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 熱砂の残像

 砂の敷かれた床を走る二本の筋が徐々に霞み始めた視界の中に氷の塊が投げ入れられる。影が過ったと思った瞬間、それは蒸気を吹いて消滅した。
「いいぞ、ロゼア」
 温度を上げることをやめて。
 担当教官から許可を得て、ロゼアはようやっと息を吐いた。どっとその場に腰を落とし、立てた膝に額を付けて重心を預ける。
「総じて三十センチ、といったところか」
 肩を荒く上下させながら呼吸を整えるロゼアの耳に教官の涼しげな声が届く。ロゼアは頭上を仰いだ。実技教官である黒髪黒目の美女――チェチェリアはバインダーに挟んだ書類になにかしがを書きこんでいる。おおよそ、ロゼアの実技の成長度合いでも記しているのだろう。
 チェチェリアはバインダーを閉じると、にやりとした笑みに口角を上げ、ロゼアを見下ろした。
「最初のひと月でこれだけ狭められれば上出来な方なんじゃないか?」
「そうですか?」
 ロゼアは教官に問い返しながら熱に焼かれた砂を見た。二本の線の内側に敷かれた砂は広範にわたって黒ずんでいる。その濃淡はまだらで、熱量が一定していないことを示していた。
 幼いころから武術を嗜んできた経験上、どんなに見知らぬ武器も訓練とその反復を積み重ねれば、手足の延長として扱えるようになることをロゼアは知っている。けれど此度の魔術だけは――はきと目に見える形を取らぬ分だけ、きちんとしたものになるのか、見当もつかない。
「そんな顔をするな」
 ロゼアの表情の中から不安を目ざとく見出した担当教官がからかいの笑みに喉の奥を鳴らした。
「どんな魔術師たちも、入学初年度なんてこんなものだ。座学だけで半年終えたやつも中にはいる。……けれどまぁ大抵は、天体観測の日をすぎれば、魔力というものがなんなのか、つかめてくるものなんだがな」
「天体観測の日って……来月の頭にある奴ですか?」
 ロゼアの問いにチェチェリアは首肯する。
「そう、流星の夜の日だな」
 八月一日、“流星の夜”と呼ばれる特別な一夜が星降の国に訪れる。年に一度の祝日だ。街でも学園でも方々の広場に有志による露店が並んで、ちょっとしたお祭り騒ぎだという。
 ただし初年度の学生は天体観測をすべし、という特別授業が組まれている。祭りを楽しむのはすこしばかりお預け、というわけだ。
「星は魔術師たちの導だからな。星たちのことをきちんと学ぶと、その日を境に魔術の扱いが少しずつ上手くなったりするものなのさ」
「へぇ……」
「詳しいことは当日聞くだろう。完璧に遊べないわけでもないし、楽しみにしているといいさ。露店もその年々で趣向が違って面白いぞ。今のうちに小遣い稼いでおけよ。……今日の授業は終わりだ」
 バインダーを閉じたチェチェリアが荷物を纏めはじめる。ロゼアも慌てて立ち上がり、実技に使った小道具を片づけに掛かった。
「小遣いか……」
 合切袋に道具類を突っ込みながらロゼアは独りごちた。
 この学園に来た以上、基本的な衣食住は保証されているが、商店街たる“なないろ小路”へ遊びに繰り出したり、ちょっとした嗜好品を手に入れたりといったことをするにはやはり小遣いが必要だ。しかしながらこの学園の生徒の大半は入学時に未成年なこともあって、おおむね蓄えを持たずにここへくる。“宝石の姫”として莫大な貯金を有していたソキや、彼女の傍付きとして給金を得ていたロゼアのように、もともと貯蓄を持ち得た者はどちらかというと少数派に属していた。
