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 花と、なれ 01



 それは、花舞の魔術師となるたまごに、かけられることば。



 永遠にも等しい、とナリアンが思った定期試験がようやく終わりを告げた。回収されていく答案用紙を渡しながら、ぐったりと机に身を投げる。一、二問、不確かなまま回答してしまったことに、情けない気持ちを抱いた。解答欄がずれていなければ、赤点ではないだろうとぼんやりと思う。なぜかナリアンの答案は、ナリアン自身に返されるより早く、すべてロリエスが目を通していると気づいたのは定期試験の筆記が始まってすぐだったように思う。廊下ですれ違ったロリエスに言われたのだ。記述式の設問の内容が、大変良く書けていた、と。私なら、あの記述だけで他の回答が全て間違っていても、満点を与えるだろうよ、と、笑みの一つも浮かんでいない、黒々とした瞳に見つめられ言われた。滅多に人を褒めることをしないロリエスにべた褒めされた答案用紙は、満点であったが、ロリエスの指摘した記述内容は、担当教師には不評だったようで、注釈として正答例が軽く記載されていた。気持ち悪い、と思いながら次の答案用紙が返ってくる前に、ロリエスから何だあの点数は、と怒られ、すわ解答欄を大幅に間違えたのかと真っ青になって、受け取れば一問、ケアレスミスで不正解だっただけだった。ロリエスの評価はよくわからず、満点をとっても、つまらなさそうな顔をするし、逆に満点でなくても、よくやった、と褒めていくこともあった。褒められ慣れていないナリアンにとって、怒られる方がまだマシだと思えるほど、不可解な出来事だった。
 筆記試験が終わって慌ただしくロリエスに呼ばれる。疲れた体を半ば引きずるようにして、講師室の扉を叩けば、すぐさま、入れと声がかけられる。
「失礼します」
 と、言って、瞬時に、失礼しました、と出て行き扉を可及的速やかに閉めたくなる光景が部屋の中にあった。ちらり、と誰の部屋かを確認したが、間違えるわけもない。何度も何度も訪れた、ロリエスの学園での執務室である。間違えるわけがない。入室することを迷っていれば、はやくしろ、とせっつかれる。嫌々入り、意思表示としてことさらゆっくり、丁寧に扉を閉めた。そして向き直っても、その光景は変わらない。にこにこぺかぺかと、ひたすら嬉しそうな顔で、にへらへらとしているように見えるシルがなぜか、ロリエスを背後から抱えて椅子に座っていた。つまり、ロリエスはシルの胸を背もたれに椅子に座っているように見える。そんなに大きな椅子だったろうか、とナリアンは思考を巡らせるが、目の前の破壊力に考えることを雷よりも速く放棄した。
「ナリアン、呼び立ててすまないな。長期休暇の予定は?」
「は? あ、いえ、特に詳細には決めていないですが、家には帰ろうかと」
「そうか。一週間あればいいか?」
「はい?」
「一週間でいいよな? よし、そうしよう。明後日、迎えを寄越すから荷物をまとめて花舞の王宮に来ること」
 以上、と言い置いて、ロリエスはナリアンから視線を外し、読んでいたであろう書物に視線を落とした。その背に、シルがゴロゴロと懐いているのを一切、気にも止めていない。何から問いただして、否定をすればいいのかわからなくなったナリアンは、座学の疲労も相まって、ただただロリエスの言葉に頷いた。そうだソキちゃん、ソキちゃんに会いに行こう。まだ起きてるかな、顔をみたいな、手っ取り早く癒やされたい、俺の妹かわいい。ふわふわとした欲望を、忠実に守るべくナリアンはロリエスの部屋を後にした。パタン、と閉じたられた扉を見つめ、ロリエスは書物から目を離し、少しばかり肘でシルを押しやった。
