リーン、と澄んだ音が、ナリアンの胸元で鳴った。閉まってしまった扉を呆然と眺めていたナリアンは、その音に体を震わせた。鳴ったのはロリエスから渡された鈴だった。銀色の鈴は、止まっていたナリアンの思考を動かした。きょろり、と部屋の四隅を見やれば、ロリエスの言ったとおり、ナリアンの胸にある鈴と同じものが配置されていた。触るな、と言われて、触りたくなる年齢は遠に過ぎた。狭い部屋で、ずっと立っているのもなんだし、とナリアンは、部屋の真ん中にあぐらをかいて座った。木張りの床は、直に座れば骨が当たり、痛い。膝を抱えてみたりしたが、結局あぐらに落ち着いた。ぼんやりと、何もない部屋でナリアンは考えた。
ロリエスから課された課題。自分の魔力の総量。具体的な言葉で、説明ができること。魔力とは、力。握力や、腕力、脚力といった類に似ているもの。体から生成されるもの。ナリアンは自分の両手を見た。ロリエスの魔力をこの手で触ったことを思い出す。丸められた魔力は何だったか。丸みを帯びていたのは、風だったか。白っぽく見えた、確か。なぜ、先生は指が落ちると言ったのか。例えば、あれが破裂したら? 風を押し込めていたのだとしたら? それはカマイタチとなるのか。だからか。
座った時に床においた杖に手を伸ばす。ロリエスの武器は剣だと思う。長剣。二振り、履いていたから。武器をどのように手に入れたのかは聞いていない。聞いてもいいのか迷った。自分のように、武器が迷いに迷って、諦めにも似た境地で、次から次へと眠り、残された一つだけが運命を託されたと、言えなかった。それは、どうしても、この学園に来てはいけない存在だったのだろうかと、悩まざるをえないから。ロリエスは冷えた視線で、見つめてくるだろう。是とも否とも言わず、きっとナリアン自身に問うだろう。お前の意志はどうだ、と。学園には望む、望まないに関わらず、必ず呼ばれる。星が呼んだ時に、絡められていた糸を手繰り寄せられるように、必ず。
わかってはいた。わかっている、つもりだった。呼ばれているのに、呼ばれたと、胸を張っていいのに、ただ、誰かから肯定が欲しかっただけだ。
床に寝転がる。低い天井。シミひとつない天井をぼんやりと眺める。なぞるものも、何もない。自分の魔力の総量なんて、どうやってみるのだろう。知るのだろう。ロリエスは教えてはくれなかった。ロリエスは、何か知っている風だったが、迷っているようにも見えた。彼女は、確信を持たないと言わないと気づいたのはいつだったか。
伸ばした右手で杖に触れる。つるりとした感触はずっと変わらない。右半身を下にし、杖を見つめる。左手でも触った。音はなにも聞こえず、静寂が空間を占める。普段なら、人のざわめきは嫌でも耳に入るのに。建物の隅だからだろうか。そう思ったが、魔力的な何かが働いているのかもしれない。まだそういったものに、ちっとも気づかない自分に、ため息が出た。
何もせず、何も考えることもなく、床の上に寝そべっていると、うつらうつらと眠気が襲う。そういえば、昼寝なんて久しくしていなかった。学園に飛び込んで、何もしないなんてことはなかった。大抵、ベッドの上で倒れているか、授業に課題、予習と復習、ソキとの部活で日々が過ぎていったから。休みの日も、誰かと一緒にいた気がする。久しぶりの一人だった。固い床でも、眠くなるんだな、と人事のように思いながら、ナリアンは意識を手放した。白い、己の杖を握りしめて。
ロリエス、と名前を呼ばれた。意識が遠のきかけていたのを、掴み戻して、面を上げる。ドアを少し開け、そこからシルが顔をのぞかせていた。ロリエスの黒い瞳を見とめたシルは、するりと部屋に滑り込んだ。なんとなく、何を言われるのかを悟ったロリエスは、誤魔化すように机上の書類を探すフリをした。ナリアンの実技試験のために、王宮での仕事を前倒しで進め、更にナリアンを待つためだけに、ない仕事を探して行っていたのだ。書類など、あるはずもない。火急の書類など、そうあるわけもなく、あったとしてもあっという間に片付いてしまう。ナリアンが扉の向こうに篭ってから、すでに三日が過ぎようとしていた。すぐに出てくると思っていた。ただ自分の魔力を探るだけだから。でも、仕事も片付けて、同僚の火の錬金術師に結界用の鈴を作らせ、学園に話を通し小部屋を貸しきった。そこまでしたのは不安だったから。その不安を見ないふりをして、押し込めてきた。すぐに出てくると信じ込んだ彼を待ち続けて、ずっと起きていた。部屋にこもり、なかなか出来なかった技術書を読み、仕事を片付けた。部屋にずっといたから、日が昇り沈んだことに気付かなかった、没頭していた、などの言い訳は彼には通じないだろう。少し怒ったようなシルの視線に、ロリエスは居心地が悪かった。