 そんな状況だからこそ在校生たちは簡単な小遣い稼ぎを許されている。
 談話室の一角に掲げられた専用のコルクボードには内容や目的、報酬金額などの書かれた募集用紙が張り付けてある。そこに記載された担当者に連絡を取って上手くいけば仕事にありつけるという寸法だ。
(帰りに談話室を覗いてみるか)
 そんなロゼアの心中を透かし見たように、背後からチェチェリアの声が掛かった。
「小遣い稼ぎで思い出した。ロゼア、ひとつ……手伝ってくれないか?」


 在校生が仕事を得る方法は談話室の掲示板を覗く以外にもうひとつある。
 それが教諭や職員たちから依頼を直に引き受ける、というやり方だった。


 知人の経営する雑貨屋で倉庫の整理と帳簿付けを手伝ってほしい。それがチェチェリアからの依頼だった。
「なんでも、今度の“星降の夜”で使う小物類が出て来ないらしいんだよ」
 どうやら昨年の祭りのとき使い終わった後に、倉庫の奥へと仕舞い込んでしまったらしい。整理もなっていないことだし、この際だから品物の総浚えと帳簿の点検を行うことにした。その手伝いが可能な学生を紹介してほしいと、チェチェリアは店主から頼まれていたのだと言う。
「っていうことで、付き合ってもらって悪いなぁ、ナリアン」
 ロゼアの隣でゆっくりと歩を進めるナリアンは、小さく微笑んで、大丈夫という風に首を横に振った。
『俺でも、手伝えるのかな』
「事務所の方で帳簿を見てもらいたいんだ。俺、あんまりそっち方面得意じゃないし」
 やはりどちらかといえば身体を動かすことのほうが得意だ。帳面付き合わせて数字を見る作業は苦手だと正直に告白すれば、チェチェリアはナリアンを誘ったらどうだと提案した。彼にとってもいい小遣い稼ぎになる。ナリアンの担当教官であるロリエスには、チェチェリア自身から話しておくからと。
 約束の日になないろ小路へ連れだっていく道すがら、改めて仕事の内容を説明したロゼアに、ナリアンが顎を引いて了承のしるしを見せる。
 ロゼアは彼に頷き返して、チェチェリアから渡された店の地図に視線を落とした。
 学園から三十分程度歩いた先にある、魔術師のたまごたちが唯一自由に出入りを許される商業区、それが“なないろ小路”である。
 小路と呼ばれてはいるものの、その造りはちょっとした規模の屋敷をそのまま用いたような、多層構造型の商店街だ。小路の入口には大きな噴水が七色の光を乱反射しながら飛沫を上げ、訪れる者たちを出迎える。重厚な煉瓦を積み上げて作った門には虹の幕が掛かって幻想的にゆらめく。足元に敷き詰められた敷石も赤や青や緑やら。靴の摩擦によって独特の風合いに磨き上げられている。行き交うひとたちは誰しも魔術師たちに縁あるもので、裾に金銀で特殊な紋様をかがった法衣を翻す者もいれば、髪に編みこんだ色とりどりのビーズをちりちり揺らしながら闊歩する不思議な面差しの者もいる。その人数はロゼアの暮らしていた砂漠の国の王都のそれと決して比べるべくもないのだが、男二人が並んで歩けないような細道や、縦横無尽に走る階段の欄干に飾られた、水晶とも宝石ともつかぬ石の飾りが光を転がし虹のまだら模様を生み出して、そのただ中を泳ぐ人々の足音も楽音の如く、街全体がひどく賑やかな様相だった。