「離れろ、シル」
「……いやだ」
「嫌だじゃない」
 むっすりとしながらも、シルは渋々、腕の拘束を緩め、ロリエスから離れた。それでも、両太ももに、温かな熱とやわらかさが伝わっている。そもそもをたどれば、ロリエスが言ったのだ。ナリアンの件でお礼がしたいと。何かあれば言ってくれ、と言ってきたから、膝の上に乗せて抱っこしたい、と言ったら拒否されたのだ。粘りに粘って、座るのは椅子の上、背後から抱きしめるのは可、と譲歩に譲歩を重ねた結果だった。定期試験で、長らく学園に滞在していたロリエスは、長期休暇となる学園から花舞の国に帰ってしまう。毎日、毎時間、毎分でも顔を見ていたいと思うのだが、それも叶わない。今日がその長期休暇前の最後の逢瀬で、離れがたさはひとしおなのだ。
 もたれかかってもいいと言った言葉にロリエスは頷いたにも関わらず、ひとつもその身を委ねてくれはしない。不満を抱いても仕方ないであろう。シルとしては、離れ離れになるのが寂しくて仕方がないのに、ロリエスはそうでもないのか、と怒りたくなる気持ちがある。それが、自分勝手なことだとわかっていても、ロリエスも同じ気持ちで、一時の別れを惜しんでくれたなら、素直に頷けると思うのに。
 面白くなくて、目の前にある結い上げられた髪を留める茶色のバレッタをパチンと外す。その音と、髪の流れる感触に、振り返って距離を開けようとするロリエスの腹に腕を回し引き留める。
「シル!」
 長い髪に鼻先を埋め、すん、と嗅げば、ロリエスの身じろぎがことさら大きくなる。
「やめろ、シル!」
 汗をかいて汚いから嗅ぐなと、ロリエスは訴えるが、シルからすれば、許してもらえるほど親密になりたい。ぎゅっとぎゅっと抱きしめて、狂おしいほどの愛を君に。
「ロリエス、好きだ」
 愛してる。
「っ!」
 返答はなく。ただ、突き放されることはなく。ひととき、それは緩やかに、甘く、過ぎていく。



「本当に、すぐに、何かあったら、すぐに、すぐにだよ、ソキちゃん。ロゼアを呼ぶんだよ。そうしたら、すぐに、怖いことも、嫌なことも、全部全部なくなるから、ね、ソキちゃん」
 すぐに、という言葉を繰り返し繰り返し、幼子に伝えるように、ナリアンはゆっくりとその言葉をソキに言い聞かせる。すぐに、すぐに、呼ぶんだよ。心配性さんです、と柔らかく微笑むソキにナリアンはただただ心配が増していく。
「ナリアン」
 声がかけられ振り向けば、たまごとは一線を画した、それでいて教師とは違う雰囲気の青年が立っていた。リン、と涼やかに鳴る声は、ロリエスが実技試験で渡してくれた鈴のようにも聞こえた。はい、と返事をしソキを見つめる。今生の別れであるかのような気持ちになるのを振り切り、まとめた鞄と杖を持ち青年の元に急ぐ。ふわりと、泳ぐ裾を追いかけていけば、表情に乏しい赤髪の、ヘイゼルの瞳がナリアンを振り返る。
「……気持ちのよい風だな」
『……はい?』
「いや、こちらの話だ。荷物はそれだけか?」
『はい、これだけです』
 一つ頷き、ついてこいとばかりに先に行く背中を追いかける。背格好はナリアンよりも少し小さいくらいだが、厚みは分厚く、がっしりとした印象を受ける。刈り上げられた後ろ髪と、大ぶりのリングイヤリングが印象的だ。
「ああ、クリンゲルだ」
「えっあっ、ナリアンです!」
「ロリエスの下に入るらしいな、頑張れよ」
『えっ?』
「聞いてないのか?」
 そう言いながらクリンゲルは振り向き、ドアを叩く。
「花舞の錬金術師、クリンゲル。さあ、花舞の王宮へ」
