目覚めはどうだったか、というと普通に良好だった。扉の向こうで、どったんばったん、叫び声が聞こえたりするわけでもなく、ただ静かな一夜が過ぎていったとナリアンは思っていた。一度行ったきりの食堂に、恐る恐る行ってみれば、昨日、手当り次第にキアラが紹介してくれたおかげか、魔術師たちはみな、一緒に食べるか、と問うてくれた。ありがたく隣に座らせて貰いながら、多めに盛ってもらった朝食を平らげていく。ふわふわのパンにどっさりと具が挟み込まれたサンドイッチは、一人前でも十分に多いと思うが、二人分。ヨーグルトと、果物と、レーズンが乗ったトレーに、ミルクと搾りたてのオレンジジュースを乗せる。いっぱい食べるねぇ、と魔術師たちは目を細めていいことだと、笑う。ぺろりと平らげ、オレンジジュースをちびちびと飲みながら、魔術師たちの会話に耳を傾ける。書類の作成が間に合っていないだとか、調査結果のサンプルをひっくり返して泣きそうだとか、今度、行商がくるだとか。学園にいても、似たようなことを聞いているなぁとぼんやりと思う。
「ナリアンくんは、今日から何をするの?」
「あっ、えっと、魔力の制御の練習と聞いています」
かしこまっちゃってかわいい! と喜ばれ、どうやってするんだろうねぇ、と微笑まれる。花舞の国は、白魔術師が多い。ナリアンを誘ってくれた魔術師たちは皆、白魔術師達だった。
「怪我をしたら言ってね、治してあげる」
口々に言われ、ありがたさに混じって困惑が浮かぶ。怪我をする、それも治療が必要なほどのことを、と笑み浮かべながら焦った。それはそうだ、よくわかっていないことをするのだ。どうなるか、なんてわからない。そういった危険ももちろんあるということを、失念していた自分を恥じた。定期試験の実技でも言われたじゃないか、死ぬかもしれないと。それは一般的なことではない。ナリアンだからと、そう言われたじゃないか。
「そ、そんなに心配しなくても、大丈夫よ」
「そうよ、ロリエスが面倒をみてくれるのでしょう?」
「なぁんにも心配いらないわ、ね?」
悲壮感を漂わせてしまったのか、過敏に感じ取った魔術師たちが慰めてくれる。
「……はい」
泣きそうになりながら、食堂を後にし、昨日と同じように、ポシェットに帳面と地図をいれ約束の時間にロリエスの執務室の扉を叩く。開けようとドアノブに触れたと同時に、中へと開いていく。ぬっと、顔を出したのは髭面の、精悍な顔つきをした男だった。
「間違えました」
くるりと、後ろを向いて歩き出そうとしたところを呼び止められる。
「ナリアン、だろう?」
「えっと」
「まぁ、入れって」
大きく開かれた扉の向こうの書類の山の隙間から、ロリエスのこげ茶色の髪が見えた。招かれるままに足を踏み入れる。昨日よりも倍以上高くなって、そんな山が明らかに増えていることに一歩後ずさる。
「おはよう」
「……オハヨウゴザイマス」
覇気のない声の挨拶に、思わず片言で返してしまう。腕を組み、斜に構えて立つ男は、短く刈り上げたロマンスグレー。黒々とした瞳は力強さを伺わせるが、目尻に皺が刻まれ柔和な印象を与える。ナリアンとそう背丈は変わらないがわずかばかり、低い。しかしながら、ナリアンよりも骨格がしっかりしているのか、がっしりとしているせいで、随分と大きく見える。自分の体が貧相に思える何人かにあってしまったせいか、素直に鍛えようと心に誓う。ロゼアに相談すればいいだろうか、と脳が算段を付け始めたところで、ロリエスに椅子を、と言われ我に返る。端に寄せられている椅子を引き、立ちっぱなしの壮年の男に勧め、己も座る。
「昨日、魔力の制御をと言ったな」
こくり、と頷いたナリアンにロリエスも頷き返す。
「紹介しよう、私の」
「ランツェ。よろしくな、ナリアン」
ロリエスを遮って、髭面の男、ランツェは右手を差し出した。反射的にその手を握れば、びっくりするほど分厚く、皮膚が硬かった。
「あ、よろしく、お願いします」
尻すぼみになるナリアンの手をぶんぶんと振りながら、ランツェは頷く。
「ロリエス、言っておきたいことはあるか?」
「……陛下が待ち望んでいる」
「それは、光栄なことだな」
