉があったであろうか。私は、精一杯のことを彼にしてやれただろうか。ぐるり、ぐるりと自問を繰り返す。自分のことではないから、それに答えがないことを知っている。答えはすべて、この扉の向こうの青年が持っている。答えは、すべて、青年が見つけなければならない。あくまで私は、きっかけを与えるだけ。左手で、なんの変哲もない扉に触れる。年季の入った扉は、艶めいて、ささくれ一つ無い。大切に扱われてきたのだろう。熱も思いも、何も伝えず、扉は鎮座する。
「ナリアン」
 誰もいない廊下に、その声はぽつりと、響いた。

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