 開いた先はどこかの一室で、見慣れた顔が三つそこにはあった。
「うおおおおお! まじだ! たまごだったあああああああああ!」
「もーなんでぇ……!」
「うっ、ロリエスの言ってたことは本当だった」
 各々が口を開き絶望の二文字を背負っている。
「うるさいぞ、ジュノー、シンシア、キアラ。そこをどけ、通れんだろう」
「クリンゲルのいじわる! ナリアンくん、いらっしゃい、ようこそ花舞王宮へ!」
 ぱぁっと顔を輝かせて、絶望の二文字から歓迎の二文字を掲げる三人を、クリンゲルは無表情に見ていた。すっと、ナリアンに場所を譲り、入るように促す。おずおずと入れば、クリンゲルもあとに続く。パタリと扉が閉まり、そういえばと言わんばかりに口が開かれた。
「お前たち、油を売っているようだが、仕事は済んだのか」
 ぎくり、と身を強張らせる三人にため息を吐き出した。
「だ、だって! 疲れたんだもん、休憩よきゅーけー!」
「そうですわ、ナリアンくんのお出迎えも必要でしょう?」
「……まぁ俺はお前たちがどうなろうと知ったことではないが」
 さっと顔を青くする三人を置いて、ナリアンを促し歩き出す。薄情者! 鬼! とクリンゲルを罵るのを意に介さず、ナリアンにうるさくてすまんなと謝る。黙々と進みある一室で止まる。ノックもなく開けられたそこは、ベッドと机があるだけの簡素な部屋だった。ただそれらの調度品も学園にあるものより、高価なものだと見て取れた。
「狭くてすまんが、ロリエスの手伝いをしている間はこの部屋を使ってくれ」
 部屋に一歩踏み入れれば、その狭さがぐっと引き立つ。天井は学園の部屋よりも少し低いように思えたし、ベッドと机だけで部屋の横幅は足りてしまう。こじんまりと、隠れ家のような大きさであった。
「……ロリエスの部屋から一番遠いんだ」
 不穏な影を滲ませる言葉を聞かなかったことにして、机の上に鞄を置き、杖を立てかける。鉛筆と、小さな帳面をそれだけが入るくらいのポシェットにいれて、クリンゲルを振り返る。手のひらに真鍮の鍵が落とされる。カチャンと錠の落ちる音を聞けばどこか安心する。
「こっちだ」
 迷路のように曲がりくねっているわけでもないのに、同じ景色ばかりが続いていてここはどこだと度々わからなくなる。ロリエスの部屋から一番遠いということは、一番道のりが長いということで、不安しか生まれなかった。一室で立ち止まり、コンコンとノックし名前を呼ぶ。すぐに入れと声がかかり、重そうな扉はその見た目通りゆっくりと開いた。扉を開けば、向かい合うようにロリエスの机があり、少しばかり積まれた紙束と本の隙間からロリエスの顔が見えた。一日会わなかっただけでどこかやつれたような印象を受けた。
「ようこそ、ナリアン。クリンゲル、ありがとう」
「いいや、持っていく書類はあるか?」
「すまない、これを」
 山と積まれた紙束の中から、何枚かを器用に引き抜きクリンゲルに渡す。ざっと中身を見たクリンゲルは頷き、それじゃあな、と出て行く。それを見送り、ロリエスに視線を送れば、目元が笑っていたことに、すっと背中に冷たいものが流れた。
「ナリアン、改めて、ようこそ花舞王宮へ。歓迎する」
 その歓迎という言葉がこれほどまでに重い言葉だっただろうかと、思わずにはいられなかった。すぐに陛下に挨拶を、とロリエスの後ろをついていく。一際立派な扉は近くで、ロリエスの役職の高さを認識する。花舞筆頭魔術師の肩書を持ち、ロリエスさえどうにかしてしまえば、花舞の転覆を狙えると言われるほど。部屋まで案内してくれたクリンゲルと同じローブかと思っていたそれは縁に目立たぬ色で、様々な花の刺繍が施されていた。大きな扉が開かれ、執務机に向かう女王陛下の前にロリエスが膝を着こうとするのを、手を振り止める。一礼した後、直立不動のまま淡々とナリアンを紹介する。
