愛していたのだ、ずうっと、ずっと。これからさきも。
なぜだかナリアンは判を押していた。山と積まれた書類を睨みながら、ぺちっと押していた。すごい勢いで右隣に山が生成されるのに負けないように、と思っていたのは椅子に座り、よしっ、と気合いを入れて三分後までだった。ふええと、泣きそうになりながら、表紙に検閲済みの判を押していく。たったそれだけであるのに、左隣から、そこじゃない、と叱責が飛ぶ。この人どこに目があるんだ、と涙目になりながらナリアンが判を押したものを仕分けながら、絶対にロリエスではないといけない書類を捌いていく。ランツェが持っている判はロリエスのもので、書類に目を通し、魔術師筆頭の許可を出すか出さないかを判定している。いいのか、と思いつつも、お前が黙っていれば問題ない、と先生とその先生が目で語るので、ぐっと飲み込んだ。そして、今、ナリアンはボトルネックとなっている。べそべそと泣きそうになりながら、ぺちんぺちんと判を押しているのだが、書類を確認しているはずの二人に全く追いつけないのだ。不慣れである、というのを差し引いても、絶対におかしいと思える速度で山が出来ていくのだ。ギッと右隣に座るランツェの椅子が軋んだかと思えば、ナリアンとの間に大きな大きな山が出来ていた。
「遅い」
低く、イラッとした雰囲気を全く感じさせない事実だけを述べる声音に、じわわと涙がにじむ。人間離れした二人の圧になんなら漏らしてしまいそうだ。ナリアンが捌いた書類を移動させ、ナリアンが押す予定の「要修正」の判を持ったかと思うと、タンタンと軽快に押していく。掠れず、ブレず、きれいに押されていくそれに感嘆の声をあげる。
「「いいから早く」」
それぞれがそれぞれの作業に集中しているのにも関わらず、見事に重なる声にぴゃっと背筋が伸びた。ぺちんぺちんから、ぺたぺたに多少速度をあげながら、要修正の書類のが多かったにも関わらず、ランツェはナリアンよりも早く判を押し終えてしまった。
「で、何に悩んでるんだお前は」
ドサっと、次の山を持ってきながら、ランツェはロリエスに声をかける。じいっと、一冊の書類に目を落としたままのロリエスは少し間を開けて、顔を上げた。
「せんせのですよ」
「その呼び方はやめんか」
「いやです」
にこりともしなければ、微笑みすら浮かんでいない。全くの無表情でロリエスはランツェを見ていた。
「悩むようなものでもないだろう」
「いいえ」
要検証と書かれた箱にぺいっと投げ入れたかと思うと、腕を真上に伸ばしぐっと背伸びをする。パキパキと固まった体が解されるような音がするロリエスは、ナリアンを見た。一枚、少し丈夫そうな紙を取りあげ、何も書かれていないことを確認し、ナリアンに差し出す。先生は絶対主義のナリアンは疑いもせずそれを受け取った。
「お前は、一番、何がいいと思う?」
「何がいい、ですか……?」
「そう。風に乗り、どこまでも己が望んだ地へ、誰よりも、何よりも、速く、正確に届けてくれそうなもの」
ぐわりと、脳内に風が吹く。広い、荒れ果てた大地にナリアンは立っていた。風がひっきりなしに吹き、マントをひらめかせ、髪をぐしゃぐしゃに撫でていく。一人だ、と思う。青い空に、太陽は見えない。赤い土と風と、空。それを切り裂くようにして、影が過ぎていく。あれは。
「鳥。大きな、力強い羽と鋭い嘴を持った、鳥」
「描けるか? 姿形をきちんとしたイメージで」
首を横に振る。自慢ではないが、字は書けても、絵は全く描けないのだ。
「では、折れるか? イメージをするのに余計な思考を割り振りたくはない」
紙に視線を落としたが、紙は遊ぶものではなかったナリアンには、作れそうにもなかった。首を振れば、ロリエスは扉を開ける。
「タディ! タディはいないか? すぐに来て欲しい」
誰もいない真っ直ぐな廊下に声を走らせる。そうたいして大きくもない声だったが、どこまでも通っていく声だった。すぐに、バタバタと走る足音が聞こえ始める。
「はーい! タディです! えっと、ロリエス、私はまだ何もしてないよ……?」
明るく元気に応えたかと思えば、急に挙動不審で何かを隠そうとするかのようにもじもじとし始めるタディを見てもロリエスの表情は崩れなかった。
「タディ、頼みがあるんだが」
「だから、タディはちっとも悪くない……! ってあれ、怒られるんじゃないの? 頼み? ロリエスの?」