 距離だけでいえばものの十五分と少しで横断できそうな街を、たっぷり一時間かけて彷徨い歩いたあと、息を苦しそうに切らすナリアンがふいに斜め上を指差した。
『ロゼアくん……あそこ、じゃ、ないかな……?』
 チェチェリアが指定した店は街の東の端、なないろ小路の内部に組み込まれた公園を臨める、二階にあった。
 木製の扉の前を、小柄な老婆が掃き清めている。足音を聞いたのか。彼女は面を上げて、壁を斜めに走る階段を登るロゼアたちに気付くなり、目を輝かせた。
「あらあら、あなたたちがロゼア君とナリアン君でしょう。そうでしょう!」
 見事な白髪と銀の瞳を持つ老女だ。顔には細かな皺が刻まれているものの、浮かぶ表情は若々しく、彼女は薄桃色のローブの裾を絡げて、ととと、と靴音軽やかにロゼアたちのもとへと駆け寄ってきた。
 ロゼアは慌てて居住まいを正す。
「初めまして。チェチェリア先生の紹介できました。ロゼアです。こっちはナリアン……ナリアン?」
 ロゼアに続いて階段を上りきったナリアンは、老女をひたと見て凍り付いている。どこか、泣き出しそうな表情だった。
「大丈夫か?」
『ごめんなさい』
 忘我から返ったナリアンが謝罪し、老女にゆっくり頭を下げる。老女は文字通り顔をくしゃくしゃにして笑い、手にしていた箒の柄の先でこんこんと店の木扉を叩いた。そしてひとり手に開いた扉の中へ、老女はロゼアたちを招き入れる。
「キュリーよ。今日はよく来てくださったわね」
 店内は狭く、しかしその天井はかなり高い。四方を作りつけの棚で囲まれた部屋の中心を、巨木の幹が貫いていた。その幹にガラス製の蔦が絡みつき、薄緑に輝く葉に小さな銀細工が並んでいる。クローバーの四葉を模した天窓の窓のガラスは、一葉一葉、赤、青、黄、緑のいずれかに彩色されて、そこから注ぐ光を受けた床はまるで四葉に溢れる野原のようだった。
「二人とも、そちらの椅子に座って頂戴。その様子だと道に迷ったんでしょう。大丈夫。たいてい、初めての子たちは迷うものなのよ。ラッシーをいれましょうか。ちょうど冷えたのがあるから」
 切り株を流用した席をロゼアたちに進め、老女は部屋をちょこまかと動き回る。そうしていくばくもしない間に、木目鮮やかな天板の上には、銅製のマグになみなみと入った乳白色の飲み物、ココア味のクッキーが並んでいた。
「お忙しいところ来てくださって、本当にありがとう」
 キュリーが向かいの席におっくうそうに腰を載せて再び礼を口にする。
「こちらこそすみません。……いただきます」
 正直なところ、喉も乾いていたし、空腹も感じていた。
 それはナリアンも同様らしい。彼はキュリーに丁寧に頭を下げてからマグに口を付けると、喉を鳴らして中身を飲み干し始めた。
「チェチェがひとを教えるようになるなんてねぇ」
 マグの側面をてのひらで包みながら、キュリーがくすくすと笑って言った。
「先生とキュリーさんはどういったお知り合いなんですか?」
「わたし? わたしはチェチェの夫の担当教官だったの」
 なつかしいわねぇ、とおっとりキュリーは呟く。
 ロゼアは愕然と瞬いた。
「えっ、せんせい、結婚してんですか!?」
「あら? 聞いていない? ……ロゼア君は太陽の黒魔術師だったわね。チェチェの夫はね、同じ、太陽なの。ただし、錬金術師だけど」
 だからチェチェリア、あなたの属性について、詳しいでしょう?