「例えば、今、花舞の国に騒動が起こって、お前が可及的速やかに帰り、対応を進めなければならないのに、自己管理を怠り、任務遂行できませんという事態に陥り、女王陛下を失望させる気か。それとも、お前は陛下を殺す気なのか」
師である前に、お前はなんだ。
「寝られないわけじゃないんだろう?」
俯いたままのロリエスはシルを見ることが出来なかった。全部、喋ってしまいそうだった。不安も、動揺も、後悔も。シルは、大丈夫だ、と言ってくれる。大丈夫だから、休めと。自分が背負わなければいけない荷物を肩代わるように、撫でてくれる。それは嫌だった。首を振る。寝られないわけじゃない。
「寝ろ。飯を食え」
そう言われても、尻に根が生えたように、椅子から立ち上がれなかった。体が、動くことを忘れてしまったかのようだった。扉の前にいたシルがゆっくりと、ロリエスに近づく。机を回りこみ、机の上に投げ出されたままのロリエスの右手に、右手で触れた。その手をロリエスは、握った。きゅっと、幼子が、大きな父の手を一生懸命握るように。椅子越しにロリエスの手を机に縫い止め、左手で頭を撫でた。きっちりと結い上げられた黒髪はさらりと、シルの指先を撫でた。
「俺が、いるから」
熱を分け与えるように、ロリエスの頭を、手を、シルは触れた。ゆっくりと撫で、熱が移り、ロリエスとシルの熱に差異がなくなった頃、ようやくロリエスは頷いた。立ち上がり、扉の向こうへロリエスが消え、扉が空気を押しつぶすように閉まりかけた時。
「ありがとう」
閉じきった扉に、シルの口角は自然と持ち上がった。ロリエスが腰掛けていた椅子に座り、片付けられた広い机に頬を押し付ける。少しだけ熱を持った頬を冷ましたかった。
ぶわり、と風が頬を撫でた。不思議に思ってナリアンは、つむっていた瞳を開いた。途端に瞳を灼いたのは、白く眩しい太陽だった。眩しさを忘れ、驚愕に瞳を見開いた。背中に感じるのは、木の床ではなく、乾いた剥きだしの地面。四方に壁はなく、見える範囲はすべて土か空だった。ナリアンのいた小部屋に窓はなく、天井をぶち破ったとしても、上階のある部屋だったから、空はまだ見えない。角部屋ですらなかった。自分の置かれている状況に思考が停止したまま、恐る恐る体を持ち上げ、周囲を見渡す。起き上がっても、見える景色は変わらない。赤茶けた土の色。乾ききった大地。草の一本も見えない。青空が広がり、ただ、荒野が延々と続いていく。山も丘もなく、地平線がぐるりとナリアンを囲んでいた。
「どこ、ここ……」
思わず溢れた言葉を拾うものはなく、風が掻き消していく。びゅうびゅうと風が側を通って行く。握りしめた手には、白い杖一本だけ。先ほどまで、確かに壁に囲まれた部屋にいたはずなのに。リーン、と鈴が胸で鳴る。ナリアンに存在を示すように。
歩き出そうにも、目印になるものはなにもなく、ただ闇雲に歩いたとしても、方向感覚などなにもなくなるだろう。影の出来る向きで、方角を知ることはできるが、しばしの時が必要で。砂漠の国のように、日陰にいなければ水分が失われて死ぬ、というようなほど太陽は熱くなかった。ただ、熱せられている事実は変わらない。色白のソキやメーシャがここに立っていれば、すぐに日に焼けてしまいそうだと思った。真上に見える太陽に、さてどうしたものか、とナリアンは考えた。どこを向いても同じ景色。まっすぐ歩けば、いずれなにかに出会えるだろうか、と頭を過るが、それはとても無謀なような気がした。第一、まっすぐ歩けるのかも怪しい。己の手元に食料はなく、命を繋ぐための水もない。ここに長く居続けるのも難しい。イチかバチかの賭けに出ようか。んー、と考え、よし、こっちに歩こう、と心に決め、一歩を踏みだそうとした。
「最近の魔術師、というのは無謀なのか? それとも、魔法に頼らないのが流行りなのか? それとも、ただ君がそれを知らないだけなのかな」
ナリアン以外には何もいなかったはずの空間に、男の声が響いた。聞いたことのない、声だった。勢いよくナリアンは振り向いた。口元に少しだけ笑みをたたえた、長身の男が立っていた。ナリアンの目線と同じくらいの位置に、瞳があった。空の色よりもうんと濃い、湖の底のような、いや、もっと青い、例えるなら。
「ラピスラズリ」
ナリアンの呟きに、おや? という仕草を男はしてみせた。金色の腰まで伸ばされた長い髪が男の動きにあわせて揺れる。優しい太陽の光のように、淡い色の髪。
『あなたは、だれ?』
「……声なき意志。それも一つの選択だろう。だが、ここは君の意識の中。恐れることはない、声に出したまえ」
男は笑いながら、ナリアンに喋るように促した。ひくり、と心が歪む。
『……意識の中?』
「夢の中、というとわかりやすいかな。正しくは、君の器の中」
「うつわ……?」