ぴえぴえタディはむじつ! と訴えていたタディは、ロリエスに言われたことを咀嚼してようやく、追いついたらしい。要らないことを言っていたのだが、ロリエスからの頼み事というキーワードにころりと忘れて、キラキラとした顔をみせる。
「なになに? タディ頑張るよ!」
「……ナリアンに鳥の折り方を教えてやってくれないか」
後でことの次第は調べる、と書かれた顔をロリエスはタディに向けるが、タディは気づくことなく、手を叩いて喜んでいた。
「ナリアンくんもついに折り紙の奥深さに気づいたのね! いいよ、教えてあげる! ロリエスも一緒にする?」
「私はナリアンから教わるよ、ありがとう」
部屋の隅に置かれた丸椅子をガタガタと引き寄せてきたタディはちょこんとナリアンの隣に座り、ロリエスから手渡された紙を機嫌よく受け取る。
「そっか。そうだよね、ロリエスはちゃんと休まないとだめだもんね! じゃあ、タディはナリアンくんにしっかり教えてあげるね!」
どういうのが折りたいの、と尋ねてくるタディに己の中にある、鳥のイメージを伝える。
「ふむふむ。えっと、立体のほうがいいのかな? 平面でもいいの?」
「立体にしてくれ」
ナリアンではなく、ロリエスが口を挟む。その手にはいつの間にか、湯気の立つマグカップが握られており、げっそりとした顔のランツェが手を休めることもなく、書類を捌いていた。
「んー、立体だと難易度とってもあがっちゃうけど」
「構わん。ナリアン、ちゃんと覚えろよ」
ひとごとだと思って! という言葉はごっくんと飲み込んで、タディによろしくお願いします、と頭を下げる。えっへん、とばかりに胸をそらしたタディは、んー、と少し考えたかと思うと、スッと表情を消し、手に持った紙を、右に左に、裏返しては表に、と繰り返しながら、ん、と呟き、パチリとした目でナリアンを見た。先程までの、ほわほわした空気をまとい直し、じゃあ最初はー、とナリアンに手ほどきを始めた。タディの落差に動揺したのを隠そうとしつつ、ちらりとロリエスを盗み見たが、ナリアンを見てなどいなかった。床を見つめながら、時々、コーヒーを口に含んでいるようだった。タディの手元を覗き込みながら必死に折り上げたそれは、不格好ながらも、強く羽ばたきそうな鳥が折り上がった。同じものを折っていたタディの方が勇ましいように感じるが、力量の差なので諦めもついた。だが、これを一人で折るというのは、とてもではないが出来そうにもなかった。紙飛行機とはわけが違うのだ。形どられた紙といえども、それはひとつの生命のようにも感じる。
「すごいな」
「でしょー! もっと褒めて!!」
「ああすごいな、タディ。ところで、花瓶を割ったらしいな」
満面の笑みがぴしりと固まり、ぺかぺかと掲げられていた鳥ですら、スン、と固まったように見えた。
「ああ、タディ。大丈夫だ、始末書と、わかっているな?」
穏やかな声をしているが、ロリエスの目と口元は一切笑んでなどいなかった。
「は、反省札だけはなにとぞ、なにとぞ……」
べしょべしょの顔で、ロリエスを拝むタディは憐れに映った。だが、ロリエスの口元が少し歪んだのをナリアンは見逃さなかった。
「そうだな、反省札が適正ではあるが……ん。私も鬼じゃあない」
「え?」
反省札をつけなくても! いいんですか! と、期待に満ちた瞳をタディはロリエスに向けた。やめた方が、とナリアンは言いたかったが、そんなことをしてはいけないと、本能が叫んでいた。
「私の頼みを聞いてくれるのなら、取り計らっても」
「聞く! 聞きます!!」
ロリエスが言い切る前に、タディは食い気味に言ってしまった。目を細めたロリエスの口元は完全に笑んでいた。
「そう、じゃあ、タディ。この鳥、後、五十羽ほど折ってくれないか」
目眩がする量でも、タディは一も二もなく頷いた。そんなに嫌なのだろうか、反省札、とナリアンは思うが、まだつけさせられたことはない。想像など及ばないほどなのだろう、と納得しかけた。ため息が聞こえそちらに目を向ければ、ランツェがいつの間にかコーヒーを飲みながら、遠い目をしていた。山となった書類は切り崩されて、小山がいくつかできていた。ナリアンの視線に気づいたのか、目線があう。
「ああは、なるなよ」
頷いたが、ああなるにはナリアンは何回か転生を繰り返さないと駄目だろうな、と思った。
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