「陛下、ナリアンです。長期休暇の間、王城に留まることをお許しください」
「やあ、よく来たね。ナリアン。ロリエスからよくよく聞いているよ。すまないが、よろしく頼むよ。ロリエス、ナリアンはいつうちに来れるんだい?」
「陛下」
「いいじゃないか。うちに来てくれるだろう? ナリアン」
『えっと……』
 見目麗しい女王陛下に、涼やかに微笑まれればロリエスとて何も言えなくなる。困ったようにロリエスを見遣っても首を振られるだけでいかんともしがたい。
「ロリエス、意地悪は嫌だよ?」
 茶目っ気を含んだ微笑みにロリエスは唸る。ちらりとナリアンを伺い、そっと息を吐き出しながら囁くように空気を震わせる。
「……ナリアン次第かと」
 女王陛下はにっこりと微笑み大きく頷く。
「……あと二年と少しの辛抱ということだね。ナリアン、よくよくロリエスの言うことを聞いてくれたまえ」
 それが一番早いからね、と絶対の信頼を置いていると言っても過言ではないほどの言葉だった。是、としか認めぬ微笑みにナリアンは頷くしかなく、それがどれだけ大変でつらいことで、自殺行為であるとわかっていたとしても、ロリエスによろしく頼むとしか言えなかった。満足げに頷いた女王陛下の前を辞して、どっと疲れが出る。重たくなった足を引きずるようにしてロリエスの部屋に戻る。ロリエスは壁際に置かれた椅子を指し投げ出すように自分の椅子に座った。軋むことはなく、ロリエスの身を受け止めたそれを見ながら、ナリアンはロリエスと机を挟んで向かい合うように壁際にあった椅子を引っ張ってきて座る。
「まぁ、なんだ、気にするな」
 疲れたように吐き出された言葉は、気にしない方が無理な話だった。ゆっくりと立ち上がり、気だるげに端に置かれていたポットから二人分のコーヒーが注がれる。慌てて席を立とうとしたナリアンを制し、薄っすらと湯気が立ち上るそれを差し出される。混じりけのない黒い液体を一口飲めば、意識が少しばかり落ち着いたように思えた。
「さて。今日から、と言いたいところだが疲れているだろう? 明日からに向けてゆっくり休むといい」
 ロリエスらしからぬ言葉にナリアンは目を見開いた。なんていうか、本当に。目玉が落ちるかと思った。あんぐりと口を開けたままのナリアンを気にもとめず、ロリエスは手元のマグカップへ視線を落としていた。ぼんやりと見つめ、何かを見ようとしているかのようだった。
『明日、から。なにをするんですか』
 ナリアンもロリエスと同じように、手元のマグカップに視線を落とした。黒い液体がただそこにあって、ゆらゆらと揺れているだけだった。
「魔力の制御」
「えっ」
「お前は早急に身につけるべきだと、思うよ」
 言い置いてロリエスはコーヒーに口をつけ、無表情ですする。どこか遠い目をするロリエスにナリアンは何も言えなかった。魔力の制御。ロゼアやソキやメーシャがすでに行っていることをようやくナリアンも指導してもらえる。魔力を使うなと言われていたわけではないが、使い方の分からないものを率先して使えるだけの勇気はなく、ふわふわと頭を撫でていく風を好きにしていただけ、学園に来てからナリアンは魔力というものを己の意志で行使したことはなかった。勝手に風が吹き荒れていたことの方が多く、それは到底、制御と呼べるものではない。だから余計に、ロリエスの言葉が胸に刺さる。
「俺に、出来ますか」