にっこりと笑いかけられる、ナリアンは自分の行く末を見たような気がした。この笑い方は、知っている。半ば、ランツェの陰に隠れているロリエスをのぞき込めば、疲れたように微笑まれる。
「せ、先生!」
必死な声に、薄く唇が開かれ、すまん、と謝られる。なんで! どうして! と目で訴えるが、その言葉はランツェが引き継いだ。
「儂が帰ってきたからだ、すまんな、ナリアン。儂で我慢してくれ」
「は、えっ」
「腹が減った。飯はまだだろう? 行こうか。ロリエスも行くぞ」
「あ、いや、俺は」
ぐいぐいと力任せに引かれる腕と、諦めたように席を立つロリエスに、ナリアンは絶望を顔に浮かべる。未だかつて、ロリエスのそんな顔を見たことはない。嫌だ、と首を振るがそれを誰が助けてくれるのか。花舞魔術師筆頭がどうしようもできない相手など限られている。そんな輩に関わりたいなど、誰が思うだろうか。ナリアンは先程食べた朝食をなぜかまた目の前にし、それだけしか食わんのか? と言われ、さっき食べましたと、もごもご言ったのはロリエスだけが拾うが口を開ける状況ではなく、あっさりと流されてしまう。はちきれそうな腹をナリアンはさすりながら、久しぶりにこんなに食べたかも、と俯いていた。
食後のコーヒーを飲みながら、主に食べ過ぎのせいで下を向いている二人に、お前らもっと食わんともたんぞ? とランツェは、うまかった、と笑いながら言う。ロリエスよりも先に復活したナリアンが、ランツェに話しかける。
「あの、ロリエス先生とは」
「なんだと思う?」
「……師だよ」
「……先生の先生」
もうネタバラシしよってつまらん、とありありと顔に出すランツェにロリエスはため息をついた。
「改めて、風の黒魔術師、ランツェだ。ロリエスは教え子で、花舞の魔術師筆頭をしていたこともあったな。今は一人で諸国を回って調査をしている、といえば聞こえはいいがただの隠居生活だ」
筆頭魔術師、と言う言葉と、同じ属性、同じ適性であることに驚きを隠せない。
「……ランツェ大先生も、風の黒魔術師なんですか」
「ランツェでいい。大先生など、尻がむず痒くなる」
からからと笑う姿は堅苦しいことなど嫌いだと言わんばかりであった。
「年が明けたら帰ってくるって言ってたのに」
拗ねたような口ぶりに、ナリアンは思わずロリエスを見た。
「お前が担当教員になったと風の噂で聞いたらいてもたってもおれんくてなぁ。切り上げてきた」
嘘ばっかり、とロリエスの瞳は語る。
「……もっと早く聞いてたでしょう」
「いいや? ちょうどひと月前くらいのタイミングで聞いたぐらいだ」
疑わしい、とさらに視線を向けるロリエスに、ランツェは笑みを崩さない。
「シルに会ってな、教えてもらった。知ってたらもっと早く押しかけたに決まっているだろう?」
「……そうですね」
苦虫を噛み潰したような顔をロリエスは見せる。ナリアンは二人へ視線を行ったり来たりと忙しい。
「ということでナリアン。しばらくは儂が面倒をみてやる」
なにがどういうこなのか全くわからないが、ナリアンはとりあえず頷いた。ロリエスも疲れたように頷く。そうしていれば、三人にずんずんと近づく影があった。
「ランツェ殿! ランツェ殿ではないか!」
あまりの大きな声に、ぴゃっとナリアンは跳ね上がりながら声が飛んできた方を向いた。大きな体の、昨日ロリエスに声をかけてきた、騎士団長であった。
「ああ、久しいな」
「いつお戻りで? お元気そうで何よりです」
「先ほどな。いやぁ、歳には敵わんよ」
固く握手を交わしながら、互いの肩を叩く二人をナリアンは見上げていた。魔術師と、騎士団は仲が良いのだろうか。ロリエスは我関せずとばかりにコーヒーをすすっている。
「後ほど、手合わせをして頂いても?」
「もちろん。ただ、儂で相手になるかどうか。ロリエスも連れて行っても?」
「よろしいんですか!? ぜひとも」
ごふっ、とコーヒーでむせたロリエスを他所に、二人の会話は進んでいく。あれよあれよと言う間に会話は進み、また後で、と騎士団長は離れていく。
「ということで十五時に演習場だ。ちゃんと来るように」
返事の代わりにため息が落とされる。額に手を当て俯くロリエスに同情を感じたのは初めてのことだった。