「そう、声に出したまえ。言霊を恐れているなら、それは君の意志が強くのり過ぎているからだ。何事も経験だよ」
微笑みながら、男はナリアンに背を向け、何もないこの空間に、なにかが見えるように右手をかざした。
「この方角に街がある。正確には、あった、かな」
『なんで』
知っているのだ。
「ここは、そうだね。国だった」
あっけからんと、男は言い、ナリアンを振り向いた。その瞳は、少しだけ寂しそうだった。
「名乗っていなかったね、ナリアン。私は、ガトア。古い、魔術師……さ」
少しだけ言い淀んだように、男はガトアと名乗った。
「なんで、俺の」
「言わなかったかい? ここは、君の器の中。君の意志がすべてここにある」
わからない方がおかしい、とガトアは笑った。
「まぁ、私がここにいるのは君の持つ、その杖のせい、かな」
ナリアンは右手で握りしめていた白い杖を見やった。アメジストの埋め込まれた、つるりとした長い杖。
「呼ばれた。私ではなく、この剣が」
アイオライトの埋め込まれた長剣をガトアは差し出した。その宝石を見たナリアンの心臓が強く脈打った。例えるなら、それは恋に落ちたような、衝撃だった。ぎゅっと、心臓を鷲掴まれたような、そんな感覚。
「……私が、この剣に選ばれていなければ、この剣は君のものだったと思うよ」
困ったように微笑むガトアに、ナリアンはどうやって返せばいいのかわからなかった。武器が持ち主を選ぶ。そう教わった。昔から脈々と受け継がれてきた言い伝え。息苦しく感じた。
「でも、この剣は私が死してからも、ずっと共に合った。一緒に消えた。その思いは、彷徨わず、ずっと私と共にあった。次の子を選ぶでもなく、ずっと」
私の相棒、とガトアは慈しむように柄を撫でた。
「君が私よりも先に生まれ、私よりも先に、その才を見出されていたとしたら、この剣を、私が進んだ道を君が歩んだかもしれない。そうしたら、今、君のいる世界は……いや、やめよう。もし、の話はいくらでも出来る」
自問自答の末、ガトアはナリアンを見つめた。その強い瞳に、ナリアンは揺れた。見透かされたような、問い詰められたような、そんな気にさせられた。
「さて、立ち話もなんだね。この世界、いや、君の器を見てみるかい?」
垣間見せた鋭さを、人好きのする笑みの裏にガトアは隠した。ナリアンに手を差し伸ばしながら、その手が断られないことを知っている風だった。差し出された手に、ナリアンは戸惑うが、その手を拒めなかった。正確には、拒んだところで先に進めなかったからだが。ガトアの思惑通りに、ナリアンはその手を掴んだ。触れた指先から、魔力がはじけた。ぶわり、と体から何かが出て行ったような、そもそもそこにあったかのような、ただ、自分の体の周りに、エネルギーが発生したことをナリアンは感じた。それは、手のひらに落とされたロリエスの魔力に似たものであったような気がするし、寮長や白の魔法使い、花舞の白魔術師に流し込まれたものに近いような気がした。
「そよ風、土埃、木漏れ日、地の奥深くに流れる水。私の行く先を、どうか示してくれないか」
ゆるり、と力が動いた。猫が人の手のひらをすり抜けていくように、ナリアンの手のひらを確かに、力が撫でていった。
「あちらのようだね」
街があった方、と指さした方角より九十度右にずれた方角をガトアは示した。ナリアンはガトアの指した方へ視線を向けるが、やはりなにも見えなかった。
「ここは君の器の中。心配しなくても、君はここをすべて見て回るのだろうから、一番最初に行く先が決まっただけ。さあ、行くかい? それとも、君が尋ねてみるかい? 世界に」
ニコニコとガトアはナリアンに尋ねる。なんとなく、この男に主導権を握られっぱなしは面白くなかった。口をへの字にしたまま、少し考えた。言葉を、魔力の使い方を。考え込んだナリアンを見つめ、ガトアは、おや? と面白そうに首をかしげた。
「……風よ」
一言で十分だった。次の言葉を紡ぐ必要などなかった。ぐいぐいと、ナリアンを、ガトアが指さした方へと押しやっていく。ガトアも煽りを受けて、よろめいた。金の長髪がなびいていく。
「君は! 本当に!」
何がおかしいのかわからないが、ガトアは楽しそうだった。風が吹きやみ、ガトアの笑い声が響く。
「行き先が決まったようだ。それとも、真逆に進んでみるかい?」
憮然としたままのナリアンに、ガトアは問いかける。どこまでついてくる気なのかわからなかったが、とりあえずナリアンと一緒に行くようだった。ナリアンは、一歩、踏み出した。この荒野に放り出されて、やっと進んだ一歩。風に押しやられた方へと、ガトアが示した方へと。一歩を踏み出せば、二歩、三歩と止まることなく続く。何が見えるのか、どこにたどり着くのか。なにもわからぬまま、二人は歩き出した。