 吐いた弱音に返ってくる言葉はない。マグカップを強く握りしめ、煽った。舌に絡みつく苦味はゆっくりと臓腑に満ちていく。馬鹿なことを聞いた、やるのはロリエスではなく、己自身だ。立ち上がれば、ロリエスの視線はナリアンを見つめる。頭を振って、唇を引き結ぶ。
「ごちそうさまでした、あの、これ、どこで洗えますか」
 マグカップを振れば、そちらに視線が動く。
「ああ、構わんよ。そうか、案内が必要だな……」
 少しばかりロリエスは顎に手をあて考え込む。息を吐きだして、ナリアンへ手を伸ばす。その手からマグカップを引き取り、手元で遊びながら言う。
「誰でもいい。魔術師なら。適当なものを捕まえて、こう言え。私がナリアンの案内をよろしく頼むと言っていたと」
「誰でも、ですか」
「誰でもだ。そいつが火急の用件がない限りはな。まあ、ないと思うが」
「……俺、あんまり魔術師の方知らないんですけど……」
「それも訓練だと思え。魔術師以外は私の管轄ではないからな、私の名前を出しても無駄だぞ」
 くふっと、楽しそうに含み笑うロリエスをじっとりと見遣っても、ひらひらと手を振るだけでなんの助言もしてくれない。じぃっと、穴が空きそうなほど見つめても、肩を揺らすだけでなんの解決もしてくれそうにない。肩とため息を落とせば、また明日な、と頬杖をついて、珍しく微笑む。一瞬、物珍しさに見惚れたが、脳内から追い出すように首を振って、ロリエスの部屋を出る。ゆっくりと閉まった扉に背を預けて、そのままずるずるとずり下がりそうな体をなんとか保たせ、部屋の周囲を確認する。目印になりそうなものを探すが一向に見当たらない。とりあえず、女王陛下の部屋までと思い、ロリエスに連れられた道順の通り進んでいく。記憶の通りにたどり着いたことに安堵し、来た道を引き返していく。なんとか、ロリエスの執務室から女王陛下の執務室までを頭に叩き込み、ひと区画ずつ行動範囲を広げていく。女王陛下の執務室の前に兵士がいたぐらいで、魔術師の姿も、兵士も、召使いの姿も見つけられない。そんなに人がいないのだろうか、と思いながら、ぐるぐると一つ一つの廊下を確認していく。座学の補講にばかりしていたせいか、それとも緊張と疲労のせいか、疲れてきた。立ち止まり、長い長い廊下を見渡す。ふぅ、と息を吐きだして、誰も通りはしないのに端に寄り、足の筋を伸ばす。ぐりぐりと足首を回して、遠い突き当りを眺めていれば、その視界にひょこり、と水色の頭がのぞいた。驚いて、身を引けば、どんっと壁にぶつかる。バクバクと大きく脈打つ心臓が口から出そうだった。見下ろした先には、くりくりとした青色の瞳が見上げていた。空の色だと、ナリアンはふと思った。
「ナリアンくんどうしたの?」
「あ、えっと……」
 こてん、と首を傾げた女性の顔をナリアンは知っている。先程出迎えてくれた内の一人で、確か、家に来た人だと。名前が出てこないのは、あのとき、ばっちゃん以外に興味がなかったからだ。言いよどむナリアンに、ぽむ、と手のひらに拳を乗せて納得したように目の前の女性は頷いた。
「はっはーん、迷子ね!」
「……違います」
「恥ずかしがらなくってもいいのよ! 私も最初は迷子になってばかりで、いやーもう大変だったの! ね、どこに行きたいの? あ、でも待って」
 一人で喋って、一人で悩む女性にナリアンは恐る恐る声をかけた。
「あの……」
「んー、ばびゅんと行ってくればすぐかな! ナリアンくん、ちょっと待ってて、ウルトラ急いで行ってくるから!」
「あの!!」
 そのまま走り出そうとする女性を引き止めて、大きく息を吐き出した。
「すぐに戻ってくるよ?」
「そうじゃなくて、あの、魔術師の方ですよね」