「ロリエス、ナリアンを借りていくぞ」
ひらりと手を振ってロリエスは応える。喋ることすら億劫なようだ。席を立つナリアンをロリエスは見上げる。
「頑張れよ」
目を見開いてばかりだ。途端に不安になる。何か、何か救いの呪文を、と縋るような眼差しを向けるが、ロリエスの顔は疲れていて何もしてくれそうにない。ほら行くぞ、と声をかけられ、のろのろとランツェの後ろをついて行く。未練がましくロリエスを振り返り続けるが、ただひたりと黒い瞳が見つめているだけだった。
「お前も、風の黒魔術師だったか?」
後ろを振り返らずにランツェは言う。
「はい」
「儂の師匠も、そのまた師匠も風の黒魔術師だ。学園、という制度ができ、たまごと呼ばれる新人に担当教員がつくようになって、不思議とそういう縁が続いている。それを偶然として片付けるか、まあ、風の黒魔術師だからな。いない時代のほうが稀だが」
ランツェの半歩後ろをナリアンはついて行く。背の高さはやっぱりあまり変わらないが、歩く速度はだいぶ速い。ソキと共に歩いていたせいもありそうだが、息が上がりそうだ。
「適性試験はどうやったんだ?」
「じゅ、呪文を」
どもりながら伝えるが、ランツェは気にしたふうもない。
「どんなのだ」
「……導いて、私の行く先を。風よ、」
「吹き渡れ、か」
ナリアンの言葉を引き継いでランツェは呟く。
「身の引き締まる思いだ。覚えておけ、その言葉は、魔術師を助ける」
ふわりとナリアンの髪の毛を風がかき混ぜていく。ずんずんとランツェが歩いて行った先は、魔術師たちが多く集う執務室であった。扉のない部屋は開放的ともいえるが、それでも中の見慣れなさを思えば十分入りづらい。その中へランツェはなんの抵抗もなく、入っていく。えっ、と驚くナリアンも置いて行かれぬようにと慌てて部屋へ入る。
「あ、ランツェさん」
「おはよう。よろしく頼む」
「おはようございます。こちらです」
招かれた先は、何も乗っていない机だった。同じ机が向かい合うように島になって並べられている。書類がたくさん積まれた机や、綺麗に整頓された机があり、壁際にはずらりと本棚が並んでいる。椅子を引かれ、そこに座らされる。事務仕事の手伝いか、と身構えた。どさり、とロリエスの机にあるのと比べれば、比較的小さな山の書類が置かれた。その量にじぃっと視線を注いでいれば、少しばかり分厚い紙が何枚か置かれる。
「紙飛行機を折ったことはあるか?」
首を振った。そういう手遊びを覚えずにナリアンは育ってきた。
「ナリアンくん、紙飛行機折ったことないの? じゃあ、タディが教えてあげる! すっごくよく飛ぶの」
折りながら聞いていれば、花舞の魔術師たちで競ったという、「そわっ☆誰が一番遠くまで飛ばせるかな!? 紙飛行機飛ばし大会〜花舞う国のしらべ〜」なるものの話を聞きながら丁寧に紙飛行機を折っていく。ちなみに、ナリアンに折り方を手ほどきしている目の前の魔術師が覇者らしい。二位はロリエスだったということを聞き、遠い目をしてしまった。
「じゃーん! これがよく飛ぶという噂のタディちゃんスペシャル紙飛行機です!」
「折り方は覚えたか」
初めて折った紙飛行機を眺めるナリアンにランツェは腕を組み話しかける。ぺかぺかと紙飛行機を持ったまま顔をほころばせる魔術師を気にも止めていない。
「あ、はい。多分、大丈夫です」
「タディ、その紙飛行機を貰えないか?」
「仕方ないですねー。ランツェさんも自分で折ったほうが愛着がわきますよ?」
「ああ、あとでナリアンに教わるさ」
はい、と差し出される紙飛行機をランツェは受け取り、ナリアンを促し部屋を出て行く。ぺこり、と頭を下げその後を追う。とっても大きな部屋、と書かれた表札を掲げている両扉を開けば、確かにとっても大きな部屋だった。天井は見上げるほど高く、だだっぴろいガランとした部屋。催し物をする際に使われる部屋のようだった。扉を閉め、見回しているナリアンを他所にランツェはぐるりと一周、部屋の隅を歩いて、真ん中で天井を見上げているナリアンの元に来て、握った拳に何か囁き、上へ腕を振り上げた。放たれたものはナリアンには見えなかった。