 そう言ってキュリーは軽やかに笑った。
 キュリーは地属性の錬金術師だという。なないろ小路で店を開いて長く、植物育成に関わる小物類を多く作っては販売している。太陽の属性を持つ魔術師が錬金術師となった場合、植物の生育にかかわる方向へ魔力が作用する傾向があり、よって類似する能力を持ったキュリーに担当の白羽が立ったのだ。
「チェチェはあの子よりも三年ほど後輩でね、あぁ、入ってきたころを思い出すわねぇ……。怪我をした猫ちゃんみたいでとってもかわいかったのよ」
 なんだかうっとりと過去を述懐するキュリーに、ロゼアは生返事をすることしかできなかった。
「はぁ……そうなんですか」
「ナリアン君は、風の黒魔術師なんですってね」
 唐突に話を振られたナリアンがぐっと喉を詰まらせる。顔を赤くした彼は視線をひとしきり彷徨わせると、それをここが最後の逃げ場とばかりに膝元に落とした。
『はい……』
 声とは異なる響き方で届くナリアンの意思にキュリーは驚いたそぶりすら見せずにこにこと笑ったままだった。
「あらあら、あなたは本当にとても風に愛されているのね」
『はい……』
「すてきなことだわ。愛を知っているということは。私はこの場所で学園の生徒の子たちとたくさんたくさん会っているけれど……愛を知っていることは、本当に大切なことだわ」
 何かを懐古するように目を細め、そう述懐した老女は、マグの中をいつの間にか空にしていた。
「もう少しゆっくりしててちょうだいな」
 掛け声と共に老女は椅子から立ち上がる。
「わたしは奥で二人にお願いすることの準備をしてくるから。……今日は本当に、お願いね」
 部屋の奥に設えられた扉にキュリーが消えると、ナリアンはあからさまに嘆息して肩の力を抜いた。彼は、緊張していたのだ。
「ナリアン……どうしたんだ?」
 ロゼアは困惑から問いかけた。ナリアンには人見知りの気がある。けれどこんな風に明らかな形で目をそらすというのは奇妙がすぎる。
 ナリアンはもごもごと口ごもった後、小さな吐息を零した。
『ばっちゃんを、思い出して……』
「ばっちゃん?」
 ナリアンの育ての親、らしい。
 彼の本当の両親に代わって愛情深く彼を育てた老女。ナリアンがこの学園へ呼ばれる直前に彼女は病で他界したのだという。
『キュリーさんの、ほうが、若いけど。俺を引き取ってくれたころのばっちゃん、あんなふうに、元気だったかなって、思い出さずにはいられなくて』
「そっか……」
『ごめん。もう大丈夫……。ロゼアくんは、ご両親のひと、いるんだっけ?』
「あぁ、うん。砂漠の国に。ソキの実家で働いているんだ。元気だと、思う」
 ――ソキさまのことはわたしたちにまかせて、道中気を付けてお行き、ロゼア。
 案内妖精から受け取った入学許可証を手に慌ただしく出立した自分を見送ってくれた。
 それが遠い遠い昔のことのように思え、両親のことが俄かに懐かしくなった。
『思い出させてしまったね』
 申し訳なさそうに呟くナリアンをロゼアは笑って見つめ返した。
「いいよいいよ。それよりさぁ、そのロゼア君ってやめないか? 俺の方が年下だし」
『……ろぜ、あ?』
「うん。それでいいよ」
 まだ知り合って二月足らず。けれどこれから同窓生として長く付き合っていくことになる。他人行儀は無用だと思うのだ。
「頑張ろうな、ナリアン」
 今日の手伝いも。
 そしてこれからも。
 拳を軽く掲げたロゼアを、ナリアンが丸めた目で見る。
 彼は少し照れ臭そうに笑った後、同じように拳を掲げて、ロゼアのそれと軽く突き合わせた。
『うん。頑張ろうね、ロゼア』




 開きっぱなしの扉から、がたんごとんがたんと、物を動かす音が断続的に響いている。
 彼女は店の前で足を止めると、眉間に深い皺を刻んだ。
「……大掃除……?」
 あの小柄な老女、ひとりで?
 扉から、ぼふん、と白い筋が吐き出される。埃のかたまり。それはあらゆる色彩と光に満ちたこの小路の洗礼を受けて、まるで宝石を砕いて作りだされた粉のようにうつくしく、きらきらしく宙を舞って、天へと昇り霧散していく。
 彼女は嘆息しながら、短く詠唱した。
『我が前に、跪け』
 ぴたりと宙に留まった粉塵が、刹那ののち、初めから存在しなかったかの如く、姿を消す。
 それは霧散というよりも消滅との表現がしっくりくる消え方だった。
 彼女はそのほっそりとした指でほつれた髪を耳に掛ける。
 そして小さな店の中に足を踏み入れた。

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