「うん、そうよ。あっ! もしかして、名前わかんなかった? そうだよねぇ、一目しか会ってないもんねぇ」
 こほん、と軽く咳払いをし、空の色をした女性は少し足を曲げて、スカートの端をつまむ。
「私は花舞の国の水の白魔術師、キアラ。以後、お見知りおきを……なぁんて!」
 淑やかさから一変して、キラキラと顔を綻ばせる。ぶんぶんと腕を振り回すキアラの変貌ぶりについていけそうにもない、とナリアンは思いつつ、でもようやく出会えた魔術師を逃したくはなかった。きゃっきゃと楽しそうに笑うキアラに再び声をかける。
「あの」
「なぁに? あ、私はあなたのこと知ってるよ! ナリアンくん! えっと、風の黒魔術師さん!」
 そうでしょそうでしょ? すごいでしょ? 超あってるよね! と微塵も疑っていない口振りに、合っているのだが、素直に頷くことがはばかわれる。それでも、先輩というものに楯突いてはいけない、と本能のようなものが働くわけで、こくりと頷いてやれば、きゃあきゃあと喜ぶ。
「さっすが私! ウルトラスーパーすごい!」
 それはすべて同じ言葉では、とナリアンは思うのだが、目の前で手を叩いて嬉しいと言うキアラに水をさせるわけもなく、ただ薄く笑みを口元にたたえて頷くしか出来なかった。ひとしきりはしゃぎ終わったキアラに、改めてナリアンは問いかける。
「あの、ロリエス先生から、魔術師の誰かに城の中を案内してもらえと、言われているのですが」
「えー! ロリエスのこと先生って呼んでるの!」
 その他にどう呼べと、と無言で訴えてはみるのだが、キアラはナリアンの心情など思うわけもなく、そうなのそうなの! シンシアとジュノーにも教えなきゃ! とうずうずとしていた。
「……あの、喋っていいですか」
 一向に話が進まないが、他の誰かが通るわけでもなく、ナリアンは言いたいことを一言ずつ、なんとかキアラに地道に伝え、城の中を案内してもらえた。その道中も賑やかにあれやこれやと話しかけてくれ、沈黙など一切ない。ここがねー、と言いながら扉を開け放ち、ナリアンくんです! と高らかに紹介していく。その対応に、扉の中の人たちからも、たまご! ロリエスの! たまご! と、周りを囲まれ、口々に名前を言われる。目を白黒させていれば、最初に花舞に連れてきてくれたクリンゲルにそっと肩を叩かれ椅子に座らせてもらい、温かいココアをいれてくれる。その優しさに、この人はいい人だとしみじみと思った。迷惑をかけてはいけない、絶対に、と心に決めた。
 キアラに放置されてしまったナリアンを結局、クリンゲルが案内をしてくれた。一通り案内し終わり、埋めたメモを見返していたナリアンの泣きそうなほどの必死さに、クリンゲルは、ちょっと待っていろ、とナリアンに告げ、どこかへ行ってしまった。その間も、ナリアンはメモを見ながら城の内部を覚えるが、何個の目の扉がと数え、三十を超えたあたりで諦めた。天を仰ぎ、どうしようか、と途方に暮れていると、クリンゲルが戻ってくる。
「これをやろう」
「なん、ですか」
「見取り図だ」
 呆然としたナリアンの手を取り、古びた羊皮紙を握らせる。折りたたまれたそれを開き中を見るが何も書かれてはいない。裏に返してみても同様だ。困惑したままどうすれば、と思っているとクリンゲルがその羊皮紙に触れる。
「食堂」
 ふっと、紙の裏から明かりが指すようにある一点が光る。見つめていれば、端から焦げていくように線が描かれていく。それは廊下と扉と階段を描き、丸い点が一つ、その線と線の間に浮かぶ。
「この点が俺。この光が食堂。俺が使うと、こういうふうにでるんだが」