「さて。その紙飛行機を飛ばしてもらおうか」
「えっ?」
「ほら、やってみろ」
「えっ、飛ばすんですか、こう?」
タディが構えていたように、紙飛行機の胴体部分を持ち、肩のあたりに近づける。頷くランツェの真意がつかめないまま、紙飛行機を前へと押し出す。すいっ、と滑るように紙飛行機は飛ぶ。
「そのまま飛ばし続けろ」
「はっ? えっ?」
戸惑っているうちに、紙飛行機は床へと着陸していく。頭からではなく、胴体から着地した紙飛行機は確かに出来のいいものなのだろう。
「魔力を使って飛ばし続けろ」
そう言ってランツェはタディから貰った紙飛行機を手のひらの上に置き、飛ばしてみせた。ナリアンが腕を振るって飛ばしたのと同じように紙飛行機は宙へ滑り出す。低い位置にあった紙飛行機はランツェの目線に合わせるように上昇と下降を繰り返し、広い部屋の中をくるくると遊泳している。口を開けてそれをナリアンは見つめていた。きりもみしたかと思えば、急上昇し、背面飛行で滑る。ひとしきり、飛んでいた紙飛行機はナリアンの差し出した手に止まった。ふわり、と風がほどける。
「紙飛行機は壊しても紙ならあるが、壁に穴を開けるなよ。ロリエスが始末書を書くことになるからな」
「えっ」
驚いて振り向いた先で、ランツェはもう扉を開けようとしていて、後ろ手にひらひらと手を振って出ていってしまった。残されたのは紙束と、床に落ちた紙飛行機と、ナリアンと、ナリアンの手に乗る紙飛行機だけだった。
「始末書……」
一人残されたことよりも、ナリアンの胸に響いたのは始末書という言葉であった。
ナリアンを部屋に一人残したランツェの足はこの国を統べる女王陛下のもとへ向かう。日の出とともに開門する城下町へと入り、王城の開門に合わせてまっすぐ、ロリエスのもとに行った。それは、ロリエスが花舞の魔術師を管理している立場であるがゆえ。己がその地位にいた時も、城外に勤める魔術師たちの第一の報告先である。その後、女王陛下へと帰城の挨拶へ赴く。ナリアンを優先したのは、遊ばせる時間などないから。風の噂で耳に入った情報を鑑みて、早急に手を打たねばなるまいと感じたからである。絨毯が敷かれた廊下を、表情を消した顔で進む。常に人と相対するせいか、やんわりと目元口元に笑みが滲んでいるがいつもそうであるとは限らない。人の気配を感じ意識して雰囲気を和らげる。メイドとすれ違い、兵士とすれ違う。かつての地位故か、一様に端に避け頭を垂れる。女王陛下の部屋の前にたどり着いた時も、部屋の前に立つ兵士たちは歓迎の笑みを浮かべる。それに応えながら、中へと取次を頼めばすぐに扉が開かれる。毛足の長い絨毯に、靴が沈む。
「風の黒魔術師ランツェ、帰城致しました」
跪き、頭を垂れる。
「顔を見せてランツェ」
言葉に引っ張られるように面を上げる。変わらぬ美しさがそこにあった。
「息災のようだね、ランツェ。こちらへ」
立ち上がり近くへ歩を詰め、再び膝をつこうとすれば、止められる。
「ナリアンには、もう会ったようだね」
「ええ。ロリエスが多忙のようなので、私が彼の教育を請け負いました」
「ランツェから観てナリアンはどうだい?」
「どう、とは?」
むっと唇を付き出す陛下をランツェはにこやかに見返す。己よりも年若く一国を担う目の前の女性がそういう幼い仕草をするのは己の前だけであってほしい。主に、威厳のために。
「陛下」
その仕草を嗜めれば、拗ねたようにそっぽを向く。言葉がほしいのだと、わかる。肯定する言葉が。
「……迎えたいのならおっしゃればよいではありませんか」
花となれ、と。
「私はもうそれを言えない」
「私も言えないとは思われないのですか」
ランツェの言葉に不思議そうに首を傾げる。
「思わないな。ランツェは、そういった言葉をかけないだろう?」
「……放っておいてもロリエスが言うでしょう」
見透かされている。だから苦し紛れに名前を出すが。
「ランツェ」
簡単に咎められる。
「私は、ナリアンがうちに来てくれることを望んでいるのだよ」
是、と返すことは出来ず、ランツェは退室の許可を求めた。
花と、なれ。
祝福、のようでいて、それは。
呪い、の言葉。