 クリンゲルの手が離れれば、徐々に線も光も薄くなっていく。何も浮かばないただの羊皮紙に戻ったのを確認して、ナリアンにやってみろと言う。
「……ロリエス先生の執務室」
 ぽそり、と呟けば、直進、と文字が浮かび上がる。クリンゲルと顔を見合わせ、歩き出す。角を曲がるときや、二手に分かれるときに右折、左折と浮かぶ。途中で立ち止まり、クリンゲルが無言で来た道を引き返すようにナリアンに合図すれば、反対方向と浮かぶ。
「誰かに手を引かれているみたいだな」
 ここ、と表れた文字を見やって確認すれば確かにロリエスの執務室であった。
「迷子にはならなそうですけど、覚えられそうにないですね……」
「そうだな」
 前途多難なナリアンを見下ろしながらクリンゲルは、腹を擦る。もういい時間である。
「ちょうどいい、中の住人に声をかけて飯を食おう」
 ナリアンの返答を聞く間もなく、クリンゲルはノックをし扉を開けた。いつの間にかそびえ立っていた書類の隙間から、ロリエスの黒の瞳がのぞいている。
「夕飯の時間だ」
 クリンゲルの言葉に、ゆっくりと瞼を閉じ、時間をかけて開いた。
「……そうだな」
 ナリアンは机の上を片付けはじめたロリエスに驚いた。夢を見ているのか、それともそこにいるロリエスは偽物なのか。ロリエスが食に執着するのを初めて見た。
「行くぞ、ナリアン」
 ロリエスの背を追いかけながら、先を行くクリンゲルに追いつく。横に並び、率先して歩くロリエスを見つめる。その様子に、クリンゲルが声を潜めてナリアンに笑う。
「お前のおかげで、ロリエスが飯を食うようになってな」
「俺、の?」
「三週間、シルに食の面倒をみてもらったからな。いいことだ」
 それは寮長の手柄ではないのかとナリアンは思ったが、その世話焼きの側にロリエスを三週間居続けさせたことがナリアンの功績らしい。なんともいえないそれに、喜んでいいのか悩んだ。
 木のトレーいっぱいに皿が並び、汁物にパン、野菜に肉類、甘いものと果物。他のどの国よりも植物がよく育つ花舞の食卓はなまものが目立つ。それでも、一食に出てくる料理の種類の豊富さに、ナリアンは驚いた。入学したての、学園の食堂は、新入生のためにと、各国の料理が並ぶが、それ以外はせいぜい、三つの皿とデザートの小皿か、フルーツのどちらかである。一応、取皿として用意があるから食べようと思えば種類はあるが、一人分として一人に渡されるトレーに乗る皿の数がすでに違っていた。一皿一皿、小さくはあるが、それでも皿の数が多い。目を見開くナリアンに、クリンゲルは隣に並びながら笑う。
「食べられそうか?」
 確信めいたように尋ねられる。クリンゲルは、ナリアンの答えを知っているようだった。ロリエスとクリンゲルに挟まれて席に付けば、クリンゲルがロリエスに果物を渡す。代わりに、憮然とした顔で、ロリエスはコッペパンを半分に千切り、クリンゲルに渡した。間に挟まれたナリアンは目の前でやりとりされるそれに目を見開いていた。何事もなかったように、二人は食事を始める。
「食わんのか?」
 ロリエスに問われて、ナリアンもようやく手を動かし始めた。時折話しかけられ、それに答えて食べ進める。クリンゲルが最初に食べ終わり、次いでナリアン、だいぶ遅れてロリエスがカトラリーを置く。クリンゲルは食後のコーヒーをロリエスに渡し、ちびり、と口に含んだのを確認して、席を立つ。
「ナリアン、ロリエスを頼むね」
 何を、と視線で訴えかけるが、クリンゲルはロリエスの食器を下げてそのまま出て行ってしまった。つらそうにするロリエスの顔を横目に見ながら、口が開かれるのを待っていた。冷めてしまったコーヒーは、それでもおいしい。
「もうちょっと待ってくれ、多かった」
 お前は足りたか? と、聞かれるのに戸惑いつつも頷いた。いつもよりぐっと食べる量は少ないのだが、緊張していたのか、料理の種類の多さに圧倒されたのか、空腹は感じていない。言えば増やしてもらえるが、少なくはしてもらえないとのこと。自分の好きな量を取れる学園とは違い、この国の食堂はそう決められているらしかった。
「減らしてもらえたはずだったんだがなぁ」
 ぽそり、と漏らしたロリエスの言葉は、後々、ナリアンが他の魔術師や兵士に話してわかることなのだが、減らしてもらえないのはロリエスだけであり、それは女王陛下の勅命でもあるということ。普段、まともに食事をとらなかったツケが回ってきた、ということらしかった。
 カップを空にしてもなお、険しい顔をして下を向いているロリエスの隣で、ナリアンはきょろきょろと辺りを見渡す。学園のように二階があるわけではないが、天井が高く、圧迫感はない。六人が向かい合って座れる机が数多並び、その分だけ丸椅子が並ぶ。城に勤める人々全員が一同に座ることは出来ないであろうが、交代で食べる分には困らないだろうと思えた。食堂には、職務の隔たりなく人が集まる。まばらにいる人たちを遠目に眺めていた。
「おっ、ロリエスじゃねぇか、珍しいな」
 大柄な男が声をかけてくる。兵士、というよりは騎士に近い出で立ちの男の腕は太く、胸板も厚い。ナリアンは己とそうは変わらない身長だろうが、その体の厚みの差に圧倒される。その男に、ロリエスはちらりと視線を向けただけですぐに俯き、片手を上げるだけにとどめる。失礼ではないだろうか、とナリアンが不安になるほど素っ気ない。咎めようかと口を開こうとしたのを遮るように男の声がかかる。
「坊主は見ねぇ顔だな? あれか? 新入りか?」
「あ、ナリアン、と言います。えっと、ロリエス先生の」
「何か用か」
 ロリエスがナリアンを遮って、その男に話しかけた。その内容は喧嘩を売っているのかと思う言葉だが、ロリエスは愛想を振りまいているように見える。ロリエスの顔を思わずまじまじと見たナリアンは、目元と口元に薄っすらと笑みが浮かんでいるのに気づく。度肝を抜かれて固まるナリアンを他所に二人の会話は続いていた。
「久しく見ねぇと思ったが、そいつはこれか? ついに身を固めるのか?」
 親指を立てる男に、ロリエスは怒りを見せることもなく笑う。
「教え子だよ。それの関係でちょっとな」
「なんだつまらん。まぁ、お前の横に立つには、ちと物足りんな」
「しばらくいるから、鍛えてやってくれ」
 失礼なことを言われた気がしたそばから、とんでもないことを言われた気がして、目を見開きながらあっちにこっちにと視線を彷徨わせていれば、男は人好きのする笑みを浮かべて、よろしくな、と部下らしい男たちの後ろをついて行った。嵐のように去っていった男の背中を見送っていれば、隣で席を立つ気配がし、慌ててついて行く。カップを返し、ロリエスの半歩後ろを歩く。
「……誰だったんですか?」
「騎士団長だよ、気にする必要などない。自分の部屋はわかるか? 風呂場もわかるな?」
 頷いていれば、明日九時に私の執務室へ、と言い残してロリエスはどこかへ行ってしまう。その向き先が、ロリエスの執務室でないことは確かであった。その背が見えなくなってようやく、ナリアンは自室へと引き上げた。
 一通りの用を済ませて、ベッドに潜り込む。日向の匂いがかすかにする布団にホッと息を吐き出す。とろとろと意識が溶けて、眠りについた。長い、一日であったように思う。

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